金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

禅の庭と太陽暦の庭

禅の庭と太陽暦の庭

龍安寺の枯山水 石庭

    写真はお借りしました

 

金生遺跡 大配石 太陽暦観測のための施設ではあるものの
配石の配置は枯山水としても鑑賞に堪えるのでは無いか

         金峰山   立春石棒     茅が岳  富士山石組 と想定

 

 

 

          笠無山   男根型石棒     

 


立春、立秋、日の出位置を示す山と日にち検知の石棒と石組みについて

立春は金が岳のピークに、立夏は笠無山のピークに日の出位置は設定されている。

           立夏は間違いで立秋でした、 訂正補足2023.09.10

金生遺跡内には大配石があり、配石には、立春日と立秋日を確定するために、石棒が設置されている。その配石は大きく二つに分かれている。

 

   手前 立春石棒の石組        後方 立秋石組大立石

 

立春検知の石組み
立春検知の石棒の立つ石組は、東を先端にするように、扇型ないしは楔形をした石組みになっていて、その後部付近に石棒は設置されている。
石組みの中には、金峰山、金が岳・茅が岳、富士山の配置を示すような立石があり、その石組みの中に地形位置に合わせるようにして立春検知の石棒が立てられている。と想定してみました。
立春の石棒は自然石のように見える形状をしているので、加工の手は加えられていないように思う。石棒形状の変化の歴史からは、前期あるいは早期にまで遡るものでは無いだろうか。

 

    金が岳・茅が岳                 富士山

       手前の林が遺跡

 

立秋の石棒が立つ石組みは、立春の石棒の立つ石組みとは少し離して後ろに作られていて、その間には空間がある。笠無山とするらしい立石が立ち、その脇に男根型石棒が設置されて地形に合わせたようになっている
この石棒は丁寧に加工されていることから、立春石組よりも後の時代 中期頃に作られたもののように思う。
後ろに離して作られていることと、石棒の加工された形状などから見て、立春石組みよりかなり後の時代に作られたものなのだろうか。

 

       笠無山    金峰山            金が岳・茅が岳

     手前左の森が金生遺跡

 

立春検知の日の出の山があれば、太陽暦作りの定点としては充分なのに、立秋も笠無山で観測できるようにしていたとは、そんな好都合な地形があったとはちょっと考えがたい。
加えて、茅が岳は立春に、笠無山は立秋の日の出位置にピッタリ合っている。ということはもしかして笠無山は後から人工的に作られた山なのだろうか、もしもそうしてまで山を作っていたとしたら、その目的は何なのだろうか。形も良くて人工的のよう、でも作るには少し大きすぎかも。


この事について、半年一年暦とすると、後半の半年分の開始時点を立秋にして、暦のカウントをしていたのだろうか。つまり立春を正月とする半年と同じように、立秋からの半年の始として確認していたのか、そのための観測点として、立春と同様に立秋は重要だったのだろうか。もしそうなら縄文時代の暦として、半年一年暦の存在を証明するものなのかも知れない。   この点については、後の検討から、早期はその可能性があるが、前期以後一年暦が作られたものと考える。この遺跡の観測点は、それを証明していると思う。


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