金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

土偶の機能、働き

屋根の鬼瓦と土偶
絵巻の百鬼夜行の勘違い 穏のものが見えるものとされていた
方相氏の面
節分の鬼

屋根の棟にある鬼瓦は、鬼ではなく、鬼を寄せ付けないために、あの形相で睨みを利かせ家屋に悪霊を寄せ付けないようにしている。
節分の鬼も、元はといえば、この鬼瓦と同じで、見えない穏のものを追い払うために、豆をまく人々の側に先頭に立って、見えない悪霊を追い払うためにあの形相で先導していたものであったという。

   方相氏の面


しかし今では、鬼のあの姿は、豆をぶつける対象とされてしまい、見えないはずの鬼そのものの姿とされてしまっているのだという。
土偶に関しても、季候が良く食料などが豊産の時期は、土偶は作られていないようだ
寒冷化するなどで、育ちが悪くなった時、目に見えない悪霊が来て悪さをしていると考えて、悪霊を追い払うために土偶の形で、悪霊を脅して追い払うために使われたものではなかろうか
土偶の姿に、その土偶が対象とする豊産を願うものに似せた特徴を表して、その対象物に付いた悪霊を追い払うため、その働きを強めるために、その働きを強めてくれると考えた象徴となるものを付加していたのではないだろうか。地母神の強い働きを示すためには、母性の象徴的な乳房とか大きなお腹、母胎などを悪霊に見せつけることでその威力により悪霊を追い払い寄せ付けないものと考えていたのだろう。

 

元の土偶はこちら向きに立っているのではなく、対象物に付こうとする悪霊に向かって立ち、その土偶の異形の姿を見せつけることで、悪霊を追い払うものとして働いてくれると考えていたのだろう。
ケルトにもそのようなものが存在する

      母性の産む力の誇示

 

最初は方相氏と同じ立ち位置だったのではないだろうか。
つまり集まった人々皆が手に手に土偶を持って、悪霊退散を叫んだのだろう。
土偶の数が多いのはそういうことがあったからではないだろうか。
また土偶を壊してバラバラに各所に配置したのは、破片を置くことでその力を各地に及ぼす結界としていたものだろう。

後から現れた巨大な三女神像とそれまでの土偶とは機能が異なってきたのではないのか
悪霊退散のため人々の側に立つ土偶から、姿が見える悪霊に変わってきたのだろうか
或いは、悪霊を追い払うのに司祭為る有力者が出てきて、悪霊退散を取り仕切る人が出たのだろうか。
壊されていないことや、墓から見付かっていたことからもそれまでの土偶とは違う立ち位置になっていたのだろうか


小さいものだったそれまでとは格段に違い、作りも丁寧になり、芸術的にも成ってきている、大きなものとなるという違いとなって現れていた。

写真はお借りしました

引用------

 「企救国」の中心と想定されるのが城野遺跡。この集落跡では九州最大級の方形周溝墓(東西16・5メートル、南北23メートル)が発見された。規模だけなら伊都国の平原王墓(福岡県糸島市)を上回り、「王墓に相当する」と西谷さんは言う。律令(りつりょう)時代の豊前国企救郡につながる集落だという。
 ただ、方形周溝墓の中央にあった2基の石棺に埋葬されたのは、いずれも子ども。内部は貴重な水銀朱が多量に塗られ、高貴な人物の墓と推定されるが、王とは考えづらい。
 朱塗り部分に不思議な線刻画が施されていた。これを、東京大の設楽博己教授(日本考古学)は古代中国の呪術師「方相氏(ほうそうし)」の絵と解釈する。四つ目の仮面をかぶり、戈(ほこ)と盾を手に邪気を追い払う存在。方相氏だとすれば、紫川流域と中国とのつながりが浮かぶ。「後漢の衰退を受けて、従来の奴国までの基本ルートではないところにも(中国との)門戸が開けたのではないか」と設楽教授は指摘する。
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節分の鬼にまつわる大きな勘違い
鬼を追い払う節分の行事ですが、こちらはどんな由来があるのでしょうか?

「はい。節分の行事は、平安時代に大陸から伝来した『追儺(ついな)』という儀式に由来します。節分は立春、立夏、立秋、立冬それぞれの前日のことで、正しくは年に4回あるのですが、旧暦の年の初めにあたる立春前の節分がよく知られています。

昔はこうした暦の節目、時間の隙間から悪いものが入り込んでくると考えられていたんです。

追儺は旧暦の大晦日に行われ、四つ目の面をつけた方相氏(ほうそうし)という役割の人が、大声を発し、盾や矛を持って目に見えない鬼を撃退するという儀式でした。

 

ですがいつのまにか、異形の姿の方相氏自身が鬼と混同されるようになってしまったです。これが、現在の節分の豆まきの原型です」

 

吉田神社の追儺に登場する方相氏。たしかに顔だけ見れば…… 出典:吉田神社追儺『都年中行事画帖』(画:中島荘陽 所蔵:国際日本文化研究センター)
吉田神社の追儺に登場する方相氏。たしかに顔だけ見れば……
出典:吉田神社追儺『都年中行事画帖』(画:中島荘陽 所蔵:国際日本文化研究センター)

えっ、じゃあ節分で豆をぶつけられる鬼は、元をたどると鬼を追い出す側の人だったんですか。勘違いも甚だしいじゃないですか。
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