気の向くままに junne

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その様な人生を追及しています

‘15. Old Music Times R&R 編 Part -1-

2015年02月21日 | 下町放送局・アーカイブス

Little Richard (リチャード・ペニマン)                         

The King Of Rock'n'Roll  

1935年(32年説も有る)12月25日(5日説も有る)。

ジョージア州メイコンで11人兄弟の一人として生まれた。この町で生まれた事が彼の音楽人生と切り離せない関係に有る。メイコンと云えばジェームズ・ブラウンが育った町であり、ジョージア州はオーティス・レディングを生んだ州でもある。アレサ・フランクリンやサム・クック、ルー・ロウズ達と同じ様に、かなり幼い頃から教会で歌っていた事が結果的に、後のゴスペル・ソング・スタイルのルーツになった事と思われる。8歳の時にタレント・スカウト・コンテストで入賞をし、14歳の時には旅回りのメディション・ショー(名前からも解る通り薬などの出張販売で、この当時はそういうものが存在していた)で(客寄せの為に)歌ったり踊ったり、整髪料などを売ったりして一晩に2ドル稼いでいた。

初のレコーディングは1951年でRCAからシングル(ブルースの曲)が発売されたが、話題にもならずに終った。しかし、レコード会社をスペシャルティに変えて1955年12月に放った「Tutti Frutti」「Rip It Up」が一躍脚光を浴び、彼の成功への道を切り開いた。1956年は一般的にはロックン・ロール元年とされているが、彼もその役割を大きく担う様になっていった。

ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツの「Rock Around The Clock」が火蓋を切ると、チャク・ベイリーの「Maybellene」、ボ・ディドレーの「ボ・ディドレー」などが大ヒットし、その後を追ってエルビス・プレスリーが登場し音楽界の話題を沸騰させると、バディ・ホリーやジーン・ヴィンセント達がロックン・ロールの市民権を勝ち取っていった。

そん中に於いて、リトル・リチャドは彼独自のR&Rを確立していく事となる。チャック・ベリーが現在のギターを中心とするバンド・スタイルを進んだのに対し、リトル・リチャドは自ら弾くピアノを中心としながら、明らかにゴスペルの影響を表面に出した、シャウトするニューオリンズ・スタイルを確立していった。「Jenny Jenny」「Good Golly Miss Molly」「Lucille」「Ready Teddy」などの迫力に満ちた、所謂ジャンプ・ナンバーが彼のトレード・マークであった。しかし彼の魅力はそればかりではなく、ややスローなR&B「Send Me Some Lovin'」などは、彼の最高傑作に挙げられるし、他のR&Bなども素晴らしい出来になっている。

1959年に飛行機事故に遭い、九死に一生を得た後「ロックン・ロールは悪魔の音楽だ」と言って空白の時期を迎えたが、1961年には音楽界に戻って来た。後年はウエスト・コーストに移り、ニューオリンズ・サウンドからは遠ざかっていたけれど、その根底には、やはりニューオリンズ・サウンドが残っていた。

ザ・ビートルズを始め、ボブ・ディランやジャニス・ジョプリンなど、多くのミュージシャン達に影響を残した。グラム・ロックはマーク・ボランでもデヴィッド・ボウイが始めたものでは無く、そのはるか以前にリトル・リチャードが始めていたし、C.C.R.もまた、彼を抜きにしては有り得なかった。

自らが豪語する通り、リトル・リチャーは「King Of Rock'n'Roll」なのである。

 

 

Chuck Berry                           

(チャールス・エドワード・ベリー)  

1926年10月18日(諸説あり)  

ミズーリー州セントルイス生まれ。6歳頃から宗教音楽に接する様になったと言われているけれど、何故かその影響が感じられない。これは土地柄や時代背景を考えてみても、その理由・経緯が解らない。 

1952年、チャック・ベリー・コンボを結成。ここからプロとしての活動が始まる。          チェス・レコードから、1955年7月(5月)初期のチャック・ベリーの代表曲となる「Maybellene」/「Wee Wee Hours」でデビューを飾る。以後、出すレコードは立て続けにヒットして、R&R界のスーパー・スターとなって行く。

