最近、靴をそろえています。
誰がって?
ワタクシ、です。
玄関に雑に靴が脱ぎ捨てられている様子、情けないなあと思ったのがきっかけで、言っても右から左へ流してしまう人たちばかりの家族構成になってしまいましたので・・・・。
「私がやらねば、誰がする!?」
の、心意気でとにかく、靴をそろえるようにしています。
すると、靴をそろえることそのものに快感を感じるようになってきました。最初はそろえてもそろえても無神経に脱ぎ散らかす人たちを苦々しく思っていたのですが、最近はそんなことはどうでもよくなってきました。
ぱっと目に入る玄関の景色が整然としていることが嬉しいのです。なので、今は自分の喜びのために靴をそろえている、だけなのです。
・・・・・とまあ、何てことない日常のささやかなことなんですが、そんなある日、次のような文章を読む機会がありまして。
「履物並べから学んだ人生観」
田村一二(福祉の里・茗荷村(みょうがむら)を設立、障がい児教育の先駆者)
私は六人の息子を持っているわけですが、
彼らがまだ小さいとき、どうしても履物をきちんと
そろえられなかった。
叱っても、そのときはそろえるが、
すぐに元通りに戻ってしまうのです。
それで、私が尊敬する糸賀一雄先生にお尋ねしました。
「しつけとはどういうことですか」と。
先生は、
「自覚者が、し続けることだ」
とおっしゃる。
「自覚者といいますと?」
と聞くと、
「それは君じゃないか。
君がやる必要があると認めているんだろう?
それなら君がし続けることだ」
「息子は?」
「放っておけばいい」
というようなことで、家内も自覚者の一人に
引っ張り込みまして、実行しました。
実際にやってみて、親が履物をそろえ直しているのを
目の前で、息子がバンバン脱ぎ捨てて
上がっていくのを見ると、「おのれ!」とも思いました。
しかし、糸賀先生が放っておけと
おっしゃったのですから、仕方ありません。
私は叱ることもできず、腹の中で、
「くそったれめ!」と思いながらも、
自分の産んだ子供であることを忘れて、
履物をそろえ続けました。
すると不思議なことに、ひたすらそろえ続けているうちに、
だんだん息子のことも意識の中から消えていって、
そのうちに履物を並べるのが面白くなってきたのです。
外出から帰ってきても、もう無意識のうちに、
「さあ、きれいに並べてやるぞ」と楽しみにしている
自分に気がつきました。
さらに続けていると、そのうちに、
そういう心の動きさえも忘れてしまい、
ただただ履物を並べるのが趣味というか、
楽しみになってしまったのです。
それで、はっと気がついたら、
なんと息子どもがちゃんと履物を並べて
脱ぐようになっておりました。
孔子の言葉に、
「これを楽しむ者に如かず」というのがありますが、
私や家内が履物並べを楽しみ始めたとき、
息子はちゃんとついてきたわけです。
私事で恐縮ですが、ここに教育の
大事なポイントの一つがあると思います。
口先だけで人に、「こら、やらんかい」
とやいやいいうだけでは、誰もついてきません。
自分が楽しんでこそ、人もついてくるんだという人生観を、
私は履物並べから学んだ次第です。
・・・・引用ここまで。
ああ、なるほどなあと、感心しきり。ただ、残念なことに、うちにはしつけをするべき年齢の子どもはもういなくなりました。
さらに、巻き込むべき主人も、今はどうもそのような状態にはなさそう・・・・
ということで、今はせっせと一人で靴そろえに励んでいます。
家人に変化がおきたときには、またご報告したいと思いますが、もちろん最初からそのような目論見があってしているわけではなく、たんに私は楽しんでいるだけなのですが。
これがまだ子どもの小さいときならどんなによかったかという思いは、やはり、します。
自分が楽しんでもいないことを、大事なことだからという理由だけで子どもにがみがみ言っていないかな?
子育てのころって、余裕がなくてつい、子どもに当たってしまうことはよくあることで、私もそういう道を通ってきました。
勉強でも、ピアノでも、楽しい時間を作ることができるから大事なんだよ、って伝えることができたら子どもにもきっと分かりやすいでしょうね。
そして、その楽しい時間を一緒に作れると、もっといいですよね。
夏休みの自由課題も、私がかかわっている絵マップも、そしてピアノのホームコンサートなんかも、全部家庭で楽しもうと思えばできることばかり。
そういう時間を、子どもたちともっと持つ努力をすればよかったと、先輩ママは思っています。
誰がって?
