母が亡くなって、48年もの月日が流れました。
でも、昨日のことのように、当時のことは覚えています。
紫色の花が好きなひと でした。
そして、当時の田舎のひと らしくない、モダンな感覚のひと だった・・・
そんな記憶があります。
私が、子供の頃から、憧れていたデザイナーに、なったばかりの頃、
体調不良を不信に思い、母は検査を受けました。
すると、
余命半年もないかもしれません・・・と、医師の言葉。
母の全身、癌に侵されていたのです。
母は早めの更年期症状だと思っていたようですが・・・
実は、手遅れの状態だったのです。
その頃、私たち娘二人は東京。
療養中の母は、父と二人で、暮らしていました。
そんなある日、母から、私の会社に電話がありました。
会社に電話なんてしてくる ひと ではないんです。
ところが・・・
受話器を取ると、かぼそい母の声
「おかあちゃん (子供の時は、こうよんでいました) もう、一人では、
なんも出来んようになってしもうた・・・
あんたには悪いけれど、帰ってきてくれんかね~~」
医師に余命半年位だといわれても、運命を受け入れ、
ただただ、遠くを見つめていただけの ひと です。
そして、私たち娘には、好きな道を歩んで欲しいと、
ぎりぎりまで、自分の身の回りのことは心配しなくても大丈夫だと、
背中を押してくれた ひと でした。
翌日だったのか、その日だったのかはっきりしませんが、
実家に着いたら、夜だったのは覚えています。
母の姿・・・やせほそり、鉢巻きをして痛みに耐えるため、
布団の上を、のたうちまわっていました。
信じがたい母の姿でした・・・
よく一人で、身の回りのことなど出来たことが、不思議な状態でした。
それでも、下着は、私に洗わせませんでした・・・
(今でも、パソコンのキーボードをたたきながら、涙がでてきます・・・)
切開した時は、手遅れで何も切除出来なかったと、病院の主治医。
今更ですが、分からなかったのでしょうか
48年前は・・・今だったら、CT も MRI もあるけれども・・
病室を出た時から、帰ってくるまでの時間が、あまりにも短かったのを、
母は不信に思っていたようです。
信じがたいことですが、母は時計をチェックして、手術室に向かったそうです。
その後、病状を父から聞いても、取り乱すこともなく、遠くをじっと見ていた
と,伯母から聞きました。
そういう訳で、病院はすぐに退院して、自宅治療。
漢方、薬膳、そういう民間治療をしていたのです。
丸山ワクチンも試したかな?
自宅療養のため、痛み止めとかの、薬や注射を受けられずに・・・
ただ、痛みを我慢するしかなかったのです。
あんなに、我慢強い ひと でも、転げまわるほどの痛みだったとおもいます。
そんな母が、
お彼岸の日 (亡くなる前、23日) 家の中をきれいに掃除していないと
恥ずかしいから、私に掃除をして欲しいと・・・
一人では歩けない程衰弱していた母は、私の肩に腕をあずけて、
家の中をチェックし始めたのです。
台所、普段使わない部屋、トイレまで、指図して掃除させられました。
そして、翌日は疲れたのでしょう
しゃべるのも、ままならない状態になりました。
そんな状態の中、
「病気は、全部私が持っていくからね・・・
お父さんのことをよろしく頼むね・・・」と、
日付が25日に変わった頃、静かに旅立ちました。
普通、娘達 (妹はまだ成人していませんでした。)のことを、
夫に託すのに、母は違いました。
そして、半年後には、父は再婚しました。
結果報告なので、反対も何も出来ない、私と妹と(母を誰よりも頼りにしていた)伯母・・・
でも、そうなることを、
母は予感していたのかな~~とも、たまに思ったりしました。
父の弱い所をちゃんと分かっていたのでは・・・と、思います。
祖父の家業を手伝うため、朝4時頃から、起きて夜眠る時間まで、
舅、小姑、夫、子供の世話にあけくれても、黙々と働いていました。
伯母は、「あんな人は、探してもどこにも、おりゃせんね~」(いない、という方言です。)
伯母は母と仲良く、病院の検査にも立ち会ってくれたのです。
しかし、母は
私達娘の成長を、見届けることもなく、
旅立ってしまいました。
その日が、9月25日 今日です。
母の好きだった、紫色の花、リンドウと薄いピンクのカーネーションを
お供えして、手を合わせました。
長いブログを、ここまで読んで頂いた方
ありがとうございます。
働きづめで、短い生涯を終えた女性は、母だけではないと思いますが、
私も、前期高齢者の域に入り、これから先のことを、考えるべき年齢に達しました。
それで、思い切って、ブログに母のことを書きました。
そして、少しは、何があっても動じることなく、凛として
優しさを忘れず、日々を生きたいと思います。
次回から、もっと楽しいブログにしたいですね
また訪問してくださいね