彼の音楽の特徴は、前述した様に黒人音楽独特の宗教性が感じられない事だ。R&B臭さが薄く、敢えて言うなら初めからR&Rを意識していたかの様な曲作りだ。つまりは当時の時代背景を考慮すると、R&Bを基調とした曲作りを意識せず、新しい音楽を追及していた様に思える。それはバンドの編成スタイルにも表れている。バディ・ホリー同様に殆どの曲でリード・ギター、リズム・ギター、ベースにドラムスと云った、現在では定着している楽器編成からなる曲作りをしているところに見て取れる。当時はまだその様な編成は定着していなかった。そこで彼はR&Rに於けるギターの重要性とたたみ掛ける様なエイト・ビートを一般化させた。

それはファンのみならず後続してくるミュージシャン達に大きな影響を与える事となった。ビートルズ、ストーンズ、キンクス、デイヴ・クラーク・ファイヴ、スウィンギング・ブルージーンズ・・・などなど、勿論、当然アメリカ人アーティストも然り。数え上げたら限がない。特にイギリスの音楽界への影響は大きかった。そう、ブリッティシュ・ロックの生みの親とも言える。少なくても24曲がカバーされている。

チャック・ベリーの曲の特徴、白人にも追随者が多かったのには、その詩にも関係している。彼の書く詩にも曲にも宗教色の無い、白人・黒人共通の生活感が有った。それこそが他の黒人ミュージシャンとの大きな異いだった。後の時代には『ブルー・アイド・ソウル』と呼ばれる白人アーティスト達が登場する。彼等は白人でありながら、見事に黒人の音楽的フィーリングを身に付けた連中だった。チャック・ベリーの偉大なところは、その様な垣根の全てをこの時代に払拭していた事だ。彼の功績は、R&Rを教会色の強いゴスペルや、泥臭いR&Bなどから脱皮し、自分が置かれている時代から出発し、新たな可能性が有る事を(当時としては)強烈なビートに乗せ具現化した事に有る。結果としてそれは或る意味、R&RのPOPS化と云う現象を生み出した。

1955年5月~1975年3月迄の間に(再発売や新テイクを含んでいるが)40枚のシングル・レコードを発売している。そういう中で24曲ものカバー・レコードが出されている事自体、チャック・ベリーの影響力の大きさが実証されていると見るべきだろう。

一般的には黒人R&Rの確立者はリトル・リチャード、チャック・ベリー、そして次に紹介するファッツ・ドミノとされているが、これは彼らがR&R創世紀に有って残した、偉大なる功績と影響力からのもので、この三人が居なかったら、R&BはR&Bのままであったかも知れない。

 

 

Fats Domino (アントイン・ドミノ) (Part‐1‐)      

1926年2月26日、ニューオリンズ生まれ。

ヴァイオリニストの父親の9人兄弟の一人として生まれたが、6男3女の9人の内音楽に興味を示したのは彼だけだった。見方を少しばかり変えてみると、この事は少々妙な話しになる。と云うのもこの家族は、音楽環境が良かったからだ。彼にはハリソン・バレットというギターやバンジョーをデキシーランドのバンドで弾いていた叔父がいて、9人の内彼だけが父とその叔父の影響を受けた。

6歳の時正式にピアノを習い始め、10歳の頃にはすぐ近くの仲間と組んで付近のホンキー・トンク(安酒場)や街角で演奏しては、小銭(投げ銭)を得ていたという。これは、彼の生まれついての音楽の才能を語るエピソードを如実に物語っている。そしてこの才能と音楽への強い興味が、ロックン・ローラー、ファッツ・ドミノの将来を決定付ける事となる。

1956年3月、インペリアルでのファースト・セッションが行われ、ここでデビュー・アルバム「Rock And Rollin'」が吹き込まれ、デビュー曲となる「The Fat Man」が誕生する。デビュー曲がいきなり6位と云う幸先の良いスタートを切ったのだ。 ここからファッツ・ドミノの時代が始まって行く事となる。数字だけで見ても、誰も追い着けないものだった。 

1955~1960年の間に24曲のトップ・テンR&Bヒットを記録。これは、プレス リー22曲、リトル・リチャード11曲、チャック・ベリー10曲で、文字通りナンバー・ワンであり、しかもまだ売れ続けている。22枚のゴールド・ディスク、1976年(当時)レコードの売り上げ枚数は、軽く6,500万枚を超えるだろうと言われていた。          (Part‐2‐へ続く。)                                      

          

                         

 

 

 

 

 

 

                                  

 

                         

 

 



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