打製石斧は縄文中期、中部高地で爆発的に作られて行く。と言われている。
石斧の製作地と使用地が異なることが分るほど、それほど多量に使われていた石器である、これは農耕以外無い。
農耕がそのように発展していたのなら、それまでの農耕開発の長い期間の努力があった筈である。
その経緯を明確に証明する遺物の存在は、植物と言う痕跡が残りにくいものであることから、難しいかも知れない。
しかし進化した結果があるとすれば、それはその前史があることは疑えない。
それまでの長い期間、農耕は主な生業とはならないとしても、細々ながら継続して来ていた筈である。
それがベースとなり中期には、栽培技術や雑穀作物の品種が向上して気候的に良くなることもあり発展したのでは無いか
それが見えるのは最後の到達した結果となる、打製石斧の増加では無いか。
それが打製石斧、その他にも農耕具と見られるものの存在である。それと同時に、四季のある日本列島では、太陽暦の存在は欠かせない、それは金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設により証明された。現代の太陽暦と変らない正確な暦であることから、農耕と同時に長い期間掛けて開発されてきたものである。
ヘビは中期、中部高地から関東にかけて分布した勝坂文化に繰り返し現れるデザインである。という。その時期のみ現れていたようだ。これは打製石斧から推測できる農耕に関係するものでは無いか。
現代では忌み嫌われる動物だが、縄文人はこの生き物に特別な感情を持っていたようである。
蛇についてこのように書かれていた。
何故中部高地でのみ蛇模様が流行ったのか
農耕により、農地での害獣による食害、住居でのネズミなどによる被害など被害を受ける機会が増加していたと思う。そうしたとき
蛇の役割は、農耕に害となるネズミやモグラを退治する役割では無いのか
具体的に効果が見えていた蛇の役割 益虫であるのだろう。
まだ当時猫が居ないので、畑や住居内のネズミ被害などを防いでくれるものという、有用動物として意識されていたものと考える。土器の取っ手などに付けられていた蛇は、具象的で、見えない精霊を表すというような表現では無い、そのような目の前に見えていた効用から付けられていたのでは無いのか。
それからもう一つのイノシシの把手
イノシシは多産が見えていたようだから、矢張多産、子供が沢山生まれることを、その延長上の思いを持って把手に造形していたのでは無いか。
土偶で表現するものは、精霊など見えないものの存在を表現していたようだが、それと違い具象的表現で、その後ろに精霊の存在を考えていたようには思えない。それが具体的に分るもの、見せているもの、その効用を表現していたものと考える。
顔面把手は、では何を表していたのか
これは想像上の精霊などの背後の見えないものを表していたと思う。
具象的表現と抽象的表現の両方がある様だ。
具象的表現でもその目や表情などは見えているものを写していたものとは思えない。
いずれにしても、精霊のような見えない何かを表現していたのだろうと思う。
食物を腐らないように守ってくれるもの、調理機能を発揮してくれるものなどのような機能について、そのように守ってくれるものとして、精霊をそこに招いたのでは無いだろうか。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
ヘビは中期、中部高地から関東にかけて分布した勝坂文化に繰り返し現れるデザインである。現代では忌み嫌われる動物だが、縄文人はこの生き物に特別な感情を持っていたようである。
ヘビの中でもマムシであろうとされるのは、頭が三角形になっているものが多いからである。
ヘビの脱皮に再生を見たのか、それともマムシは多産なのでそこに安産の祈りを込めたのか、或いはマムシの頭を男性器にみたてて精力の維持と一族の繁栄を願ったのか、いずれにしても子孫繁栄と、猛毒による災いから逃れたいとする願望もあったに違いない。
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<勝坂遺跡> 出典:ウィキペディア
勝坂遺跡(かつさかいせき)は、
神奈川県相模原市南区磯部で発見された縄文時代中期前半頃(約5000年前)の大集落跡で関東地方の標式遺跡である。
この遺跡からは多くの土器や打製石斧が発掘されている。
そのなかでも、装飾的な文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)などの特徴を持つ土器は、後に勝坂式土器と命名されている。
また、打製石斧も土を掘るものと考えられ、縄文時代において農耕の可能性を示すものとして注目を浴びた。
