「高峰秀子」のエッセイ集『にんげん住所録』を読みました。
「高峰秀子」作品は昨年10月に読んだ『おいしい人間』以来ですね。
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大切な人々とのかけがえのない思い出
「小津先生」と行った御茶の水、「クロサワ」が手の甲に置いた「蚊」、「美智子妃」からの一筆など、極上の思い出を端正な語り口で綴った一冊
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「高峰秀子」が、かけがえのない想い出… 「小津安二郎」と行った「お茶の水」、「黒澤明」が手の甲に置いた「蚊」、「木下恵介」が胸ポケットから取り出した一枚の写真、「佐藤栄作」夫人の「寛子さん」からの電話、そして「美智子妃」より思いがけぬ一筆など、大切な人々とのとっておきの記憶を、端正で歯切れのよい語り口で綴るエッセイ集です。
■あなた食べます
■店仕舞
■もうすぐ春です
■住所録
■人間スフィンクス
■クロさんのこと
■老いの花道
■私だけの弔辞
■私のご贔屓・松竹梅
■たけしの母と秀子の母
■栄作の妻
■五重塔と西部劇
■美智子さまへのファンレター
■呼び名
■身辺あれこれ・年金化粧
■私の死亡記事「往年の大女優ひっそりと」
■あとがき
『私のご贔屓・松竹梅』で、「沢木耕太郎」作品の愛読者で、自分がテレビ局のCMスポンサーなら「スカッと爽やか耕太郎」というキャッチフレーズで登場してもらいたいと思っていたことと、自らの死亡記事を書いた『私の死亡記事「往年の大女優ひっそりと」』が印象的でしたね… 結果的に本作が遺作となってしまったんですから、ご自身の死を意識して書かれたんでしょうね、、、
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女優・高峰秀子さんが三ケ月ほど前に死亡していたことが判明した。
生前「葬式は無用、戒名も不要。人知れずひっそりと逝きたい」と言っていた。
その想いを見事に実践したようだ。
彼女は十八歳の時、盲腸炎の手術を受けて以来、その死までの数十年間、医師、病院の手を煩わすことは全くなく、健康保険証には一字の記載もなかった。
故に死因は不明。
死亡診断書を認めた医師は「病名はわかりません。強いていえば天寿でしょうね」と言った。
昭和五十四年にスクリーンを退いたが、その死に至るまで多くのファンの親切と厚意に支えられ、高峰節といわれた達意の文章で随筆集を重ねてファンに応えた。
「死んでたまるか」という文章も書いたが、相手が天寿では以って瞑すべし、しあわせな晩年であった。
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これが全文です… 実際はひっそりと亡くなることはできなかったようですが、幸せな晩年を過ごされたんでしょうね。
亡くなられたのは残念ですが、柔らかでユーモア溢れている文章は残りますからね… これからも時々、読ませてもらおうと思います。
「高峰秀子」作品は昨年10月に読んだ『おいしい人間』以来ですね。
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大切な人々とのかけがえのない思い出
「小津先生」と行った御茶の水、「クロサワ」が手の甲に置いた「蚊」、「美智子妃」からの一筆など、極上の思い出を端正な語り口で綴った一冊
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「高峰秀子」が、かけがえのない想い出… 「小津安二郎」と行った「お茶の水」、「黒澤明」が手の甲に置いた「蚊」、「木下恵介」が胸ポケットから取り出した一枚の写真、「佐藤栄作」夫人の「寛子さん」からの電話、そして「美智子妃」より思いがけぬ一筆など、大切な人々とのとっておきの記憶を、端正で歯切れのよい語り口で綴るエッセイ集です。
■あなた食べます
■店仕舞
■もうすぐ春です
■住所録
■人間スフィンクス
■クロさんのこと
■老いの花道
■私だけの弔辞
■私のご贔屓・松竹梅
■たけしの母と秀子の母
■栄作の妻
■五重塔と西部劇
■美智子さまへのファンレター
■呼び名
■身辺あれこれ・年金化粧
■私の死亡記事「往年の大女優ひっそりと」
■あとがき
『私のご贔屓・松竹梅』で、「沢木耕太郎」作品の愛読者で、自分がテレビ局のCMスポンサーなら「スカッと爽やか耕太郎」というキャッチフレーズで登場してもらいたいと思っていたことと、自らの死亡記事を書いた『私の死亡記事「往年の大女優ひっそりと」』が印象的でしたね… 結果的に本作が遺作となってしまったんですから、ご自身の死を意識して書かれたんでしょうね、、、
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女優・高峰秀子さんが三ケ月ほど前に死亡していたことが判明した。
生前「葬式は無用、戒名も不要。人知れずひっそりと逝きたい」と言っていた。
その想いを見事に実践したようだ。
彼女は十八歳の時、盲腸炎の手術を受けて以来、その死までの数十年間、医師、病院の手を煩わすことは全くなく、健康保険証には一字の記載もなかった。
故に死因は不明。
死亡診断書を認めた医師は「病名はわかりません。強いていえば天寿でしょうね」と言った。
昭和五十四年にスクリーンを退いたが、その死に至るまで多くのファンの親切と厚意に支えられ、高峰節といわれた達意の文章で随筆集を重ねてファンに応えた。
「死んでたまるか」という文章も書いたが、相手が天寿では以って瞑すべし、しあわせな晩年であった。
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これが全文です… 実際はひっそりと亡くなることはできなかったようですが、幸せな晩年を過ごされたんでしょうね。
亡くなられたのは残念ですが、柔らかでユーモア溢れている文章は残りますからね… これからも時々、読ませてもらおうと思います。
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