太陽暦を作ったのは、縄文人が世界史上で一番早い
縄文人の遺跡からは、太陽暦として、二至から二至二分に発展
そして四立 八節の暦へと経過したものと、この発展経過が縄文遺跡でたどれる
最終的には金生遺跡で立春日を観測してズレの無い暦が作成されていたはず。
立春の日の出の定点観測と、年間の日数をカウントして閏を観測により補正できていた。
太陽暦を基に、太陰暦との関係も把握していたものと考える。
縄文人以外に、世界各地の古代文明では、直接の太陽観測を示す遺跡が無く、二十四節気の暦が分るような正確な暦は最近になるまで作られていない。縄文人の太陽暦は4500年前には出来ていたものと考える。
図はお借りしました
縄文人は文字を持たなかったようで、それを証明するものは今までの所、遺跡以外にはない。弥生時代に入っても日本列島では、漢字の導入も暦の導入も何れも大陸に比較して大幅に遅れていた。その理由がなんなのかよく分らないが、古墳時代になりその末期6世紀頃には漢字も暦も導入されるようになったようだ。この頃までに支配層の変化 母系から父系へとともに、社会の変化があったものなだろうか。
<暦の進化発展が見える縄文時代の遺跡>
縄文時代の早期、前期、中期、後期、晩期の順に並べてみました。
元データは主に文献からで、内容別の層別と、若干の補足をしています。
1. 二至が有る遺跡 夏至と冬至を知っていたもの 二至の暦が作れる
冬至と夏至の位置では太陽は、前後十日ほど位置を変えないそうなので、その方向は簡 単に決められると思います。
【極楽寺遺跡】 富山県上市町の 早期~前期の攻玉遺跡。
冬至には大日山(立山連峰の1峰)から日が昇る。
【三内丸山遺跡】 青森県青森市の 前期・中期の集落跡。国史跡。
大型木柱遺構の方向と夏至の日の出・冬至の日の入線がほぼ一致。
【砂押遺跡】 群馬県安中市の 中期の環状集落。
環状集落の中央広場からみると、冬至に大桁山に日が沈む。
【野村遺跡】 群馬県安中市の 中期の環状列石。
この場所から見ると冬至に妙義山に日が沈む。
【不動堂遺跡】 富山県朝日町の 中期の集落。国史跡。
冬至には朝日岳と前朝日の間(鞍部)から日が昇る。
【大柴遺跡】 山梨県須玉町の 中期~後期の環状列石。
夏至には金峰山から日が昇る。
【石倉貝塚】 北海道函館市の 後期の環状列石。
中央と南東の立石を結ぶ線の延長線上から冬至に日の出。
また、中央と南西の配石群を結ぶ線の延長線上に冬至の日没。
水野正好 1996(石倉貝塚の報道のコメント):
「縄文人が冬至などを意識していたと立証するには材料が乏しい。この遺跡が偶然一致し ただけで、全国的なものではない。」とある。
【小牧野遺跡】 青森県青森市の 後期の環状列石。国史跡。
現在馬頭観音となっている配石と中央とを結ぶ線が夏至の日の出線と一致。
【大湯環状列石】 秋田県鹿角市の 後期の環状列石。国特別史跡。
万座と野中堂の日時計状特殊組石を結ぶ線が夏至の日没線。
【伊勢堂岱遺跡】 秋田県鷹巣町の 後期の環状列石。
環状列石C:外環のまとまりが30度づつ区切られており、その区切りが、中心-直列石 のラインを中心に磁北ライン・夏至の日の出ラインなどと重なる。
【チカモリ遺跡】 石川県金沢市の 後期の遺跡。国史跡。
ウッドサークルの入口?が、冬至の日の出の方向を向いている。
【寺野東遺跡】 栃木県小山市の 後期の遺跡。国史跡。
環状盛土の中の円形盛土と中央の石敷台状遺構とを結ぶ線上に冬至の日の入を望む。
【田端遺跡】 東京都町田市の 後期~晩期の環状積石遺構。都史跡。
冬至には、丹沢の主峰蛭が岳に日が沈む。
【アチヤ平遺跡】 新潟県朝日村の 縄文時代後期―晩期
環状列石を伴う拠点集落。 夏至の日、朝日岳から日が昇る。
2. 二至二分暦がある遺跡 春分、秋分の時期は、日毎に太陽の出る位置は動きが速いので二分の日数91日を知っていたのでしょう。ここまで来るとこれを知る遺跡数は激減する。
