縄文時代早期に太陽暦と太陰暦が開発された、それは10000年前頃と思う。
縄文時代早期より農耕が開始されていた、しかし耕作は始められていたものの、栽培暦が無いため大した収穫は得られなかった。そこに太陽暦が開発されたことにより、各種生業からの収穫は巨大集団を維持できるものとなった。
海辺では大集団により太陰暦が利用されて採集作業が大規模に効率化され、大貝塚が作られた。
これが大集団での定住が可能になった8000年前頃のことであると思う。
世界有数の古代文明はこれに遅れること2000年後に始まった。
縄文時代に開発された暦の知識がその間に伝えられて利用が開始され、文明が各地で始まった。
しかしそれは伝達された時期により、暦の技術レベルが違うため、各地の文明毎にそれぞれ異なるレベルで始まることになった。
エジプトは太陽暦が最も早く伝わったものの、冬至と夏至の二分レベルのものだったため、シリウスを利用して栽培暦を作るものだった、太陰暦はなく、太陽暦の春分と秋分の知識をもっていなかった。
シュメール文明では、少し進化した暦が伝わり、半年二分の春分が基点となる暦のレベルだった、ここでは春分をカペラにより判定していた。また半年 6朔望の太陰暦の知識も伝わっていたので、これも利用され、60進法などが開発されていた。
ケルトなどの場合は冬至と夏至が分る時期のものだったようで、夏至を知っている程度のものだった。
各地の文明では、太陽を直接観測することが出来なかったようで、太陽暦作成の基本技術を知らなかったためか、その後何時まで経っても太陽暦を進化させることが出来なかった。縄文時代のみが縄文時代後期には太陽暦を二十四節気の暦、七十二候の暦まで進化させることが出来た。
縄文時代に暦に関する数字 数 を記録していた土器
図はお借りしました