kamacci映画日記 VB-III

広島の映画館で観た映画ブログです。傾向としてイジワル型。美術展も観ています。

ダーティーハリー&フレンチ・コネクション

2011年11月10日 | 洋画(良かった、面白かった、気に入った)
日時:10月30日(ダーティーハリー)、11月6日(フレンチ・コネクション)
映画館:バルト11

「ダーティーハリー」と「フレンチ・コネクション」という70年代を代表する刑事映画を2週連続上映。いいなあ~。「朝十時からの映画祭」来年もやらんかね。

さて、派手な映画が好きだった若い頃から比べると、年をくって、映画をちゃんと観ることができるようになったような気がする。当然、刑事映画の見方も変化してくる。

まず、イーストウッドの代名詞である「ダーティーハリー」。際だったハリーのキャラクターについては、もはやワタシがどうこう言うことではないだろう。

目が行くのスコルピオこと、アンディ・ロビンソン。この役をやった後、友人をなくしたという話を聞いたことがあるが、当時、こういったサイコな悪役というのは衝撃的だったろうな。(実際には、ゾディアックというモデルがいたわけだが。)

さらに、映画としてもバランスよくスコルピオの描写に力が注がれる。スコルピオが犯罪を準備し、実行に移していく様が細かく描かれるされるが、ハリーの方はなんか力技っぽい。実際、ラストに橋上でカッコよく、バスを待ち受けるハリーがどうやって、あそこにたどり着けたのか、永遠のナゾだ。(笑)マカロニから受け継がれた「荒野にたたずむ思わせぶりなガンマン」としての姿がそこにある訳だが。

ラロ・シフリンの印象的な音楽もスコルピオが登場する場面でしか使われない。ハリーの登場場面にはほとんど、音楽なし。

ダーティーハリーシリーズを思い返すと、意外なほど、シリーズもののフォーマットや前作を踏襲していないことに気づく。ハリー・キャラハンというキャラクターは一緒だが、ドラマは毎回、違う切り口・テーマだった。第1作はハリーのキャラクターであり、第2作はありえない悪役軍団であり、第3作はユニークなコンビだった。

シリーズものが続けられる要因として「いつも違う、いつも一緒」があげられるが、ダーティーハリーは「いつも一緒みたいで、実はいつも全然違う」だったんだね。



次に「フレンチ・コネクション」。主演のジーン・ハックマンはこの頃から全然変わっていない。多少、髪のボリュームが変化した程度。(TV吹替え版ではロイ・シャイダーの羽佐間道夫の声がカッコよすぎて、ルッソ刑事の方が好きだった。)

こちらは麻薬課刑事のコンビがフランスからのヘロイン輸入と対決する。が、彼らの活動のほとんどは張り込みと尾行と張り込みと尾行、時々疾走。日常生活や署内での活動は気持ちほどしか描かれない。捜査の途中経過など説明不足かと思えるくらいだ。(実際、開幕早々殺されたのが、捜査官だったかどうかは、ついに説明されない。)

人間味あふれる日常生活が描かれるのは、ヒゲのシャルニエことフェルナンド・レイやトニー・ロー・ビアンコ、マルセル・ボズフィの方。プレゼントをもらったり、うまいものを食ったり、際どい取引にやきもきしたり、取引の成功を祝ったりとリア充な毎日を送っている。

だからこそ、報われない仕事を腹立ちまぎれにこなすポパイの存在がかえって際だつのだろう。

あと、寒い寒いブルックリンにあった冬物ファッションがカッコイイ。若い頃にはダサくしか見えなかったものが、ちょうどファッションが一回りした感じだね。

改めて、この2本の映画を観ると、当時の刑事の原動力が正義心とあわせて何かに対する怒りだったように思う。法体系の不備や官僚主義、金持ちに対する怒り・・・
そういったものがにじみ出ていて、ともに暴力刑事でありながら、親近感が持てたんだろう。

という訳で、これらの映画にもろ刺激を受けた、とても分かりやすいマカロニ・ポリス・アクション「超犯罪ハイクライム/死神の骨をしゃぶれ」なんかがまた見たくなるのです。






題名:ダーティーハリー
原題:DIRTY HARRY
監督:ドン・シーゲル
出演:クリント・イーストウッド、ハリー・ガーディノ、アンディ・ロビンソン

題名:フレンチ・コネクション
原題:The French Connection
監督:ウィリアム・フリードキン
出演:ジーン・ハックマン、ロイ・シャイダー、フェルナンド・レイ、マルセル・ボズフィ

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