金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

夏暦 夏の年代はどうなるのか

夏暦 夏の年代はどうなるのか
引用ーーーーーー中国史で確認できる一番古い年は西周共和元年(前841年)で、それ以前の年は全て後世に推測、逆算されたおおよその年です。前841年以降は途切れることなく現在も年代記が継続されています。

このように云われているので夏の年代は本当は銅なのか。
西漢武帝から年号が使われるようになり、紀元前140年の建元元年が年号の始まりとされているようだ。列島での年号は一応の所では、大化645年または継続する大宝700年となり、この間785年の遅れとなる。
チャイナの確認できる年は前841年とされているようだから、列島ではこれを起点として晩期から前期に遡れば、金生遺跡は前3000年頃からと見て良いのかと思う。
今から遡ること5000年前となる。金生暦は夏暦に先行できるのでは無いか。

引用ーーーーーー
史書における年の記録
歴史家は早くから帝王の在位年によって年の記録をしてきました。これを帝王紀年といいます。例えば周平王元年、桓王元年等で、元年、二年、三年と続き、国君が死ぬまで続きます。通常は旧君が死んだ翌年が新君の元年とされました。
春秋戦国時代(または西周末以降)は天子である周王の紀年だけでなく、各国諸侯でも紀年の体系が整えられました。例えば『春秋』や『左伝』は魯君の在位年数を使い、『国語・晋語』では晋君の年数を使っています。

『竹書紀年』は特殊で、古くは夏、商、周三代の紀年を使い、周幽王以降の記述では晋君の紀年を使い、晋が三家に分裂してからは魏君の紀年を使っています。これは『竹書紀年』が魏で編纂された史書だからです。
 
西漢武帝から年号が使われるようになりました。紀元前140年の建元元年が年号の始まりとされています(異説もあります)。
大事件が起きたり瑞祥が現れたら改元することが多く、一人の皇帝がいくつもの年号を持つこともありました。西漢武帝は十一回改元し、武則天(則天武后)は十八回も改元しています。
しかし明清時代になると一人の皇帝は一つの年号だけを使うようになり(明の英宗と清の太宗は例外です)、諡号や廟号ではなく年号で皇帝を表すようになりました。例えば明の成祖(廟号)は永楽という年号から永楽皇帝と呼ばれており、同じように明の武宗は正徳皇帝、清の聖祖は康熙皇帝、高宗は乾隆皇帝と呼ばれています。

また、三国時代や南北朝時代、宋遼金など、分裂の時代はそれぞれの政権が年号を立てました。年号は政権樹立の象徴ともいえます。
辛亥革命後、中華民国は民国紀元を使いました。現在も台湾で継承されています。
しかし大陸では新中国(中華人民共和国)成立後、年号を廃止して公元紀年(西暦)に統一しました。
 
中国史で確認できる一番古い年は西周共和元年(前841年)で、それ以前の年は全て後世に推測、逆算されたおおよその年です。前841年以降は途切れることなく現在も年代記が継続されています。


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