草創期の土器の模様は
無文→豆粒文→隆起線文→爪形文→多縄文 の順で登場しています。
形は丸底の土器で、籠などの容器を真似たもののように見える。
最初の縄文時代草創期の土器は丸底で無文のものが多く
早期には尖底土器や撚糸で施文した土器が現れる。
前期になると深鉢形土器は平底が一般的になりる
尖底土器は早期に作られるようになっているので
土器が本格的に煮炊きに使用されるようになったのは早期なのでは無いのか
それまでの土器の利用は、保存用では無いのか
それは籠に変る高機能なものとしてつくられるようになったのでは無いか。
煮炊きのために作られるようになるにはかなり長期間の土器作りの工夫が重ねられたものと考える。
煮炊きに使用する土器は簡単にできるようなものでは無く、かなりのハイテク製品では無いかと思う。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
縄文時代・草創期(11000年?)
日本列島
・定住生活が始まる
・土器が作られる
・土偶や線刻礫が出現する
・弓矢の使用が始まる
土器の特色
・丸底深鉢土器(底が丸い)
無文、隆起線文、爪形文(つめがたもん)、
豆粒文などの特色。
※隆起線文(りゅうきせんもん)
細い隆起状の帯の文様
※豆粒文(とうりゅうもん)
豆粒状の突起がある
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草創期の土器の模様は
無文→豆粒文→隆起線文→爪形文→多縄文
の順で登場しています。
草創期の多縄文土器の時代にはまだ縄を押し付けるなどして模様をつけていましたが、
早期(BC10000~5500)初頭になると、回転押捺手法によって縄文を施す技法が成立したのです。
縄をそのまま回転押捺したものが「縄文」
心棒に縄を巻き付けて回転押捺したものが「撚糸文」と言います。
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最初の縄文時代草創期の土器は丸底で無文のものが多く、
早期には尖底土器や撚糸で施文した土器が現れる[47]。
前期になると深鉢形土器は平底が一般的になり、
縄文を施文したものが多くなり、
器種が大幅に増加する。
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??縄文時代草創期(1.6万年前~1.0万年前)
大平山元Ⅰ遺跡より世界最古級の縄文土器「無紋土器」や世界最古の石鏃が出土。また、局部磨製石斧、尖頭器などを特徴とする神子柴文化が起る。
神子柴系石器群(みこしばけいせっきぐん)は、後期旧石器時代に列島に現れた大型の磨製石斧と石槍を特徴とする石器群をいう。これらの石器群を最初に発見した長野県の神子柴遺跡に由来し、または神子柴文化とも呼称されている。
1.3万年前、古バイカル人(D2) はクサビ型細石刃を携え、樺太経由で東日本に南下。東日本縄文人の基層となる。また、その頃、古華北人(D2)が半円錐形石核を携え、西日本に進出。西日本縄文人の基層となる。
以下、草創期の出土物を列挙する。佐世保市の泉福寺洞窟から、約1.3万年前の豆粒文土器と約1.2万年前の隆線文土器。神取遺跡(山梨)から隆起線文土器。鳥浜貝塚(福井)出土の漆の枝は世界最古の約 1.2万年前のものである。浦入遺跡(舞鶴市)から網漁に用いられた最古の打欠石錘。粥見井尻遺跡(松阪市)や相谷熊原遺跡(東近江市)から最古級の土偶(通称縄文のビーナス)出土。
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日本列島を含む東アジアでは1万年前(紀元前8000年)を超えるような土器が多数見つかっている1970年代には、長崎県佐世保市の福井洞窟出土の土器が1万2000年前から1万年前頃のものといわれ、当時は、日本最古というばかりでなく世界最古の土器といわれた[19]。
また、同じ佐世保市で麻生優らが調査した泉福寺洞窟出土の豆粒文土器には1万3000年前~1万2000年前という年代があてられて世界最古の土器であるとみられた[8]。
縄文時代草創期に属する最古級の土器はその後も次々に日本列島各地から見つかっており、
神奈川県大和市の上野遺跡では関東ローム層の上部から無文土器が出土して土器の登場がいっそう古くなる可能性が示され、
新潟県十日町市の壬遺跡でも無文土器が出土した[26]。
1万年前(紀元前8000年)…
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また尖底土器が縄文草創期と早期全般に見られる型式で、他の時代の、平底の土器のように地面にそのまま置けず、地面に突き刺して置くしかない。煮沸具としての熱効率や土器の製作技術の必要性から工夫されたようだ。縄文土器製法の一般的なものは、作る際、上下逆で口縁を下にして、上に積み上げて順次、凸状にして完成させた。
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縄文土器の出現はどうやら氷期が終了する前の事であり、世界的にみて非常に古いものだが、大陸側の極東地域には同時期の土器文化の存在が知られ、東アジア一帯で世界最古期の土器が同時並行的に出現したとみられており、相互の関係が注目される。
現在までに知られている土器の中で最古の土器は青森県大平山元I遺跡や茨城県後野遺跡などから出土した文様のない無文土器であり、大平山元I遺跡から発見された土器の年代測定の算定は16,500年前(暦年較正年代法による)とされている。
