『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・ある映画監督の俳句/新春俳話:補巻

2021年02月01日 00時06分41秒 | ■俳句・短歌・詩

  五所平之助の俳句

 上・中・下巻の「新春俳話」、いかがでしたか? わずか5日間にあれだけのボリュームをアップするなど、おそらくこれまでにはなかったと思います。それもこれも、俳句関係のものに目を通すことが多くなったからかも知れません。

 そこで今回は「新春俳話:補巻」編として、まず次の句に触れてみたいと思います。

 

  初春や灯して決まる家族の座    五所 平之助

 筆者は高校生の初めの頃、一時期「黒澤明」監督に憧れ、「映画監督」に成りたいと思ったことがあります。

 ところが五所監督については、その当時はほとんど知りませんでした。もっとも現時点においても、同監督に対する知識や情報は、高校生の頃とさほど変わらないでしょう。

 全くテレビを観ない筆者は、「コロナ禍」以降、ネット配信の「映画」作品(無料動画)を観ることがあり、つい2か月ほど前に偶然、「マダムと女房」(1931年公開)という作品を観ました。

 何と「田中絹代」さんが二十歳くらいの主演映画であり、その監督が五所平之助氏でした。そのあと同監督による「大阪の宿」(1954年公開)も観たわけですが、この「句」を観た瞬間、いかにも映画監督らしい句想だなと思いました。

 というのも、「灯して決まる家族の座」の「家族」の二文字が、筆者には一瞬、「主役」の文字に見えたからです。どことなく〝家族物〟映画のメーキングのひとこまが、イメージとして湧いていたからでしょうか。

              

 さてこの句、みなさんはどのように解釈し、また鑑賞されるのでしょうか。人それぞれ家族それぞれの、解釈や鑑賞があると思います。

 もちろんこの句は、「初春」(新年を迎えたお正月)の一家団欒のひとこまを捉えたものですが、「灯して」の雰囲気としては、やはり薄暗くなった夕刻でしょう。それに加え、筆者には「家族以外の特別ゲスト」の気配が感じられます。

 「大監督」の「自宅」ということで、映画関係者が年始の挨拶に訪れたシーンでしょうか。そこで五所監督や家族に強く促された「訪問客」が、家族の食卓に同席することになった……という光景かも知れません。もちろん、これは筆者個人の勝手なイマジネーションですが。

 この「訪問客」は、ひよっとしたら「映画俳優」ということも考えられませんか?

 ……え?! 田中絹代さん?! ……ンなわけ……無い……ことも……無いのかも……。

 「家族の座」に、比較的多くの家族の存在が感じられませんか? それも、何人もの女の子や男の子の賑やかな様子が伝わって来るのですが……。

               ★ ★ ★ 

 

 筆者は、未だ五所監督の「句集」なるものに目を通した事はありません。掲出の句は、当初にご紹介した講談社刊の「カラー図説・日本大歳時記:新年」からのものです。

 なお以下の句は、「新年の句」ではありません。ネットで拾った数少ない五所監督作品をピックアップしました。「太字(ゴシック)」は「季語」となっています。

 ①  花ぐもり机に凭れ空ろなる

 ②  花明りをんな淋しき肩を見す

 ③  目覚むれば夜まだありぬ螢籠

 ④  売られゆくうさぎ匂へる夜店かな

 ⑤  柳散る銀座に行けば逢へる顔

 ⑥  生きるとは一筋がよし寒椿

   鯛焼やいつか極道身を離る

                 ★ 

 「①花ぐもり」も「②花明り」も、ともに「桜の咲く頃」の季節であり、「花ぐもり」は、この時節の「曇り空」を言います。「花明り」は日中の(満開の)桜本来の「明るさ」だけでなく、夕暮れ時の場合や夜間の灯りの下ということもあるでしょう。

 いずれにしても、そのときどきの天気や時間や場所による「桜の花びらの耀き」であり「明るさ」であり、「見え方・感じ方」の違いというものでしょう。そのように微妙で繊細な違いを受け止め、また表現しよう……いえ、表現したい……と思う事こそ、正しく「」ならではであり、〝美意識〟と言えるのかも知れません。

 なお①の「凭れ」は、「もたれ」ですね。〝空ろな気持ちや表情〟で物思いに耽っているのでしょう。②は、いかにも一昔前の「映画の一シーン」という感じですね。

 ③の「(蛍)」は夏の季語です。今、螢が出て来たいくつかの「映画のシーン」を思い出したのですが、哀しいかな「タイトル」が出て来ません。

 ④と⑤の季語は、ともに秋。④は、筆者の子供時代の体験でもあります。「箱崎八幡宮」(福岡市東区)での「放生会(ほうじょうえ)」のときでした。

 動物である以上、当然いやな「(にお)」なのですが、売られて行くことも知らずにもくもくと口を動かせながら餌を食べている〝あの赤い瞳〟を目の当たりにすると、何とも言えない哀愁が漂い、ただただ切ない想いでした。

 「匂へる」に「うさぎ」への豊かな愛情が感じられます。単なる「(にお)」だけではない、「うさぎ」に対する作者の親しみ、慈しみに加え、労(いたわ)りの気持ちも込められた「匂い」ですね。

 ⑤は、ひと頃の映画の「東京銀座・ネオン街」の定番としても出て来たシーンといえるでしょう。もっともこの句の場合は、作者(五所監督)自身の自画像のようですね。

 ⑥は、何でもないようですが「寒椿」(冬)の趣きが滲み出ています。何処かのお宅の塀などから見える、よく手入れされた椿の木々の様子が見えるようです。春本来の椿にはない、地味で穏やかな「冬の椿」……しかし、しっかりと「黄色の蕊(しべ)」と「紅い花びら」の存在感を印象付けています。

              

 ⑦の「極道」には一瞬、驚きました。でもこの場合の「極道」には、どこか〝やんちゃ感〟が漂い、〝自堕落に遊蕩に耽っている〟といった、ややオーバーな作者の声が聞こえて来ませんか? 

 といってもそれは、もちろん作者自身の自嘲や戯れであり、諧謔です。殊勝に「いつか極道身を離る」と、持って回った言い方をしていますが、ご本人には〝この極道ぶり〟から〝足を洗う〟つもりなど、まったくないと思います。

 作者(五所監督)自身――、

 『……いやぁ。何とか一句にまとめようと思ってねぇ……。ちょっと作りすぎちゃったかなぁ……。』

 ……と、ディレクターズ・チエアかなんかに座り、悪戯(いたずら)っぽい眼差しを見せているのかも知れません。その眼差しを、映画の撮影スタッフ達が覗きこみながら、笑みを返しつつ……。

 するとそこへ、結構「俳句」にうるさい古参の照明さんが、照明の反射板である銀色の「レフ板」をことさらいじくりながら、ちょっと遠慮がちに――、

 『……極道……と来ましたか……。監督、あたしらの若い頃は、ちょっとした親不孝もんをひとまとめに〝極道〟と言ったんですがねぇ……。』

 とかなんとか言いながら、五所監督と顔を見合わせて二言三言……。

 そのようにイメージが膨らむのも、上五の「鯛焼」(冬)という季語の効果と言えるでしょう。

 ところで、五所監督がこの句を作ったときの背景となれば――、

 いい年をした〝ちょいわる親爺〟が、ほんのちょっと恥ずかしそうに「鯛焼」を買い求め、「あめぇ~やぁ!」と、傍らで食べている少年少女に笑顔を見せるように……。

 もちろん、映画関係者の誰かが「差し入れた鯛焼」に何気なく手がのび、気が付いたら食べ始めていた……というシチュエーションの方が自然なのでしょうが。

 ……あれぇ? そういうシーン、何かの映画にありませんでしたか? 確かに、ありましたよねぇ……。 

 では、今日はこのあたりで……。あっ、そうそう。最後にひと言――。

 今回、筆者はwikipediaで初めて知りましたが、五所監督は松尾芭蕉の「奥の細道」(おくのほそ道)の映画化が、晩年の夢であったとのこと。 

 ではみなさん。ごきげんよう。[了]

              ★  ★  ★

 

五所平之助 (ごしょ へいのすけ)/1902.1.24~1981.5.1。 映画監督、脚本家、俳人。俳誌「春燈」同人として活躍、俳号は「五所亭」。代表作の「マダムと女房」「煙突の見える場所」等の監督作品(20本)において、田中絹代を主演に起用。

 ◆映画の動画 「マダムと女房」(56:21)

 この映画は、「画質が粗い」動画となっています。また、タイトル他のクレジットが右から左へと流れています。 

 ◆映画の動画 「大阪の宿」(2:01:44) 

 ・出演:佐野周二、乙羽信子、水戸光子、左幸子他。こちらの画質はまずまずです。

 メモ: 「佐野氏」は、「関口宏」氏の実父。「乙羽」さんはNHKの「おしん」の晩年を演じた女優。少女時代は言わずと知れた「小林綾子」さん。青年・中年期が「田中裕子」さんでしたね。筆者でも記憶しています。いずれも本格的な名優でしたから。

 「水戸光子」さんは、「雨月物語」が印象的でした。「左幸子」さんは「日本昆虫記」でしょうか。正直に告白しますが、佐野氏やこの3女優は大好きな俳優さんです。

  ※「動画」が削除されていたら申し訳ありません。

   


・新春俳話―下巻(正月の生活と遊び)

2021年01月05日 12時13分32秒 | ■俳句・短歌・詩

 

 鏡餅、雑煮、初夢

 前回までの「上・中巻」は、「新年」の「風物(「時候・天文・地理」)に関する「季語」を採り上げていました。

 そこで今回は「生活・行事」の季語を選び、できるだけ多くの作品に触れてみたいと思います。ただし、本稿で採り上げる「季語」について、若い世代の方々にはピンとこない部分があると思います。

 最初に採り上げる「鏡餅」にしても、今日スーパーなどで売られている「パッケージ・パック化された鏡餅」とは異なります。私が小学一、二年生の頃は、一般家庭等においても、竈(釜戸)などでもち米を蒸し、臼と杵を使ってつくということが、結構行われていました。(※注①)。

                ★

 それでは、さっそく「鏡餅」からまいりましょう。

  鏡餅暗きところに割れて坐す   西東 三鬼

 〝割れて坐す〟という表現に、これぞまさしく〝旧き良き時代〟の「鏡餅」という雰囲気が出ています。

 「鏡餅」は陽に当たりすぎたり、暖房が効きすぎると、当然のようにヒビや割れが早く進むため、極力、日の光や火の気を避けたものです。

 といって、全く人目に触れない所に置いたのでは意味がありません。そのため、床の間や玄関、それに廊下の突き当たりなど、できるだけ室温の低い所(といっても、低すぎてもいけないわけですが)に置かれていました。少なくとも、私が小学低学年時の自宅や祖父の家はそうでした。

 この句の「鏡餅」の場合、ヒビや割れが酷くなっていたのでしょう。それでやむなく〝お役御免〟として「暗きところ」に置き換えられ、「割れて坐す」という姿に成ったのでしょうか。子供の頃、祖父の家において、階段下に〝ヒビ割れてぼろぼろになった鏡餅〟が 置かれているのを見た記憶があります。65、6年前の話ですが。

 「坐す」としたところに、この「鏡餅」が、結構な大きさであることをうかがい知ることができるとともに、〝ヒビ割れてまでよく頑張ったね〟といった〝労いの気持ち〟も感じられます。

 「鏡餅」は大きければ大きいほど、それに比例して〝割れ〟も大きくなるものです。逆に言えば、「鏡餅のヒビや割れの大きさ」は、或る意味〝ステイタス・シンボル〟でもあったのかも知れません。

 〝物そして物事の本質〟を〝有無を言わさずズバリと言い切る〟西東三鬼ここにありと言える秀句です。団塊世代の方々には、本句によって、子供時代の正月の記憶や想い出が甦って来たのではないでしょうか。

 

  青黴の春色ふかし鏡餅   佐々木 有風

 一般家庭において自分たちで「ついた餅」は、言うまでもなく防腐や防黴処理を施すことはありませんでした。そこで当然のことながら〝ヒビや割れ〟だけでなく、〝黴(カビ)〟にも見まわれたものです。といって嫌悪感や悲壮感はなく、子供の頃は〝黴の部分だけ〟を巧みに〝こそぎ落す〟ことを、ゲーム感覚でやっていました。

 その土地や室内の温熱環境にもよるでしょうが、「青黴」が生えるまでには結構時間がかかったように記憶しています。本句の「春色ふかし」に、その時間の経過がさりげなく詠み込まれていますね。

