各古代文明の暦のレベル
これまでの情報から纏めてみると
知識レベル 暦のレベル 古代文明
二至 冬至、夏至 ストーンヘンジ、エジプト
シリウスと洪水
二分点 春分、秋分 アステカ、 シュメール
カペラと春分
太陽太陰暦
四分点 立春 チャイナ
太陰太陽暦
{現代文明} 1月1日 太陽暦
太陰暦は日陰もの
八分点 立春、立秋 縄文時代
二十四分の暦
15進法の暦で太陽暦と太陰暦をシンクロさせる
立春 2/4 立秋 8/6
縄文時代の暦は直接太陽観測をしているので、太陰太陽暦、太陽太陰暦のように季節が移動してしまうような不都合が生じることはありませんでした。
図はお借りしました
引用しますーーーーーーーーーーーーーー
世界最初の暦は、紀元前3500年前後のメソポタミア文明で、シュメール人によって作成された。
この暦では、冬至から太陽は次第に高くなり、日が長くなっていくことから、冬至が 1 年の初めとされた。
北方の古代中国でも、冬至が正月とされていたが、漢の時代に立春正月へと移り、太陰太陽暦のため、立春と合致することなく 正月の日付が移動することになった。
緯度の高いヨーロッパでも、冬至正月(ケルトの冬至祭)であったが、太陰太陽暦のため、移動し冬至祭がクリスマスの原型となった。
春分祭はイースターの原型となった。
メソポタミア文明の、ウル第三王朝(紀元前21世紀)が定めたウンマ暦を起源とする太陰太陽暦、バビロニア暦は春分の頃の新月の直後を元日として、春分を予測するため恒星 カペラの動きを観察していた。
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太陽太陰暦としてよく知られているのは,バビロニア暦である。バビロニア暦は,ウル第三王朝(BC2112~2004年頃)のシュルギ王(BC2094~2047年頃)が定めたウンマ暦を起源とすると言われている。シュルギは,ウル・ナンムの息子である。
バビロニア暦では,月の満ち欠けの周期(朔望月)をもとに,1年を12か月とし,春分の頃の新月の直後を元日とした。1年は,「始期」,「中期」,「終期」の3期に区分された。
平均朔望月は約29.530589日で,1太陽年は365.242189日なので,1年12か月とすると354.367068日にしかならず,1年で10.875121日も暦と季節がずれてしまう。紀元前6世紀までは,最後の月や6月を繰り返すことで,暦と季節をあわせていた。春分の日は,恒星カペラの動きを観察して決定したという。
バビロニアでは,19年が235か月にほぼ等しいことが発見され,紀元前5世紀初頭に,19年に7回の閏月を置く19年7閏法が採用された。19年≒235か月という太陽と月の周期は,ギリシアの数学者メトンにちなんで,メトン周期と言われるが,メトンはバビロニアからこの周期を導入したと言われている。
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「エジプトはナイルの賜物」(ヘロドトス)
ナイル川は毎年定期的に氾濫し、肥沃な土壌を運んできました。これがエジプトに豊かな実りをもたらしたといわれています。
古代エジプトの人々は、日の出直前にシリウスが昇る=prt spdt (シリウスのheliacal risingヒライアカル・ライジング) を観測することで、洪水の時期を察知していました。
日の出直前にシリウスが昇るとは、太陽に近すぎて見えない時期を過ぎ、シリウスがふたたび見え出す日のことです。
シリウスに限らず、デカンと呼ばれる星々が昇ってくるのを数えて夜間の時刻を把握していました。
この観測からシリウスのヒライアカル・ライジングの時期が次第に365日のこよみとずれていくことがわかり、1太陽年の長さ~365.25日に気づいたわけです。
紀元前1800年代といわれるパピルス (Papyrus Berlin 10012) には、Peretの第4月の16日にヒライアカル・ライジングが起こるという予測と17日にはそのお祝いを行なったという記述があります。
ヒライアカル・ライジングの時期は古代エジプト~紀元前3000年ごろでは夏至のころ*1だったようです。
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◇洪水とシリウスの周期
ナイル川の洪水は、その上流域の熱帯雨林地帯に雨期がおとずれ大量の雨が
降る結果起こる現象ですが、砂漠地帯であるナイル川下流域ではそんな事情
は分かりません。
分かることと言えば夏至に近い時期になると、ナイル川が増水し氾濫すると
言うことだけ。この増水の時期を正確に予測出来れば、洪水の危険を除き、
豊かな収穫だけを手にすることも可能です。
そしてエジプト人が発見した増水時期の始まりの目安となる現象が、
シリウスの日出直前出現(ヘリアカル・ライジング,Heliacal rising)
でした。シリウスはおおいぬ座のα星。全天でもっとも明るい恒星です。
このシリウスは現在の暦の5~6月頃は昼間に空にあるため見ることが出来ま
せん。それが夏のころになると、日が昇る直前に、少しの時間だけ見えるよ
うになります(これは、太陽が恒星に対して 1日に約 1°西から東に移動し
て行くためです)。
この日出前のシリウス出現の最初の日がヘリアカル・ライジングです。
ヘリアカル・ライジングの観測は難しいものですから、年によって多少の誤
差は有ったでしょうが、その平均の間隔を調べると、ヘリアカル・ライジン
