縄文時代の太陽暦
縄文時代には太陽観測が石棒を立てて標識点として、ノーモンにより立春が観測されていた。
金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設がそれを示している。
金生遺跡での日の出観測には、茅が岳の嶺から出る太陽を観測するため、立春を一日の精度で観測するには22メートル程の距離と高さ2.4メートル程のノーモンが必要である。これはチャイナの漢籍記載のノーモン 表の高さ8尺に一致するものである。
暦は縄文早期には開発されていたようだ、それは世界の何処の文明にも無い突起土器により数字が記録されていた。
突起土器に記録されていた数字は、時代を経るに従い次のように変化していた。
縄文時代早期 2,4、6
前期 8、12
中期 3
後期以後 5、7
土器の年表
年表
中国チャイナにおいての二十四節気の暦成立までの歴史的経緯はこれまでの所知らない。
図はお借りしました
引用しますーーーーーーーーーーーーーー
二十四節気の「立春」は、『暦便覧』では「春の気立つを以って也」とされるが、時候的な解説では、「大寒から立春までは一年のうちで最も寒い季節であり、立春を過ぎると少しずつ寒さが緩み始め、春の気配が忍び入ってくる」とされるのが一般的である。ただ注意が必要なのは、このような気象的事象のゆえに「立春」が定められたのではなく、冬至から春分への中間点として、暦法上の要請から定められたものだということである。
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冬至
地球を中心に見ると、こういう風になっています。夏至は太陽黄径90度、春分が0度。秋分が180度。 冬至が270度です。
夏至には太陽の南中高度が最大になり、冬至には最小になります。春分、秋分では その中間になり季節との相関関係から、夏至と冬至が最初に発見され、続いて春分、秋分が考案された と考えられています。 そして、その後、4立(立春、立夏、立秋、立冬)。 更に細分化して24節気に 至ったと考えられます。 二十四節気は、古代中国で考案され、漢字文化圏で使われてきました。
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二十四節気は中国の戦国時代の頃、太陰暦の季節からのずれとは無関係に、季節を春夏秋冬の4等区分する暦のようなものとして考案された区分手法の1つで、一年を12の「節気」(正節とも)と12の「中気」に分類し、それらに季節を表す名前がつけられている。
++++そうなのか
重要な中気である夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分は併せて二至二分(にしにぶん)と言い、重要な節気である立春・立夏・立秋・立冬を四立(しりゅう)、二至二分と四立を併せて八節(はっせつ)という。
また1年を春夏秋冬の4つの季節に分け、それぞれをさらに6つに分けた24の期間を表すものとして使われることがある。この場合、二十四節気をさらに約5日ずつに分けた七十二候という分類があり、各気各候に応じた自然の特徴が記述された。日本でも暦注など生活暦において使われている。
二十四節気はほんらい中国の気候をもとに名づけられたものなので、日本の気候とは合わない名称や時期もある。よって日本ではそれを補足するため二十四節気のほかに、土用、八十八夜、入梅、半夏生、二百十日などの「雑節」と呼ばれる季節の区分けを旧暦で取り入れている。
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中国暦
殷代の甲骨文字が解明されて、
中国では既に紀元前1500年頃には、太陰暦をもとに十干十二支で数える暦が使われていたようです。更に、
今から2000年前頃には、暦と季節のずれを補正するために、二十四節気を定めました。1節月は約30日で1朔望月より長く、各節月の長さを閏月を多くすることで調整した太陰太陽暦を使い始め、中華民国が成立する1912年まで、この中国暦を使用し続けました。