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打製石斧は縄文中期に多量に生産される植物性食料獲得のための生産用具である。さらに本格的な石皿が、定着した。このような違いは、先住の人々が狩猟重視の生活であったのに対して、後続の人々は植物性食料に重きを置いたことを意味する。 土器作りの面でも、その違いが表れた。先住の人々の土器は尖り底の、物の煮たきに用いる深鉢が多かったのに対して、各種の浅鉢が目立つようになる。
同時に尖底土器は姿を消して、すべて平底となり、複雑な器形の土器が発達し、文様も装飾性に富み、縄文中期の土器への萌芽が見られる。そこからも、食料資源の変化を読み取ることができた。
縄文前期後半以降の阿久の人々は焼畑農業を営んでいた。多分、先住の人々の間にもあったであろうが、その比ではなかった。焼き畑農業はその耕地を求めて、出作り村を作る。多分、阿久村から年ごとに家族単位で離れていった人々は、八ヶ岳山麓から諏訪湖盆地にまで開拓していったようだ。 そうした土地で生命を全うした人々を、母なる阿久の土に帰すと同時に、同族集団としての結束を図るために、定められた約束の日に、阿久村の集団墓地に集合して、祖先崇拝の祭祀を行った、その祭祀場が阿久遺跡である。
縄文中期、八ヶ岳西南麓を中心に縄文文化が大発展を遂げた。原村はちょうど、その中央部にあたり、同村内には76の遺跡が確認され、そのうち出土した土器形式などで年代を特定できるものが38遺跡ある。
しかし縄文前期に限定すれば、阿久に大集落が出現していながら、同時代の他の遺跡は僅かしかない。しかも最盛期を迎え中期に纏まって形成される集落が群集する尾根にまで継続される遺跡は、大石遺跡ぐらいだけだった。阿久と大石の集落の居住時期と地理的関係から、阿久の人々は時期を選んで大石に拠点を移していったのかもしれない。
大石遺跡では、縄文前期から中期前半にかけての住居址53が、径約80mの環状集落をなし、1,313という多数の土坑が、遺跡全体に広くびっしりと分布していた。
土器も豊富で、各時代・各型式の特徴を典型的にとらえた秀作が多く、石器を含め遺物も多量に出土している。
栽培されたとおもわれるエゴマの炭化種子も検出された。それらは、十分、縄文中期文化の到来を告げている。 諏訪湖盆地に美しい姿を見せる蓼科山を崇拝し、祖先の霊をまつる風習は、だんだん増大する同族集団を収容するには、祭祀場自体、手狭となり限界に達した。日常接する事が無い中で、同族としての意識が薄らいだ者も増えてきた。宗教観も変わった。永続する定住集落は周辺環境を汚染し尽し資源を枯渇させた。焼畑農業による落葉樹林帯の破壊は、照葉樹林帯と違い復元するに歳月がかかる。そして阿久村の役割は終わり、時代は中期となる。
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加曽利貝塚の出土品には釣針・モリなどの骨角器、磨製石斧・打製石斧・石棒・独鈷石石鏃などの石器や、貝製腕輪・耳栓・ペンダントなどの装飾品もあった。
千葉市内には良好な石材が取れる山も川原もない。貝塚から出土する石器や石製装飾品は、中部地方・関東山地・茨城県・房総半島南部・伊豆七島・神津島などの原石を使用していることが分析研究で判明している。“干し貝”製品と石材との交易である。
旧石器時代から石器の用途に応じて多種類の石材を使い分けていた。石斧の製作地として知られる神奈川県の尾崎遺跡は西丹沢の山間部にあったが、現在は丹沢湖の湖底に沈んでいる。
酒匂川上流の河内川(こうちがわ)の河床から良質の凝灰岩や結晶片岩を採集して磨製石斧や打製石斧を製作していた。これらの石材の分布範囲は、河内川沿岸部の集落だけでなく、1つの土器形式圏から隣接する土器形式圏にまで及んでいた。
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打製石斧は木の伐採・加工用というより、鍬用の役割が多く特に撥形(ばちがた)などは「土掘り具」であった。竪穴住居の柱建ての穴、ヤマユリ、コオニユリ、オニユリの球根の畑栽培の農具、ヤマイモ・ジネンジョの根茎類の掘り起こしなどに使われた。
打製石斧は縄文中期、中部高地で爆発的に作られて行く。 旧石器時代以来石器は、黒曜石・チャート・安山岩などの礫を打ち欠いて剥片とし、それを加工して作る「剥片石器」と、礫の形状に余り手を加えず鋭い縁辺を調整加工し刃にするだけの「礫核石器」がある。前者には石鏃・石匙・石錐などがあり、後者は礫の重さを利用して砕いたり、断ち切ったりする斧などに代表される。