グは 365日毎に繰り返されることが分かりました。
シリウスのヘリアカル・ライジングを基準として考えられた暦ですから、こ
れは太陽暦と言うより、「シリウス星暦」と呼ぶのが相応しそうです。
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シリウス暦
暦は、原始的な狩猟文明から農耕文明に移る過程で、季節による気候の変動に対して、食物を計画的に生産し収穫・貯蔵するという知恵、すなわち、人類が生活する上での必要性の中から生まれてきました。
エジプトでは紀元前3000年頃、毎年初夏の雨季の頃にナイル川が氾濫して大洪水をもたらす事を、その時期の前に決まって東の空に明るいシリウスが輝き始めることから察して、1年の周期をシリウスが見え出す夏至の日を始まりとして、そこからまた見え出す前日までを1年365日とする、太陽暦の起源となる「シリウス暦(エジプト暦)」を作ったようです。
この1年は、月の周期を基にした30日による12か月と、年の終わりの5日間の安息日で成り立っていました。この暦をもとに、1年を大きく4か月ごとに分けて、洪水・種まき・収穫時期と分けて農作業を管理していたのです。
暦の改定
ユリウス・カエサル
ユリウス・カエサル
古代ローマでは、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が紀元前46年に、エジプト暦をベースに、その暦のずれを補正するために4年に一度1日増やす閏年を設け、エジプトに始まった太陽暦がヨーロッパに広まる基となる「ユリウス暦」を作りました。
その後約1600年の間ユリウス暦が使われていましたが、ユリウス暦も128年間に1日くるうことが解ったため、西暦1582年ローマ法王グレゴリウス13世は、正確な暦でキリスト教の権威を取り戻すべく、その間に出来た13日間の誤差を修正し、現代でも世界中で広く使用されている「グレゴリオ暦」を作ります。
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エジプトのシリウス暦からグレゴリオ暦まで続く太陽暦の歴史
現在使用されている太陽暦の先祖はエジプトのシリウス暦
人が暮らしていくのには、暦の存在が必要です。現代に生きるほとんどの人が、程度の差こそあれ暦という区切りの中で、各々が予定をたてて暮らしています。また「コヨミ」という読みは元々「カヨミ」(日読み)と呼ばれていたといい、日読みには今日という日がどのような日か知ることという意味があります。
また暦の歴史をさかのぼれば、古代エジプトで暦が作られるようになった経緯が有名でしょう。
エジプトではナイル川が氾濫するのを利用して農耕が行われていました。この氾濫が起きる時期には規則性があることから、暦が作られるようになったといわれています。
ちなみに、このエジプトの暦をシリウス暦といい、現代につながる太陽暦の先祖にあたります。
他の地域の文明でも暦が作られていましたが、現在使用されているグレゴリオ暦に繋がるエジプトのシリウス暦は抜きん出た存在だったといっていいかもしれません。
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■太陽暦の発見と改暦
●古代エジプト暦(ナイル川の氾濫と季節の予測)
太陽暦は、古代エジプト(紀元前2900年頃)で生まれました。正確には太陽ではなくシリウスという恒星を観察したようですが。この古代エジプト暦は太陽の1年365日を30日一カ月として12ヵ月(太陰太陽暦の一カ月が29日か30日で成り立っていたので)、余った5日を13月とした変則13ヵ月の太陽暦でした。太陽暦には基本的には一カ月の概念がありませんから一カ月を30日としたのは当然月の満ち欠けから生まれた概念をそのまま太陽暦に応用したのです。この暦はかなり正確に太陽を観察していたようで、すでに一太陽年は365.25日と認識していて、4年に一度閏日を置き、その年の13月目は6日としていました。
なぜ、エジプトで最古の太陽暦が生まれたのでしょうか。
元来エジプトの気候は乾燥した亜熱帯気候で、四季というより二季で、太陰暦の弱点である季節感をそれほど必要としない国でした。エジプト、とりわけナイル川デルタ地域では年間を通して降水量は非常に少ない地域でしたが、ナイル川の上流域エチオピアは熱帯モンスーン気候で、6月頃から雨季に入り、これによってナイル川下流のデルタ地域は7月中旬頃決まって洪水に見舞われました。そのため、正確に季節を予測する必要に迫られていたのです。もちろん太陰太陽暦は太陽の運行を加味した暦なのである程度季節を予測することもできますが、太陽暦に比べればいささか複雑すぎました。
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エジプトの天文学に関する最も古く、詳細な文献は、中王国時代(前2055-1650)初期の木棺の蓋に描かれた「対角線暦」あるいは「星時計」と呼ばれるものである。 同様のものは末期王朝にも見られる。 これらの暦では36の行があり、夜空の星が36のデカン(十分角)に分けられて列挙されている。 天空で太陽が1年間に動いていくコースは黄道と呼ばれるが、季節によって変化する星の動きを知る目安として、黄道の南側の星を36のグループに、すなわち10日毎に夜明けに地平線上に現れる星のグループに分割したのである。