中国や、ユーラシア大陸のほとんどの地方で、長く太陰太陽暦が使われ続けた背景には、月の満ち欠けや潮の干満が、大河流域での洪水による氾濫を予知するのに役立ったことや、漁民などの航海時にも重要だったことによるもので、農耕や海洋生活上必要だったのです。
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二十四節気では、立春から春が始まりますが、
西洋では春分から夏至までを春、夏至から秋分までを夏、 秋分から冬至までを秋、冬至から春分までを冬としています。
春分点は、vernal equinox、秋分点は、autumnal equinox
夏至点、冬至点は、Summer solstice と winter solsticeと呼んでいます。
では、季節が北と反対である南半球では、春分、夏至、秋分、冬至をどう呼んでいるのか
南半球の二至二分の呼称については、こちら( 二至二分の日時)に別途、掲載しました。
太陽高度の影響による地表のウォームアップ、クールダウンには時間差があります。しかし、西洋でも東洋でも、春分、夏至、秋分、冬至は季節の節目として意識されてきました。
復活祭の日付を算出するには、春分を基点にしています。ユダヤ教の過越し祭も春分が起源とされています。
ヨーロッパの先住民族ケルト人は四立の祭りをしました。
古代ゲルマン人は冬至の祭りを行いました。クリスマスも起源は冬至祭と言われています。
また中国でも周(紀元前1046~同256年)の時代には冬至を基準に年始が置かれていました。
戦国時代(紀元前403年~同221年)に、 戦国各国が主として採用したのは冬至と春分の中間、立春を年始とする「夏正」でした。
漢の武帝の太初元年(紀元前104年)の改暦によって立春正月を年始とすることに改め、以後、中国の太陰太陽暦の年始は立春となりました
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三千年以上昔、古代中国では日時計によって日々の日照時間の移り変わりを確認していました。そのため、昼の最も長い日「夏至」や、昼の最も短い日「冬至」、昼と夜の長さが同じ日「春分」「秋分」を知ることができました。
二十四節気http://chugokugo-script.net/koyomi/nijuushi-sekki.html
古代中国では暦として月の運行に基づいた「太陰暦」が使われていましたが、これですと実際の季節とズレが生まれてしまうため、太陽の位置を元に1年を24等分した「二十四節気」や、それをさらに約5日ごとに分割した「七十二候しちじゅうにこう」が作られ、季節の変化をさらにきめ細かくとらえて農事に生かしました。
七十二候…
七十二候とは、5世紀から6世紀の間に古代中国で成立したとされる「二十四節気(にじゅうしせっき)」を、さらに約5日毎の期間に分けて、その期間中に起こる気象の変化や動植物の動きを記してまとめたものが七十二候です。
360日=15日×24日
360日÷72=5日…五角形…
七十二候の名称は、気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっている。. 中には、「雉入大水為蜃」(キジが海に入って大ハマグリになる)のような実際にはあり得ない事柄も含まれている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%80%99
雉大水に入りて蜃となる…
「礼記‐月令」にある伝説から) 陰暦一〇月の第三候(一一日から一五日)をいう。https://kotobank.jp/word/%E9%9B%89%E5%A4%A7%E6%B0%B4%E3%81%AB%E5%85%A5%E3%82%8A%E3%81%A6%E8%9C%83%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8B-2027428
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中国暦
殷代の甲骨文字が解明されて、
中国では既に紀元前1500年頃には、太陰暦をもとに十干十二支で数える暦が使われていたようです。更に、
