認められたいと願うのは自分の利益優先ゆえ、生き方として高級ではないと思う人がいる。
地の塩としての生き方の方が高級だというわけである。
このような考え方には検討の余地がある。
この人生は自分のために用意されたものではない。
したがって世人は私に奉仕するために存在しているのではない。
それゆえ、自分のことは自分でするというのが、この人生を生きるための常識である。
人は私を認めるために生きているのではない。
人に認めてほしければ、自分で人に認めてもらうよう何かをすることである。
自力で自分を幸福にする。
そのことにひけめや恥ずかしさや自責の念を持つ必要はない。
自分がまず幸福にならないと、人を幸福にするのはむつかしいからである。
というのは自分が幸福でないと人の幸福が手放しでよろこべないからである。
羨望や嫉妬を持ちがちである。
第二に自分が不幸だと自分が幸福になることばかり考えて、人を幸福にする余裕は出にくいからである。
第三に自分が不幸ということは慢性のフラストレーション(欲求不満)があるということで、慢性のフラストレーションは自・他に対する怒りを生みやすい(これを欲求不満攻撃説という)。
その結果、自・他に対してきつく当たりがちである。
たとえば、自己嫌悪、他者憎悪のように。
たしかに、人に認められるだけが幸福感の源泉ではない。
人に認められなくても、居場所や所属感を味わえる集団を持っているとか(例―家庭、職場)、人に認められなくても、自己実現しつつあるとか(例―好きな絵画に没頭している)、人に認められなくても生活が安定しているというのも幸福感の源泉である。
それゆえ「人に認められねばならぬ」というわけではないが、やはり「人に認められて幸福感が味わえるのならそれにこしたことはない」というのが人生の実態に則した考えである。
自分の幸福をまず考える自分を見下さない方がよい根拠は、どんな人間にもナーシシズムがあるということである。
自分が神ではなく人間であることを認めるなら、ナーシシズム(自己中心性、自己愛)をも認めた方がよい。
私はそういう人間です、と認めた方が無理がなくてよい。
これを認めた上で、我利我利亡者になる人とならない人の相異を考えることである。
自分の幸福を第一義に考えているにもかかわらず、人に嫌悪の情を与えないばかりか、人を感動させる人がいる。
一言で言えば、認められ方が幼児的かおとなかの差である。
子どものような認められ方をするから人の顰蹙を買うのである。
それは相手の欲求や願望(相手の立場)を考慮しないで、自分の認められたい欲求の充足に専念するからである。
集団討議のとき自分一人で話しまくる。
予約せずいきなり訪問して、頼み事をする。
贔屓してもらおうとする。
つまりギブ・アンド・テイクでなく、テイク・アンド・テイクの認められ方をする。
これが幼児的な認められ方である。
おとなはちがう。
相手の立場を考えて動く。
周りの人間の反応も考えて動く。
人の欲求も満たしながら自分の欲求充足を考える。
つまり、それなりに心理的投資をするわけである。
たとえば、人の幸福に寄与する研究で賞をもらう、生徒の成長に全力投球したので教え子に毎年招かれるといった具合である。
ということは、美的な認められ方というのは人に寄与する言動によって認められる方法である。
これなら大手をふって認めてもらえる。
人に寄与するとは外界に好意の念を持っているということである。
外界に好意の念を持っているということは、自分の住む心の世界(認知の世界)が広いということである。
たとえて言えば、自宅の庭は自分の一部、自分の子どもは自分の一部、自分の会社は自分の一部といった心境である。
こういう場合は、認められたからといって何か自分はずるいことをしたとか、自分だけ得をしたとか、自分は要領がよい人間だという思いは少ない。
自分が貢献したことを特に秘する必要を感じない。
わが子に対して、「俺はお前のオヤジだ!」と認めさせることをためらわない心理である。