 ところで「春色」とは、〝春らしい柔らかい光や明るさ〟がもたらす「春の景色や趣き」を意味する「春の季語」であり、また「青黴」も、本来、梅雨期を象徴するものとして「夏の季語」になっています。

 とはいえ、ここでの主役はあくまでも「鏡餅」(新年の季語)であるため、「春色ふかし」は、「鏡餅」に係る形容となっています。つまりは〝戸外の景色〟云々ではなく、〝気がつけば、青黴が生えるほど時間が経過していたんだ〟といった感じに受け止める必要があります。

 正直に言えば、当初この句は〝鑑賞文を付けず、例句のみの紹介〟の予定でした。それはやはり、トリプルの〝季重なり〟が気になっていたからです。

 しかし、先ほどの「三鬼の句」をよりよく理解していただくためには、欠かせない句との判断によって鑑賞を加えました。

                ★

 「餅」と来たら、次はやはり「雑煮」でしょうね。

 しかし、こと「季節限定の食べ物」となれば、それこそ〝地域の風土や慣習〟それに〝各人各様〟の好みがかなり異なるため、収拾がつかなくなるおそれがあります。そこでここでは、「例句」のご紹介だけにしておきましょう。

 もし私が、うっかり「博多の雑煮」について語り出すとなれば、今日この「俳話」はとても終わりそうにないでしょう。そのため、ここでの鑑賞は強制終了といたします。

  高砂や雑煮の餅に松の塵        志太 野坡

  脇差を横にまはして雑煮かな      森川 許六

  笹鳴きを覗く子と待つ雑煮かな     渡辺 水巴

  空たかき風ききながら雑煮かな     臼田 亜浪

  (はぜ)だしの博多雑煮は家伝もの 小原 菁々子  

                ★

 次は「初夢」。「上巻」でご紹介した「講談社版・大歳時記」では、「初夢」を〝正月元日から二日にかけての夜見る夢〟と定義付けています。

 しかし、他の「歳時記」では、〝正月二日の夜あるいは節分の夜(昔の節分は正月)の夢〟としています(角川:入門歳時記)※注②)。

 

  初夢のあいふれし手の覚めて冷ゆ   野澤 節子

 夢の中で触れた手と手。それは〝ゆったりと揺蕩(たゆた)うような調子〟からして、「作者」と「異性(男性)」ということでしょうか。とはいえ、その「男性」がどのような人物で、また二人の関係がどのようなものであるのか、もちろん何一つ判ってはいません。

 というより、そもそも「夢そのもの」の多くが〝とりとめもない〟ものであり、〝儚(はかな)い〟存在なのですから。

 それでも〝夢とは潜在願望の充足である〟とするS・フロイトの精神分析学的「夢判断」に従えば、やはりこの場合の「男性」は〝特定の人〟ではないでしょうか。

 私がそう感じた一番の理由は、「覚めて冷ゆ」という下五の表現にありました。どこか〝自分自身をも突き離したような醒めた〟言い回しです。

 そこには、作者の〝口惜しさ〟……もっと言えば〝落胆〟のようなものが感じられたからです。それを、病弱であったと言われる節子の〝生〟そして〝性〟の〝密やかな 心の叫び〟と言うのは言い過ぎでしょうか。

 「あいふれし」は「相触れし」であり、もちろん〝互いに触れ合う〟ことを意味しています。本句では「あいふれし」として、〝だけが触れ合ったような〟表現となってはいますが……。

 「あいふれし」と「ひらがな表記」にしたことによって、「漢字」部分の「初夢・手・覚・冷」の4文字が、不思議な結びつきと響きを感じさせてもいるようです。

 もちろん、それはこの「初夢」に対する節子自身の心の有り様であり、読者へ何かを託しているように私は受け取ったのですが。

 これ以上のことは控えることにして、読者各位のイマジネーションとクリエイティビティにお任せしましょう。

  なお本句鑑賞に当たっての参照句として――、

  初夢や秘して語らず一人笑(え)む      伊藤 松宇 

  初夢の思い出せねどよきめざめ    三浦 恒礼子

 の2句をあげておきましょう。その他〝いかにも初夢らしい〟雰囲気たっぷりの例句として、 

  初夢に見たり返らぬ日のことを     日野 草城

  初夢のせめては末のよかりけり     久保田 万太郎

  初夢の河が光ってをりしのみ      加倉井 秋を

 

 そして――、

  初夢の扇ひろげしところまで     後藤 夜半

 この場合の「」は、作者の二人の実弟が「能楽師」であることを考えると、能楽で使われるものかもしれません。

 「初夢」にかぎらず、およそ「」というものは、この句の「扇ひろげしところまで」のように、〝結末がなんとも曖昧〟という感じのものが大半ではありませんか? そのため〝あの先は、どうなるんだろう?〟という、モヤモヤ感に付き纏われるようです。

 あるいは〝何のためにこういう夢を……〟とか、〝その夢が過去、現在の自分と、どのように関わって来たのか……また将来、どのように関わろうとするのか〟といった「?」を突きつけられることも数多くあることでしょう。

 まさしく、あの「いろは歌」の最終句〝あさきゆめみし、ゑひもせす〟(浅き夢見し、酔いもせず)に通じています。

 

 ところが――、

  初ゆめのゆめの深さに溺れをり  村沢 夏風

 というのですから……。「ゆめの深さに」……「溺れをり」ですよ。あのMr.タモリは、同郷のMr.鉄矢に言うでしょう。

 『……鉄ちゃん。どげん思うね? 初夢ってゆうたっちゃ、たかが夢やなかね。その夢が深いてバイ。そやけん、溺れようて言いよんしゃあ……。あんた、なんか言葉ば、贈ってやりんしゃい……。』

 もっとも、人さまが意見したり慰めたりしたところで、解決する問題ではありませんが。果たして夏風氏の初夢とは、一体どのようなものだったのでしょうか。ず~っと気になっています。

 ついでに言えば、この句も〝ひらがな〟の使い方が巧みです。「初夢」の「夢」を「ゆめ」としたことにより、上五の終りと中七の始めとが、「……ゆめのゆめの……」と、素晴らしいリフレインとなっているからです。

 それだからこそ、下五の「溺れをり」がグンと引き立つとともに、上五へ戻っての「初ゆめの」そして中七の「ゆめの」への流れが、いっそう流麗になっているのです。

 文字を目で確かめながら、ゆっくりと何度も口ずさんでみませんか。作者の気持ちに近づくことができると思います。

          ★  ★  ★

 

 最後は、昔々の「お正月の遊び」について――。

 私の子供の頃、正月には本当に「」を揚げたものです。もちろん何人かの近所の子供や大人達も一緒でした。「」を揚げる「空」と、走り回る「原っぱ」とがあったからでしょう。

 テレビもゲームも携帯電話もなく、コミック雑誌も満足にない時代でした。文字通り目を瞑って〝瞑想〟するとき、実に鮮やかにそのときの原っぱや周辺の光景、そして仲間や大人達の顔の表情や身ぶり手ぶりが甦って来ます。

 しかし、実は「」そのものは「新年の季語」ではなく、「春の季語」となっています。「独楽」や「羽子板・羽根つき」それに「手毬・毬つき」が「新年の季語」になっているだけに、個人的にはちょっと残念な気が致します。

 ところで「独楽」に関しては、特に「正月」だからといって遊んだ記憶はありません。それは、一時期、日常的に遊んでいたからでしょうか。

 一方、女の子達の「羽根つき」や「手毬つき」……。遊んでいた女の子の顔立ちや声の弾みなども、案外記憶に残っています。私と同世代の方々は、みなさん同じではないでしょうか。

 

  羽子板の重きが嬉し突かで立つ  長谷川 かな女

 この句は、小学一年生の頃の私の実体験でもあるのです。もちろん正月であり、着物姿の三人姉妹でした。上は、確か小学4年か5年生だったと思います。真中が私より一つ上、そして下の子は五つくらいではなかったでしょうか。

 三人が手にしていたのは、大きくて分厚い、いわゆる「役者絵」と言われる少し派手なものでした。幾重もの布地の工作が施された、とても豪華な、そして重たそうな「羽子板」でした。「飾り羽子板」であり、実際に「羽根つき」をするものではありません。 

 淑やかな仕草の「上のお姉さん」が、急に〝大人びて見えた〟のがとても印象的でした。下二人も可愛らしく見えたものの、今思えばお姉さんの〝引き立て役〟というところでしょうか。しばらくして着替えに戻ったこの二人は、ふだんの感じで遊んでいたようです。

 この句の「重きが嬉し」に全てが言い尽されていますね。

 関連句として、

  羽子板や唯にめでたきうらおもて    服部 嵐雪

  音冴えて羽根の羽白し松の風       泉 鏡花

  羽子板や子はまぼろしのすみだ川   水原 秋櫻子

               ★

 女の子達の「手毬つき」も、その「唄声」とともに記憶しています。といっても「唄の内容」は、全く憶えてはいませんが。

  手毬唄かなしきことをうつくしく   高浜 虚子

 この句も、正月の句としてはかなり有名な作品です。

 手毬と言えば、女の子が一人寂しく……という記憶はあまりありません。やはり、何人かがあれこれおしゃべりをしながら……あるいは、手毬唄を唄いながらというのが風情も臨場感もあっていいのでしょう。

   手毬つく髪ふさふさと動きけり    山口 波津女

 この句も次の句も、私個人の実景でもあります。「髪ふさふさと動きけり」に、元気溌剌とした少女達が、正月の淑気の中で……。

  姉のつく手毬妹(いもと)の手毬唄      野村 久雄

 住宅街の道路ことに表通りから少し引っ込んだ「路地」など、ごくまれにリヤカーを見かけることはあっても、車が通ることなど皆無と言ってよい時代でした。そこで女の子達が「手毬」をつくとなれば、そのかしましい声や弾んだ様子は、確たる風景となって路地に刻み込まれたのでしょう。

 しかもそれが〝正月の一こま〟となればなおのこと……。いつしか、ご近所間の年始の〝ささやかな挨拶のきっかけ〟となったのは確かです。そしてそのあと、ごく自然に他の子供や大人達が顔を出し、また笑みを浮かべながらそそくさと通り過ぎて行きました。

 それでも時折、近所のおばあさんや大きなお姉さんが、女の子達に交じって「手毬唄」を口ずさんだり、手毬を突いたり……。その様子に気づいた女子の中・高生もが、その輪に加わって来ました……。

 正月ならではの、そして〝あの時代〟ならではの風景だったのでしょうか。

                ★

  締めは「独楽の句」といたしましょう。どうぞ。各位それぞれのご鑑賞を……。

  たとふれば独楽のはじける如くなり    高浜 虚子

  はし汚れたる新しき独楽の紐        後藤 夜半

  手のくぼに重さうしなひ独楽まはる    篠原 梵

  独楽舐(ねぶ)鉄輪の匂ひわれも知る  橋本  多佳子 

  一片の雲ときそえる独楽の澄み       木下 夕爾

  おのが影ふりはなさんとあばれ独楽  上村 占魚

  独楽うつやなかに見知らぬ子がひとり  村上 しゅら

  ふところに勝独楽のあり畔をとぶ     神蔵 器

 ※4句目の「鉄輪」:かなわ。 この独楽は、独楽の「胴」の周囲に「鉄の輪」がはめられているものです。そのため、回っているときに独楽同士が接触した場合、「鉄輪(かなわ)」同士が〝こすれあい〟、その結果〝こすれあう鉄の匂い〟がしたと言う次第です。「(ねぶ)る」は「なめる」と同義。ここでは接触した「独楽」同士が〝こすれあう〟ことを物語っています。

    (完) 2021年1月5日 午前11時52分 花雅美 秀理

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長谷川かな女 (はせがわ かなじょ)/明治20(1887.10.22)~昭和44(1969.9.22)。高浜虚子主宰の俳誌「ホトトギス」において、杉田久女竹下しずの女等とともに、大正期を代表する女流俳人となる。俳人の長谷川零余子(はせがわ れいよし)は夫。

佐々木有風/明治24(1891.4.12)~昭和34(1959.4.13)。新潟県新発田市生。東大法卒。昭和2「雲母」に拠り、飯田蛇笏に師事。昭和28「雲」を主宰する。

後藤夜半(ごとう やはん)/明治28(1895.1.30)~昭和51(1976.8.29)。大阪市出身。大正12より「ホトトギス」入会、高浜虚子に師事する。同誌の日野草城、山口誓子、阿波野清畝等と「無名会」を結成。昭和7に「蘆火」を創刊主宰するも病気のため廃刊。 昭和23「花鳥集」創刊主宰、28より「諷詠」と改称。

