斜めから降り注ぐ人付き合い

ふれあいの人付き合いについて綴っていこうかと思います。

他愛の前の自愛こそ幸福の条件

2020-12-15 17:55:07 | 人間関係

認められたいと願うのは自分の利益優先ゆえ、生き方として高級ではないと思う人がいる。

地の塩としての生き方の方が高級だというわけである。

このような考え方には検討の余地がある。

この人生は自分のために用意されたものではない。

したがって世人は私に奉仕するために存在しているのではない。

それゆえ、自分のことは自分でするというのが、この人生を生きるための常識である。

人は私を認めるために生きているのではない。

人に認めてほしければ、自分で人に認めてもらうよう何かをすることである。

自力で自分を幸福にする。

そのことにひけめや恥ずかしさや自責の念を持つ必要はない。

自分がまず幸福にならないと、人を幸福にするのはむつかしいからである。

というのは自分が幸福でないと人の幸福が手放しでよろこべないからである。

羨望や嫉妬を持ちがちである。

第二に自分が不幸だと自分が幸福になることばかり考えて、人を幸福にする余裕は出にくいからである。

第三に自分が不幸ということは慢性のフラストレーション(欲求不満)があるということで、慢性のフラストレーションは自・他に対する怒りを生みやすい(これを欲求不満攻撃説という)。

その結果、自・他に対してきつく当たりがちである。

たとえば、自己嫌悪、他者憎悪のように。

たしかに、人に認められるだけが幸福感の源泉ではない。

人に認められなくても、居場所や所属感を味わえる集団を持っているとか(例―家庭、職場)、人に認められなくても、自己実現しつつあるとか(例―好きな絵画に没頭している)、人に認められなくても生活が安定しているというのも幸福感の源泉である。

それゆえ「人に認められねばならぬ」というわけではないが、やはり「人に認められて幸福感が味わえるのならそれにこしたことはない」というのが人生の実態に則した考えである。