今から2000年前頃には、暦と季節のずれを補正するために、二十四節気を定めました。1節月は約30日で1朔望月より長く、各節月の長さを閏月を多くすることで調整した太陰太陽暦を使い始め、中華民国が成立する1912年まで、この中国暦を使用し続けました。
中国や、ユーラシア大陸のほとんどの地方で、長く太陰太陽暦が使われ続けた背景には、月の満ち欠けや潮の干満が、大河流域での洪水による氾濫を予知するのに役立ったことや、漁民などの航海時にも重要だったことによるもので、農耕や海洋生活上必要だったのです。
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4. 正方位の割り出し法
(pp.82-83)
(1)「表」をもちいた観測法
ではひきつづき正方位の割り出し法の問題に入る。回答の半分についてはすでに述べたとおりである。観象授時暦という。月の初めの日は新月の日(朔日)ではなく、月が見え始める二日月・三日月などの日を当てた。この日を朏(ひ)日という。
それはつぎのような手法である。まず観測地点を平坦にならし、そこに「表」とよばれる長さ八尺の棒を立て、棒を中心とする適度な径の同心円を地表面に描く。つぎに太陽の光が当たることによって「表」の反対側に伸びる影を追う。影は午前中には西に向けて長く伸びるが、その後短くなりながら表の北を巡って午後には東側へと移行し、再び長く伸ばすのであるが、さきの同心円に影が接する地点に目印を付ける。目印が付けられた地点は午前に 1 回、午後に 1 回となり、二つの目印を直線で結ぶと真東西が割り出せる。さらに直線の中間点を求め、そこから表に向けて直線を引く(半折)。そうすれば正南北が割り出せる。このような観測法である。
古代中国では古く『周礼』にこの観測法の概要が記されており、以後『周髀算経』などでも繰り返し登場する。なお古代中国では円の中心に立てる棒のことを表と記すが、イスラーム世界ではノーモンとよばれた。日時計の原理もその基本は同様であり、世界の各地で採用された普遍的な方位観測法である。インデアン・サークル法ともよばれることがある。
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一般に、古代および中世の文献に記されているのは 8 尺の長さである。
○ 中国で出版された『周禮注疏』が鳥取県立図書館の蔵書にありました。「土圭」の記述を引用します。
『周禮注疏』 〔十三經注疏編委會〕
周禮注疏卷第十
(pp.295-297)
以土圭之?測土深、正日景、以求地中。日南則景短多暑、日北則景長多寒、日東則景夕多風、日西則景朝多陰。
土圭、所以致四時日月之景也。測猶度也、不知廣深故曰測。故書求爲救、杜子春云‥「當爲求。」鄭司農云‥「測土深、謂南北東西之深也。日南謂立表處大南、近日也。日北謂立表處大北、遠日也。景夕謂日跌景乃中、立表處大東、近日也。景朝謂日未中而景中、立表處大西、遠日也。」〔中略〕
【疏】「以土」至「多陰」 ◯ 釋曰‥案玉人職云「土圭尺有五寸」。周公攝政四年、欲求土中而營王城、故以土圭度日景之法測度也。度土之深、深謂日景長短之深也。正日景者、夏日至、晝漏半、表北得尺五寸景、正與土圭等、即地中、故云「正日景以求地中」也。「日南則景短多暑」者、周公度日景之時、置五表。五表者、於潁川陽城置一表爲中表、中表南千里又置一表、中表北千里又置一表、中表東千里又置一表、中表西千里又置一表。今言日南景短多暑者、據中表之南表而言、亦晝漏半、立八尺之表、表北得尺四寸景、不滿尺五寸、不與土圭等、是其日南、是地於日爲近南。景短多暑、不堪置都之事。北云「日北」者、據中表之北表而言、亦晝漏半、表北得尺六寸景、是地於日爲近北、是其景長多寒之事也。云「日東則景夕多風」者、據中表之東表而言、亦於晝漏半中表景得正時、東表日已跌矣、是地於日爲近東。亦晝漏半已得夕景、故云景夕多風。云「日西則景朝多陰」者、據中表之西表而言、是地於日爲近西。亦於晝漏半中表景得正時、西表日未中乃得朝時之景、故云日西則景朝多陰。此經皆未得所求耳。解洪範之義、依五行傳、風屬中央、雨屬東方。今西方云多陰、東方云多風者、土爲木妻、木爲金妻、從妻所好。故月離於箕、風揚沙、月離於畢、俾滂?。故此東方多風、西方多陰、陰即雨也。 ◯ 注「土圭」至「一寸」 ◯ 釋曰‥案馮相氏云「冬夏致日、春秋致月」、皆以土圭度之。是以冬官考工記云「土圭尺有五寸以致日」、