また、各デカンには、地球の回転方向に番号が付けられている。 先に述べた、中王国時代の木棺に描かれたデカンでは、水平の線が夜を各12/40の部分に分けている。 これは、各デカンの出が、1年の1/36の期間(ほぼ10日強)につき40分づつ前方にずれるからである。 これらの座標の上に各星の移動が表示されていたことからこの星図が星によって時間を知るために用いられた可能性があるとされ、『対角線星時計』とも呼ばれる様になった由来である。
デカンは、これらだけではなく、セネンムトの墓(前1460頃、現在知られている天井天体図としては最古のものと言われる)、ラムセウムの天井画(前1300頃)をはじめとして、墳墓や神殿の天井にも多くみられる。 下の写真は、デンデラのハトホル神殿の天井に描かれた天体図の一部であるが、天を旅する神々の姿でデカン 描かれている。http: //www.roy.hi-ho.ne.jp/mizuchi/Egypt/seiza/seiza-decans.htm
トト神…
トト神が月と争い、12の同じ日数からなる月の毎日の1/70を勝ち取り 月を元にした暦の一年360日に、この日を付け加えて、一年を365.1428日としたという。
シリウス(天狼星)-大犬座のα星、全天で一番明るい星http: //www.roy.hi-ho.ne.jp/mizuchi/Egypt/seiza/seiza-sirius.htm
365.2422日に 非常に近い暦の計算を行っていたと…
36のデカンに分けられた夜空の星々は、毎年10日間ずつ夜明けに地平線上に上った訳であるが、この中でもっとも明るかった星が、現在我々がシリウスと呼んでいる星である。 古代エジプト人は、この星をソプデトあるいはソティス女神として知られる女神と見ていた。
しかし、シリウス星が古代エジプトにおいて、特別視されていたのは、単に一番明るい星であったからだけではない。 シリウス星が太陽に近接して、約70日程姿を隠した後、日の出直前に現れると、それから程なくして 彼らの生活に大きな影響を及ぼすナイルの増水が始まる現象が確認されたからである。
このシリウスが ヘリカアル・ライジング(日の出前出現)する日は、エジプト暦の元旦でもあった。 ユリウス暦でいうところの 7月19日頃である。 このソティスの出現と、ナイルの増水開始時期を元にした1年を365日という暦を古代エジプト人は、手に入れていたのである。 さらに、ヘリオポリスの創世神話によれば、トト神が月と争い、12の同じ日数からなる月の毎日の1/70を勝ち取り 月を元にした暦の一年360日に、この日を付け加えて、一年を365.1428日としたという。 この時代に、現在の暦の一年=365.2422日に 非常に近い暦の計算を行っていたというのは驚くべきことではないだろうか?
もっとも、実際にファラオが使用した公式の暦は 何故か、1年=365日で、4年に1日のずれ
は考慮されておらず、元旦は、ソティスの出現、及びナイルの増水から 次第にずれた、これが、再び一致するまでの1460年(365*4)は、ソティス周期と呼ばれる。
この時代に、現在の暦の一年=365.2422日に 非常に近い暦の計算を行っていたというのは驚くべきことではないだろうか?
なお、ソティス日とシリウスの出現がきちんと重なった記録として、紀元139年があり、これの逆算により、この ソティス暦の採用が、紀元前2781年あるいは紀元前4241年頃というのが候補とされている。
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古代エジプトは太陽暦を使い、バビロニアでは太陰暦が使われていた
古代エジプトでは、初め1年を、12ヶ月、1ヶ月を30日とし、それに5日間の祭日を加えた365日の「太陽暦」を使っていました。
しかし、正確な恒星年の1年は365日と4分の1日であるため、長い間にはどうしても暦と季節にずれが生じてしまいます。
そこで、これを補うために「ソティス暦」を併用しました。すなわち、ナイル河の増水を告げるシリウス星が太陽とともに東天に出現するのを見て夏至を知り、1年の長さを決めたのです。
これに対して、バビロニアでは朔望月(さくぼうげつ)をもとにした「太陰暦」が使われていました。
朔望月とは、月の満ち欠けの1周期のことで、朔(新月)から次の朔、あるいは望(満月)から次の望までの期間を言います。
朔とは太陽と月の合(太陽と月の角度が0度)、望は太陽と月の衝(太陽と月の角度が180度)の時である。
1ヶ月の始まりを細い新月が日没の空にかかる時として、そこから日を数えて1か月の長さを決めていたのです。
ところが、太陰暦の1か月は29日または30日で、1年では354日となり、本当の1年の365日とは11日も差があります。
どうしても1年を正確に計る必要が出てきたのです。
そこで、ある特殊な星が日の出時に出現するのを見て年初とし、1年の長さを決めることにしました。
この星は、現代の研究によると、馭者座(ぎょしゃざ)の1等星カペラ、後には牡羊座のアルファ星ハマルで、春分の頃の東空に太陽に先立って姿を現し、バビロニアの年始「春分正月」を定めたといわれます。
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カペラと暦
ちょうど、古代エジプト人がシリウスと太陽が同時に昇るのを見て暦を決めていたのと同じように、メソポタミアでは、カペラを使って新年を定めていたそうです。メソポタミアの暦は、春分前後の新月を新年の始まりとする、というものですが、今から5000年前、カペラは歳差運動によって春分点とほぼ同じ、赤径0時付近にありました。