文献に有るデータなので、二分がどの程度明確に遺跡にその痕跡があるのかは実地確認はしていないので不明です。
【水口遺跡】 山梨県都留市の 中期の環状列石。
★ 春分の日没が地蔵岳に落ちる。
【牛石遺跡】 山梨県都留市の 中期の環状列石。
★ 春分の日没が三つ峠山に落ちる。
【樺山遺跡】 岩手県北上市の 後期の配石墓群。国史跡
★ 春分・秋分の日、前塚見山に日が沈む。
【天神原遺跡】 群馬県安中市の 晩期の環状列石。
★ 中央から3本の立石を結ぶ線の延長線に妙義山(三峰)を望み、春分・秋分には妙義 山に日が沈む。 また、冬至には大桁山に日が沈む。
3. 「四立」八節の暦が有る遺跡 冬至から45日の立春を観測していた
【金生遺跡】 山梨県北杜市の 後期から晩期の配石遺構の遺跡と壁立ち建物
冬至の日の出と甲斐駒ヶ岳の峰付近への日没、「立春」に茅が岳の峰から日の出
配石や石棒はそれらを指示する
この遺跡の観測からは、二十四節気の暦、七十二候の暦、太陰暦までも作成できる内容が考えられる。
それぞれの遺跡の環状列石などは天文観測のためかどうか分りません、お祭りのためというものならその時期の暦のレベルを示すものでは無いでしょう。
金生遺跡のレベルの観測をしていた遺跡は今のところ一つだけです。
縄文時代の標準時天文台だとすれば、暦を作るための天文台は列島内で一つだけで充分となる。
<春分と秋分は一年の日数を数えて初めて分るものであること。>
365日 冬至から夏至まで183日、夏至から冬至まで182日
二分とは 183日/2、182日/2 91日 春分と秋分
立春は「四立」の一つで 91日/2 45日
金生遺跡の立地は冬至からの45日目の日の出を観測する位置に合わせていた。
ここまで分ると以下のことが分ることに成る。
先ず月の満ち欠けの周期との関係 30日 古代人は最初に分ったという。
これは太陽暦の 91日/3 30日 一月の日数に合う
365日/30日 月の満ち欠けは 一年に 12回
30日/2 15日 上下弦の半月
これが太陰暦の、基本 縄文人もこれは知っていたはずでしょう。
朔旦立春の機会で確認していたはずと考える。
45日は 30+15日とも 45日/3 15日
太陽暦と太陰暦の関係が把握できる。内陸縄文人には太陽暦が重要、海の人には太陰暦との関係が重要だった。
30日/3 10日 一月の内の上中下旬になる
30日を1ヶ月とする一年か、15日を一月とする 半年一年暦、二倍年暦とするか
15日/2 7日 一週間の日数
15日/3 5日 これは七十二候の暦となる
二至二分の暦が確定できたことからは、このような日数が割り出され、太陽暦、太陰暦の何れの暦でも基本が全て揃うことが分る。どのような区分の暦を作るかは生活の必要に応じて適当に構成出来る。縄文人には太陽暦も太陰暦も並列して使用できたものと考える。
太陰太陽暦として組み合わせて使うことまでの必要性はあったのか、権力による暦支配が無しではどうだったのだろうか。
引用ーーーーーー
エジプト、メソポタミアとも農業耕作のため、暦がつくられました。
月日の移り変わりを知るには月の満ち欠けが、判りやすくこれで一ヶ月を決めましたが、太陽との運行とはずれがあり、農耕にあうよう3年に一度閏月(当時は連大月という)を作り大体あわせました。
太陰太陽暦(今は俗に太陰暦という)といいます。
真の太陰暦は閏月を置かず、そんままで大幅な狂いが生じますが、それを使った国もあるとか。 農業の必要がない国なので。
エジプトも始はメソポタミア同様太陰太陽暦に近い暦法でした。
ナイル川の洪水を予測するため、太陽の代わりにシリウス(ギリシャ語でソティス)星を使うので、太陰ソティス暦といいます。
王朝が出来た頃からこれを廃し、太陽暦に近いものを採用したといいます。