周禮注疏卷第四十一「冬官考工記下」
(pp.1314-1315)
土圭尺有五寸、以致日、以土地。
致日、度景至不。夏日至之景、尺有五寸、冬日至之景、丈有三尺。土猶度也。建邦國以度其地、而制其域。 ◯ 景度、待洛反、下注同。
【疏】「土圭」至「土地」 ◯ 釋曰‥言「土圭」、謂度土地遠近之圭、故云土圭。 ◯ 注「致日」至「其域」 ◯ 釋曰‥云「致日、度景至不」者、於地中立八尺之表、於中漏半、夏至日、表北尺五寸、景與土圭等。冬至日、丈三尺、爲景至。若不依此、皆爲不至、故云度景至不也。但景至與不至、皆由君政得失而來。度之者、若不至、使君改德教也。云「夏日至之景、尺有五寸、冬日至之景、丈三尺」者、皆通卦驗文。大司徒亦云「夏日至之景、尺有五寸」、謂之地中。云「土猶度也。建邦國以度其地、耐制其域」者、此度地封諸侯、日景一分、地差百里、五等諸侯、直取五分景、已下無取尺寸之義也。
? 周礼注疏「冬官考工記下」の引用箇所については、邦訳の資料を見つけることができてないので、原典のみの紹介になります。
○ 参考図「夏至致日圖」は、ジョゼフ・ニーダムの著書にも大きく掲載されています。引用しましょう。
『中国の科学と文明 第5巻 天の科学』 〔ジョゼフ・ニーダム/著〕
⇒ 〔第 110 図 の 拡大図〕
第 110 図『欽定書經圖説』巻一 堯典
第 20 章 天文学 (g) 天文器具の発達
(1) ノーモンとノーモン影尺
(p.128)
第 110 図 ノーモンとノーモン影尺を使って夏至の太陽の影を測定する伝説上の古代の人物羲叔(羲兄弟の末子)を描いた清末の図。『欽定書經圖説』、巻一、堯典 (Karlgren (12), p. 3) より。
(p.129)
『淮南子』は、10 尺の長さのノーモンが古代に使われたという伝承を伝えているが(これは、すでに述べた周時代の 10 進法度量衡の存在に対する強力な証拠となろう)、これは早期に、たぶんそれが直角三角形の辺に関する簡単な計算の助けには容易にならなかったために、棄てられた。+544 年の虞?の 9 尺のノーモンのようないくつかの例外はあるが、一般に、古代および中世の文献に記されているのは 8 尺の長さである。元の時代、精度を高めるためさらに大きな構造を持ったときでさえ、8 尺の倍数 40 尺が選ばれたのは、後に見るとおりである。完全に水平な台と完全に垂直な棒が必要であることは、漢以前によく理解されていた。なぜなら、『周禮』に水準器および錘を吊るすひもについての記述があるからである。漢の注釈者はこれを同じ長さのひもが、台のおのおのの隅に一つずつ固定されているという意味に取ったが、唐の賈公彦は、吊るすのに 4 つの測鉛線を使ったと推測した。もしそうだったとすると、この器具はローマ時代の測量官が用いていたグローマ (groma) と非常によく似たものであった。
影の長さの最も初期の測定は、もちろん当時の物差しで行われた。しかしこれらは役人の指示と地方の習慣によって一定でないことがわかったので、標準の碑玉の板(土圭)で、ノーモン影尺 (gnomon shadow template) と呼べるようなものが、この目的のためのみにつくられた。それは『周禮』に記されており、実物は素焼きの土製で、+164 年のものが現存している。
大司徒(高官)は[『周禮』に言う]、ノーモン影尺を使って、太陽下の大地への距離を決め、正しい太陽の影(の長さ)を定める。こうして大地の中央を見いだす ……。大地の中央は夏至の時の太陽の影が 1 尺 5 寸ある(場所)である。
大司徒之職。…… 以土圭之?測土深。正日景以求地中。…… 日至之景。尺有五寸。謂之地中。(周禮、地官司徒)
? ここまでに記述された語句の意味を、簡単にまとめておきましょう。
? 古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとした。
? 表の影(かげ)の長さを測る装置=器具が、土圭(とけい)である。