遺跡からは定形石器よりも圧倒的に多くの剥片が出土する。それも鋭い縁辺に細かい傷や刃こぼれがあったりする。石器製作途中で生じる残滓・ズリも無駄にされず、獣肉・骨類の切断加工、獣皮の剥離、植物の実の摘み取り用、あるいは矢柄の調整などと用途は多岐であった。このように明確な加工を伴わない石器を「不定形石器」・「使用痕のある剥片」とよぶ。
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いずれにしても打製石斧の量的増加は,根茎類とくにジネンジョの管理栽培を背景としたものと考える研究者が少なくないことがわかる。今村氏が対象とした東日本では中部高地や西南関東を中心に大量の打製石斧が存在するが,西日本では家根氏のいうように桑飼下遺跡と九州中部の阿蘇外輪山の山麓,島原半島でしかみられないので,かなり限られていた可能性が高い。
九州後・晩期における打製石斧の急増もジネンジョの管理栽培の盛行を反映したものなのであろうか。今村氏のいうように堅果類との関係はなさそうだが,穀物との関係までは否定できない。弥生中期以降の東日本の畑作地帯や,中国東北部・朝鮮半島北部の雑穀栽培には打製石斧が耕起具として使われているからである。
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(2)栽培型出現の背景
かくして縄文時代にマメ栽培がはじまった事実と経過が解明されたのであり、しかも渡来ではなく列島の野生種からの展開が予測されたのであるが、そのプロセスについては、第6章で述べられる。中期初頭を画期とするがその要因として、縄文前期末から中期初頭の寒冷化・乾燥化という気候変動と打製石斧の増加による深耕などをあげる。つまり寒冷化により一時的に多くの野生種が減少する反面、人為的に選抜された種子が播種・育成されたボトルネック効果と説き、深耕と大型化との関わりについては南アジア例を取り上げ、それらが種子の大型化と一連の関連があったとみる。
打製石斧の増加についてはすでに前期後半諸磯式期に確認できる。
さらにイノシシ飼養や土偶の五体化なども含め中央墓坑型環状集落の形成、遺跡の増加などの現象がみられるこの時期を、評者は中期に向かう大きな胎動期とみている。しかし栽培型マメ類はまだこの時期には確認されておらず、期待のみ残る。
なお中山氏が大型化原因の一つとして考えた、「異なる地域のダイズ属が交配することによってさまざまな特徴をもった雑種が生じ、その中から有用な形態が選抜され固定化されていった」ことは大変重要かと思われる。というのも前期終末から中期初頭は人の交流が実に活発化した時代である。土器から見ても、日本海から太平洋岸、東北・中部・関西方面といった交流が促進される時期なのだ。八丈島倉輪遺跡からは河西学氏が胎土分析により甲府盆地方面との関りを指摘した土器をはじめ各地域の土器や北陸・中部とも繋がる石製品も出土しているのだ。中期中葉に繋がる不思議な動物造形が土器を飾り始める傾向も、この時期広範囲に伝わっている。
「異なる地域での交配」が栽培化ダイズを生み出したとするならば、ダイナミックな人の動きがあったこの時代の特性を無視するわけにはいかない。評者はこの前期末中期初頭を中期文化高揚への画期と考えている。
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以上のように土器組成の変化と石器組成の変化には興味深いものがあって,
浅鉢が多くて屈曲型深鉢が多いところは,打製石斧や調理具も多い。
また浅鉢が多くて砲弾型が多い菜畑9-12層は雑穀栽培をおこなっていて,狩猟具突出型Bの石器組成であった。
そして浅鉢が少なく砲弾型が多く狩猟具突出型Bの板付は水稲栽培中心の生業パターンを示す。
以上のことから石器組成と土器組成は関連すると思われる。したがって広田のように浅鉢が少なく砲弾型が多いところは打製石斧にさほどの変化が認められなくても,根茎類・堅果類の採集以外に雑穀栽培をおこなっていた可能性も出てくるのである。
雑穀・穀物栽培が始まっている菜畑9-12層を目安にその前後の土器の器種構成,石器組成,狩猟対象となった動物相を検討してみると,
突帯文土器以前は網羅的な食糧獲得をおこなっていて,雑穀・穀物栽培が加わっていても縄文的枠組みを変更するような根本的な変革は認められないが,
山ノ寺式になると大きく変化することが再確認できた。
したがって縄文後・晩期における植物採集・栽培は想定できるものの,あくまでもメジャーフードの一つにそれらが加わっただけで,まだメジャーフードとして特定化される段階には至ってなかったということだけはいえそうである(15)。