神奈川県横須賀市夏島貝塚出土の縄文時代早期前半の撚糸文系土器。
夏島式と呼ばれる。
釣りの始まりを示す撚糸で、尖底土器に縄文が付けられている
夏島貝塚は最古の貝塚と云われているので、
縄文時代早期はここから始まったものでは無いか。縄文時代早期の模様は、撚糸文系土器,沈線文系土器,押型文系土器など、時代順になっている。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
神奈川県横須賀市夏島貝塚出土の縄文時代早期前半の撚糸文系土器。
夏島式と呼ばれる。
重要文化財、夏島貝塚は1950年に発掘された現存する数少ない早期貝塚の一つ。
日本で二例目の放射性炭素年代測定が行われ、約9500年前に遡る夏島式土器期の年代測定値は、縄文時代の古さをめぐる論争を引き起こした。
本資料は底が尖った「尖底土器」で、60%程度残った破片から復元された。口縁部の径が28.7cm、復元された器体の高さは32.2cmをはかる。
底部の一部を土中に埋めて固定し、煮炊きに使われたと考えら
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「尖底土器」の解説
尖底土器
せんていどき
底部のとがった土器の総称。平底土器に対する。
縄文時代早期の
撚糸文系土器,
沈線文系土器,
押型文系土器
などに特徴的であり,さらに北海道や九州などでは前期前半までみられた。
尖底にも丸底に近いものや乳房状,砲弾状のとがったものなどがある。ヨーロッパの中石器時代をはじめ,ユーラシア大陸北部,中国,エジプトなどの新石器時代にもつくられた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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最古の土器は青森県外ヶ浜町大平山元Ⅰ遺跡から出土しています、
この土器は模様がない無文土器(むもんどき)で、底は平底です。
しかし、それに後続する土器は底が尖った尖底土器(せんていどき)となっています。
そして、今から約1万年前、縄目の模様の土器が登場します。その土器は平底ですが、
その後は尖底や丸底の土器が続き、ようやく約6千年前から平底の土器が一般的になり、その後はずっと平底土器の時代が続きます。底は必ずしも進化論的に尖底→丸底→平底とはなってはいないわけです。
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しかし現在では、尖底土器出現に先立って草創期前半に平底土器が存在していたことが明らかになりました。
尖底土器の形態に関しては煮炊きに便利なようにという工夫から成立したとする解釈もあります。
南関東の早期の遺跡で、尖底土器が石塊を集めた炉に突き刺した状況で出土した実例もあります。
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(4)土器出土量の年代的推移
図 5のグラフは土器出現から縄文時代早期初頭にかけての土器出土量の年代的推移を示している。年代と土器出土量の両方のデータが記載された報告例は残念ながら乏しく、しかも発掘面積や破片の大きさ、定住性の差違などからくるバイアスもあるので正確な比較にならないが、基本的な傾向は把握できる。なお、各遺跡の年代はキャリブレーション曲線 との交点値を採用した。
晩氷期に相当する1期から3b期の間は、土器出土量は総じて低い水準で推移 してお り、持続的かつ急激な発展の跡が見られない。 2期の隆起線文土器段階には、南九州などで比較的多数の土器を出土する遺跡が現れ、 1期の貧弱さに比べれば保有量 ・使用量が明らかに増加する。
しかし、土器出土量が飛躍的な増加を示すのは縄文時代早期初頭のことであり、明らかに完新世に移行して以後の変化である。 1期から3b期までの初期土器群の用途や文化的な意味を縄文早期初頭以降のそれと同一視することは、土器の使用頻度 ・保有量という面から見ると妥当とは言えない。
1期の土器にも次期以後と同様にコゲ ・ススが付着する例が多く、煮炊き ・煮沸 ・煎合などに用いたことが分かる。しかし、出土個体数は各遺跡とも 1-数個体程度にとどまり、使用頻度はきわめて低い。
日常的な調理とか大量の加工処理の用途は考えにくい状況であり、より限定的な用途や使用季節が想定される。サケ ・マスの捕獲と大量の石槍製造とともに 1個体の土器が使用された東京都前田耕地遺跡の状況などは、そうしたやや特殊な用途を示唆するものと言えよう。
2期になると遺跡数と土器出土量が共に増加 し、土器使用の一定の普及ぶ りが窺える。この傾向は大隈諸島を含む南九州で特に顕著である。種子島の鬼ヶ野遺跡における隆帯文土器の出土量は、破片数にして 14,000点にも上る(西之表市教育委員会 2004)。
2期の年代はベー リング/アレレ- ド期に対比される温暖期にほぼ該当してお り、南九州で堅果樹が増加 したことが土器使用増大の直接的な理由になったらしい。土器と共に石皿 ・磨石が普及し
ている点からみても、堅果類のアク抜きや調理の用途が第一に考えられる。
ただし、その後の土器の出土量の推移を見るかぎり、この動きが縄文文化の形成発展を一気に加速させたとまでは評価できない。土器の保有量はその後 3a・3b期を通じて低い水準のまま推移 しており、むしろ減少傾向すら窺える。
また、3期では土器の薄手軽量化が顕著となり、器厚 5m 前後の薄手の土器が特徴的に見られるが、これは土器焼成時または使用時の燃料節約のための工夫と思われ、土器の製作 ・使用を制限するような要因の存在を暗示する。新 ドリアス期に対応する再寒冷化によって気象条件や植生、生業 ・居住形態が変化し、それが土器文化の発展を鈍化させる何らかの作用を及ぼしたことも予想される。
土器出土量の飛躍的な増加が認められるのは縄文時代早期初頭のことであり、完新世の持続的な温暖気候の下で土器文化の完全な定着と飛躍的な発展がはじめて実現する。
関東から南九州に至る広い範囲で数万点もの大量の土器を出土する遺跡が出現するが、これは定住的集落の増加や貝塚の出現などとも連動してお り、土器の用途が幅広くかつ不可欠の文化的要素になったことを明示している。貝殻沈線文系土器が出現する早期中葉には、それまで消極的であった北海道でも土器使用が一気に開化する。たとえば函館市中野 B遺跡の貝殻沈線文系土器の出土量は 18万点以上にも上る膨大なものである(北海道埋蔵文化財センター1995)。
このような土器文化の飛躍的発展が、集中的な堅果類利用や、海進に伴う水産資源開発の本格化を軸とした、生業全体の構造的変化に起因していたことは間違いない。その限りでは縄文文化の形成 ・確立に土器が不可欠の役割を果たした事実は否定しがたいが、そこにいたる4000年以上の長い過程の実態にも目を向けなければ、土器出現の真の意味は見えてこない。