実際に春分点があったのはおうし座ですが、春分に太陽が通過しますから空で観測するのは無理。カペラは同じ経度でさらに北にありますから、日の出前、日没後すぐに観測することができたはずです。カペラの観測はとても大切だったことでしょう。
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カペラと暦
ちょうど、古代エジプト人がシリウスと太陽が同時に昇るのを見て暦を決めていたのと同じように、メソポタミアでは、カペラを使って新年を定めていたそうです。メソポタミアの暦は、春分前後の新月を新年の始まりとする、というものですが、今から5000年前、カペラは歳差運動によって春分点とほぼ同じ、赤径0時付近にありました。
実際に春分点があったのはおうし座ですが、春分に太陽が通過しますから空で観測するのは無理。カペラは同じ経度でさらに北にありますから、日の出前、日没後すぐに観測することができたはずです。カペラの観測はとても大切だったことでしょう。
暦と天文学が結びついている、というお話のひとつです。
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古代エジプトは太陽暦を使い、バビロニアでは太陰暦が使われていた
古代エジプトでは、初め1年を、12ヶ月、1ヶ月を30日とし、それに5日間の祭日を加えた365日の「太陽暦」を使っていました。
しかし、正確な恒星年の1年は365日と4分の1日であるため、長い間にはどうしても暦と季節にずれが生じてしまいます。
そこで、これを補うために「ソティス暦」を併用しました。すなわち、ナイル河の増水を告げるシリウス星が太陽とともに東天に出現するのを見て夏至を知り、1年の長さを決めたのです。
これに対して、バビロニアでは朔望月(さくぼうげつ)をもとにした「太陰暦」が使われていました。
朔望月とは、月の満ち欠けの1周期のことで、朔(新月)から次の朔、あるいは望(満月)から次の望までの期間を言います。
朔とは太陽と月の合(太陽と月の角度が0度)、望は太陽と月の衝(太陽と月の角度が180度)の時である。
1ヶ月の始まりを細い新月が日没の空にかかる時として、そこから日を数えて1か月の長さを決めていたのです。
ところが、太陰暦の1か月は29日または30日で、1年では354日となり、本当の1年の365日とは11日も差があります。
どうしても1年を正確に計る必要が出てきたのです。
そこで、ある特殊な星が日の出時に出現するのを見て年初とし、1年の長さを決めることにしました。
この星は、現代の研究によると、馭者座(ぎょしゃざ)の1等星カペラ、後には牡羊座のアルファ星ハマルで、春分の頃の東空に太陽に先立って姿を現し、バビロニアの年始「春分正月」を定めたといわれます。
春分点は、黄道360度のスタート地点・牡羊座に太陽が入る1年始まりの日
現代の占星術が、夏至でも冬至でもなく、ましてカレンダーの1月1日でもなく、太陽が春分点に到達する時、すなわち太陽が白羊宮(はくようきゅう・牡羊座)に入る時を1年の始まりと考えているのは、遠くバビロニアの暦法の流れを汲んでいるためです。
メソポタミアの南部、シアヌルの地に興隆した古代バビロニア帝国は、初めシュメールとアッカドとに分かれていましたが、アッシリアとの抗争を経た後、前2000年紀にハンムラビ王によって統一されました。
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農作物の不作・豊作を左右する暦の存在が占星術の普及を後押ししていた
占星術の発達は、暦の成立と切り離して考えることができません。
当時の暦は「農事暦」で、大河流域に住みついて農耕文明を興した古代人にとって、種蒔きや収穫の季節を知ることが何よりも重要だったからです。
古代エジプトは太陽暦を使い、バビロニアでは太陰暦が使われていた
古代エジプトでは、初め1年を、12ヶ月、1ヶ月を30日とし、それに5日間の祭日を加えた365日の「太陽暦」を使っていました。
しかし、正確な恒星年の1年は365日と4分の1日であるため、長い間にはどうしても暦と季節にずれが生じてしまいます。
そこで、これを補うために「ソティス暦」を併用しました。すなわち、ナイル河の増水を告げるシリウス星が太陽とともに東天に出現するのを見て夏至を知り、1年の長さを決めたのです。
これに対して、バビロニアでは朔望月(さくぼうげつ)をもとにした「太陰暦」が使われていました。
朔望月とは、月の満ち欠けの1周期のことで、朔(新月)から次の朔、あるいは望(満月)から次の望までの期間を言います。
朔とは太陽と月の合(太陽と月の角度が0度)、望は太陽と月の衝(太陽と月の角度が180度)の時である。
1ヶ月の始まりを細い新月が日没の空にかかる時として、そこから日を数えて1か月の長さを決めていたのです。
ところが、太陰暦の1か月は29日または30日で、1年では354日となり、本当の1年の365日とは11日も差があります。
どうしても1年を正確に計る必要が出てきたのです。
そこで、ある特殊な星が日の出時に出現するのを見て年初とし、1年の長さを決めることにしました。
この星は、現代の研究によると、馭者座(ぎょしゃざ)の1等星カペラ、後には牡羊座のアルファ星ハマルで、春分の頃の東空に太陽に先立って姿を現し、バビロニアの年始「春分正月」を定めたといわれます。