? 表には、ジョゼフ・ニーダムの『中国の科学と文明』で「ノーモン (gnomon)」の語があてられた。
? 土圭は、同書で「ノーモン影尺 (gnomon shadow template)」と表記されている。
? 土圭と表を合わせて「圭表(けいひょう)」と呼ばれることがある。
? 影は『周礼』で日景(ひかげ)と書かれ、『周髀算経』では?(ひかげ)と記述されることが見える。
〔『周髀算経』の内容は、あらためて確認する予定〕
The End of Takechan
○ 日本の古い記録にある「時計」についても、ある程度『広辞苑』でたどることができます。
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『中国の科学と文明 第5巻 天の科学』 〔ジョゼフ・ニーダム/著〕
⇒ 〔第 110 図 の 拡大図〕
第 110 図『欽定書經圖説』巻一 堯典
第 20 章 天文学 (g) 天文器具の発達
(1) ノーモンとノーモン影尺
(p.128)
第 110 図 ノーモンとノーモン影尺を使って夏至の太陽の影を測定する伝説上の古代の人物羲叔(羲兄弟の末子)を描いた清末の図。『欽定書經圖説』、巻一、堯典 (Karlgren (12), p. 3) より。
(p.129)
『淮南子』は、10 尺の長さのノーモンが古代に使われたという伝承を伝えているが(これは、すでに述べた周時代の 10 進法度量衡の存在に対する強力な証拠となろう)、これは早期に、たぶんそれが直角三角形の辺に関する簡単な計算の助けには容易にならなかったために、棄てられた。+544 年の虞?の 9 尺のノーモンのようないくつかの例外はあるが、一般に、古代および中世の文献に記されているのは 8 尺の長さである。元の時代、精度を高めるためさらに大きな構造を持ったときでさえ、8 尺の倍数 40 尺が選ばれたのは、後に見るとおりである。完全に水平な台と完全に垂直な棒が必要であることは、漢以前によく理解されていた。なぜなら、『周禮』に水準器および錘を吊るすひもについての記述があるからである。漢の注釈者はこれを同じ長さのひもが、台のおのおのの隅に一つずつ固定されているという意味に取ったが、唐の賈公彦は、吊るすのに 4 つの測鉛線を使ったと推測した。もしそうだったとすると、この器具はローマ時代の測量官が用いていたグローマ (groma) と非常によく似たものであった。
影の長さの最も初期の測定は、もちろん当時の物差しで行われた。しかしこれらは役人の指示と地方の習慣によって一定でないことがわかったので、標準の碑玉の板(土圭)で、ノーモン影尺 (gnomon shadow template) と呼べるようなものが、この目的のためのみにつくられた。それは『周禮』に記されており、実物は素焼きの土製で、+164 年のものが現存している。
大司徒(高官)は[『周禮』に言う]、ノーモン影尺を使って、太陽下の大地への距離を決め、正しい太陽の影(の長さ)を定める。こうして大地の中央を見いだす ……。大地の中央は夏至の時の太陽の影が 1 尺 5 寸ある(場所)である。
大司徒之職。…… 以土圭之?測土深。正日景以求地中。…… 日至之景。尺有五寸。謂之地中。(周禮、地官司徒)
? ここまでに記述された語句の意味を、簡単にまとめておきましょう。
? 古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとした。
? 表の影(かげ)の長さを測る装置=器具が、土圭(とけい)である。
? 表には、ジョゼフ・ニーダムの『中国の科学と文明』で「ノーモン (gnomon)」の語があてられた。
? 土圭は、同書で「ノーモン影尺 (gnomon shadow template)」と表記されている。
? 土圭と表を合わせて「圭表(けいひょう)」と呼ばれることがある。
? 影は『周礼』で日景(ひかげ)と書かれ、『周髀算経』では?(ひかげ)と記述されることが見える。
〔『周髀算経』の内容は、あらためて確認する予定〕
The End of Takechan
○ 日本の古い記録にある「時計」についても、ある程度『広辞苑』でたどることができます。