また、愛媛県久万高原町美川の上黒岩岩陰遺跡の最下層の第9層から細隆起線文土器、第6層から薄手の無文土器、第4層から押型文土器と厚手の無文土器が出土している。その中でも細隆起線文土器は約1万2000年前のもので、日本最古級の土器の一つである。
日本列島最初の土器は次の4段階をたどると考えられている。
まず最初の第1段階は無文土器を特徴とし、
第2段階は豆粒文土器と隆線文土器群であり、
第3段階は爪形文土器群であり、
第4段階は多縄文土器群である。
ちなみに、弥生時代になってからも、東日本では縄文土器の伝統を反映した弥生土器、北海道では縄文土器の直系と言える続縄文土器、沖縄諸島では貝塚時代前半の系統を引く土器が作られた。
土器の系統
土器の年代的な編年が精緻になってきて、前の型式から次の型式へ連続的に変化していることが明らかにされてくると、系統的なつながりが問題とされるようになった。
縄文土器には、水平の帯状に文様が加えられている部分がある。 これを山内清男は、文様帯と呼び、そのつながりに注目した。それを文様帯系統論と呼ぶ。 各型式の土器は、固有の文様帯配置をもっている。その文様帯は、型式ごとに継続されたり、分裂したり、融合したり、新しく生まれたり、消滅したりする。文様の生命は非常に長く、土器の系統を知る上で役立つ視点である。
縄文土器の型式は、その地域に存在していた型式から次の型式へと変化していくものである。しかし、一つの地域でばかり次々へと変化していくばかりではない。別々の場所で生産され、系統性も異なる土器が、一つの遺跡に共存したり、ときには別の系統の文様が一つの土器に併用されていることや西日本の一型式が遠く離れた関東に移動し、その遺跡の起源となるといった系統の大移動などが知られている。また、ある型式の土器が移動し、在地の土器と混合しないで、一軒の住居跡から発見されることも知られている。
このような現象の背景には、縄文人の集団の移動や集団間の接触・交渉があったと思われる。また、それらの現象を引き起こした原因を追究することで、今まであまり追究されてこなかった縄文人の集落や社会についての解明が進むであろう、と考えられている。
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曽根遺跡で採集された土器には、沈線文土器と無文土器が含まれていた。沈線文は半截竹管の内側で器面に平行する線を描くか、細い棒の先やへらで一本づつ線刻する。出土例では爪形文土器よりも後期になる。
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前田耕地遺跡 あきる野市の「前田耕地遺跡」です。
現地の川辺に立つと、ここが、1万2000年前に、初めての土器を持って、家を造り、サケを捕まえ、石器作りに励んだ、多摩住民のいた場所かと、実感が湧いてきて、なかなか印象的です。
記事が報ずるように、この遺跡は、たまげることばかりです。先ず、発見された石器が1100点、石器の削りかす10万点、というすごさです。折れたり作りかけのものが多いので、大規模な石器の製作所であったと考えられています。
この時期から、土器が生活の中に初めて取り入れられますが、ここからは、無文の土器のかけらが見つかりました。旧石器の終わり頃の石器と一緒に出ることで話題に上がる土器です。何やら遺跡の性格を暗示しているようです。
特筆することは、住居址が2軒見つかったことです。一軒は、床面を堀りくぼめて、炉がつくってあって、もう一軒は、石(礫)を丸く並べてあったそうです。両方とも、部屋の中は踏み場もないほど石のかけらが散らばっていました。炉のある方は長い方が4.2メートル、短い方が3.1メートルの不整円形、石をめぐらせた方は、直径3.3メートルほどの円形の家と発表されています。柱の跡は見つかりませんでした。
この時期の生活は、一般的には、頻繁な移動が考えられています。それが、ここでは、定住とまではゆかないにしても、一定期間の滞在があったことは確かです。
記事の見出しにある石ヤリ工房というのは、約300平方メートルで、国内最大。これ以後、匹敵するようなものは見られないそうです。小平市の旧石器時代の鈴木遺跡もそうでしたが、どうも、多摩地域では、早い時期から、石器の製造が盛んのようです。
面白いことに、「サケ」の歯が発見されました。約80匹分だそうで、干し物や薫製にしたことも推定されています。多摩川に天然で遡上するサケがいて、それを獲物として狙う縄文人の姿を想像すると、親しみが湧きます。他には、クマや小型動物の骨が見つかっていますから、森や野で、狩りをしたこともわかります。
川と森の恩恵を生かし、石器作りに励んだ縄文時代草創期の人が、多摩の先住民でした。
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無文土器は青森県外ヶ浜町の大平山元I遺跡で、16,500年前の文様のない土器のかけらが発掘され、現段階で日本最古の土器といわれている。
曽根遺跡の無文土器には器面をきれいに撫でて、なめらかに仕上げられているものが多い。指で撫でた痕を遺している土器片もあった。無文土器は上諏訪駅前のデパート周辺の片羽町遺跡(かたはちょうー)でも見られ、草創期から不可欠な土器であったようだ。
神奈川県大和市深見諏訪山遺跡では、縄文草創期層から出土したのが、無文土器・爪形文土器・撚糸圧痕文土器であった。