 なお喜多流の能楽師で人間国宝の後藤得三、喜多流十五世宗家の喜多実はともに実弟。また後藤比奈夫(ごとうひなお)は子息。 

西東三鬼(さいとう さんき)/明治33(1900.5.15)~昭和37(1962.4.1)。岡山県出身。現・日本歯科大学卒。歯科医。1933三谷昭らが創刊した日野草城選「走馬燈」に投句、翌年、同人となる。「馬酔木」「天の川」「旗艦」「天香」に拠り、伝統俳句から距離を置いた「新興俳句運動」の中心人物の一人として活躍。戦後は「現代俳句協会」の設立に参与。「激狼」「雷光」「断崖」を主宰。

山口波津女(やまぐちはつじょ)/明治39(1906.10.25)~昭和60(1985.6.17)。大阪市北区中之島生。父親が俳句をしていたこともあって、自宅に高浜虚子、村上鬼城が来泊。昭和2、山口誓子に俳句の指導を受け、翌年、誓子と結婚。「ホトトギス」「馬酔木」の同人を経て1948年、誓子主宰の「天狼」創刊と同時に同人となる。

村沢夏風(むらさわ かふう)/大正7(1918.11.14)~平成12(2000.11.29)。東京都出身。保善商業校卒。1942「鶴」に入会し、石田破郷(いしだ はきょう)に師事。1987に村山古郷(むらやま こきょう)没後の「嵯峨野」を継承し主宰となる。

野澤節子(のざわ せつこ)/大正9(1920.3.23)~平成7(1995.4.9)。横浜市生。フェリス女学校二年在学中に脊椎カリエスを病み中退。病臥の身で哲学書等を乱読する中、松尾芭蕉の「芭蕉七部集」と出会って俳句との縁を得、大野林火の「現代の俳句」に感動。臼田亜浪の「石楠(しゃくなげ)」に入会したのち、林火の「濱(はま)」創刊とともに参加、師事。翌年、同人となる。

    女の手年の始めの火を使ふ           野澤 節子

         ★  ★  ★  ★  ★

 

 参考

※注①: 私が小学生の頃、福岡市東区の一部では、基本的に「餅つき」は〝各家庭〟若しくは〝数軒共同〟というスタイルで行っていたようです。とはいえ、「石臼に杵(きね)」それに「もち米」を噴かす「蒸籠(せいろう)」等はどの家庭にあるものではなく、大半の家庭が特定のお宅や農家などから一式を借り受けていました。

 また当時は専門の「餅つき代行屋」も存在し、大きな特製のリヤカーに、「小型の釜戸、石臼、杵、蒸籠など」を積み込んでいました。今でも当時の事はよく憶えています。

※注②: 「合本俳句歳時記」では、「元日又は二日の夜見る夢」/「現代俳句歳時記」では「元日から二日に見る夢」/「ホトトギス俳句季題便覧」では「二日の夜から三日の朝にかけてみる夢」としています。

※参考資料(追加)

「上・中巻」に追加:「入門歳時記」(大野林火監修・俳句文学館編/角川書店)。


・新春俳話―中巻(女流にみる抒情と余情)

2021年01月03日 12時12分49秒 | ■俳句・短歌・詩

 女流における抒情と余情

  さて、「元日」の鑑賞対象となった五人の俳人は、いずれも男性でした。

 そこで今日は「女流」に重点を置いた巻として、お三方に登場していただきましょう。もちろん私が大好きな「女流俳人」であり、また大好きな「作品」です。

 

 まずは次の一句から――、

  鵜は潜(かづ)き鷗は舞ふを初景色   鈴木 真砂女

 「初景色」とは、「元日に眺める晴れやかな景色」をさす季語です。もちろん、「晴れやかではない」句も可能ですが……。それにしても、いかにも俳句らしい、そしてまことに「新春」に相応しいといえるでしょう。

 「潜(かづ)く」は、「潜(もぐ)る」の古語のようです。(かもめ)も一緒にいるところから、この場合の「(う)」は、「カワウ(川鵜)」ではなく「ウミウ(海鵜)」と考えられます。ということは、やはり「海」を背景としたものでしょう。

 私の住んでいる近くに、国宝の「金印(※注①)」出土で名高い「志賀島」が見える海岸があります。長崎の小さな島で生まれた私は、とにかく子供のころから海が大好きでした。そのため、週に2、3回はここに車で出かけ、砂浜や海に面した丘や雑木林を、健康管理の一環として散策しています。

 実は4日前の旧臘(きゅうろう)30日も、体調がかなり戻っていたので思いきって出かけ、冬濤(なみ)に荒れる早朝の浜辺を、防寒具を着込んで歩き回ったものです。ほとんど人影らしきものもない暗雲立ち込める冬の海は、冬独特の北風や北西風が強く、この十年の散策の中でももっとも寒く、そして荒れた海景でした。

 その海辺に続く小さな湾そして漁港に、旧臘初旬、一羽の「ウミウ」を見かけました。まさに「カワウ」と同じような潜り方で魚を取っていたのです。

 そしてその上空には、悠々と「」が飛んで……。まさしく誰かの歌の〝…♪  かもめは飛んで~ ♪……〟そのものの世界でした。

 「句意」は説明の必要もないと思いますが、簡単に言えば。 

 ――清々しい、静かな元日の海辺――(湾の一角にはちょっとした商易港や、小さな漁港があるのかも知れません)――。そのには、〝ゆったりと流すように、穏やかに舞い浮かぶ〟が。

 一方、下界のには、〝思いついたように、ふいに潜って魚を銜(くわ)える(ウミウ)〟が戯れるように……。

 そのコントラスト豊かな光景が、「元日の景」として目に映るのですから。何と〝ゆとりある穏やかな時間〟でしょうか。

 

             ★

  初景色富士を大きく母の里   文挟 夫佐恵

 「初景色」が「富士山」というのです。一見すると少々〝出来すぎ〟であり、俳句表現的には、「梅に鶯」のように〝即(つ)きすぎ〟となりかねません。

 しかもこの句の場合、「初景色」…「富士」…「大きく」…と、贅沢にもトリプルで畳みかけているのですから。

 ところが、最後に「母の里」を据えたことによって、〝出来すぎ・即きすぎ〟感は一瞬にして霧消したのです。のみならず、この句の底に流れる〝秘められた静かな詩情〟と、〝揺らぐことのない母への慕情〟とが、しっかり結びあわされたといえるでしょう。

 ただでさえ〝荘厳で雄大な富士〟……その「富士山」を〝大きく見据えることのできる母の里」〟。句の表現として、「富士を大きく」と「母の里」の〝あいだ〟には、もちろん「仰ぎ見ることができる」や「受け止め感じ取ることができるほど近い」といった言葉や想いが省略されているのです。

 まさしく、俳句ならではの〝独特な省略〟によって、読者の感性やイマジネーションを巧みに刺激しているとも言えます。

 しかもその「富士山」は、元日、正月に限らず、いつでもどんなときでも、「母の里」に厳然とその姿を現しているのですから。

 「富士を大きく」という表現からは、「富士山」に〝見守られ〟また〝抱かれている〟と言う〝秘かな誇り〟と、〝揺るぎない安堵感〟のようなものも伝わって来ます。作者にとっての「母の里」とは、恰好の「まほろば」なのかも知れません。

                

 ところで読者の中には、ご自身や身近な方の「郷里」が、まさしく〝富士山を仰ぎ見るほど大きく眺めることができる〟と言う方がいらっしゃるでしょう。事実、「富士山」はお気づきのように、地理的には静岡県の4市1町、山梨県の1市1町に跨っているようです。

 静岡側の富士市や富士宮市、山梨側の富士吉田市や富士河口湖町等が当該市町村ですが、地理的に跨ってはいなくとも、「富士山を大きく見上げることができる市町村はかなりあることでしょう。

 今回、この句を採りあげたのも、そういう地理的背景を考慮した上での判断でした。それにしても「富士山」の「絶景スポット」が、ネット上において〝あちこち〟紹介されていますね。

 そういうメディアの訴求力によって、〝富士山に対する日本人独特の親近感や憧れ〟は、より多くの人々に、そしてより深く広く伝わって行くのではないでしょうか。

 とはいえ、中には本句について、「とりたてて言うこともない」と思われた方もあるでしょう。特に趣向を凝らした目新しい〝言い回し〟もなく、ただ淡々と拙いと思えるほどの平凡な表現に徹しているのですから。

 しかし、何と言っても「富士山」であり、それも「初景色」として、あらためて「その雄大な威容を眼前にしながらの想い」となれば、話は違ってくると思います。しかもそこが、最愛の「」と言うのですから……。

 初夢に、「富士二鷹三茄子」(いちふじにたかさんなすび)が出て来れば、縁起よしという〝大和の国〟日本。その「富士山」が、現実の景として今まさに眼の前に聳え立っているのです。

             

 

  初富士にかくすべき身もなかりけり   中村 汀女

 これも素晴らしい一句ですね。 この句については、元日稿の最後に「資料」として記した、「カラー図説 講談社版 日本大歳時記:新年巻」において、加藤楸邨氏の短い鑑賞文があります。

 私の鑑賞文の趣旨も同じと言えるでしょう。というより、どなたが鑑賞しても、最終的には同じような内容になるような気がいたします。それは取りも直さず、本句が〝人間それぞれの人生観や思想・心情〟を超えた〝あるべき人間精神の根源〟に根差しているからではないでしょうか。

 さきほどの「初景色富士を大きく母の里」の句の鑑賞文が、ここでも活きています。

 「元日」の「富士山」を意味する「初富士」――。霊峰としてのその雄大で清麗な姿を前にしたとき、人は何を感じるのでしょうか。おそらくそこでは〝自分はどうあるべきか〟といった、揺るぎない深層の思いが呼び覚まされるような気がするのですが……。

 春夏秋冬を問わず、何ら隠れることもなく、また隠れようともせずに〝堂々たる真実の姿〟を晒し続ける「富士山――。それはまた私達に対しても、〝かくあるべきでは〟と語りかけているのかも知れません。

 少なくとも私自身はそう感じたのであり、また作者自身も同じなのだと思います。下五の「なかりけり」に、作者の並々ならぬ〝覚悟〟とともに、そう言う〝覚悟〟を促した「富士山」への感謝と畏敬の念を込めた措辞として伝わって来るのですが……。

                ★

 

  生きることやうやく楽し老の春      富安  風生  

 「老の春」とは、これまた俳句独特の省略表現により生み出された「季語」といえるでしょう。〝年老いて迎える新春〟といった感じですが、少なくともこの句の場合の〝老い〟には、悲壮感や惨めさは一切ありませんね。

 「やうやく」は、「ようやく」です。それにしても、どうでしょうか。「生きることやうやく楽し」と言うのですから。93歳という天寿を全うした作者は、このとき何歳だったのでしょうか。私と同じ「団塊世代」そしてその前後の方々には、ちょっと……あるいは、う~んと気になるものかも知れませんが。

 「やうやく」に、残りの時間を淡々と生き抜こうとする思いがうかがえます。泰然自若と言ってしまえばそれまでですが、鷹揚に構えた〝心のゆとり〟が伝わって来ます。何とも心地よいと同時に、いつしか励まされてもいるようです。

                

  年立って自転車一つ過ぎしのみ    森 澄雄

 年立って」とは、「年が明けて」つまり「新年」を意味しています。この句の「年立って」は、「元日」と考えるべきでしょう。〝年があらたまった〟からといって、特別な何かがドラマティックに起きたり、また始まることもないようなのですが……。

 そういう凡庸な時の流れの中、〝……ああ、自転車が通り過ぎて行った……誰が、何処に何をしに行くのだろう……〟と、作者は自転車が過ぎ去ったほんの一瞬、漫然と……否、無意識のうちにそう思ったのかも知れません。

 読者のみなさんも私も、以上のように〝漫然とあるいは無意識のうちに感じ、またあらためて気づかされるという実感〟は、日常生活においてしばしば体験しています。そういう〝実感〟が、「元日」という特別な日であったとしたら……ということでしょう。

 そして〝その実感〟は、芥川龍之介の「元日や手を洗ひをる夕ごころ」の、〝あの夕ごころ〟の〝実感〟に通じるのかも知れません。

 本句を口ずさみながら、目を瞑ってみてください。作者が住んでいる「町並み」や、「作者の住まいの様子」までもが、何となく浮かんで来るような気がしませんか。

                ★

  初春や思ふ事なき懐手    尾崎 紅葉

 「懐手(ふところで)」とは、「和服(着物)」の場合をさしています。と言っても、おそらく普段着ている「どてら」(「丹前」に同じ)のようなものでしょうか。その袂に両手を忍ばせて(=差し入れて)、物思いに耽っているようです。