自分の幸福をまず考える自分を見下さない方がよい根拠は、どんな人間にもナーシシズムがあるということである。

自分が神ではなく人間であることを認めるなら、ナーシシズム(自己中心性、自己愛)をも認めた方がよい。

私はそういう人間です、と認めた方が無理がなくてよい。

これを認めた上で、我利我利亡者になる人とならない人の相異を考えることである。

自分の幸福を第一義に考えているにもかかわらず、人に嫌悪の情を与えないばかりか、人を感動させる人がいる。

一言で言えば、認められ方が幼児的かおとなかの差である。

子どものような認められ方をするから人の顰蹙を買うのである。

それは相手の欲求や願望(相手の立場)を考慮しないで、自分の認められたい欲求の充足に専念するからである。

集団討議のとき自分一人で話しまくる。

予約せずいきなり訪問して、頼み事をする。

贔屓してもらおうとする。

つまりギブ・アンド・テイクでなく、テイク・アンド・テイクの認められ方をする。

これが幼児的な認められ方である。

おとなはちがう。

相手の立場を考えて動く。

周りの人間の反応も考えて動く。

人の欲求も満たしながら自分の欲求充足を考える。

つまり、それなりに心理的投資をするわけである。

たとえば、人の幸福に寄与する研究で賞をもらう、生徒の成長に全力投球したので教え子に毎年招かれるといった具合である。

ということは、美的な認められ方というのは人に寄与する言動によって認められる方法である。

これなら大手をふって認めてもらえる。

人に寄与するとは外界に好意の念を持っているということである。

外界に好意の念を持っているということは、自分の住む心の世界(認知の世界)が広いということである。

たとえて言えば、自宅の庭は自分の一部、自分の子どもは自分の一部、自分の会社は自分の一部といった心境である。

こういう場合は、認められたからといって何か自分はずるいことをしたとか、自分だけ得をしたとか、自分は要領がよい人間だという思いは少ない。

自分が貢献したことを特に秘する必要を感じない。

わが子に対して、「俺はお前のオヤジだ!」と認めさせることをためらわない心理である。


悟った顔はしない

2020-12-06 21:34:29 | コミュニケーション

嫌がらせではなくても、事のなりゆき上、はしごをおろされたかたちになり、自分だけ浮きあがるということがある。

前述したように私はかつてのひぼし体験者である。

ある教授は大学紛争時に学生課長を兼務した関係上、教授会からも理事会からも孤立し、辞めざるを得ない状況が幾年も続いた。

勝海舟と西郷隆盛に相当する人物がいればよかったのだが、誰も教授に勝や西郷の役割を期待していなかった。

会議を開いても評論や解説や推論ばかりで「私が折衝してみよう」「私を団交に出させて下さい」と行動を起こす人は少ない。

口だけ達者というのは私にいわせると責任回避的である。

ひぼしにされる人間のなかには良心的すぎて、責を一身に引き受けざるを得なくなった人がいる。

それゆえ、自分はだめ人間であると思い込まない方がよい。

逆に、自分をひぼしにした人たちこそだめ人間であると心密かに思った方がよい。

つまり、おとなしければよいというものではない。

内に烈々たる闘志を秘めておくのが健康と長生きのもとにもなる。

若いうちから妙に悟った顔をしない方がよい。

この内に秘めた攻撃精神を起爆剤にして、捲土重来を期すのがよい。

以上、自分がひぼしにあったからといって、すべては自分に責任があると自分をせめない方がよいと説いた。

ところがどう考えても、たしかに自分の落ち度である、自分が馬鹿だった、ひぼしにされて当然である、と判断せざるを得ないこともある。

それでもなおかつ、自分はだめ人間である、自分の人生はこれで終わりだと考えない方がよいとアドバイスしたい。

理由は、自分はだめだったと百万遍自分をせめたところで、心境に変化が生じるわけではない。

心境に変化の起こらないことをし続けるのは意味がない。

ではどうすればよいのか。

「今後、同じような失敗を再び繰り返さないためには、自分はどうしたらよいか」を具体的に考えることである。

たとえば私は今後再びひぼしを体験しないために「人が立派な論評や解釈や推論をしても、ほいほいと動かない。

その人がどう動くかを観察するにとどめる」と決めた。

ずっとむかし助手の頃にも上司にきらわれて閉口したことがあるが「今後は人前で上司の説に反論を加えない」と決めた。

ひぼしの連続、つまり「たらいまわし」にされている人に私はこれまでの人生で何回も出会ったが、自分がひぼしにされていると気付いていない人が意外に多い。

人間にはナルシシズムがあるので気付きにくいのである。

人が私になれなれしく声をかけないのは私に一目おいているからである、といった調子に。

それゆえ、自分はひぼしにされていると気付いている人は、このひぼし体験をプラスに換算できる人である。


人付き合いが怖いを克服する

2020-12-02 00:14:13 | 人付き合い

自然体の自分で他人と接しないと結果、自分の首をしめることになり、人付き合いが怖くなる。

人付き合いが怖いルーツ

人付き合いが怖くなるルーツは幼少期の養育が大きな要因である。

幼児期には、親や学校の先生に「こうしなさい」「こうあるべき」だと躾をされる。

ここが問題である。

躾とは言い換えるとマインドコントロールである。

たとえば、他人と接する時は、堂々とハキハキしゃべるべきである。などである。

しかし、それが自然体の自分にそぐわないと人付き合いが怖くなる。

人というのは、自然体、言わば個性を持って生まれてくる。

その個性を捨て去ることはできないようにできている。

人間の神秘である。

人には内向性が強い人と外向性が強い人とその中間で別れる。

内向性の人は他人とのある程度の距離感が必要なのである。

だからといって内向性の人を否定することはない。

内向性の人の思慮深さや深く狭い人付き合いは魅力的である。

内向性の人は、社会に出てからなど、最初は人付き合いが怖いと感じられることがある。

人付き合いが怖いを克服する

内向性の強い人は誤ったマインドコントロールを解くことで人付き合いが怖いを克服することができる。

たとえば、人前では堂々とハキハキしゃべらなければいけないという価値観を持っている人は、びくびくおどおどしながらしゃべってみることである。

すると、自然体の自分で他人と接することになるので人付き合いが怖くなくなる。

つまり、ここで大切なポイントなのは、人前でびくびく、おどおどしゃべる勇気を持つことである。

つまり価値観を塗り替える修羅場を経験することなのである。

その価値観を塗り替えるコツを述べてみたいと思う。

この人との人付き合いは自分にとってどんな意味があるか

相手を理解しようという原則に立てば、相手をなおそうとする原則に立つよりは、イライラは少なくて済む。

しかし、その人付き合いに不快が全くないわけではない。

何といっても人が自分の思うとおりに動いてくれるのが最高に快適であることにまちがいはない。

そこで少しでも不快指数を下げるためにはこの苦境は自分にとってどんな意味があるかを考えることである。

仏教でも教えるように怨憎会苦といって、いやな人間と顔をつきあわせていきなければならないというのは人生の苦悩のひとつである。

この人付き合いの苦しみから足を洗うには、このいやな人との共存は(例―いやな配偶者、いやな上司、いやな隣人)自分にとってどういうプラスの面を持っているかを考え出すのである。