理由は明確ではありませんが、王の治世や在位年月を記録するようになり、より正確なものを求めたとも考えられます。
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むらさんの世界史質問相談室
世界史の過去問演習の質問などを書いていきます。
早稲田大学商学部論述問題まとめ
太陽暦と太陰暦と太陰太陽暦について
2018-12-21 09:38:46
テーマ:ブログ
上智の過去門。
オリエントのバビロニアの暦を選べさせる問題。
選択肢に太陰暦と太陰太陽暦と二つあり違いがわからない。
●回答
まずそれぞれの暦の定義を確認します。(山川用語集より引用)
・太陽暦
⇒太陽の運行を基準とした暦。もっとも明るい恒星のシリウスがあらわれるとナイルの
氾濫が始まるという規則性から考案され、1年を365日とした。
・太陰暦
⇒月の満ち欠けの周期を基準とする暦。
現在のイスラーム暦は純粋な太陰暦。
しかし、太陰暦は季節とのズレが生じるために、太陰暦を最初に採用した
シュメール人は純粋な太陰暦ではなく、季節のずれを調整するために
閏月を置く暦をおいた。
・太陰太陽暦
⇒太陰暦を基本に月の満ち欠けと太陽の運行を組み合わせ閏月を挿入して季節との
ずれを解消した暦。
ちなみに、太陽太陰暦ともいう。
つまり、シューメール人から始まる古代オリエントの暦は基本的には太陰暦なのだが、
より正確には太陰太陽暦が正解ということだと思います。
少々細かいですが、そこが上智大学らしいです。
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2017.09.06 2017.09.08
【シュメール③】太陽系はおろか銀河系の周期まで知っていたとは
ニネヴェ定数:195兆9552億
195兆9552億・・・
この数字をご存知ですか?
1849年に発見されたシュメールの粘土板の中に書かれていた数字で、発見されたニネヴェ遺跡から『ニネヴェ定数』と呼ばれています。
その数字が何を表すのか科学者達も分からず、長年放置されてきたそうですが、1979年にモーリス・シャトランがある説を唱えました。
このシュメールの数字は「太陽系を含む宇宙の周期である」と。
太陽系の周期と一致
『195兆9552億』を時間の単位『秒』だとして『年』に換算すると、620万9578となります。
195兆9552億(秒) ÷ 86400秒(一日の秒数) = 22億6800万(日)
22億6800万(日) ÷ 365.2422日(一年) = 620万9578(年)
この620万年というのが、太陽系の全ての惑星・衛星が一巡する周期と一致するのです。
だとすると、、シュメール人は太陽系が一巡する周期を知っていた、ということになります。
天の川銀河の周期も一致
このニネヴァ定数、『あらゆる天体の反復する周期が全て同一の出発点に回帰する超大循環周期』とも言われています。
194兆9552秒を36回繰り返すと、2億2350万年となり、天の川銀河が一巡する周期と一致する ー
地球の歳差運動2万5870年を8640回繰り返すと、やはり2億2350万年と一致する ー
8640(回)というのは、前述の86400(秒)の1/10 であり、太陽系が銀河を周回している速度は時速864,000km ー
これらは、本当にただの偶然の一致なのでしょうか。。
万物の定理を知っていた
地球の自転、公転、歳差運動、太陽系の周期、銀河系の周期、宇宙全体の流れ、、これらは全て関連している ー
すなわち、宇宙にはやはり統一原理がある、万物の定理がある ー
そして、シュメール人やシュメールを作った?とされる古代文明人はその万物の定理を知っていた ー
これらに直面すると、もはやそのように感じざるを得ません。
現代科学では『超ひも理論』がその候補と言われていますが、物理学上の『万物の定理』はまだ証明されていません。