 実はこの「懐手」は、俳句の上では「冬の季語」となっています。本来、手の冷えを防ぐささやかな採暖の意味があるからでしょう。

 私は読んだことがありませんが、作者が「金色夜叉」の作者であることは、或る程度の認知があると思います。しかし、彼が「俳人」であったことは、ごく少数の方しか知らないでしょう。

 「思ふ事なき懐手」に、いかにも「文人」らしい風貌や所作が感じられますね。というのも、正月「三が日」を詠んだものに、次の様な一句があるからです。

  一人居や思ふ事なき三ケ日   夏目 漱石

 「思ふ事なき」は、全く同じですね。漱石の場合は〝一人でいる(一人居)〟と詠んでいますが、紅葉もそのとき、ひょっとしたら〝一人きり〟だったのかもしれませんね。

 とはいえ、家族や大勢の他人と居ても、〝いつでも何処ででも、自分一人の精神世界に没入可能な文人〟のこと。「懐手」をしただけで、スッと〝特別に何か思う事がなくとも、独自の自己の世界〟に入って行けるのでしょう。

                ★

 

 以下は、「作品」のご紹介のみとさせていただきます。各位の自由な鑑賞をどうぞ。

 なお「二日」及び「三日」とは、それぞれ「正月二日」と「正月三日」のことであり、いずれも「正月」の二文字を略した俳句独特の「季語」となっています。 

 また小中学生のみなさんに申し上げますが、先ほどの「三ケ日」(さんがにち)は、「元日」「二日」及び「三日」の三日間を通した呼称ですね。

 

      初景色光芒すでに野にあふれ       井沢  正江

   初富士のかなしきまでに遠きかな      山口 青邨 

  初富士の抱擁したる小漁村         松本 たかし

  初富士の暮るるに間あり街灯る       深見 けん二 

  耽読の一夜なりける二日かな         石塚 友二

   琴の音の松風さそふ二日かな         川上 梨屋

  商いの主にもどり二日かな             広瀬 安子

  炉がたりも気のおとろふる三日かな    飯田 蛇笏

  三日の陽ほのと畳に平けき         上村 占魚

  武蔵野の鏡の空の三日かな        広瀬 一朗

 

 それでは今日はこのあたりで。次は五日の午後のひと時、「下巻」にてお会いしましょう。

         ★  ★  ★  ★  ★

 

尾崎紅葉 (おざき  こうよう)/慶應4(1868.1.10)(※注①)~明治36(1903.10.30)。東京生。小説家、俳人。明治新文学の旗手として、泉鏡花、徳田秋声らを育成。俳句は井原西鶴の談林風を鼓吹。角田竹冷(つのだ ちくれい)らと「秋声会」を起こす。

富安風生(とみやす ふうせい)/明治18(1885.4.16)~昭和54(1979.2.22)。愛知県生。東大法科卒。逓信省時代に俳句を始め、東大俳句会に参加。「ホトトギス」により高浜虚子の指導を受ける。昭和3年「若葉」の雑詠選者となり、のち主宰となる。

中村汀女(なかむら ていじょ)/明治33(1900.4.11)~昭和63(1988.9.20)。熊本県生。大正7頃より句作を開始、翌年「ホトトギス」へ入会。結婚により中断するも、杉田久女(すぎた ひさじょ)の「花衣」創刊に参加して再開。「星野立子(ほしの  たつこ)」「橋本多佳子(はしもと たかこ)」「三橋鷹女(みつはし たかじょ)」とともに「四T」と呼ばれた。

鈴木真砂女(すずき まさじょ)/明治39(1906.11.24)~平成15(2003.3.14)。千葉県鴨川市生。実家は「吉田屋旅館(現・鴨川グランドホテル)」。22歳で結婚するも夫蒸発により実家に戻る。長姉死去により、その夫と再婚して旅館女将に。死去した長姉の俳句関係の遺稿整理が縁で俳句を始める。久保田万太郎の「春燈」入会。万太郎死去後は安住敦(あずみあつし)に師事。

 ◆新涼や尾にも塩ふる焼肴 鈴木真砂女(2015.9.16) クリック

文挟夫佐恵(ふばさみ ふさえ)/大正3(1914.1.23)~平成26(2014.5.19)。小学生の頃より作句を始める。1944年、飯田蛇笏主宰の「雲母」入会。1961年、石原八束(いしはら やつか)と共に「」創刊に参加、同人となる。1998年、八束の死去により主宰を引き継ぐ。99歳で「蛇笏賞」受賞(史上最高齢)。老衰のため100歳で死去。

森澄雄(もり  すみお)/大正8(1919.2.28)~平成22(2010.8.18)。長崎県出身。昭和15年、「寒雷」創刊と同時に投句。加藤楸邨に師事。戦後同人となる。昭和45年「杉」創刊・主宰。九州大学経済卒。

 

※参考

 ※注①:「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」と刻印されたもの。

 

 


・新春俳話―上巻/虚子・芥川/新年のご挨拶

2021年01月01日 12時15分09秒 | ■俳句・短歌・詩

 

 恭 賀 新 嬉         

 新しき年の始まりを寿ぎ、みなさまのご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

                

 今年は、「オリンピック」の実施が予定されておりますが、いかが相成りますことやら。神のみぞ知ると言うところでしょうか。

 さて、終息の気配を見せないどころか、何やら深刻さを増し始めた感のあるコロナ禍――。それに伴う国内外の諸事情は、混迷の度合いを深めているような気が致します。

 それ加えて新しい内閣の下、国政の成り行き〝いかばかりか〟と、先行きの不安をお感じの方は多いのではないでしょうか。

 ……と、ここで無粋な放談を綴るのも如何なものかと思われますのでこの辺で控え、推移を見守りたいと思います。

 やはり、「一年の計は元旦にあり」。明るく心地よいことに越したことはありませんね。

 そこでこのたびは、この元日」「三日」そして「五日」の3回に分けて、「新年・新春」にちなんだ「俳句」についてのお話をと思います。

 読者各位も、ご自身なりの「鑑賞世界」をお楽しみください。

 ささやかなひととき、何かを感じていただければ幸いです。

          ★   ★   ★

 

 それでは、さっそくまいりましょう。まずは――、

 去年今年貫く棒の如きもの  高浜 虚子

  この句は、以前どこかでご紹介しました。「去年今年(こぞことし)」と聞けば、反射的に「この句」が出て来る方は多いことでしょう。それほどよく知られた句であり、多くの人々に感銘を与えて来た「秀句」です。もちろん、これからもそうでしょう。

 実はつい今しがた、年賀状が来た様子のため思わず中座して取りに行きました。何とその中の一枚に、Sさんという方より「この句」が達筆な筆文字によって認められていました。私はつい嬉しくなって一人悦に入り、久方ぶりにはしゃいでいたのです。

 何と幸せな元日であることでしょうか。……Sさん、ありがとうございます。お返事の書信を送らせていただきます。もちろん、私も筆文字にて。ただし、ご承知の乱筆にて。

 ……さて、お分かりだとは思いますが、「去年(こぞ)」と「今年」とは、1月1日の「午前0時」を境に隔てられた「時間」です。したがって「去年今年」とは、その切り替わる〝一瞬〟あるいは〝いっとき(一時)〟の感慨や趣きを意味しています。

 それにしても見事な表現ですね。「俳句」が「十七音」で成立する「短詩形の文学」であることを、改めて感じさせられます。余計なことは一切言わず、「去年」と「今年」との〝連続した時間の確かさ、その盤石とも言える強さを、ズバリ切り取っています。

 その潔さと、「棒の如きもの」と力強く言い切ったところに、凛とした年頭の雰囲気とともに、さりげなく〝作者自身の覚悟〟が籠められています。

 ここでの「棒の如きもの」とは〝時間的なこと〟に留まらず、そういう「時間」の中で生きている〝作者自身の肉体や精神(魂)〟も含んでいるのでしょう。

 のみならず〝万人共通の覚悟〟として、私達に向かって〝共にかくあるべきでしょう〟と言っているかのようです。そこに、本句の格調高いメッセージ性が潜んでいるのではないでしょうか。

 そして、この虚子の句が出て来れば、もう当然のように「次の一句」が、筆者のたましいに降りて来るのです。

 

  元日や手を洗いをる夕ごころ  芥川 龍之介

 初春、新年、そして正月……と言えば、何はともあれ「この句」を避けることはできないと個人的には思うのですが。

 俳聖「松尾芭蕉」の〝謂ひおほせて何か有る(言いおおせて何かある〟(注①)という〝(言外の)余情〟を、何と静かにさらりと言ってのけたのでしょうか。語り尽くせないほどの感興を呼び起こす余情であり、飽きることがありません。

 

 『……ほらほら、正月の来たろうが。今日は元日バイ。 

 …………ん? ……もうそげな時間ね? 早かね~え。正月の来るとは、遅かったばってん、来たて思うたら、ほんなごつ早かぁ~。 もう、元日の仕舞えようバイ。』

 と、福岡出身のタモリ氏や武田鉄矢氏であれば、あるいは……。

 

 閑話休題――。実はつい最近、行方不明になっていた『芥川龍之介句集―‐我鬼全句』を発見しました。あまりにも大事にしすぎて、押入れの一番奥の「段ボール」に埋もれていたのです。

 その〝発見の経緯〟と〝ブログ記事の一部訂正〟を、当該記事の巻末に記述しております。これまでに、本ブログの「俳句鑑賞(2010年1月1日)」において「この句」をご覧になった方は、この機会にご確認ください。

 また今回、初めて「この句」をご覧の方は、ぜひその「鑑賞文」に目を通していただければと思います。そのため、詳細はその「鑑賞文」に譲りますが、「ひと言」ここでコメントすれば――、

             

 元日、それも夕暮れが近づき始めたひととき――。その〝何とも言えない独特な手持無沙汰の感慨〟――。

 年が改まることによる〝何ということもない、しかし秘かに湧き起こるささやかな想い〟……と言ってもそれは〝頼りないもの〟であり、ことさら期待するほどのものではないのかも知れません。

 そのことを誰よりも解かっているがゆえに、作者は〝取り立てて何かをする〟ということもなく、漫然と元日をやり過ごしたのでしょうか。ふと気が付いたとき、柄杓に掬った水を〝何気なく手にかけていた〟……。

 今日から始まる「新しい一年」が、何と言うこともなく過ぎ去ろうとしている夕べ――。ささやかな願いや思惑とともに、予想もつかない不備や失態が、これから起きないとは限りません。〝生きて行くこと〟とは、〝不確定な日々の到来〟の繰り返しでもあるのですから――。

             

 病的なまでに繊細な芥川独特の感性であり、悟性と言えるでしょう。もちろん、そこに「芥川龍之介」の、そして彼の作品の〝尽きることのない魅力〟もあるのですが。

 ……おっと……。芥川を語り始めたら先に進まなくなりそうです。そのため、ここで「強制終了」と致しましょう。詳細は、下記の記事にてどうぞ。

 本ブログの掲載記事(2010年1月1日)

 ◆元日や手を洗ひをる夕ごころ  芥川龍之介 クリック!

