金生遺跡の太陽暦の意味するもの
金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設が縄文時代後期にこれだけの緻密さで出来ていたということは、
それ以前に太陽暦開発がされて技術が蓄積されていなくては出来ないことである。
太陽暦が存在することは、何故開発されたのかを考えれば、必然的に農耕の成功のためであり、
それまでに農耕で失敗を重ねていたことから、それを成功させるための暦の開発である。
つまり縄文時代には農耕が存在したことの証拠であると考えざるを得ない。
では何時から農耕が始まっていたのか、それは縄文時代草創期から縄文時代早期にかけてと云うことだろうと考える。
縄文時代早期半ばに集団の巨大化があったようなので、ここが太陽暦利用による生産力増大の始まりで、大集団を養うことが出来る食糧確保が可能となったからだろうと考える。縄文時代前期より前、7000年以前から太陽暦は利用されていたのでは無いだろうか。
その証拠となるのが縄文時代早期に作られるようになった供献土器 4 突起の土器である。
それが表していることは、半年 4分割の暦、冬至から立春、春分、立夏、夏至というものである。
太陽暦は農耕のためであることから、これほど正確な太陽暦を開発していた縄文時代は、世界の有数の文明より優れていたことは明らかで有る。三内丸山遺跡はその時期の遺跡で有るようだ。ここには西遼河文化の人々も来ていたようだが、太陽暦文化を求めて来ていたのでは無いだろうか。
世界に現れた何処の文明もまだこれだけ正確な太陽暦を開発できていない。
これから云えるのは、世界の古代文明は縄文時代の太陽暦の恩恵を受けて発展できたのでは無いかという疑いである。
全ての古代文明は縄文時代の影響の元に発展したものであるとして良いのでは無いだろうか。
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