春分点は、黄道360度のスタート地点・牡羊座に太陽が入る1年始まりの日
現代の占星術が、夏至でも冬至でもなく、ましてカレンダーの1月1日でもなく、太陽が春分点に到達する時、すなわち太陽が白羊宮(はくようきゅう・牡羊座)に入る時を1年の始まりと考えているのは、遠くバビロニアの暦法の流れを汲んでいるためです。
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古代エジプトは太陽暦を使い、バビロニアでは太陰暦が使われていた
古代エジプトでは、初め1年を、12ヶ月、1ヶ月を30日とし、それに5日間の祭日を加えた365日の「太陽暦」を使っていました。
しかし、正確な恒星年の1年は365日と4分の1日であるため、長い間にはどうしても暦と季節にずれが生じてしまいます。
そこで、これを補うために「ソティス暦」を併用しました。すなわち、ナイル河の増水を告げるシリウス星が太陽とともに東天に出現するのを見て夏至を知り、1年の長さを決めたのです。
これに対して、バビロニアでは朔望月(さくぼうげつ)をもとにした「太陰暦」が使われていました。
朔望月とは、月の満ち欠けの1周期のことで、朔(新月)から次の朔、あるいは望(満月)から次の望までの期間を言います。
朔とは太陽と月の合(太陽と月の角度が0度)、望は太陽と月の衝(太陽と月の角度が180度)の時である。
1ヶ月の始まりを細い新月が日没の空にかかる時として、そこから日を数えて1か月の長さを決めていたのです。
ところが、太陰暦の1か月は29日または30日で、1年では354日となり、本当の1年の365日とは11日も差があります。
どうしても1年を正確に計る必要が出てきたのです。
そこで、ある特殊な星が日の出時に出現するのを見て年初とし、1年の長さを決めることにしました。
この星は、現代の研究によると、馭者座(ぎょしゃざ)の1等星カペラ、後には牡羊座のアルファ星ハマルで、春分の頃の東空に太陽に先立って姿を現し、バビロニアの年始「春分正月」を定めたといわれます。
春分点は、黄道360度のスタート地点・牡羊座に太陽が入る1年始まりの日
現代の占星術が、夏至でも冬至でもなく、ましてカレンダーの1月1日でもなく、太陽が春分点に到達する時、すなわち太陽が白羊宮(はくようきゅう・牡羊座)に入る時を1年の始まりと考えているのは、遠くバビロニアの暦法の流れを汲んでいるためです。
メソポタミアの南部、シアヌルの地に興隆した古代バビロニア帝国は、初めシュメールとアッカドとに分かれていましたが、アッシリアとの抗争を経た後、前2000年紀にハンムラビ王によって統一されました。
バビロニア帝国は前7世紀、ネブカドネザル王朝の時に栄華の最高潮に達し、前539年にペルシアのクセルクセス王によって征服されるまで、およそ2000年の興亡の歴史をたどりました。
バビロニア帝国で天文観測に従事していたのは、カルデア人と呼ばれる哲学者の集団でした。
カルデア人は明らかにバビロニア人とは別種の民族で、その系統はバビロニア人よりも古く、その知的水準はバビロニア人よりも高かったようです。
彼らは「神聖科学の管理人」と呼ばれ、占星術や天文観測技術だけでなく、医学・薬学・数学・言語学・建築学などの知識の所有者として、バビロニアの知識階級、あるいは聖職者階級を形成していたのです。
天文学と数学が高い知的価値を有するのはインドもバビロニアも一緒だった
カルデア人が擁していた諸科学のうち、特に価値を認め得るのは、天文学と数学です。
ギリシアの哲学者シンプリキオスによると、カルデア人はアレクサンドロスの時代に、1903年に渡る天体の観測記録を残していたと述べています。
カルデア人は月の1日の平均運動速度を13分10度35秒と定め、また朔望月が29日12時間44分毎に起こることをすでに算出していました。
また、恒星の年周運動を観測して春分点を知り、1年の長さが365日6時間11分であることを確認しています。
太陽や月や惑星が、常に天の一定の軌道を通ることに注目して、太陽の通り道である「黄道」(こうどう)を考え出し、「黄道12宮」を設定したことも、カルデア人の偉大な功績です。
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■太陰太陽暦
季節の周期(太陽年)は365.2422日、月の満ち欠けの周期(月期)は29.53日。ここで、1太陽年を月期で割ってみよう。もし、割り切れれば、季節の周期(太陽年)と、月の満ち欠けの周期(月期)は、シンクロ(同期)する。計算すると、 1太陽年=365.2422日÷29.53日=12.3685月期 ゼンゼン割り切れない。
というわけで、季節の周期(太陽年)と月の満ち欠けの周期(月期)はシンクロしない。 そこで、期間を19年にのばすと、 19太陽年=365.2422日×19=6939.6日 これを月期(29.53日)で割ると、 6939.6日÷29.53日=235.0017月期 ・・・ ① 今度はほぼ割り切れる。 つまり、19年に1度、 「19太陽年=235月期」 となり、地球の公転と、月の満ち欠けがシンクロする。
具体的には、新月が全く同じ月日に現れる(満月でも同じ)。 この周期を、紀元前5世紀のギリシャの天文学者メトンにちなんで、「メトン周期」とよんでいる。ただし、この周期を最初に発見したはメトンではないらしい。紀元前1500年頃の中国の殷、紀元前2500年頃のイギリスのストーンヘンジですでに使用されていたからだ。
