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ひろしま歴史街道散策くらぶ2月定例会に参加する~!  2

2016-02-19 15:31:09 | ひろしま歴史街道散策くらぶ
 
  続きます。

 ◎ 妹背の滝
  妹背の滝は毛保川の上流、城山と滝山との谷あいにあって、清らかな雄滝と雌滝の二つの滝が、轟く音を相響かせています。
  古くは「めおと滝」と、「雌雄滝」「夫婦滝」とも呼ばれていました。
  「妹背の滝」と呼ばれ始めたなは、大正2年(1913)大頭神社を今の宇城山に移したのを機会に、当時の大野郵便局長大島彦三氏の命名と言われ、「妹背」とは、妹(いも)と背(せ)の夫婦を意味する古語を用いたものです。
  この滝は古くから知られ、「芸藩通志」に、「雌雄滝 大野村に有り、雄は六帖三尺、その水は壮なり、雌
は廿七丈余にて、長けれども婉なり、奇観幽賞、近方類まれなり」と記し、藩内の著名な滝と共にその「瀑布図」をも載せられています。

 雌滝 → 落差 50m。

 


 雄滝 → 落差30m。

 展望台からの眺望と滝の真下の広場から。

 


 


 雄滝は水量も多くて勇壮です。
 参加者が並んで記念写真を撮りました。

 ◎ 西教寺
  西教寺の前身は門山城の祈祷所護安寺で、旧大野村字護安にあります。
  大内・陶氏より寺領を受けましたが、弘治元年(1555)厳島合戦で毛利氏に敗れ寺院は消失しました。
  慶長6年(1601)に 開祖の教順法師は寺跡に浄土真宗の寺を建て、寛永4年(1627)に西教寺と改めこの地に移築されました。

 


 


  何故か境内の像は「聖徳太子像」です。

 


 ◎ 歴史の散歩道
  古代山陽道です、木陰の道は時代劇にも出てきそうな静かな最高なスポットです。

 


 途中の「陣場跡」「高畑の溜池(たかばたけのためいけ)」文政8年。
 
 


 
 


 高畑の溜池 
 大野で最も古い灌漑用のため池で、周りは笹に囲まれ今は利用されませんが、農業には欠かせない水源でした。
 
 


 


 


 


  ”木枯らし紋次郎が来よるよ!”と誰かが言ったような素晴らしい歴史の散歩道でした。

 ◎ 高庭駅家跡
  高畑地区の「万葉集」所収の「高庭疫家跡」の碑銘は、大伴君熊凝の悲話を山上憶良がしたためた歌を伝え、この地が後の「濃唹(のお)駅」となったとされ、大野の地名の起源ともなりました。

 


 ◎ 一畑薬師堂
  詳細は分かりません。

 


  ここで、今日の歴史散策は終了でした。
  大野市民センター迄歩きます。
  市民センターは「体育館、図書館、公民館」と集まっていました。
  約、40分のバス待ち時間がありました。
  
 
 


  公民館で休憩です。
  午後4時半、今日の10000歩、6,6kmのスマホの歩数計です。
  大野は初めてのコースで古代山陽道は静かで、時折吹く風と、小鳥のさえずりと気持ちの休まるスポットでした。

 



  ※ 17:13の大野ハートバスで、宮島口迄移動し、JR山陽線での帰路になりました。
    皆さんお疲れさまでした!
 
  
  

ひろしま歴史街道散策くらぶ2月定例会に」参加する~!  1

2016-02-19 10:25:03 | ひろしま歴史街道散策くらぶ
  ひろしま歴史街道散策くらぶ2月定例会に参加!
  28-2/18(木) JR山陽本線大野浦駅  13:45 集合  17名参加

     「西国街道と間宿大野」

  散策経路  塩屋一里塚 ~ 千人塚 ~ 大頭神社 ~ 妹背の滝 ~ 西教寺 ~ 陣場~高庭駅家跡
  ~ 大野市民センター
  解散場所→( ハートバスにて移動 )広電宮島線阿品駅

   
  案内人  佐々木卓也 指南役

 
 


  いつもと15分遅れての出発になりました。
  西国街道(近世山陽道)散策です。

 ◎ 今川貞世の歌碑 
  応安4年(1371)9月に将軍足利義満の命を受け、今川貞世(了俊)は九州探題として南朝方の攻略のため下行しました。
  道中記の「道ゆきぶり」に、「おほのうらを これかととへば 山なしのかなたへの もみじ色に出でつつ」  と記しました。

 
 
  


 ◎ 塩屋一里塚跡
  大野の地は、江戸幕府により五街道に次ぐ脇街道として西国街道(近世山陽道)が整備されました。
  広島城下の元安橋東詰めの里程元標から東西一里毎に一里塚設置され、塩屋一里塚跡です。
  広島城下から6里。

 


  廿日市市大野観光案内板 (駅前の)

 


  西国街道 (旧山陽道)
  
 


  門山城 (厳島合戦)
   大永3年(1523)に大内軍は大野の門山に陣を張り、翌年に女滝の武田、友田軍との合戦が起きました。
   大内軍の敗戦で和議が交わされたものの、天文10年(1510)に更に侵攻し門山城下は大内軍に落ち、
   それが引き金となり弘治元年(1555)の「厳島合戦」となりました。


 


 マンホールの蓋 → 公共汚水・うすい

 


 


 道標 → 右 宮島・廣島道  左 宮内道・妹背滝道 滝迄 11町半

 


 毛保川 → 妹背の滝へ続く (毛保:葦、茅など)

 


 大頭神社鳥居 (両面鳥居)

 


 ◎ 仙人塚 
  仙人塚は、大野地区は第2次長州戦争の戦場となり、幕府軍は西教寺に本陣を置きました。
  慶応2年(1866)6がつから2か月間激戦は繰り返され、多くの兵士が戦死しました。
  大頭神社の入口には、この戦いに戦死した無名戦士を、滝の下「仙人塚」として葬りました。

 


 


 ◎ 大頭神社 
  大頭神社は厳島神社の摂社として、推古天皇11年(603)に建てられたと伝えられています。
  国常立尊(くにとこたちのみこと) 大山祇尊(おおやまずみのみこと)及び厳島神社の初代神職の佐伯鞍職  (さえきくらもと)の三神を合祀しています。
  平清盛が安芸守であった当時から、毛利、福島、浅野三家を経て廃藩当時まで、社領米を附せられ、「鳥喰」
  と「四鳥(しちょう)の別れ」の神事が伝えられています。
  大正2年(1913)に妹背の滝のほとりに社殿を移し、同時に幣殿と拝殿を新築しました。

 


 


 


 


  丁度車のお祓いをしてもらっている人が居ました。
  本殿にお参りしました。
  木製の由緒ある神社の様です。

   続きます・・・