中学生 勉強が得意になる

しばらくは歴史に強くなるをテーマにやります

「古寺巡礼」は奈良を通して西方を想う?

2023-07-13 21:34:44 | 歴史が得意になる

 法隆寺金堂壁画 (お借りしました)

和辻哲郎のベストセラー「古寺巡礼」は、東京の哲学青年が奈良を訪れて寺院や博物館の仏教美術を鑑賞して回る名作です。その情熱的で分析的な記述は多くの仏教美術ファンを長く魅了してきました。

ただ「古寺巡礼」は奈良の鑑賞ガイドではないのです。和辻先生は奈良の美術を通して、中国やインド、さらにギリシアの美術を想っています。「古寺巡礼」の書き出しは、

  昨夜出発の前のわずかな時間に、Z君の所でアジャンター壁画の模写を見せてもらった。

です。簡単に書かれていますが、大正7年(1918)5月に関西に向けて出発する、その前の月に東京大学美術史の滝精一博士のアジャンター調査隊が帰国して、その報告として派遣の出資者であるZ君(善一郎)の父(原三渓)へ壁画の写しを持参したと思われます。それをたまたま見たのです。

和辻先生の奥さんはZ君の妹と懇意で、そうしたつながりもあったでしょう。この壁画の写しは関東大震災で失われてしまいます。

そして、和辻先生は奈良へ向かいながら、その壁画の印象からインドの芸術、人々を想うのです。もちろんこの旅の最後は法隆寺です。法隆寺の壁画(1949年焼亡)はまだ見ることが出来ました。

この壁画を見ながら、和辻先生はアジャンター壁画と比べて、似たところも認めていますが、統一感にすぐれるのは中国のおかげであったり、インドの衰退を考えて、ギリシアの影響を見ようとしています。

今考えると妄想のようにも思われますが、日本の当時の仏教美術は西方(アジア~)の影響を見ることが出来るのではないか、という話です。


 


壬申の乱は額田王のせい?

2023-07-13 10:36:18 | 歴史が得意になる

 飛鳥浄御原宮址 (借用)

中大兄皇子は天智天皇となり、大津宮を都にします。

天皇が蒲生野へ量に遊んだ時、妃 額田王が詠んだ歌(万葉集)

茜さす紫のゆき標野ゆき 野守はみずや君が袖ふる

大海人皇子の返答歌

むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに吾恋ひめやも

そして天智天皇の

香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくなるらし いにしへも 然なれこそ 現身も 妻をあらそふらしき

つまり額田王をめぐって、兄弟で争ったことが壬申の乱の遠因とする説があります。(ただし人に隠すようなことであれば、歌に残さないでしょう。)

天智天皇の子、大友皇子は「魁岸奇偉 風範弘深 眼中に精耀あり、顧盼煒燁(こへんいよう)」(よくわからないが、際立った容貌らしい)といい、美貌の優秀な人物であったようだ。

そして、大海人皇子も皇族、廷臣の間で人望が大きかった。どちらも優れた人物であった。

大友皇子は朝廷の軍勢の精鋭をもちいて、大海人皇子は在野の軍勢で立ち向かうという不利な態勢であった。大友軍は内部の不和などから大海人軍の勝利となる。

大海人皇子は天武天皇として即位する。

大化の改新は壬申の乱を経ることにより成就した(直木孝次郎)といわれる。

叔父甥による権力抗争によって、天皇の地位が確立していくということだそうですが、せつないことですね。


古代史のむずかしさ

2023-07-13 10:36:18 | 歴史が得意になる

 太宰府市 都府楼址

 

前回、班田収授の法の解釈について、和辻先生の説を書きましたが、家永三郎先生は租・庸・調・雑徭(ぞうよう)・兵役・出挙(すいこ)など莫大な租税があり、労働や兵役が負担が大きく、「公民」「良民」といいながら、奴隷的性質を持っていた。と説いておられます。

兵士となった人のなかには「防人(さきもり)」として九州北部に送られました。食事や武器は自己負担です。

防人の歌「万葉集」

から衣 すそに取りつき 泣く子らを 置きてぞ 来ぬや 母なしにして

この背景には、東アジアにおける国の争乱がありました。日本は深くかかっていました。

660年 百済が唐・新羅の連合軍により滅ぼされ、それを救うために日本から出陣した。

663年 白村江(錦江河口)で大敗する。

このあと西日本各地に山城を築いて防衛した。大宰府(歴史では太を使わない)が置かれて、その周辺には水城(防塁)や大野城が築かれました。

こうした要員に防人の人達は全国から集められて、帰りは自分で帰らなければならなかった(途中で亡くなることもあった)。

どうも和辻先生の説はちょっと楽観的かもしれません。