ここで、「メトン周期」の月数を計算してみよう。現在使われているグレゴリオ暦では、1太陽年(回帰年)は12ヶ月なので、 メトン周期=12月/年×19年=228ヶ月 一方、太陰暦は、①から235ヶ月。なので、その差は、 235ヶ月-228ヶ月=7ヶ月 つまり、19年の期間でみると、太陰暦の月数は、グレゴリオ暦より7ヶ月多い。
そこで、19年の間に7回だけ、太陰暦の1年を13ヶ月(普通は12ヶ月)にすれば、月数は一致する。この1ヶ月を「うるう月」と呼んでいる。また、うるう月の命名は、前月の月名の前に「うるう」をつける。たとえば、4月の次に挿入されるうるう月は「うるう4月」。 この暦法を「太陰太陽暦」とよんでいる。太陰、太陽、どっちや?とツッコミが入りそうだが、一応、「広義の太陰暦」ということになっている。ということで、現在のグレゴリオ暦は「うるう年」で、太陰太陽暦は「うるう月」で、割り切れない端数を補正しているわけだ。
■メソポタミア文明の暦
つぎに、暦の歴史をみていこう。まずは、最古の都市文明メソポタミアから。紀元前3500年頃、メソポタミア南部でシュメール文明が興った。この文明も、最初は太陰暦が使われた。その後、紀元前3000年までに、1ヶ月が30日、1年が12ヶ月と定められた。
この暦法だと、 1年=30日/月×12月=360日 グレゴリオ暦より5日少ない。一応、季節の周期を狙っているが、シュメールの季節は「春・夏・秋・冬」ではなく、「雨季・乾季」の2つしかなかった。 メソポタミア南部でシュメールが滅んで、バビロン第1王朝が興ると、再び太陰暦にもどった。前述したように、1年に11日不足する分は、うるう月で補正された。ただし、うるう月が挿入されるのは8年に3回だった(前述の太陰太陽暦は19年に7回)。その後、紀元前500年頃までには、うるう月が19年に7回の太陰太陽暦に改訂された。
■太陽暦
エジプトといえば太陽暦だが、最初に使われたのは大陰暦だった。古代ギリシャのヘロドトスによれば、 「エジプトはナイルの賜物」 この言葉どおり、古代エジプトの繁栄は「ナイル川の洪水」によっていた。毎年、同じ時期にナイル川が氾濫し、養分が大地に沈殿し、肥沃な土壌をつくる。ところが、この天の恵みを利用するには、洪水が起こる時期を正確に予測しなければならない。もちろん、素の太陰暦では誤差が大きく、季節は測れない。では、太陰暦の改良バージョン「太陰太陽暦」?
ノー、一気に「太陽暦」に進化したのである。 太陽暦は、地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)にもとづく暦法で、現在のグレゴリオ暦の始祖にあたる。では、なぜ、エジプトは他の文明に先がけて、太陽暦を発明できたのか?神官と恒星シリウスのおかげ ・・・ 古代エジプトには、読み書きソロバンに長けた知的エリート「神官」がいた。彼らは、夜空にひときわ明るく輝くシリウスが、日の出直前に初めて見えた日から数日後に、ナイル川の洪水が始まることに気づいた。1年周期(季節の周期)の”端”を見つけたのである。端さえ見つければ、「1年365日」はカンタンにわかる。端と端の間の、日の出、または日没の数を数えればいいのだから。
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二十四節気では、立春から春が始まりますが、
西洋では春分から夏至までを春、夏至から秋分までを夏、 秋分から冬至までを秋、冬至から春分までを冬としています。
春分点は、vernal equinox、秋分点は、autumnal equinox
夏至点、冬至点は、Summer solstice と winter solsticeと呼んでいます。
では、季節が北と反対である南半球では、春分、夏至、秋分、冬至をどう呼んでいるのか
南半球の二至二分の呼称については、こちら( 二至二分の日時)に別途、掲載しました。
太陽高度の影響による地表のウォームアップ、クールダウンには時間差があります。しかし、西洋でも東洋でも、春分、夏至、秋分、冬至は季節の節目として意識されてきました。
復活祭の日付を算出するには、春分を基点にしています。ユダヤ教の過越し祭も春分が起源とされています。
ヨーロッパの先住民族ケルト人は四立の祭りをしました。
古代ゲルマン人は冬至の祭りを行いました。クリスマスも起源は冬至祭と言われています。
また中国でも周(紀元前1046~同256年)の時代には冬至を基準に年始が置かれていました。
戦国時代(紀元前403年~同221年)に、 戦国各国が主として採用したのは冬至と春分の中間、立春を年始とする「夏正」でした。
漢の武帝の太初元年(紀元前104年)の改暦によって立春正月を年始とすることに改め、以後、中国の太陰太陽暦の年始は立春となりました
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三正論 †
中国の古代王朝では、夏の時代は寅の月、殷の時代は丑の月、周の時代には子の月を正月とした、とする説です。
夏正=建寅正月=冬至の翌々月=立春正月
殷正=建丑正月=冬至の翌月
周正=建子正月=冬至月
三正が実際に行なわれたかは不明ですが、漢の太初暦では夏正に復帰することで王朝の正当性を示しました。
秦の??暦では建亥正月=冬至の前月を正月としており、漢の初期もこれを用いていました。
太初暦以降は基本的に夏正が続きますが、時折ほかが使われることもありました。
前漢と後漢の間、新の時代には殷正が行なわれました(西暦9~23年)。
