感覚の間隔

家族、仕事、友人、知人から街中での知っている人、知らない人・・・そこでの自分の、自分との「カンカク」はどうなんだろう

遠回りをして、いきていく

2021-08-22 07:51:11 | 日記
雨がスコールのように降って、
一時、秋みたいな気候になって、
そしてまた暑くなって、

今年の夏は、と言うか今年もいままでイメージしていた「夏」の、

昼間はあつい、けどたまに夕立があって涼しくなって、お盆過ぎから少しずつ秋を感じる空気や雲が見えてきて

という季節の味わいやうつろいをゆっくり感じることは難しい環境になってきたんだなぁと感じています。

以前みたいになったら良いのにとおもうこと

それは、いまのコロナの世界でも多くの人が感じていること

そこに急いで戻ろうと動いたりしている人たち

以前にいかに戻れるかというイメージで政策をたてたりしている人や集団

もう、風邪みたいなものだから大丈夫でしょとおもって行動しているひとたち

2回ワクチン接種も終わったから大丈夫と動いているひとたち

回りで感染している人いないから実感なく行動しているひとたち

いろんな解釈や気持ちで、いままでやってきたことを変えずに、または一時的に変えてもまたさっさともどる前提で

この事を続けて1年半過ぎたいま

現実は、どんどん前にはもどれない
「あの時」との距離がどんどん広がって

以前の、あの時にもどりたいと急いで戻ろうとすればするほど

あのときはどんどん遠くなっていく


もしかしたら、以前のようにはもうもどれないかもしれない

事実、もうもどれない存在となってしまった命も数多くあって

自分も、あの時にはできたことをさっとできない状況で、ストレスを感じたり、残念な気持ちにはなっています

で、最近は、別な方法で再現できたり、これから新たな可能性が見えるチャンスを探す機会なのかもと

「以前のあの時」ばかりに目を向けないように

そして、いまあるものは見返して、何が必要で、大切なものなのか整理して、

これからに、より大切なものやことを見つけていく

結構遠回りになるかもしれない、のんびりしたみち

そのくらいがいいのかと思い始めています

病院ではいまも多くの人の命を助けるために働いているひとたちがいます

少しでも救える命を救えるように、

いままだ救われている命を、早く燃焼させない過ごし方をすることが

医療崩壊になっている、病院スタッフの命も救うことにもなるのだろいうと思っています

なかなか、いまある本当の現実が見えずらくなって、理想の現実を体現したり発信しているひとたちに振られてしまいがちですが

本当に大切にしたい現実をみていく努力と、
そういったひとたちと繋がっていく絆を大切にして

ゆっくりと進みたいと感じています

声をかけるまで

2021-08-02 22:10:54 | 日記
先日子どもの定期診察に一緒に行っていたときのこと

待ち合いにいる、バギーに乗った肢体不自由児の女の子とお父さんがいました

小学生くらいの女の子は、頻繁に声をあげて苦しそうな感じ
ねじれて反り返って、座っているというより、ベルトや座幅に引っ掛かっているという状態でした

お父さんはその子に対して有効な手段をあまりもっていない感じで、
時々胸をとんとんしたり
あまりに泣いていると、姿勢を直してあげるのですが
3分もたたずに、反り返って、ねじれて
そしてしばらくしたらまた苦しくなって、泣いてしまう

そんな光景を、何回か見ていた自分

子育てに困っている子連れの親子がいたらもっと早くに声をかけているだろう

でもそのとき、どう声をかけるか、そのあとにその子の苦しさが少しでも解消される方法が話せるか

そこをずーっと考えてしまった

結果、声をかけたのは自分の子の会計が終わった1時間くらいした帰り間際

自分の関わっている仕事を話して、苦しいのが多そうだからこうしたら楽になるかもと、お父さんへ話して、許可もらってちょっとだけ手伝って
そうしているときに、その子が診察に呼ばれたからそこでわかれました。

