感覚の間隔

家族、仕事、友人、知人から街中での知っている人、知らない人・・・そこでの自分の、自分との「カンカク」はどうなんだろう

歯車が合うか否か

2019-01-30 23:49:34 | 日記
仕事に関して言えば、自分はPTというライセンスがあるので、個人の力量でやっていく裁量の幅はひろいかもしれない。

でも、個人の考えは主観的な罠にはまってしまう危険も多いので、できるだ自分の考えが他者からはどう捉えられているのか、意見を言う、表現する、一緒にやっていける人や集団を見つけて行動することが大切と思っています。

しかしそこには見えない力も作用するわけで、話し合いをすると言われて待つことが長くなり(45分くらい)、あげくには他の優先事項があるから別に設定したいと言われると(相手の事情もわかりますけど)、そこにはコミットできる時間や関係性が構築しないかなって思うわけです。昨日の職場でのできごとがまさにそんな感じ。

それを経て、今日話し合う場が設けられたときの心情は、難しいわけです。

一度崩れたと感じた歯車を再度合わせるためには、自分だけでの労力では力を発揮できない状態になってしまうわけでして。

関係性を作るためには、言葉や時間や場所が設定されれば良いわけでない。そこに至るまでの距離感や空気感みたいなものを共有できないと続きはないんだなってしみじみ感じた昨日今日でした。


保育園での発表会が終わって

2019-01-26 17:22:29 | 日記
次男三男の利用している保育園の発表会がありました。

それぞれ楽器演奏、合唱、演技をして頑張っていました。

保育士さんも途中お楽しみの時間で、演技や体操も披露されていて、マルチな活躍をされているプロだなぁと観ていました。


自分は幼少期の頃にいわゆる「お遊戯会」には出た記憶はあまりなく、それもあってかそれ以降の学校生活でも、文化祭などでの発表には裏方に徹する消極的な存在でした。

他人に何かを表現して伝える「楽しむこと」「うれしいと思うこと」の感覚がよく分からなかったから、そこに熱中することもなかったんだと思います。


大人になって、PT(理学療法士)の資格を取るための学校へ通っているとき、ある先生が「PTって芸術だと思うだよね」とおっしゃったことが今でも記憶に残っています。

それもあって、それ以降は自分の仕事やプライベートでも、「表現すること」の大切さや楽しみも分かるように少しずつなりました。

その過程での大きな転機は、認知運動療法(現在は認知神経リハビリテーション)での研集会で、コンテンポラリーダンサーの勅使川原三郎さんのWS企画を体験したことです。

「動く視点・支点・始点」
「他者との感覚・間隔」
止まる、動くで気づく「空間を共有する感覚」
そして、「ことばの指示」でなく「からだの指示」で自分と他者の関係性が出来ていくプロセス


今日の保育園での自分の子どもの発表会を観ながら、そんな感じを経てきた自分だからいま観ることができて、そこに賞賛や共感ももてるんだなぁと。

大人になってから、自分の子どもに教えてもらっている一場面が今日もあった保育園での発表会でした。


夢と現実

2019-01-19 12:01:56 | 日記

よく見ます。

今週も数ある夢で、いまでも自分の感覚に残っている出来事

1)口の中に残るイチゴヨーグルトの味

2)やたら深い道路の側溝にいる感覚

1)甘いヨーグルトを誰かと食べていたんです。
それが結構甘くて、でも一緒に食べ続けて。体中に甘さが浸透したところで目が覚めて、、、
口の中が甘い、実際食べていないのに。
夢の味覚が現実の感覚に残っていました。

2)上にある女性が立っていて、その左斜め下の深い側溝にいる自分。
「あなたはそこから上がれないでしょ」という女性の声
上がるところを探すが見あたらず途方に暮れる自分、、、
そこで目が覚めて。
実際にはない空間感覚がしばらく残っていました。


両方とも現実に影響がある夢の世界。
これって夢と割り切れない、現実の感覚なのではと。

夢と現実の間の「間隔」ってどのくらいあるんだろうって思います。

皮膚を取り巻く感覚

2019-01-19 10:36:25 | 日記
インフルエンザから回復した後も、咳・はな症状がまだすっきりしない状態。体調を崩してから回復まで時間が必要で、ゆっくりとインフルエンザ前の状態に戻っていっていると思います。

この間、子どもにも感染してしまったので、ゆっくり静養というわけではなかったですが、それでも外に出ない毎日だった日々から、仕事など外との世界につながった時間を再開すると、以前と違った感覚があります。

以前暗黒舞踏「大駱駝艦」のドキュメンタリー映画「裸の夏 THE NAKED SUMMER」を見たことがあります(https://eiga.com/movie/53261/)。
そこでのシーンに、「皮膚の表面と外の世界との境目を意識する」ということを「麿 赤児」さんが話していた場面は、今も自分の仕事や、時々他者に触れる場面で意識されます。そのくらい、影響があったので、実際の舞台を観たいと思いつつ、未だに行けていません。

で、その「皮膚の表面と外界との境目」って、見えるわけではないのですが、自分だけの意識、感覚では成立しなくって、周りの人や物の有り様との相互関係で成立しているって感じています。こちらがその部分を丁寧に意識しても、それが相手に伝わっていなかったり、そこにある物が自分だけでなくそこの空間でどんな存在としてあるのか確認しないと。

そこを常日頃意識できるわけではないので、

「相手との共感がうまく出来ない」時に、
「何かつまずいちゃった」時に

「何で通じないのだろう」というストレスとか
「何でこんな所に出しっぱなしなの」という生活上のトラブルや
「何でいきなりぶつかってくるの」という予想しない外からの行為に当惑したりとか

自分を取り巻く皮膚と外世界との境目
これに助けられることもあるし、そこがまだまだ不十分という反省も持ちます。

「皮膚と外世界との境目」。最近読んでいる「プロセスワーク」の「エッジ」の概念にもつながるような気がしています。

最近行った研修「ユマニチュード」の「触れること」にもつながりを感じています。


皮膚を取り巻く感覚をふっと自分でリセットすると、自分の周りも変化するときがあって

そこにあるコップはコップとして変わらないけど、必要なときに持てる存在になったり
そこに居る人や瞬間ぶつかってしまって行ってしまった人の存在は、
自分の中に意識として存在しているだけでなく、時間の流れと空間で自分がどういう位置・場にいるかを
皮膚と世界の境目「エッジ」の感覚で研ぎ澄ますようになっったり

インフルエンザから回復して、そんなことを感じています。

インフルエンザA型蔓延中

2019-01-12 03:55:22 | 日記
8日火曜日から体調が悪化した自分
いつもいく病院で人生初のインフルエンザ罹患
その場で「えーっ」と大声を上げてしまいました。予防接種は11月中旬とそんな悪い時期ではなかったと思うのですが
「予防接種をしているならそんなに高熱でないですよ」と医者に言われて
その晩はmax39度5分まで
予防接種受けなかったらもっとひどかったのかの検証はできないわけで

そして翌日には長男が、昨日は三男が相次いでもらってしまい
普段保育園や学童の送迎にも大変協力してくださる義理の両親も昨日から・・・
申し訳ない感覚と
もう少し自分が外出の間隔をあけていたらリスクは減っていたかも

そんな自分の気持ちの「感覚」と外出の「間隔」について
ようやく身体のだるさも減ったので振り返ることができました

まだ罹患してない妻と次男との「カンカク」も空いている今週です

その分隔離部屋にいる長男、三男との「カンカク」は近いなぁ、良くも悪くも

自分がストレス過敏にならない「カンカク」もこの間色々経験できています