           ★ ★ ★

 

 では、気持ちも新たに――、

  飛び梅やかろがろしくも神の春   荒木田 守武

 この「飛び梅」とは、筑前の国・大宰府に流された菅原道真を慕って、京都から飛んできたという「梅」の故事によるものです。作者は〝遊び心〟によって詠んだのでしょうか。

 「神の春」に新年を寿ぐ意味合いがあり、「かろがろしくも」に、「いとも簡単に都(京都)からはるばると飛んで行ったものよ」といったニュアンスがあるようです。

 とはいえ、筆者には「かろがろしくも」に、〝軽佻浮薄〟や〝真剣味の欠如〟といった思惑を、何となく感じてしまうのですが。下五が〝目出度い〟「神の春」で止まっているため、批判めいた気持ちはないのでしょうが、しかし、気になりますね。

 もっとも、そこが「俳諧」本来のエスプリの香りであり、諧謔の妙というものでしょうか。本句は、現代の「俳句」の原点・原型という意味と、地元人間としての「太宰府愛」を籠めてご紹介しました。

 先ほどのタモリ氏や鉄矢氏なら、「飛んできた梅」に向かって――、

 『……都から? よう飛んできんしゃったねぇ、こげんとこまで。 何てぇ? あんた、道真さんの追っかけね。 ……で、これからどげんすっと? ん? ずっ~と、ここ、大宰府におるてねぇ……。』

 もう60年ほど前になるでしょうか。両親と妹二人に筆者(高校1年だったと思います)の五人で、大晦日から元日にかけて、太宰府天満宮他の「三社参り」に車で出かけたことがあります。途中何回か大渋滞にかかり、運転手の父以外、みんなぐったりしたものです。

 ……しかし、この「太宰府天満宮」そして「梅」と来たら、「福岡んもん」には、条件反射的に「梅ケ餅(うめがえもち)」となるのでしょうか。

 『……鉄ちゃん、あんたどっちの(あん)ね? ? さらし? 』

 『……タモさん、どっちでんよかろうもん。腹に入ったら、同じやけん……。』

             

 

  日の春をさすがに鶴のあゆみかな   榎本 其角

 「日の春」は、「元日の朝」というほどの「其角」独自の「造語」と言われています。この目出度い朝日の輝く中、これまた目出度いと言われる「」が、新年の淑気の中をいかにも相応しげに歩いていると言うのですから……。目出度さも、ひとしおというところでしょうか。

 これに対して、一茶は有名な次の句――、

  めでたさもちゅう位なりおらが春   小林 一茶

 と「おらが春」、すなわち「わが世の春(この場合は新年)」の「目出度さ」を「中くらい」と表現し、庶民としての控えめな視点を語っています。

 いかにも「生活派俳人」として、自分の生活や自分自身をありのままに見つめた一茶らしい俳味です。それは――、

  正月の子供に成ってみたきかな   小林 一茶

 という一句によって、いっそうその特色を裏付けてもいるようです。まさしく、「一茶調」の面目躍如といった感があります。とはいえ、彼の生涯は非常にドラマチックであり、また哀しみに満ちています。

 でもせっかくの「おめでたい日」。別の機会にお話ししましょう。

 その他、以下のような句もあります。作品の紹介のみといたしますが、みなさんご自身の自由な鑑賞をどうぞ……。

 

  大空のせましと匂ふ初日かな       鳳朗

  初日さす硯の海に波もなし      正岡 子規

  大波にをどり現れ初日の出     高浜 虚子

  初空のたまたま月をのこしけり   久保田 万太郎

  初空へ藪をはなるる鵯(ひよ)の声   富安 風生

  初御空どこより何の鐘の音      村沢 夏風

  正月や霞にならぬうす曇       森川 許六

  正月や宵寝の町を風のこゑ     永井  荷風

  正月の太陽襁褓(むつき)もて翳る     山口 誓子

  元日やゆくへもしれぬ風の音     渡辺 水巴

  元日や枯野のごとく街ねむり     加藤 楸邨

  からっぽの空元日の滑り台           榎本 冬一郎

  元日や生涯医師のたなごころ   下村 ひろし

  元朝やいつもかはらぬ遠檜     阿部 みどり女

  元朝の吹かれては寄る雀二羽   加藤知世子

 ※九句目の「襁褓(むつき)」は、赤ちゃん用の「おしめ、おむつ」のこと。

 

  それでは明後日、「三日」にお会いしましょう。

 

       ★  ★  ★  ★  ★ 

 

 ※俳人参考  生年の早い順としております。

荒木田守武(あらきだ もりたけ)/室町時代の文明5(1473)~天文18(1549)。伊勢神宮(内宮)の神官、のち長官となる。「山崎宗鑑(やまさき そうかん)」とともに、俳諧の「始祖」と仰がれる。連歌や狂歌もよくした。

 ☛クリック ◆飛梅(飛梅伝説)【wikipedia】

榎本其角 (えのもと  きかく)/寛文1(1661)~宝永4(1707)。江戸生。1667頃、芭蕉に入門。芭蕉門下の俳人の中でも、特に「蕉門十哲」の一人と言われる。芭蕉没時に、一門の総代として追悼集『枯尾花』を編む。

小林一茶 (こばやし  いっさ)/宝暦13(1763)~文政10(1828)。北信濃(長野県)柏原の農民の子。3歳で生母と死別、継母との不仲により15歳で江戸にて奉公生活を送る。俳句は25歳で葛飾派に入門。しかし、知友を頼って流浪の民となる。

高浜虚子 (たかはま  きょし)/明治7(1874)~昭和34(1959)。愛媛県松山市生。伊予尋常中学在学中に、河東碧梧桐(かわひがし へきごどう)を介して正岡子規(まさおか しき)と文通、子規の命名により「虚子」と号する。明治45、碧梧桐ら新傾向の俳風に「守旧派」として対抗、「ホトトギス」に俳句の「雑詠選」を復活させる。

 この「雑詠欄」(※注②)より、村上鬼城(むらかみ きじょう)、渡辺水巴(わたなべ すいは)、飯田蛇笏(いいだ だこつ)、原石鼎(はら せきてい)等が輩出されるとともに、昭和期の「四S」と謳(うた)われた「水原秋櫻子(みずはら しゅうおうし)」、「高野素十(たかの すじゅう)」、「阿波野青畝(あわの せいほ)」、「山口誓子(やまぐち せいし)」も台頭する。

芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ) /明治25(1892.3.1)~昭和2(1927.7.24)。東大英文科卒。号は「澄江堂(ちょうこうどう)」、俳号「我鬼(がき)」。近代日本の文学に多大な影響を残した。小説「鼻」を夏目漱石が絶賛したことを契機に、終生「漱石」を師と慕う。

 俳句は大正7頃、高浜虚子に師事し、芭蕉やその門下生による「蕉門」俳句に関心を示す。彼の逝去は自殺によるものであり、その命日7月24日は、小説「河童」より名を取って「河童忌(かっぱき)」とされた。

 なおこの「河童忌」は夏の「季語」にもなっており、「我鬼忌」や「龍之介忌」ともいう。

          ※  ※  ※  

 ※注①:この「謂ひおほせて何か有る(言ひおおせてなにかある)」という言葉は、「蕉門十哲」と言われた芭蕉門下の「向井去来(むかい きょらい)」の俳論書「去来抄」から来ています。いわば〝師芭蕉の俳論的な教えの言葉〟を、去来が随行者の「聞き書き」という形式でまとめていますが、芭蕉や他の門人との問答が出て来るため、臨場感に富んだ記述と成っています。

 ※注②:「雑詠欄」とは、当該「俳句誌」の会員や読者が競い合って「投句」したもの。多くの結社誌において、選者が優秀な会員・読者の順に発表する欄となっているようです。

 ※参考資料(本ブログ「上・中・下巻」とも同じ) ・講談社版「カラー図説 日本大歳時記」の新年の巻/・「俳句の解釈と鑑賞辞典」(旺文社)/・「評解 名句辞典」(創托社)/Wikipedia。


・寒卵の秀句/石川桂郎:下

2018年01月07日 09時09分13秒 | ■俳句・短歌・詩

 

   「寒卵」の句で、他に「好きな作品」といえば――、

   大つぶの寒卵おく襤褸の上   飯田蛇笏

   寒卵二つ置きたり相寄らず    細見綾子

   寒卵薔薇色させる朝ありぬ    石田破郷

  以上三人の作者はいずれも故人だが、「秀句」として少しも色褪せることはない。

          ☆

   飯田蛇笏(いいだ・だこつ)は、大景を骨太の感覚で捉えた潔さが何とも言えない。無論、この句のように “深い精神性” に支えられた “繊細な視点” も好きだ。筆者は彼の子息、飯田龍太(いいだ・りゅうた)も大好きな俳人の一人であり、いずれ採り上げてみたい。

   その蛇笏の句――。「襤褸(ぼろ)」とは、擬態語の「ボロボロ」からきたのだろう。文字通り、「ボロ布」や「ボロの衣服」等を指している。前回述べたように「卵」は非常に貴重な栄養源であり、高価な食品だった。明治生まれの蛇笏にとって、その価値の持つ意味や重みは、筆者や桂郎以上に違いない。それもいっそう稀少性の高い「寒中の卵」が、「ぼろぼろになるまで着古された衣」の上に置かれている。

  おそらく、小さな「鶏小屋」に「卵」を採りに行った農夫が貴重な「一個」を発見し、それを土間に脱いだ綿入れの袢纏(はんてん)の上にでも置いたのだろう。「養鶏場」のような本格的な鶏舎ではなく、鶏もせいぜい家族用の数羽というところかも知れない。雰囲気的には、大した期待もしないまま見に行ったところ、思いもかけず「見事な大つぶ」を発見した……そういうニュアンスがあるようだ。

   だからこそ、自分が着ていた “襤褸にも等しい継ぎ接ぎだらけの袢纏” を脱ぎ、思わずその上に置いたのかもしれない。“みすぼらしく古びた襤褸布“とその上に置かれた生まれたばかりの新鮮な卵” 。もちろん、それは “大いなる生命” を宿している。だが“その生命” は、やがて食材として“人間の生命” に取り替えられる生命でもある。

         ☆                    

  細見綾子(ほそみ・あやこ)は、以前、“くれなゐの色をみてゐる寒さかな” を採り上げ、その際に今回の句を紹介していた。“をんな” たるものの “生理的・肉感的” な把握に、男としてはっとさせられるものがある。  

  彼女の寒卵の句意は平明ながらも、「卵」すなわち “卵形の本質” を見事に捉えている。二つを置いたのは人間だが、その二つは微妙に揺れ動きながら、まるで自らの意志を持っているかのように互いの間隔を保ち、決してくっつきあうことがない。しかもそれが、冬の寒気の中に沈黙を保ったまま収まっている。「卵」というありきたりの実景を詠みながら、夫婦や身近な人間関係を “卵に託して” いるのだろう。無論、この句も “掌に入る卵” なる “いのち” を、“人間” や “人間関係” に引き直してもいるようだ。

        ☆

   石田破郷(いしだ・はきょう)は、俳誌『馬酔木(あしび)』を創刊・主宰した水原秋櫻子に師事。同門の中村草田男加藤楸邨と並んで「人間探求派」と呼ばれることが多い。しかし、この二人との違いは、破郷が多分に “死の香りのする青春性のやりきれなさやほろ苦さ” を含み持っていることだろうか。それはやはり、病弱だったことによるのだろう。

 波郷の句は、寒い冬の朝、卓上の卵に淡い薔薇色の光が射しているという。薔薇色といっても、無論、「真っ赤な薔薇色」と言っているのではない。あくまでも心象としての薔薇色であり、それはかぎりなく淡い薔薇の色というものだろう。

  なお石川桂郎も水原秋櫻子に師事した時代もあり、破郷の俳誌『鶴』に参加している。この『鶴』において、桂郎は石田破郷、石塚友二とともに “鶴の三石” と呼ばれたようだ。 

          ☆

   ところで、石川桂郎は、先に紹介した“朝寒や粥の台なす三国志” の作者・細谷喨々の師であるとともに、筆者の師でもあった。と言っても、筆者は師の最晩年に入門したものであり、面と向かって指導を受けることもなかった。

   「入門」といっても、自ら意識的に「師」として選んだわけではない。たまたま俳句を始めるきっかけとなった人物の「師匠」が、桂郎師であったにすぎない。縁薄き師弟であり、師の死後から一年ほどで筆者の作句活動も終わりを迎えた。そのため、筆者の作句活動は実質三年ほどだろうか。

   正直言って当時、師の俳句は苦手だった。それに、師の最大の持論と言える “てめえの面のある句” を創れということに、素直に従う気にはなれなかった。というより、俳句を始めたばかりの三十前の「初級者」に、俳句における “てめえの面” などあるはずもなかった。

   だがこの数年、ようやく “師の句の味わい” が判るようになって来たようだ。(了)

        ☆

  石川桂郎(いしかわ けいろう) 1909.8.6-1975.11.6。東京出身。俳人。随筆家・小説家・編集者。本名、石川一雄。理髪店の息子として生まれ、家業を続けながら俳句を始める。1934年、杉田久女に入門。1938年頃、石田波郷主宰の俳誌「鶴」同人となり、一時期その編集を担当。戦後は水原秋桜子主宰の「馬酔木」に参加。また雑誌『俳句研究』(俳句研究社)の編集に携わり、1960年、俳誌「風土」を創刊して主宰となる。

   1951年、句集『含羞』により第1回「俳人協会賞」を受賞。1955年、小説 『妻の温泉』により「直木賞」候補となる。1974年、評伝『風狂列伝』により「読売文学賞」を、また翌年、句集『高蘆』以後の作品により「蛇笏賞」を受賞。

        ★   ★   ★

  ◆朝寒や粥の台なす三国志/細谷喨々:上

  ◆母をいぢめし人を焼く……/細谷喨々:下 

    ◆くれなゐの色をみてゐる寒さかな/細見綾子

 