あの女の子のお父さんには、うまく伝わらなかったなぁという感覚と
あの女の子にも、もっと自然に関われなかったなぁという感覚

全てが自然に動けてなかった自分の時間

普通に困っている人に声をかけることから始められればよかったのに

その先をどうするかっていう、シュミレーションばかりして、普通に声がかけられなかった

病院を出たあとも、もしあの2人に街中でばったり会ったら、、、

自然に、自分のそのときの気持ちで声をかけられるように

今度会う人にはそうありたいと思った感覚がいつまでものこった



新しい夢ーこれからの触れ合いってなんだろう

2021-01-16 08:00:28 | 日記
新年が明けてからもうすぐ半月。

といっても、年末年始はいつもと違った過ごし方だったので、「年が終わった」「年が始まった」という感覚は今一つピンとこない。

そうした中で、周りの人との接点は、この1年でかなり変わったわけで。

それは直接的なタッチの激減。

いまや、握手後も手荒い

ソーシャルディスタンス(フィジカルディスタンス)をとるから、相手とも距離があり、そもそも触れ合いが存在しにくくなる。

この前ラジオを聴いていたら、握手すると感染するからと露骨に言われたっていうことも聴きました。

それで思うのが、十年後くらいの世の中。

幼少期から触れることになれていない、触れることはリスクがあることって、心と身体に染み付いている子どもたちが増えている世界。

そこでは触れ合いによる安心感や共感を得る、相手を愛おしむということが難しい関係性が普通になっていて、表情(これも鼻から上)やことば、IT授業が盛んになって、テキスト上でのやり取りからえる感性で生じる自己感覚で判断・処理するする人が当たり前になってしまうじゃないかってこと。

身体から伝わる感覚じゃなくって、心や情報から伝わってというか判断して得る感覚。擬似感覚って言っても良いのかもしれない。

そうなると、今まで以上に感性の世代間格差が広がっているだろうなって予想します。

今考えられるのは、人と接することに新たな価値観や方法を探って、結果起こるであろう孤立や自己判断や自己感性だけに依拠した状況を減らす術を考えることじゃないかな。

生物的には、触れ合いが減っていけば存在することさえ難しいことに繋がるだろうし。

これが良いとは今自分も言えないけれど、そこを考えて探っていく努力は大切なことじゃないかなって思うのです。

大人っぽい、子どもっぽい~human distanceの感覚

2020-12-22 18:37:46 | 日記
「大人らしくしなさいよ」
って言われるときがあります。
「色々な人がいるんだからって思って」
とも言われます。

そうですよね、ごもっともで、自分にもその自覚はあると感じていますが。

他者から見るとそうは見えないみたい。

色々な一面が自分にはあるけれど、
「大人らしくすれば」=「子どもっぽい」
って見られていることです。

そこを素直に受け入れられない自分の感覚に、もどかしさを感じたり、逆に「そんなことはない」と言い返したくなることもあるんだけれど。
その行為事態が「子どもっぽい」ことに繋がると思うと、そこにエネルギーを遣うのも無駄なことで。

そんな出口を見つけられない感覚になっているから、社か的距離ならぬ

人的距離(human distance)

をとるのも大切な「間隔」だと思うのです。

別に引きこもるわけではないけれど、
客観的に「子どもっぽい」態度と見られていることが自分では「大人っぽい」感覚の範疇と感じるなら、敢えて「子ども」と「大人」の間隔
を考えなくてもいいのかも。

「大人っぽくなれない」感覚で、「子どもっぽい」と見てくれる人との.「間隔(distance)
」を了承していくこと。

そんな、「human distance 」 が「 social distance」くらい大切な気がしたのです。


年度の折り返し、って感じ?

2020-10-04 09:37:05 | 日記
カレンダー上は秋になり、2020年度は半分を過ぎて折り返しになっています。

気候も、以前の猛暑は引っ込んで、日中マスクをしていても息苦しさが減ってはきています。室内にいると蒸れちゃうのは相変わらずだけれど。

夕方になると草の間から虫たちの奏でる音色が広がり、秋の様相だと告げてくれています。

そんな中でも、カレンダーの「10月」という数字を見ても、季節が秋で、今が10月という感じが持てないでいる自分がいます。


むしろ、今は2月の頃に戻っているような錯覚を持ってもしまいます。もしかしたら、2月から動いていないのかも、、、

先日お彼岸の墓参りの帰りに都心を通ったときの人混みや、 テレビで流れるバラエティ番組の様子とか、人と集まろうとか旅行に行こうという流れとか。
でも、3密は避けて、自己防衛でやることやってねとか、きっと医療機関はいつも感染リスクに緊張の糸を緩められず、毎日流れる今日の感染者数が、単にひとつの情報として流れているだけで、だからどうしなければならないという社会共同意識が醸成されにくい現状とか。

見えないところにいる、生活や労働で苦労している人たちと、日常の生活を送れている人たちの光と影の部分とか。

時間は実際進んだし、季節も移ろいだし、なんかやっているみたいなことはやっているなかで過ぎている時間。

でも、この約8ヶ月間、本当に人として大切にしなければならないことはなんなのかの議論が表舞台にたつことは、あったかなぁ。

だから、何となく過ぎてしまって、何となくやれちゃって、何となくこれからもやれちゃうじゃないかっていう。

「なんとなくジャーニー」という、
時間旅行に乗っている気がする。

でも、自分はその「なんとなくジャーニー」に乗れなくって、

結果、今の時間と過去の時間とこれからのちょっとした未来時間が混在して、結果あまり動いていない時間世界にとどまっているのかもね、自分は。

今の自分の存在する時間の確認です。