魏の景初改暦では殷正が行なわれました(西暦237~239年)。
唐の武后の時代には周正が行なわれました(西暦690~700年)。
唐の粛宗の時代にも周正が行なわれたそうです(西暦761年)。
子・丑・寅は、夕方ごろに北斗七星の柄が指す方角を表わす十二支のことです。
北の空なので少し混乱しますが、方角は天の北極に対して下 (北) が子、上 (南) が午、反時計回りに数えます。
柄(尾)が子の方角を指していれば、子に建す(おざす)月ということで建子月と呼びます。
同じ時刻に見る北斗七星の向きは、季節の星座と同様に回転し、1年たつと元に戻ります。
しかし、たとえ同じ季節であっても長い年月がたてば、歳差のために向きは変わっていきます。これが三正論の天文学的意味といえます。
一方、柄の指す方角は厳密に測れるものではなく、季節は二十四節気で定義する方が正確でしょう。
つまり、夏正が続いたのは、1年や季節は二十四節気で定め、各月は正月を寅の月に固定して干支で連続的に呼ぶようになったという合理的な変化といえます。
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暦について/暦の発見(太陰暦から太陰太陽暦へ)
太陰太陽暦を考える前に簡単に暦の成り立ちを考えてみたいと思います。現在、私たちが使っている暦法は大きく分けて三つあります。一つが人類最古の暦法といわれる太陰暦。二つ目が太陰暦に太陽の運行を加味した太陰太陽暦、そして三つ目が現在私たちが供している太陽暦です。
では、私たち人類は暦という概念をどのようにして持つに至ったのでしょうか。
道具が発明され、言葉を使い文字を作り出した人類は、やがて農業などを行うようになり、人と人のコミュニケーションや集団生活を行うようになると、いくつかの約束事が必要になってきます。その一つに日を数える必要も生まれたと考えられます。まず、太陽が昇り朝を迎え、日が沈み夜となる。そしてまた日が昇り朝を迎える。この規則的な繰り返しを通して、古代の人類は一日という概念を得たと思われます。
暦の語源が「日読み(かよみ)」からきているといわれるのも頷けます。また、カレンダー(Calendar)の語源といわれるラテン語のカレンダエ(Kalendae)は「宣言する」とか「叫ぶ」という意味で、古代ローマでは太陽暦が採用されるまで、新月が出ると「月が出た!」と知らせていたところから、いわゆる「最初の日(朔日)」という意味を持つようになり、今のカレンダーにつながったようです。
また、英語の月<moon>や一ヵ月<month>の語源はラテン語の「暦の月<メンシス=mensis>」からきているし、英語の測る<measure>も、月経も、すべてラテン語の「測る」を語源としています。つまり「月」とは、測るものの基準であったことがうかがわれます。因みに英語の時をあらわす time と、潮汐をあらわす tide も同じ語源だそうで、月や潮汐が時を測るのに広く用いられていたことがわかります。
■太陰暦
純粋な太陰暦とは、人類にとって太陽と共にもっとも身近な月の運行、つまり月の満ち欠け(朔望)をもとにした暦です。新月を朔日(一日)とし、満月を経て次の新月にいたる月の朔望の周期は約29.53日ですので(半端な1日はありませんから)、ひと月は29日と30日で成り立っています。身近な存在である月の満ち欠けの周期は、日を数えるには格好の素材であったに違いありません。新月から次の新月までの周期、いわゆる朔望月を通し、1カ月という区切りを編み出したのでしょう。ということで人類が最初にもった暦の概念は月の運行をもとにした純粋な太陰暦でした。
しかし、月の満ち欠けの周期は太陽の動きとは関係がないため、12回朔望月を繰り返しても約354日しかならず、1太陽年に対して約11日足りません。このため、太陰暦では3年で一カ月強、十数年たつと春が秋となり、夏が冬になってしまいます。この純粋な太陰暦はイスラム暦など一部の地域で現在でも使用されています。
■太陰太陽暦
太陰太陽暦とは、月の運行(太陰暦)と太陽の運行(太陽暦)の周期を組み合わせ季節が大きくズレないように工夫された暦で、古くはもっとも広範囲に使われていた暦です。
特に農耕民族にとって、季節は種を蒔いたり収穫する上でも重要で、暑さ寒さの予測、その繰り返し、陽の照射角度の変化、天候の変化などの規則性から、太陽との関連性で1年が365日強という概念に気づきます。しかし、太陰暦でいうところの朔望月を12回繰り返すだけでは約354日にしかならず、太陽の1年とは約11日の開きがあります。そのまま放置すれば、3年で約1カ月、十数年たてば冬が夏になり、春が秋になり月だけの観測で編み出された太陰暦では季節が特定できなくなることも知ります。
こうして、月と太陽を観察することによって暦は進化を遂げ、太陽との季節のズレを修正するため、3年に一度、正確には19年に7度(メトン法、中国では章法)ある月の後に1ヵ月、閏月として加え、その年は13ヵ月とし暦と季節が大きくずれることを防いでいます。これが太陰太陽暦です。古代バビロニアやユダヤ、古代ギリシャ、古代中国でほぼ同じころに生まれたといわれています。しかし、それでも太陰太陽暦の1年は354日から384日と変動し、季節感は毎年11日から30日近く変動します。
いずれにしても太陰太陽暦とあるように、月の運行(月の満ち欠け)をもとにしつつ太陽の運行を加味した暦ということができます。