・塗椀に割つて重しよ寒卵―石川桂郎:上

2018年01月01日 15時33分30秒 | ■俳句・短歌・詩

 

   塗椀に割つて重しよ寒卵  石川桂郎

   ぬりわんにわっておもしよかんたまご。旅先での「朝餉」を詠んだものだろうか。“何とか塗り” という、ちょっと洒落た「漆器」が眼に浮かぶ。句集『高蘆(たかあし)』より。昭和44年作。

   「塗椀」については、おそらく誰もが、形や大きさの割には意外に “軽い” と感じるはずだ。それはおそらく、日ごろ使っている “陶器か磁器” 製の「ご飯茶碗」の “重さ” が、揺るぎない感覚として掌に残っているからだろう。

   陶器や磁器の茶碗に「卵」を割り落としたところで、 “変化した重み” はそれほど感じられない。しかし、 “木製” の「塗椀」(漆器)であれば、“卵の分だけ変化したその重み” は明らかに掌に伝わって来る。しかもそれが “寒中” とくれば、指先はいっそう繊細にその違いを感じ取っているはずだ。

   その “小さな気づき” が、旅先の「とある宿房」であったとしたら。また、思わずその “銘” を確かめたくなるほどの「塗椀」であったとしたら。折しも、窓の外には「冬日の光」が充ち満ち……その気配を感じながらの朝餉であったとしたら。

   そして、そこに、 “色艶鮮やかな、ぷるんとした新鮮な黄身と白身” が、「塗椀」の中に躍り出たとしたら……。

   思わず、弾んだ気持ちで “卵とは、こんなにも重みを感じさせるものか” と呟きたくもなろう。

   果たして、師桂郎は “何処を誰と” 旅をしていたのだろうか。……いや、独り旅であったのかもしれない。いやいや、旅などではなかったのかも……。

   ともあれ、「割つて重しよ」に、“万感の想い” がこめられているようだ。無論、それは “卵だけ” ではないのだろう。師が “重しよ” と呟いたものの本当の “正体” とは? それとも、筆者の考えすぎというものだろうか。

       ☆

   「二十四節気(にじゅうしせっき)」の「小寒」から「節分」までを「寒の内」(※註1)という。実は「卵」は、この期間が一番滋養があって美味しいとされている。

   とはいえ、特にそれを裏付ける根拠もなさそうだ。おそらく、食材が満足になかった時代の、さらに食材が少ない “冬場” の “貴重な蛋白源” として重宝がられたために、そういうイメージが定着したのかもしれない。 

   ところで、「二十四節気」を、さらに約五日ずつ三つに区分した「七十二候(しちじゅうにこう)」では、「大寒」を次のようにしている。

  ・初候:「款冬華」―蕗の薹(ふきのとう)が蕾を出す。

   ・次候:「水沢腹堅」―沢に水が厚くはりつめる。

   ・末候:「鶏始乳」―鶏(にわとり)が卵を産み始める。 

   これはいわば「日本版」だが、中国本来のものでは「初候」が “鶏始乳” となっており、また日本では「次候」の “水沢腹堅” も、中国では「末候」に来ている。

       ☆   ☆

   小学五年生となった1958年春。引越先の自宅近くに「養鶏場」があり、「卵」をはじめとする簡単な食品を売っていた。ようやく “戦後10余年” を経過したというこの時代、「卵」は高価な食品であり、貴重な栄養源だった。そのため、病気見舞いの「贈り物」として喜ばれていた。 

   「卵」の価格の推移を調べてみると、1950(昭和25)年の価格を「指数100」とした場合、2012(平成24)年は僅か「9」、1958(昭和33)年は「42.8」となっている。

   つまり、平成24年時点の「卵一個」を「20円」とした場合、終戦から5年後の1950(昭和25)年は「一個220円」、1958(昭和33)年は「1個95円」したことになる。当然、大きさの違いによって価格は異なっていた。

   今日のように「パッケージ入り」はなく、“ばら売り” のものを必要な個数だけ買ったものだ。その際、養鶏場の “おばちゃん” が、裸電球入りの木製ボックスの「穴」に「卵」を当て、 “一個ずつ” 明かりに透かしながらチェックしていた。

   ひび割れや血卵、破卵、汚卵といった不具合の検査だったのだろう。問題がない卵を、一個ずつ大切に新聞紙片に包みながら、『これは大丈夫やけんね』と言って微笑んでいた。その微笑みは、「購入客」に対するものというよりも、“不良品でなかったこと” に安堵する “生産者自身の微笑み” であったような気がするのだが……。今でも「卵かけご飯」をするとき、このことを想い出すときがある。

   作家の名前は忘れたが、戦後すぐの頃、兄弟姉妹数人(3人だったように記憶している)が、「どんぶり飯」に「卵一個」を入れ、「醤油」をたくさん注いで分け合ったという話があった。そのため、幼い妹は “醤油の味” を “卵の味” と信じて疑わなかったと言う。

         ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★ 

 ※註1:「寒の内」…… 暦の上で寒さが厳しいとされる期間。「寒中かんちゅう)」ともいう。 「二十四節気」の「小寒(しょうかん)」(1月5日)の日から「立春」(2月4日)の前日(節分)までの約30日間をさし、「大寒(だいかん)」(1月20日)の日がほぼその中間となる。「小寒」の日を「寒の入り」、「立春」の日を「寒明け」という。なお、この期間中に見舞うことが「寒中見舞い」となる。★( )の月日は、2018年における日付。

 

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 新しい年の始まりに感謝と歓びを

   今年も一年を通じて平穏で安らかな日々でありますように。

   平成30年元旦

   花雅美秀理 拝

 

 

 


きのふの我に飽くべし――芭蕉の感性と創造性

2017年06月04日 16時12分51秒 | ■俳句・短歌・詩

  

  きのふの我に飽くべし

 大島蓼太(おおしまりょうた)の『俳諧無門関(はいかいむもんかん)』という俳書の中の言葉。「俳聖」といわれた松尾芭蕉が、常々口にしていたと言われています。

  蓼太は、「蕉門十哲」(しょうもんじゅってつ)のひとり服部嵐雪(はっとりらんせつ)の弟子であり、『世の中は三日見ぬ間の桜かな』の作者です。

   “きのふの我に飽くべし”――。解釈など必要なく、これほど解かりやすい言葉もないでしょう。思うに、このメッセージは、総てのクリエイティブな事柄に共通のスピリットではないでしょうか。文学や美術といった芸術分野にかぎらず、政治・行政や科学・医学、スポーツ、さらには学問・教育や遊びなどにも共通する普遍的な哲理と思います。

   要は、日々精進を重ね、固定観念や一面観的な「ものの見方」を排し、たえず新たなるものを求め続ける……。現状に安住することなく、たゆみない自己改革を実践する……。その積み重ねの結果、芭蕉は俳句における革命家となりえたのであり、子規、虚子そして四Sをはじめとする豊饒な俳句人脈を成す礎となったのでしょう。

 ……とはいえ、相当なエネルギーと持続力が求められることは言うまでもありませんが……。

 


・新涼や尾にも塩ふる焼肴/鈴木真砂女

2015年09月16日 01時23分40秒 | ■俳句・短歌・詩

 

    新涼や尾にも塩ふる焼肴  鈴木真砂女

 

  新涼(しんりょう)』とは、いかにも俳句らしい季語(季題)であり、この句は “季感” を余すところなく伝えている。“秋に感じられる涼気”、とりわけ “秋に入ったすぐの頃” の雰囲気であり、“夏の暑さ” の中では容易に感じ取ることのできない “爽やかな涼気” と言えるだろう。

  歳時記では、『秋涼し』や『秋涼(しゅうりょう)』と同義だが、“新鮮な” というニュアンスを含んだ『新涼』の “清新なひびき” には叶わない。といって、無論「季語」としての『秋涼し』や『秋涼』が劣っているわけではない。この句の場合、何よりも “新涼” を筆者が望むものであり、この季語が一番ピッタリするようだ。

   とりわけ、今年の8月8日の “立秋” はことのほか暑く、個人的には今ようやく “新涼” というところかもしれない。県外での講師業の際の昼食は、ほとんど「定食屋」の「日替わり」か「煮物定食」だった。さんざん「煮魚」を口にしていたせいか、無性に「焼き魚」を恋しく思ったのだろう。

 ところで “爽やかな涼気” と言ったが、『爽やか』も秋の季語であり、また『涼気』は、『涼』や『涼味』同様、「夏」の季語となっている。

       ☆

  「小料理屋」の店主でもあった真砂女。言うまでもなく、この場合は「焼魚」ではなく「焼肴」でなければならない。つまりは家族のための「おかず」ではなく、小料理屋の女将(おかみ)が、客の「肴」のために焼いたというところに意味があり、また趣が拡がる。

  『尾にも塩ふる』とは、尾鰭(ヒレ)や胸鰭、背鰭に “塩をふる” こと……つまりは「化粧塩」をさしている。包丁人に言わせれば、“ふる” というより “すりこむ” というのが正しいという。焼きすぎによって鰭が焦げたり、姿形の崩れを防ぐためであり、塩によってそれぞれの鰭にハリが出、また全体がピンとなってきれいに焼きあがるからとも。

  ところで、このときの「」は何だろう。季節的には「」か「山女(やまめ)」、あるいは「岩魚(いわな)」あたりのような気がするのだが。

  わが師、石川桂郎に次のような句がある。

    ひとり酔ふ岩魚の箸を落したり  

 

  ともあれ、女将にとって、以上のような「化粧塩」による焼き方は当たり前以前の作業であり、ことさら言葉にするまでもない。それをあえて『尾にも塩ふる』と言ったところに、“女将の仕事” にかける真砂女のささやかな覚悟や、そのときの “淡い心の弾み” のようなものが感じられる。

  では、その “心の弾み” の正体とは何だろうか。恋多き真砂女のこと、秘かに「想いを寄せる客」でも来たのかもしれない。それとも、特別な間柄の男性のことが脳裏を掠めたのだろうか。

   いずれにしても、少し塩を掴んで尾鰭にすりこみ、最後に軽くふりながら火加減を確かめる真砂女が、紛れもなくそこに生きている。粋に着物を着こなし、白い割烹着からのぞいた着物の襟を、摘むようにあわせながら……。

  真砂女の「魚」と言えば、季節はまだ先のことだが、すぐに次の句が出て来る。

    鯛は美のおこぜは醜の寒さかな  

  いかにも真砂女らしい。筆者が好きな “真砂女俳句” のベスト3と言える。

        ★

 

 鈴木 真砂女 1906年11月24日―2003年3月14日。千葉県鴨川市出身。22歳で結婚し一女を出産するも、夫の蒸発により実家へ戻る。その後、急逝した実姉の夫と再婚し、実家(旅。館)を守るために女将となる。俳句に親しんでいた長姉の遺稿を整理するうちに、自らも俳句に目覚める。

  久保田万太郎の『春燈』に入会して指導を受け、万太郎亡き後は安住敦に師事する。30歳のとき、年下の妻帯者と出奔するもその後戻る。50歳で離婚後、東京・銀座に『卯波』という小料理屋を開き、“女将俳人”として生涯を閉じる。『俳人協会賞』『読売文学賞』『蛇笏賞』を受賞。〈すずき まさじょ〉

 

 

 


・万緑や母をいぢめし人を焼く……/細谷喨々:(下)

2014年10月29日 00時05分03秒 | ■俳句・短歌・詩

 師・石川桂郎を看取って  

  二十歳そこそこで石川桂郎門下生となった喨々。急速に実力を備えていったようだ。

 前掲句集『桜桃』によれば、喨々は昭和46年5月、毎日新聞俳句欄の特別企画 《師弟競詠》 において、師・石川桂郎とともに登場している。まだ学生であり、いかに師が弟子の才能と将来性を認めていたかが判る。

   それから4年後の1975年(昭和50)、師・桂郎は食道癌により「聖路加国際病院」に入院する。同病院の勤務医師となっていた喨々は、そこで師の最期を看取ることとなる。『桜桃』には、「桂郎先生」との「前書き」で三句を載せている。

  立冬の息吹き込みて胸薄く  

   ただでさえ痩躯の師の肉体は、“胸薄く” と言わざるをえないほど痩せ衰えていたのだろう。本句はまさに “死の直前” であり、11月6日、師は “不帰の客” となった。 翌年、「桂郎先生臨終の部屋にて」の「前書き」により、次の句がある。 

    あの日よりいくつ死のあり暦果つ

        ☆

   医師として “いのち” を “生業(なりわい)” としながらも、他方では文学的創作の “客体” と捉える喨々。医師とりわけ小児科医師として、必然、病床の子の日常やその死を看取った作品は多い。次の句には「前書き」として、在宅死した女児の名がある。句集『二日』より(以下、同じ)。

