草創期 ここでは爪形紋などで、縄紋土器は出ていない。
土器の出土数も少ないので、突起や波状口縁の土器は存在が確認できていない。
聖なる数2 二至の暦
縄文早期 4突起の土器、4波状口縁の土器は二至二分の暦成立を示す
6波状口縁土器は太陰暦を示す 関東平野の縄文海進地域など
半年一年暦
縄文中期 この時期に神秘数3 の土器が作られていて 二十四節気の暦を示す
縄文後期 聖なる数5 の土器は 72候の暦の成立を示す
縄文晩期 ・・・
金生遺跡は二十四節気の暦を作るため、太陽と月の観測、月相測定のため設置されたものと考える。
太陽暦を作るには、春分点の観測で充分。それなのに何故立春点観測のため金生遺跡を観測するために天文台としてこの立地においたのか。
縄文早期には4,6の突起や波状口縁を持つ土器が既に作られていた。
4 は太陽の暦、二至二分の暦を示している
6 は月の暦 半年6回の月の満ち欠けを示すもの
それぞれ内陸と海辺という地域特性に合わせて各地の住民が作っていたものと思う。
前期から中期までは温暖化して良好な環境が保たれていたものだろうから、
こうした状態が縄文時代の前期、中期の初めまで続いていたと考える。
暦もこの時期にはこのレベルで充分だったものと思う。
中期半ばには気候も寒冷化が始まり、内陸から低地に、さらに海辺に移動する人々も出てきた。この時期に内陸から海辺への移動に伴い、月の暦と太陽暦が出会い、暦の進化が行われて、月の暦 12弦の暦と八節の暦が出会い、神秘数3 で両者が一致することを知ったのだろうか。
その一致の原点は立春点の観測であることが分かり、それを暦作りのために観測することが計画されて、金生遺跡の立地が選定されたものと考える。
ここまでの話は仮設で、アブダクションです。
写真はお借りしました