たとえばいばる上司に付き合う部下は「彼はいばるべきではない」と内心思っているから不快なのである。

そこで「この上司は私のお世辞の練習台である。ここで私が適度のお世辞がいえるおとなになれれば、これからの人生がだいぶ楽になる」とビリーフを工夫すれば不快がぐっと減少する。

あるいは、わがままな姑とつきあう嫁は「どうすれば少しでも快適な人生が送れるか、そのコツを考案しよう。

将来自分の娘が私と同じ境遇になったときの参考書づくりの取材のつもりでつきあえばよい」と自分に言いきかせるわけである。

姑との人付き合いが怖いという感情を解消することができる。

これはこじつけではなく、自分が真に納得できる意味づけでないと、欺瞞的な人生になってしまう。

意味を考案する作業は芸術作品をつくるのと似ている。

与えられた素材をどう使うかを考えるのも楽しい。

要するにここで強調したいのは、くせのある上司や配偶者やルームメイトと一緒になってしまったので人生の番狂わせが起こったのではなく、そういう人との共存は自分にとって無意味である、人生の無駄であると受け取ったから不幸な人生になってしまったのである。

相手の人柄そのものが私たちを不幸にしているのでなく、人付き合いにおいて自分の意味づけの仕方いかんによって幸せにも不幸にもなるといいたかったのである。

人付き合いが怖いを克服するための自己開示の勇気

私の欲するとおり人は動くべきである、というビリーフはひとりよがりゆえ、よくない考えであると思う。

しかし、実際問題として相手の言動で迷惑をこうむることがある。

そういうときでも、相手を理解するにとどめ介入してはならないのか。否。

個人主義というのは人の迷惑にならない限りにおいての自由を尊重する思想である。

迷惑をこうむっている側はそのことを表明する自由を行使すればよい。

それは「あなたは横柄な態度をすべきでない」というセリフではなく「私はあなたが横柄に見えます。それゆえ私はあなたがきらいです」と自分のことを語ればよいのである。

自由を手に入れるということは人付き合いが怖いを克服することにつながる。

迷惑を受けるとはこちらの権利が侵されている場合のことである。

「ランニングシャツでのご来店はご遠慮下さい」との貼り紙は、あなたのランニング姿は私の客を奪います、私の営業権が邪魔されるわけです、との意味がこめられている。

決して「ランニングシャツを着るべきではない」と相手の個人的好みにケチをつけているわけではない。

自分の事情を開示しているだけである。

自己開示をしないでいて、心の中で人の言動を批判し、イライラしたり自分を卑下してもあまり建設的ではない。

こちらの事情を知ってもらう方が人付き合いにおいてもずっと建設的である。

建設的とはこの場合、問題(フラストレーション)解決に少しでも貢献するという意味である。

自己開示は自己主張とちがって「~してほしい」と依頼・説得するわけではないから自己主張よりはやさしい。

自己開示は私はこう感じていますと人付き合いで内界をオープンにするだけで、あとは相手にまかせるのである。

ところが相手が鈍感なため相変わらずということがある(例―音を立ててスープやコーヒーを飲む。同席者は快適ではない)。

どうしてもこれに耐えられないのなら、同席を回避するしか手はない。

「音を立てて飲むべきではない」と心のなかでとがめて不快になるよりはその方がよい。

とにかく自分はどうすれば幸福になれるかを考えることである。

人をどう変えさせたら人付き合いが怖いを克服し、自分は幸福になれるかではない。

人をこちらに合わせさせようとするからイライラするのである。

心理的距離を離してみる

例えば、電車に乗って、座席に座っている自分の両側に人が座っている状態を想像したい。

これは、物理的距離は近いが、心理的距離は遠い。

しかし、厳しくて偉い上司が離れてはいるが同じ車両に座っているとする。

これは、心理的距離は近くなっている状態である。

心の糸がピンと張った状態である。

この心理的距離を離す必要がある。

それには、他人との関係性の改善が必要になる。

それにはどうしたらいいかというと、失敗を繰り返し行い受け入れることである。

それには、自分自身が抑圧しているものは何かということと、その失敗をさらけ出す勇気が必要である。

そうすることで、他人との関係が客観視できるようになり、心理的距離を調節できるようになる。

怖さが解消された後はどんな感じになるのか

人付き合いが怖いを克服をした後は、まず生きるエネルギーが湧いてきて、青空はどこまでも青く、空を飛ぶ鳥は皆、楽しそうに見えます。

他人は他人で客観視できるようになり、距離をとれるようになります。

つまり、他人があまり気にならなくなります。

また人付き合いの怖さを克服して得る最大の褒美があります。

それは人の痛みがわかるようになるということです。

そして人に優しくなれます。