私たち人間は、そんなに強い存在ではない。
子どもを見ているとよくわかることだが、子どもが外でいじめられたり、困ったことがあったりした日は、妙に幼児がえりをして甘えたりする。
指をしゃぶってみたり、ベタベタと抱きついてきたり、幼児言葉を使ったり、母親のスカートの端をしっかりつかんで離さなかったり、母親の寝床にもぐりこんできたりするものだ。
私たち大人とて、社会の荒波の中で雄々しく難事に立ち向かったとしても、ときには弱気になって、とても一人では心細くて生きていけない気持ちになったりする。
それをまぎらわしたり、支えにしたりするために、私たちは様々な対象に依存して態勢の立て直しをはかる。
具体的には、タバコに火をつけて一服するとか、緊張をほぐし気分転換や睡眠導入のためと称して酒を飲む、あるいはイライラ、クシャクシャするのでつい甘い物を口に入れる、ドリンク剤やビタミン剤を机の上やカバンの中に用意して時折口に運び元気を出そうとする。
中には、何もすることのない所在のなさに、わざわざ休日をつぶして出勤してまで仕事をする。
たしかに休むわけにはいかないほどの仕事をかかえているのは事実であっても、仕事がないよりはあったほうが心休まる人も少なくない。
「わかっちゃいるけどやめられない」は昭和36年頃の流行語で、植木等歌うところの「スーダラ節」の一節である。
これほどまでに流行ったのは、「わかっちゃいるけどやめられない」という行動心理に、私たちの日常生活の真実が投影されているからであろう。
この行動心理パターンを、専門的には「依存」という。
「依存」のもっとも代表的な対象としては薬物があげられるが、そのほか、ごく日常的なものとしてアルコールとタバコがある。
そもそも「依存」の定義として、1968年のWHO(世界保健機構)は、「薬物がもっている精神的、肉体的効果を経験したくてたまらず、薬物がないと非常に不快となり、これを避けるために周期的、強迫的に薬物を使用してしまう状態」と述べている。
この精神的、身体的効果を言い換えると、多幸感を味わったり、苦痛を軽減したり、疲労感を緩和するといった報酬効果ということができる。
しかしこれらの報酬効果は、行為を反復するうちに慣れを生じ、効果も薄らいでいくために、同一効果レベルを維持するためには摂取量を増やさねばならないという運命が待ちうけているのである。
このような依存が成立してしまうと、薬物の摂取を中止するとき、特有の禁断症状があらわれるため、なかなか依存の関係を断ち切るのが困難になっていく。
ところで、現代社会は、一方で人間に現実への適応を過剰なまでに強いていると同時に、他方で現実のいきいきした接触を奪っていくという、相反する二面性をもっている。
傍目には、職場などで完全に適応して仕事に打ち込んでいるように見えながら、内面はどこかやるかたない不安や焦燥感を抱いている人が増えている。
このような人たちは、仕事や勤めのない週末や休日になると、内心の空虚さや生活の実存感の喪失に打ちひしがれて心安まらない。
西ドイツの精神科医でアウシュヴィッツの体験を書いた『夜と霧』の作者V・フランクルは、これを「日曜神経症」とよんだ。
実存的不安を、仕事の中に自分を没入させることによってまぎらわせようとする意味で、仕事への依存ということができる。
同じような依存は、テレビについてもいえる。
会社から、学校から帰るなり、服を着換える前にもうテレビのスイッチを入れる。
食事の間もつけっ放し、放映される内容はいながらにして世界各地からの珍しい話や出来事が次々に伝えられる。
そしてこれらの情報による画面と頭の中だけの現実感は増大し、何となくその気になったつもりにはなっても、現実との真の出合いの体験は、これに反してどんどん失われてゆく。
ある調査によると、家族とのコミュニケーション減少の原因として、残業の多さ、仕事による疲れについで「テレビを見るため」が三番目を占めるという。
テレビへの依存は、家族との団らんを犠牲にしてまで傾斜を強めているとすれば、事態はかなり深刻である。
そのほかにも、何気ない日常生活の中で欠かすことができないと自動的に思ってしまっているもの、たとえば時計や電話との間の依存についても見直してみることは、本来の自分の生き様を見ていく上で、不可欠である。
単に便利であるというマジックに目を見えなくされてしまわないために、ときにこれらを断ってみて依存の度合を確認する点検が必要になる。
タバコ、酒、ドリンク剤、薬、時計、テレビ、電話、タクシー、甘い物、仕事といった様々なものから離れた一日をすごしてみて、それがなくても自分がしっかりと存在するのだという体験をしてみることをおすすめしたい。
一体あなた自身のご主人は誰なのか、何なのかを見るために。