なぜ家庭は憩いの港になりにくいのか。
それは役割と役割の関係が主軸になった人間関係だからである。
恋愛は人柄と人柄がふれあう人間関係である。
生計をともにしていないし、相手の人生に責任がない。
相手が入院したからといって入院費を工面する義務はない。
街角の花屋で二千円くらいの花を買って、ニッコリ病室に現れたら、相手は最高によろこんでくれる。
結婚してしまうとそういうあそびの要素が少なくなり、万事シリアスになる。
花を買う金があれば、ナースステーションへの土産代にした方がよい、というくらいの判断をする。
つまり結婚という人間関係はお互いに責任がある。
そこは会社と同じである。
会社では上司がきらいだからといって辞表を出すのは稀である。
きらいでも、自分の役割をお互いにはたしていれば共存できる。
それが職場の特徴である。
結婚も同じである。
きらっていてもお互いが役割をはたしている限り、人間関係は続くものである。
何の責任もはたさず、ゴルフをしてテレビを見てビールを飲み、ときどき発する音声といえば「メシまだか?」「風呂まだか?」ていどの役割のこなし方では、多分配偶者がやがて去る時代である。
それゆえ結婚しても恋愛時代のように楽しい思いができると思ったら大間違いである。
次のような最低6つの責任をはたすことを期待されている。
課長が新入社員に期待するのと同じで、期待された新入社員はいつも緊張状態にある。
家庭にも社長や課長がいる。
したがって「言っていいこと、わるいこと」を頭のなかで識別した上で表現しないと家庭内トラブルが起こる。
さて結婚すると最低6つの責任や義務をいつも頭にいれておくことである。
(1)決定に関する責任。
大きな決断(例-転職、引越し)をするときは、配偶者に相談するか、諒承をとってからにすること。
「おい、俺は今日辞めたぞ!」と藪から棒に配偶者に伝えるのは、役割意識が乏しい証拠である。
人生の共同経営者(配偶者)に事前に告げておかないというのは、きわめて自己中心的である。
(2)家事に関する責任。
家事は家族全員が分担して当然である。
夫だけ何もしないことが許容される時代は去った。
妻も有職の場合が多い。
夫だけ特別扱いされてよい時代ではない。
夫も皿洗いや洗濯をする時代である。
それゆえ、妻に皿洗いをさせながら自分だけのんびりテレビを見るというのは役割意識稀薄である。
家庭を持つということは、したくないことでもせねばならぬということである。
ということは家庭は憩いの港ではない、ということである。
(3)育児に関する責任。
夫はおしめを替える、ミルクを飲ませるなど育児にも関与せざるを得ない時代が来つつある。
育児は母親のするものである、というビリーフはこれからは通用しなくなると思う。
いくら疲れて帰宅しても、残業のつもりでこなすわけである。
それゆえ決して自宅は憩いの港ではない。
(4)経済生活の責任。
家計への責任がある。
好きなゴルフの回数を減らして子どもの学費を捻出するくらいの責任感がないと家庭はまとまらない。
給料は全部自分が管理し、配偶者に昇給やボーナスのことを何も教えないのは、配偶者の役割を無視していることになる。
配偶者は家計をやりくりする責任をはたすためには昇給やボーナスに関する情報を知る権限がある。
家庭は憩いの港とは言い切れないものが絶えずある。
(5)社交の責任。
世間との付き合いがある。
休日でも冠婚葬祭のつきあいのために、家でゆっくりできないことがある。
恋愛なら二人だけの世界に閉じこもっておれるが、結婚はそこがちがう。
人間関係が拡大する。
つまり義理のつきあいがふえる。
これは気が張る。
要するにきままにはしにくいのが家庭生活である。
(6)レクリエーションに関する責任。
家族団欒の責任もある。
家族をまとめていくためには、朝食は子どもと一緒にとるとか、子どもと入浴するとか、家族旅行をするとか、配偶者と二人だけで遊びに出掛けるなど、家庭生活のなかに「行事」なり「しきたり」などを持ち込む必要がある。
共同作業、共通の行動様式、慣例などは見かけはマンネリのように見えるが、これが人間の心をひとつにするのには有用なのである。
そうなってくると家庭生活のリーダーは運動会や学芸会を企画運営する教師と同じ心がまえが必要である。
春夏秋冬をのんびり過ごすわけにはいかない。
以上を要約すると、家庭が憩いの港とは言い切れない理由は、役割をさぼるわけにはいかないからである。
役割を放棄してのんびりできる場所が家庭であるというビリーフがあるから、そうでない現実を体験すると、人生に失敗したとか、こんなはずじゃなかったと落胆するのである。
家庭生活も会社勤めも大同小異であるとははじめから思っていれば、落胆しないですむ。