こうして人類は、月と太陽を代表とする天体の観察をとおして、1日を太陽の動きから、1カ月は月の満ち欠けから、そして1年は太陽の動きから導きだし、暦の概念ができあがったのです。しかし、この後、暦は大きく分けて二つの流れを生み出しました。それが太陽暦と太陰太陽暦でした。
イギリスのソールズベリー草原のストーンヘンジ
古代の天文台ともいわれ月や太陽の運行を正確に観測できたという。
■太陽暦の発見と改暦
●古代エジプト暦(ナイル川の氾濫と季節の予測)
太陽暦は、古代エジプト(紀元前2900年頃)で生まれました。正確には太陽ではなくシリウスという恒星を観察したようですが。この古代エジプト暦は太陽の1年365日を30日一カ月として12ヵ月(太陰太陽暦の一カ月が29日か30日で成り立っていたので)、余った5日を13月とした変則13ヵ月の太陽暦でした。太陽暦には基本的には一カ月の概念がありませんから一カ月を30日としたのは当然月の満ち欠けから生まれた概念をそのまま太陽暦に応用したのです。この暦はかなり正確に太陽を観察していたようで、すでに一太陽年は365.25日と認識していて、4年に一度閏日を置き、その年の13月目は6日としていました。
なぜ、エジプトで最古の太陽暦が生まれたのでしょうか。
元来エジプトの気候は乾燥した亜熱帯気候で、四季というより二季で、太陰暦の弱点である季節感をそれほど必要としない国でした。エジプト、とりわけナイル川デルタ地域では年間を通して降水量は非常に少ない地域でしたが、ナイル川の上流域エチオピアは熱帯モンスーン気候で、6月頃から雨季に入り、これによってナイル川下流のデルタ地域は7月中旬頃決まって洪水に見舞われました。そのため、正確に季節を予測する必要に迫られていたのです。もちろん太陰太陽暦は太陽の運行を加味した暦なのである程度季節を予測することもできますが、太陽暦に比べればいささか複雑すぎました。
話はそれますが、この氾濫によって、上流地域から肥沃な土が運ばれ、デルタ地域ではその堆積物の蓄積によって農業に適した土地ができあがったのです。さらには、氾濫が治まると農地を元通りに配分するため、測量学と幾何学が発達したとも。
しかし、1970年、ナイル川の上流にアスワン・ハイ・ダムが完成し、ナイル川の氾濫は調整され、デルタ地域では通年耕作が可能になりましたが、肥沃な堆積物は減り、ダムによって生ずる土砂に悩まされることにもなりました。人類の叡智は多くの繁栄をもたらしたことも事実ですがそれによって生じる負の遺産も受けざるを得ないのです。
●ユリウス暦
この暦法に目をつけたのがご存知ジュリアス・シーザーでした。紀元前46年頃、古代エジプト暦をもとにユリウス暦を制定しました(ユリウス暦とはジュリアス・シーザーのローマ読み=ユリウス・カエサルからきている)。この時、古代エジプト暦にあった余分な13月の5日分を他の月に振り分け1年を12ヵ月としました。ユリウス暦の一太陽年も365.25日で、4年に一度閏年を入れていましたが、その入れ方を間違えていたといわれ、アウグストゥス・オクタビアヌスは紀元前6年ころ修正を加えています。暦制定に当たってシーザーは誕生月でもある7月をjulyとシーザーの名を残し、アウグストゥスも改暦に当たって、アクティウムの戦いの勝利にちなんで8月にaugustと名前をつけ、今日に至っています。
ユリウス暦はキリスト教と一体となりヨーロッパ各地、地中海沿岸の地域に広まり、キリスト教徒の手によって週(7曜)の制度も導入されました。
因みにユリウス暦以前の古代ローマ暦の新年は3月から始まり、2月が1年の終わりの月だったため、カエサルが新しい暦を制定したときに、平年とうるう年の日数の調整に使われることになりました。当時平年の2月は29日でしたが、閏年のための1日は、29日のあとに30日として加えられたのでが、皇帝アウグストゥスは自分の名前をつけた8月(August)を1日増やすために、2月の日数を1日削ってしまいました。
それ以外にも、1年が3月から始まっていたころの名残りがあります。9月から12月は英語でSeptember、October、November、Decemberといいますが、これはラテン語の数字である7(septem)、8(octo<ご存知音楽でいうオクターブは8度音程を表しています>)、9(novem)、10(decem)からきています。September、October、November、Decemberがそれぞれ7、8、9、10番目の月であったときの呼び名がそのまま残っているのです。
●世界標準暦――グレゴリオ暦
いずれにしてもこのユリウス暦は、欧米を中心に広く用いられていましたが、一太陽年を365.25日として、4年に一度閏年をおいていましたが、実際の太陽年はそれより少し短く、約365.2422日のため、16世紀ころには10日ほど狂いが生じてしまいました。このため、欧米諸国でもっとも大切な復活祭(春分の日の後の満月の次の日曜日)を算出するのに不便が生じ、1582年、ローマ法王グレゴリオス13世によって改暦されました。グレゴリオ暦は、4年に一度ある閏年を100で割り切れかつ400で割り切れない年は調整年として、閏日を置かないというものです。もっともこのグレゴリオ暦への改暦は宗教的要因が強かったため、世界標準暦になるにはいささか期間を必要としました。ベルギーやオランダ、ドイツなどのカトリック系では比較的速くグレゴリオ暦に移行しましたが、イギリスやアメリカは18世紀半ばであったし、ロシアやギリシャにいたっては20世紀に入ってからのことでした。