   撫子や死を告げる息ととのへて

   「撫子(なでしこ)」は、周知のように「秋の七草」の一つ。しかし筆者は、師・桂郎が常々強く唱えた 《てめえの面(つら)のある句》 をいっそう感じさせる次のような作品が好きだ。

 蛍火の明滅脈を診るごとく

 原爆忌長針揺れてから動く

 どれほどの鬱ならやまひ花茗荷

 手洗ひつ着ぶくれの子の嘘を聞く 

  手にひたと刃物のなじむ近松忌

 本所には床屋の友や大花火

        ☆

   医師にとって、「俳句」を通して “人間を描く” と言う行為は、我々の想像を超えるエネルギーを発散させるのかもしれない。言い換えれば、“喜怒哀楽 ”という人間感情を遥かに凌駕したレベルで、“生身の肉体” や “人間の尊厳” を見つめているに違いない。ことにそれが “人間の生き死に” ということであればなおさらといえないだろうか。

 

   それを如実に感じさせる作品が、『桜桃』に収められている。「祖母火葬」との前書きがある。 

  万緑や母をいぢめし人を焼く

   『万緑(ばんりょく)』とは、“夏の盛りに深く拡がる草木の緑”。「万緑の中や吾子(あこ)の歯生え染むる」という中村草田男の句を、一度は眼にされたことだろう。

    “いぢめた” のが「医師の妻」なら、“いぢめられた” のも「医師の妻」。「細谷家」は、祖父、父そして本人と「医師」が続いている。

 『母をいぢめし人を焼く』。この表現は “医師” でなければ出て来ないような気がする。これほど最少かつ端的に “死者の弔い” を表現した言葉があるだろうか。

   『祖母を焼く』ではなく、〝突き放した〟ように『人を焼く』としたところも凄い。いや見事だ。“いのち” を〝生業(なりわい)〟とする者しか “言い切る” ことはできないだろう。

 「前書き」にしても、普通なら『祖母を荼毘に――』くらいはありそうなものを、こちらも最少かつ端的に『祖母火葬』と言い切っている。

  “人間”、“医師”、そして “俳人” という “観点” を “三位一体論” になぞらえるなら、この句はその最右翼と言ってよいだろう。

        ☆

   「小児科医」として知られる喨々。本名、細谷亮太(りょうた)。仄聞するところによると、今年4月に「聖路加国際病院」の「小児総合医療センター長」の職を辞し、祖父より続く実家「細谷醫院」の「医院長」に就いたようだ。

 

         ★   ★   ★

 細谷喨々(ほそや・りょうりょう) 1948(昭和23)年1月2日、山形県生まれ。1968年、石川桂郎主宰『風土』入会。‘70年、同人。石川桂郎没後、『風土』を去る。2003年、俳誌『件』創刊に参加、同人。句集に『桜桃』、『二日』。東北大学医学部卒。元・聖路加国際病院副院長。現在、細谷醫院(山形県)・医院長。本名、亮太。医師として『小児病棟の四季』他、子育て、そして生命の尊さ等を提起した著作は多い。

 


・朝寒や粥の台なす三国志/細谷喨々:(上)

2014年10月26日 00時00分40秒 | ■俳句・短歌・詩

 

  朝寒や粥の台なす三国志   細谷喨々 

  ほそや・りょうりょう。句集『桜桃』(昭和62年刊)より。昭和45年作ということは、作者はまだ「東北大学医学部」の学生のはずだ。学校のある仙台に下宿していたのだろうか。

   『朝寒』(あさざむ)とは、秋も深くなった頃の〝朝の寒さ〟をいう。昼間はある程度温度が上がるだけに、〝朝の肌寒さ〟 はひときわ強く感じられる。筆者にとっては、寝床から抜け出すのがそろそろ億劫になり始める時節でもある。

 「朝粥」は、作者自らが炊いたものだろうか。それとも、下宿の小母さんか誰かによるものだろうか。だが筆者好みの〝句の広がり〟からすれば、作者自身が炊いたとしたい。その方が、句に深みが増す。

   ……と言えば、次のような「反論」が出るかも知れない。いや、むしろ「下宿の小母さん」に炊いて貰ったとした方が、〝物語が広がる〟のではと。

   確かにこの場面は〝作者独り〟よりも、「作者」と「小母さん」という二人の方が〝“物語性〟が高まり、〝短編小説〟的な味わいが出るかもしれない。しかし本来、「俳句」は意図的に〝物語を成すもの〟でもない。

       ☆

  それよりも、注目すべきは『三国志』の存在にある。この場合の『三国志』は、「歴史書」としてのそれではなく、『三国志演義』を下敷きとした〝日本版の歴史小説〟といったものだろう。そうでなければ、『三国志』の「」は「」としたはずだ。

   ご承知のように、この『三国志演義』には武将、文官、皇帝、皇族、后妃、宦官その他総勢1200人近い人物が登場する。その膨大な人物の中から、よく知られるような劉備項羽関羽張飛、そして諸葛孔明(諸葛亮)や曹操といった人物が、活き活きと語られている。

  作者もその中から、特定の「人物」に青年としての夢と憧れを託していたのかもしれない。それは誰であったろうか。……そういうことが自然に思い浮ぶのも、『三国志』に登場する膨大な人間と、そのドラマティックな 〝生き死の諸相〟というものだろう。 

   そうなれば、このときの「」は、作者自らが作ったものとしたい。すなわち作者は、たった一つしかない小さな鍋を使ってなんとか「」を炊き上げた……。ひょっとしたら、下宿から一人用の「土鍋」でも借りたのかもしれない。そのように〝想像が膨らむ〟ことも、この句の魅力の一つだ。

   ともあれ、作者が自分一人で炊き上げることによって、〝粥の台〟も、その〝台〟となった『三国志』もぐんと生きて来る。何といっても〝たった一人の青年〟と〝膨大な人間群像〟という対比が、この青年の〝孤独さや非力感〟を際立たせ、つましい〝学生一人居〟の〝生きざま〟を巧みに描き出している。

 それが結果として、〝三国志に繰り広げられる夥しい人間の生死〟を鮮明に浮かび上がらせたとも言える。(続く)

 


・広島や卵食ふ時口ひらく―西東三鬼

2014年08月05日 00時00分36秒 | ■俳句・短歌・詩

  

  広島や卵食ふ時口ひらく  西東三鬼

 この句には「季語」がない。しかし、初めてこの句に接した二十代終わり、何の抵抗もなく “夏” を感じた。“感じた” と言うより “どう考えても夏” であり、“夏以外” の季節は思い浮ばなかった。無論、“夏” という季節を決定付けたのが、「1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下」を受けた “HIROSHIMA” という、 “世界史的な地” にあることは言うまでもない。

 そのため、表現としては――、

 

  広島忌卵食ふ時口ひらく

  ……もあり得るだろう。しかし、ここはやはり『広島や』としたい。『広島忌』すなわち「原爆忌」となれば、「原爆投下の惨事に見舞われた広島」という 歴史的な事実 が前面に出すぎることになる。それでは「広島」を “時間的” にも “空間的” にも “限定的” に捉えすぎることになり、“被爆都市というあまりにも強いイメージ” に圧倒され、そのままフリーズ(freeze=凍結)されかねない。それは結果として、鑑賞者の感覚や想念の広がりを狭める恐れがある。「8月6日」の「原爆投下の日」や、その “事実” だけを対象にしてはならない句だ。

        ☆

  それにしても、“なんとゆったりした表現” だろうか。『卵食ふ』ですむところを、そのあとに『時口ひらく』と、わざわざ「七音」を余分に費やしている。それだけに “食べる” という人間にとってのもっとも “本能的な行為” と、そのために “口をひらく” という “本源的な行為” とが、 “人間存在” の意味をいっそう深めている。その “ひらいた口” を通して “食されていくもの” は『卵』、もちろん「ゆで卵」以外にはない。

  「ゆで卵」だからこそ、『食ふ時口ひらく』という “動作” にシリアスな “手ごたえ” が加わるとともに、「ゆで卵」の持つ “質感” がいっそう鮮烈に伝わってくる。同時に、夏の暑さに含まれた “気だるさ” や、容易に拭い去ることのできない “やりきれなさ” のようなものも感じさせる。

  シンプルな楕円体の形をした「ゆで卵」。壊れやすい薄い殻に、崩れやすい中身――。それだけに、この「ゆで卵」の持つ形態的なイメージと、“壊れやすく、崩れやすい” という本質は、どこかに「リトルボーイ(Little Boy)」というコードネームで呼ばれた 《 広島型原子爆弾 》 そのものの “メタファ(隠喩)” を秘めてはいないだろうか。

   “捉えどころのない不安定な存在” の「ゆで卵」……。それを素手で受け止め、口を開いておもむろに食べ始める。限りなくシンプルな食べ物を、限りなくシンプルな方法で食べる……という行為が意味するもの。まさに、“あるがままに生きる” あるいは “ひたむきに生きている” とでも言いたげだ。

   それだけに、原爆によって “食べること” すなわち “生きること” を否定された人々の “無念さ” や “虚しさ” が無言のうちに伝わっても来る。下五の『口ひらく』は、「ゆで卵」をほうばる人間すなわち 《 》 を意味する反面、「水」をはじめ「家族」や「救い」を求めて彷徨う 《 》 と隣合わせの被爆者のイメージでもある。果たして、“ひらいた口” が真に求めていたもの……そして、その口が “語ろうとしていたもの” とは……。

    ところで、本作の「原句」は――、 

 

  広島やを食ふ時口ひらく

  ……であったようだ。無論、「」では『口ひらく』がまったく生きて来ない。「卵」それも「ゆで卵」なればこそのもの。「ゆで卵」以外の食べ物をあてはめてみるとよく判る。

       ☆

   40数年前の東京での大学時代――。福岡―東京間の往復は、もっぱら「寝台特急」それも「あさかぜ」だった。いまでこそ「ブルートレイン」と呼ばれているが、当時はそういう呼び方はなかったように思う。

   車中、駅弁を食べるほどでもないが何となく小腹がすいたとき、停車したホームの売店でよく「ゆで卵」を買い求めた。朱色のネットに3個か4個入っていたような気がする。「塩」と殻入れ用の「小さな紙袋」が付いていた。「夜行列車」に「ゆで卵」という構図は、今想い出してもよく馴染んでいたような気がする。 

   特に何を考えるということもなく黙々と殻を剥き、黙々と口に含んでいたように思う。漫然と口をひらき、白身と黄身との “噛み心地” の違いだけを鮮やかに感じながら……。

        ★

   西東三鬼  さいとうさんき。1900年(明治33年)5月15日 - 1962年(昭和37年)4月1日。岡山県津山市南新座出身。本名・斎藤敬直(さいとうけいちょく)。1933年、歯科医師のかたわら患者に勧められて句作を始める。後に、俳人・平畑静塔(ひらはたせいとう)、橋本多佳子(はしもとたかこ)とともに「奈良句会」を発起。また1947年、「現代俳句協会」を設立。翌年、山口誓子(やまぐちせいし)を擁して「天狼」を創刊。さらに俳誌「激浪」、そして「断崖」を創刊して主宰となる。 角川書店の総合誌「俳句」編集長を経験。1961年、俳人協会の設立に参加。

        ★   ★   ★

 

  ……………69年前の1945年8月4日、B-29爆撃機「エノラ・ゲイ号」は、最後の原爆投下訓練を終了して、マリアナ諸島テニアン島の北飛行場に帰還していた。翌日8月5日の21時20分、観測用のB-29が広島上空を飛行し、テニアン島の飛行場に或る重要な報告をしている。

  ――8月6日、広島の天候は良好

 

 


・老いらくの恋歌/相触れて帰りきたりし日のまひる……

2014年05月24日 13時49分55秒 | ■俳句・短歌・詩

 

  本の整理は “宝探し” ?!