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圭は「土+土」で、土を盛ることを示す。土地を授けるとき、その土地の土を三角の形に盛り、その上にたって神に領有を告げた。https://sakura-paris.org/dict/%E5%AD%A6%E7%A0%94%E6%BC%A2%E5%92%8C%E5%A4%A7%E5%AD%97%E5%85%B8/prefix/%E5%9C%AD
その形をかたちどったのが圭という玉器で、土地領有のしるしとなり、転じて、諸侯や貴族の手に持つ礼器となった。その形はまた、日影をはかる土圭(ト゛ケイ)(日時計の柱)の形ともなった。
日影をはかる土圭(ト゛ケイ)(日時計の柱)の形…
日時計【ひどけい】
十(多くを一本に集める)…
計【けい】 《解字》 会意。「言+十(多くを一本に集める)」で、多くの物事や数を一本に集めて考えること。 《単語家族》 稽(ケイ)(集め考える)・系(ケイ)(一本につなぐ)・継(ケイ)(一本につなぐ)などと同系。
質問、「なぜ八尺の長さを表とするのですか」。
答え、これは勾股法[こうこほう]を用いて計算しなくてはならない。南北を結ぶ線上の中心が定まっていないため、太陽の南中によって中心を測定する必要がある。
北極は永遠に変わらない位置にある。北方の地形は尖って斜めになっているため、昼は長く夜は短い。
骨里幹国では夜間、羊の肩甲骨を煮て柔らかくなる頃には、もう日の出になってしまう。鉄勒は、もっと北に位置する。極北の地は、ほとんど人がいない。
伝聞によると、そこには二千里にわたる松林があり、伐採が禁止されているそうだ。その外側は龍や蛇だらけで、行くことはできない。
女真族発祥の地には鴨緑江が流れている。話によると、天下には三つの大河があるが、黄河、長江、そして鴨緑江がそれだ。
もし浚儀や潁川を地の中心とするなら、今の襄陽、漢陽、淮西などの一帯は中心に近いということになる」。 (万人傑)
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二十四節気とは?†
季節が変化するのは、地球が自転軸を約23.4°傾けたまま公転することが原因です。
地球の運動と自転軸の向き
逆に言えば、地球が公転軌道上のどの位置にいるかによって、季節がわかることになります。
冬至・夏至・春分・秋分はその代表的な例ですが、より細分化した二十四個の目印のことを二十四節気あるいは二十四気といいます。
二十四節気はその瞬間を指すこともあれば、そこから始まる期間を指すこともあります。
二十四節気 地球の自転軸の向きと太陽の位置関係
二十四節気は奇数番目と偶数番目の2つのグループに分けることができます。
冬至・夏至・春分・秋分を含む偶数番目のグループは中気あるいは中といいます。暦面上では雨水は正月中のように、○月中と表記されます。
立春・立夏・立秋・立冬を含む奇数番目のグループは節気あるいは節といいます。暦面上では立春は正月節のように、○月節と表記されます。
二十四節気は、2016年にユネスコの無形文化遺産に登録されています (UNESCO [外部サイト])。
2022年2月4日(立春)に行われた北京冬季五輪開会式では、カウントダウンに二十四節気を用いていましたね。
暑さ・寒さと二十四節気†
立春・立夏・立秋・立冬をまとめて四立といいます。これらはそれぞれ季節の始まりを表わします。
こよみの上では春といえば立春、この日を境に小寒や大寒の寒中見舞いから余寒見舞いへ変わります。
こよみの上では秋といえば立秋、この日を境に小暑や大暑の暑中見舞いから残暑見舞いへ変わります。
立春は小寒・大寒の直後、立秋は小暑・大暑の直後であり、寒さ・暑さの峠を越えたとはいえ、まだまだ寒い日・暑い日が続くのは当然です。この点、そもそも現代とは季節のとらえ方が異なるといえるでしょう。
冬至・夏至・春分・秋分をまとめて二至二分といいます。
暑さ寒さも彼岸までといいますが、彼岸の中日=春分の日・秋分の日となっています。
立春は冬至と春分の中間、立夏は春分と夏至の中間、立秋は夏至と秋分の中間、立冬は秋分と冬至の中間にあたります。