ワタクシ、です。
玄関に雑に靴が脱ぎ捨てられている様子、情けないなあと思ったのがきっかけで、言っても右から左へ流してしまう人たちばかりの家族構成になってしまいましたので・・・・。
「私がやらねば、誰がする!?」
の、心意気でとにかく、靴をそろえるようにしています。
すると、靴をそろえることそのものに快感を感じるようになってきました。最初はそろえてもそろえても無神経に脱ぎ散らかす人たちを苦々しく思っていたのですが、最近はそんなことはどうでもよくなってきました。
ぱっと目に入る玄関の景色が整然としていることが嬉しいのです。なので、今は自分の喜びのために靴をそろえている、だけなのです。
・・・・・とまあ、何てことない日常のささやかなことなんですが、そんなある日、次のような文章を読む機会がありまして。
「履物並べから学んだ人生観」
田村一二(福祉の里・茗荷村(みょうがむら)を設立、障がい児教育の先駆者)
私は六人の息子を持っているわけですが、
彼らがまだ小さいとき、どうしても履物をきちんと
そろえられなかった。
叱っても、そのときはそろえるが、
すぐに元通りに戻ってしまうのです。
それで、私が尊敬する糸賀一雄先生にお尋ねしました。
「しつけとはどういうことですか」と。
先生は、
「自覚者が、し続けることだ」
とおっしゃる。
「自覚者といいますと?」
と聞くと、
「それは君じゃないか。
君がやる必要があると認めているんだろう?
それなら君がし続けることだ」
「息子は?」
「放っておけばいい」
というようなことで、家内も自覚者の一人に
引っ張り込みまして、実行しました。
実際にやってみて、親が履物をそろえ直しているのを
目の前で、息子がバンバン脱ぎ捨てて
上がっていくのを見ると、「おのれ!」とも思いました。
しかし、糸賀先生が放っておけと
おっしゃったのですから、仕方ありません。
私は叱ることもできず、腹の中で、
「くそったれめ!」と思いながらも、
自分の産んだ子供であることを忘れて、
履物をそろえ続けました。
すると不思議なことに、ひたすらそろえ続けているうちに、
だんだん息子のことも意識の中から消えていって、
そのうちに履物を並べるのが面白くなってきたのです。
外出から帰ってきても、もう無意識のうちに、
「さあ、きれいに並べてやるぞ」と楽しみにしている
自分に気がつきました。
さらに続けていると、そのうちに、
そういう心の動きさえも忘れてしまい、
ただただ履物を並べるのが趣味というか、
楽しみになってしまったのです。
それで、はっと気がついたら、
なんと息子どもがちゃんと履物を並べて
脱ぐようになっておりました。
孔子の言葉に、
「これを楽しむ者に如かず」というのがありますが、
私や家内が履物並べを楽しみ始めたとき、
息子はちゃんとついてきたわけです。
私事で恐縮ですが、ここに教育の
大事なポイントの一つがあると思います。
口先だけで人に、「こら、やらんかい」
とやいやいいうだけでは、誰もついてきません。
自分が楽しんでこそ、人もついてくるんだという人生観を、
私は履物並べから学んだ次第です。
・・・・引用ここまで。
ああ、なるほどなあと、感心しきり。ただ、残念なことに、うちにはしつけをするべき年齢の子どもはもういなくなりました。
さらに、巻き込むべき主人も、今はどうもそのような状態にはなさそう・・・・
ということで、今はせっせと一人で靴そろえに励んでいます。
家人に変化がおきたときには、またご報告したいと思いますが、もちろん最初からそのような目論見があってしているわけではなく、たんに私は楽しんでいるだけなのですが。
これがまだ子どもの小さいときならどんなによかったかという思いは、やはり、します。
自分が楽しんでもいないことを、大事なことだからという理由だけで子どもにがみがみ言っていないかな?
子育てのころって、余裕がなくてつい、子どもに当たってしまうことはよくあることで、私もそういう道を通ってきました。
勉強でも、ピアノでも、楽しい時間を作ることができるから大事なんだよ、って伝えることができたら子どもにもきっと分かりやすいでしょうね。
そして、その楽しい時間を一緒に作れると、もっといいですよね。
夏休みの自由課題も、私がかかわっている絵マップも、そしてピアノのホームコンサートなんかも、全部家庭で楽しもうと思えばできることばかり。
そういう時間を、子どもたちともっと持つ努力をすればよかったと、先輩ママは思っています。