ある大手弱電メーカーの広報部で働くC子さんは、昨年大学を出て今年で2年目というOLだ。
このところすっかり元気がなくなり食も進まない娘を見るに見かねた母親に連れられて診療室を訪れた。
話によると、地方銀行の支店長を長く勤める昔気質の実直な両親のもとで何不自由なく育ち、一流の女子大を成績優秀で卒業している。
ご両親の薫陶よろしく、心優しい彼女はすべての人に対して優しく、だれにも嫌われるようなことのないようにと心を配ってきた。
入社して一年間は、このような彼女を迎える職場の目も温かく、とても居心地がよかったという。
しかしこの四月から事態は一変してしまった。
「男女雇用機会均等法」の影響もあって、彼女の下にも数人の大卒の後輩が配属されてきたことから事ははじまる。
いつも人の気をそらさぬよう、人から嫌われぬようにふるまってきた彼女にとって、悪気はないにしろ数を頼んではっきり好き嫌いを表現する新人たちの態度は、彼女の心を翻弄し、気配りの域を超えてすっかり困惑させてしまったというわけである。
ストレスマネジメントの立場からいうと、生きていくうえでの価値観として、人間の感情を害してはならないとか、人からものを頼まれたらなるべくノーと言うべきではないという信念を培ってきた人にとって、人に反対されたり人を怒らせたりしたときの自責・自罰の思いはときに自分自身を抑うつ気分に陥れる可能性が高い。
このような気配りは、本来必ずしも悪いわけではなく、むしろコミュニケーションに役立ってもいるのである。
問題はこれが度を超してしまったときなのである。
日本人の場合、場の論理を優先させる文化であるがゆえに、ときに過剰に自己を殺して埋没させてしまうことがよく起こり、結果として、心身の障りをひきおこす。
フランスとの比較文化的な立場から、フランソワーズ・モレシャンさんの語るところによると、フランス人を説得しようと思ったら、反対のことを提案するのがコツという。
人の考えと自分の考えとの違いを明確にすることが己の存在を確立するために必要なことと思っている彼らも、ときには行き過ぎて何でも反対する習性をもってしまったという。
このことはちょうどC子さんの行き過ぎとまったく正反対の行き過ぎに相当する。
C子さんはいま、やっとカウンセリングを通して、自動的に他人の意向に添うように生きてきた思考や行動のパターンに気付くようになった。
そしてたとえば他人との応対の中では、まずは頭の中でフランス風に何でも彼でも反対の意見を組み立ててみることを試み、しかる後に賛否いずれかの結論を選ぶといったトレーニングを通して社会的な自己成長をはかっている最中である。