気温の変動は場所によっても時代によっても*1違いがあります。
二十四節気は古代の中国北方で成立した概念であり、必ずしも現代の日本の気候にあった表現になっているとは限りません。
西安では暑中・寒中にはっきりした気温のピークが見られます *2。
月別平均気温
こよみの上での二十四節気†
二十四節気は季節変化を表す指標=太陽暦の要素です。
太陽暦では毎年ほぼ同じ日付になります。詳しく見れば毎年6時間ほどの変動はありますが、うるう年の挿入によりキャンセルされます。
節を含む日を1日とする節月という考え方もあります。
イランでは春分を基準に、フランス共和暦では秋分を基準に1年を定めます。
太陰暦や太陰太陽暦で用いると、二十四節気の日付は毎年大きく変わります。
日本や中国で使われていた太陰太陽暦では、日付が一方的にずれていかないよう、二十四節気を基準にうるう月を入れて調整していました。
二十四節気を使うと年の途中でもずれを修正することができます。このようなうるう月の置き方を歳中置閏といい、逆に言えばそのために二十四節気が考案されたわけです。
二十四節気の基点は冬至であり、古来より冬至を観測することで暦を正していました。
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暦はもともと、中国から朝鮮半島を経由して日本に伝わったものなので、現代でも中国やアジアの一部地域では旧正月を祝う風習があります。
春分との違い
二十四節気では、春夏秋冬がそれぞれ6つの節気で構成されています。
春は、立春・雨水(うすい)・啓蟄(けいちつ)・春分・清明(せいめい)・穀雨(こくう)の順で進んでいきます。立春は1番目、春分は4番目で、春分は春の中間です。2月上旬の立春に比べると、3月下旬の春分はぐっと暖かくなります。
また、春分の日は国民の祝日です。春分の日を迎える頃は、昼の長さと夜の長さがほとんど同じになります。暖かい日が増え、多くの植物が芽吹き始める時期なので、春分の日は「自然の素晴らしさを讃え、生物を慈しむ日」となっています。
なお、二十四節気の日付は、国立天文台が地球の運行や太陽の動きを観測して導き出した結果に基づいて決定し、前年に発表されます。
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冬至
地球を中心に見ると、こういう風になっています。夏至は太陽黄径90度、春分が0度。秋分が180度。 冬至が270度です。
夏至には太陽の南中高度が最大になり、冬至には最小になります。春分、秋分では その中間になり季節との相関関係から、夏至と冬至が最初に発見され、続いて春分、秋分が考案された と考えられています。 そして、その後、4立(立春、立夏、立秋、立冬)。 更に細分化して24節気に 至ったと考えられます。 二十四節気は、古代中国で考案され、漢字文化圏で使われてきました。
メソポタミア文明とエジプト文明
これらは、天文現象であるため、非漢字文化圏でも、春分 秋分 夏至 冬至は、季節の区切りとして認識されてきました。
古代メソポタミアでは、占星術として発達し、1年を12分割しました。
ケルト文明では、立春 立夏 立秋 立冬を加えて、1年を8分割しました。
季節は農耕だけでなく、狩猟採集に於いても、動物の繁殖、移動も季節に関係しています。
世界ではじめて太陽太陰暦を創始したのは、メソポタミア文明です。これとほぼ同時期にエジプト文明は、ナイルの氾濫の周期と、シリウスや星座の観測から1年が365日からなることを発見し4年に一度うるう日をおいた太陽暦を創始しました。太陽の年周運動から黄道の概念を生み出し、天空を10度ごとに36に分け、星座を割り当て、星座を利用して,紀元前2400年からは、星座が昇ってくる時間を正確に知り、1日を24時間としました。メソポタミア文明とは交易があったことも知られています。古代ローマの太陽暦もこの エジプト暦 を取り入れたもので、現行の太陽暦の原型となりました。
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