今日で八月も終わりです
まだまだ、残暑は続きそうですが、暦の夏は過ぎていきますね・・・
※ 山口は回りを、低い山々に囲まれた筒の底のような盆地です。
そんなせいで、青天の日はほとんどないのですが・・・
─ 今年の夏も昨年以上の暑さでした。山口県庁前の街路灯と青空 ─
さて、前回の続きのお話しです
〇工房 〇〇 〇アトリエ 入社した頃のことです。
その年にデザイナーとして採用された人は3名でした・・・
偶然だとは思いますが、3名とも「川」のつく苗字
Y川・S川・そして私 k川 の3名
※ ショップのネームプレート・・・構図、アングル、色彩で違って見えます・・・
Y川・S川さん達は、デザイン科卒業なので、私より2つ年上でした。
新米デザイナーは、入社後はしばらくの間はデパートにある 〇〇 〇プレタポルテコーナー で、
お客様と、直接応対し、お客様の好みや、市場の流れをつかむための、経験をします。
そして、週一回はアトリエに行って、電話の応対の仕方、お茶の出し方‥等、先生の秘書さんや
チーフデザイナーから、特訓を受けます。
先生は、皇室の方の、主任デザイナーだったし、顧客さまには政治家の奥さまなど、著名な方が多くて
電話の応対とか、とても厳しかったです
※ 山口市内のお店の写真です。
今でこそ、オシャレなお店も少しはありますが、私が十代の頃は
地方と都会(東京がダントツかも❓❔)のオシャレ度の、温度差はすごくあった様な・・・
3川の新米デザイナーの内、k川なる私は日本橋高島屋の
”〇〇 〇プレタポルテコーナー”に配属されました。
因みに、あとの二人の川さんは
Y川さんは・・・即アトリエ勤務 (長身でスタイル抜群で、先生お気に入りのモデル
小泉ひとみさんとサイズが同じで、ひとみさんの変わりにフィッティングが
可能だったせいかもしれません❓)
s川さんは・・・京王デパートの”〇〇 〇プレタポルテコーナー”で、販売実習 でも、直ぐにアトリエ勤務
苦痛だった、高島屋での経験が、後々とても役にたったのですが・・・・
※ レイアウトの概念・・・特に勉強した訳ではありませんが、デパートの上から下を見て回り
ステキな雰囲気を感じるレイアウトは❓
いやいや通っていた、日本橋高島屋での経験が
日々独学出来たように思います。
当時は不愛想な私でした。
「あなたが仏頂面で立っていると、お客様が逃げていかれるから、ディスプレーを上手くして!!」
と、”〇〇 〇プレタポルテコーナー”のディスプレーを任されました。
日本橋高島屋の上から下までの商品を借りて、トルソーやマネキンの側に商品を置いたディスプレーを
張り切ってしてました。
でも、今思うと大変でした
若いから出来たのでしょうね~~
日本橋高島屋の時は、生田から日本橋まで一時間以上かかったし、
一ケ月に一度はデザイン画を提出しなくては、アトリエ勤務にならないし・・・
夜、デザイン画をコツコツと描いていました。
ある日、【装苑】のページをめくっていたら、
見たことのあるデザインが
前の方のページに、大好きだった当時の人気モデルが着て、掲載されていました・・・
もちろん、先生の作品として・・・
それでも、嬉しかったな~~
そうこうしているうちに、やっとアトリエ勤務 一年以上かかりました
ところが、想像以上に大変な アトリエ勤務
朝8時半 の朝礼に 間に合うように出勤
生田から、小田急線で明大前で井の頭線に乗り換えて渋谷(30分くらい?)
渋谷から、徒歩でアトリエまで15分以上かな?代官山方向には・・・
8時半までには、新米は、掃除を終えてなければならなくて・・・
普段の日はそれで良かったのですが、
先生が皇居に出かけられる日は、それに加えて仮縫いの用意
ピンクッションに、シルクピンを放射状にめぃっぱい美しく指すのが私の役目
少しでも、放射状が一方方向に向いてなかったら、台風も地震も同時にやってくるのです
先生は、感情の起伏の激しい方だったので、
”サンドバック” の代用に、私を採用したのかと思うほど、
良く叱られましたね・・・
考えてみても、同期生の二人はデザイン科を卒業して四年間学んでいたし、
東京育ち。
短大の被服科二年しか勉強してないし、田舎者の私です。
比較するほうが、おかしいですよね❓ ❔
※ 個性の大切さ・・・今でこそ分かります。
当時の私は、コンプレックスの塊・・・都会人に憧れて、必要以上に背伸びしてました
アトリエ勤務の様子、もう少し残っていますが・・・またの機会に
最近の私のことです。
8月27日が甥の誕生日でした。
思い出の写真やプレゼントしてもらったものを加工しました。