  久しぶりに「本」の整理をした。「押入れ」に仕舞いこんだままの「本」、ことに「文庫本」を中心に入れ替えるためだった。だが筆者にとって、この「図書整理」ほど “混沌” と “混乱” を齎(もたら)す作業はない。“整理” どころか、いつ果てるともない “だらだらとした拾い読み” を貪り、つまるところは、まともな片付けもできないまま “疲れ” と共に “敗戦” を迎える……というパターンが多い。

  とはいえ、この “拾い読み” が満更ではないこともまた真実。それはときに、 “宝物を掘り当てた” かのような体験をすることもある。このたび「見出した本」も、まさにそうだった。 

  7、8年前に購入した『あなたと読む恋の歌百首』――。俵万智著による「文春文庫」であり、女流歌人独自の解釈と鑑賞をうかがい知ることができる。しかし、内容についてはほとんど忘れていた……と言っても、無論、購入の際に “拾い読み” をしたのは間違いない。それがあったればこその購入だからである。掲載歌人は俵氏を含めて101人、一人一首の計「百一首」が収められている。

       

  北原白秋と川田順

   この「本」の中に、本ブログ『新・百人一首:近現代短歌BEST100』で採り上げた歌が「2首」入っている。

   クリック! ◆男の恋と愛と『新・百人一首:近現代短歌BEST100―(四)』

 

    君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

    相触れて帰りきたりし日のまひる天の怒りの春雷ふるふ

  

   前者は北原白秋であり、「舗石」の読みは「しきいし」。後者は川田順(かわだじゅん)。今回、後者の歌についての解釈・鑑賞に、大いに興味をそそられた。俵氏の冒頭の一節はこう語る――。

  『昭和二十三年、作者六十六歳のときの作品である。』 

   筆者は昭和二十二年生まれの、まさしく同じ “66歳”。次の一節に少々驚かされた。

  『この恋愛は、当時、大スキャンダルとなった。二十七歳年下の三人の子を持つ人妻が、恋の対象だった。』

   ここでの「大スキャンダル」とは、その“序章”にすぎない。だが筆者が上記『新・百人一首:近現代短歌BEST100-(四)』において、川田順のこの歌を採りあげたとき、以上の “事実” はまったく知らなかった。知っていたのは、“人妻との不倫” ということだけであり、以下のように注釈している。 

 

   『……前歌の白秋が、「人妻」を「情事の場」から『君かへす』として、まるで “勝ち誇ったかのように堂々” としているのに対し、この作者の『相触れて帰り来たりし』には、“こそこそと逃げ帰って来たかのような後ろめたさ” が感じられる。

  『まひる』『春雷』『ふるふ』が、実によく響き合っている。『天の怒り』がなくとも、作者の “背徳性” は充分伝わっている。だが作者があえて『天の怒り』としたのは、自らを罰する意味ではなかっただろうか。そんな気がしてならない。』

       

  老いらくの恋

    66歳の歌人に師事した39歳の女弟子。それも一男二女の人妻であり、夫は京都大学教授(経済学者)。妻を亡くしていた川田順は、この恋に苦しみ悩む。

   それでも1949年、「恋の相手」の人妻すなわち「鈴鹿俊子」は、何とか夫に離婚を赦してもらう。川田と結婚する条件が整うわけだが、川田は京都法然院の亡妻「和子」の墓に頭を打ち付けて自殺を図る。……そういうときの心境だろうか。『東帰』に次のような歌を残している。 

  死ぬることを決めし心の吾が顔に見えもやすると怖れつつ逢ふ

   だが川田は一命を取りとめる。この「不倫の恋の自殺未遂事件」を、「産業経済新聞」の記者が取材している。記者は川田の歌の一節を引用して“老いらくの恋”という見出しを付けた。この言葉はその後「流行語」となるわけだが、このときの記者こそ、後に直木賞を受賞して大作家としての道を歩む、「司馬遼太郎」その人だった。

  ともあれ、川田と俊子は結婚にこぎつけ、夫婦として添い遂げた。俊子は川田の死後42年もの歳月を生き続け、2008年2月に98歳という天寿を全うしている。  

       ☆

   俊子について、俵氏の次の一節がある。

   『……俊子夫人は今もお元気で、昨年、とある会でお目にかかった折の言葉が印象深かった。

   「人間はね、つねに誰かに見守られて生きているの。私は、今も川田に見守られていると感じるのよ。」』

 

  これはおそらく、2004年頃のようだ。とすれば、俊子はこのとき94歳。俵氏に語りかけた表情が見えてくるような気がする。それと同時に、人間の “宿命” や “業” を超えた “得体の知れない力” のようなものを感じた。……いや、そうではあるまい。それはひとえに、 “えにし)” という、実に身近で平凡なものかもしれない。 

        ☆   ☆   ☆

   ◆川田順

   ◆鈴鹿俊子

   


・人入つて門のこりたる暮春かな/芝不器男

2014年05月04日 12時31分10秒 | ■俳句・短歌・詩

 

   人入つて門のこりたる暮春かな  芝 不器男

    26歳で夭逝した天才肌の「しばふきお」。5年足らずの作句活動も、晩年は病気療養により思うようには行かなかったのだろう。

   明日、5月5日は「立夏」。暦の上では「夏」となる。 「暮春(ぼしゅん)」は「暮の春」であり、春という季節の “終わり(暮)” を意味する。「春の暮」すなわち「春の日の夕暮れ」ではない。だが句の “解釈” において「夕暮れ」とすることは可能だ。 

   事実、初めてこの句を眼にした20代の終わり、「春が尽きようとしている日の夕暮れ」とすることに、何の躊躇もなかった。これから夜へと向かう「夕暮れ」とした方が、「話(物語)」のケリもつけやすく、また “薄暗い” 方が絵的なまとまりも容易だからだ。何と言っても、“余情” も演出しやすい。

   しかし、今では初夏の暑さを感じさせる「日盛り」というイメージが強い。「夕暮れ」では、いかにも高温多湿の “しっとり感見え見え” のような気がする。もちろん、これは筆者個人の感覚であり、趣味の問題だ。

        ☆

   さて、本句は典型的な俳句的省略の効いた平明な句。『……春も終わりに近い或る日、とある屋敷の「門」を「人」が入って行く。そのあとには、取り残されたかのように「門」がそこにあるだけである。

  ……とは、誰もが感じるだろう。だが “省略が効いている” だけに、「鑑賞者」それぞれのイマジネーションは際限もなく拡がって行く。「時刻」も「物音」もなく、また「造形的な形や色」の表現もないため、華美な修飾の入り込む余地はない。ドライなリアリティに包まれ、“実存主義” 的な “渇いた”、そして “突き放された” ニュアンスがある。それがまた「夭逝した作者」の人生と重なり合うような気もする。

    それにしても、句中の「人」や「門」とはどのようなものだろうか。まず「人」について言えば、「老若男女」や「人数」の違い、「家人」か「客人」かによっても句の趣きが異なる。ことに「客人」とした場合は「家人」との絡みが加わるため、「話(物語)」を拡げることができる。だがそうなると、「とり残された門」の存在感が薄らぐ。ここは “単純” に徹し、「家人」とした方が勝るようだ。

   「門」については「冠木(かぶき)門」ほどではないにしても、やはり “ある程度の門構え” は必要……と想われがちだ。しかし、筆者個人としては、「門扉」はなくとも「門柱」と「家を囲む最小限の塀」があれば、それで充分と思う。もっと言えば、「門塀」は古びた質素なものが好ましいのだが……。

   今回だけは、筆者の鑑賞を控え、読者各位において自身の鑑賞をお楽しみあれ。

         ☆   ☆   ☆

   筆者が好きな不器男の句――。

 

    白藤の揺れやみしかばうすみどり

  麦車馬におくれて動き出づ

  あなたなる夜雨(よさめ)の葛(くず)のあなたかな

  寒烏巳(し)が影の上におりたちぬ

  炭出すやさし入るひすぢ汚しつつ

 

        ★   ★   ★

  芝 不器男(しば ふきお)  1903年(明治36)4月18日~1930年(昭和5)2月24日。愛媛県出身。東京帝大農学部中退後、東北帝国大工学部に入る。1825年、俳誌「天の川」主宰の吉岡禅寺洞に師事。翌年、高浜虚子の「ホトトギス」にも投句を始め、虚子の注目を受ける。1928年に婿養子となるも翌年発病、治療のため九州帝国大付属病院に入院。この頃、禅寺洞と面会。12月に退院後、俳人でもある主治医・横山白紅の治療を受けるため、福岡市薬院庄を寓居とする。翌1930年2月死去。[筆者編集]

   


・雛あられ両手にうけてこぼしけり/久保田万太郎

2013年03月03日 14時24分08秒 | ■俳句・短歌・詩

   

   雛あられ両手にうけてこぼしけり  久保田万太郎

  この「両手」は、大人のものと見ることもできます。

 しかし、筆者にとっては、やはり幼な子(おさなご)の「小さな手」を指しています。この愛くるしい手は、どんなに指を伸ばして広げたところで、“小さい”  ことに変わりありません。

 そもそも、幼な子の指の開き具合は “ぎこちなく”、何かを容れる “うつわ”  としては頼りないもののようです。

  その小さな “掌(てのひら)”  を懸命に広げて、「雛あられ」をものにしようとする幼な子――。しかし、哀しいかな、“ぎこちない掌”  の動きは、雛あられを〝うまくつかめない〟まま、結局  “こぼして”  しまったのです。

   幼な子の意志に反して “こぼれた” とも言えるでしょう。ことにその雛あられが、「小粒で軽いもの」であれば、事態は避けられなかったのかもしれません。

            ☆   ☆                                         

  この「小粒で軽い雛あられ」と、それを受け取ろうとした「幼な子」について、わたし自身も体験者の一人です。

  長女が二歳ちょっとの頃でしょうか。「淡い桃色や黄緑の雛あられ」は小粒で軽く、また柔らかいものでした。幼児用に特別に作られたものかもしれません。

 わずかな室気の流れや吐息だけで、簡単にこぼれ落ちるような気がしたものです。長女が開いた手のひらを、少し広げてやろうとしたそのとき、わたしはあらためて気づかされました――。

  『……なんて小さな手、そして掌なのだろう。このような掌で、何をつかみ、また何を持つというのだろうか……』

  もちろんそれまでも、それらしき思いを実感したことはありました。しかし、“このとき” 以上にそう感じたことはありませんでした。

  二歳の長女は、自分が何をしているのか、また何をされようとしているのか、すぐには理解できなかったに違いありません。

 それでも、自分の眼の前にいる人物(父親)が、好意的な態度で自分に何かを与えようとしている……そして、自分の掌に「淡い色合いの小粒で軽いもの」が載せられようとしている……くらいは何となく感じたかもしれません。

 それでもその瞳は、ことさら嬉しいという表情でもなく、少しとまどっているような印象でした。

  ……ゆっくりと静かに開いた長女の手のひら……。

 しかし、思うように指を広げることができないまま……。

 ほんとに小さな「掌の窪み」でした。「普通大」のあられなど、とても受け留めることなどできなかったでしょう。そのときの雛あられが、「小粒で軽いもの」であったがゆえに、何とか「ふたつぶ、みつぶ」を掌に載せることができたのでしょう。

 それでも次の瞬間、「いくつぶ」かの「雛あられ」が、いたいけな長女の掌からこぼれおちたのです。

 

            ☆   ☆

  ……あれから三十年……。三人の娘と一人の息子の父親として、わたしは以上のような光景に何度か出逢う機会を得ました。今はもうすっかり成人となった息子や娘たち。

 幼児の頃の彼らの “小さな手のひら”  と戯れることができたことを、父親としての感動の一瞬として記憶しています。

  句に戻りましょう。

  『こぼしけり』は、『こぼれけり』でもあるということですね。そのように両者を加味しながら解釈するとき、「雛あられ」の “かるさ”  や “淡い色合い”  がより印象深く映るとともに、幼な子の “あどけなさ” や “いじらしさ” も、いっそう伝わって来るような気がします。

  と同時に、我が子に「雛あられ」を与えることのできる “とき”  の重みのようなもの。すなわち “人生におけるごく限られた時間”  という意味合いも感じられるような気がするのですが……。

                   ★   ★   ★

  久保田万太郎  作家、俳人、劇作家、舞台演出家。1989年~1963年。:慶大文卒。1937年、岸田国士らと一緒に劇団『文学座』を結成。1946年、主宰として俳誌『春燈』を創刊。

  


・しどろもどろに吾はおるなり/『新・百人一首:近現代短歌ベスト100』(七)ー最終回

2013年01月28日 21時02分56秒 | ■俳句・短歌・詩

    

   一本の蝋燃やしつつ妻も吾も暗き泉を聴くごとくゐる  宮 柊二

  みやしゅうじ。「蝋燭の灯り」が、とりたてて音を出すことはない。しかし、その “仄暗い灯り” の “ゆらめき” は、「音の世界」を呼び込む神秘的な “間(ま)” や “気(け)” のようなものを感じさせる。それはまさに「深遠な地の底から静かに響きそして伝わって来るもの」なのかもしれない。そのため、『暗き泉を聴くごとくゐる』に不思議なリアリティが認められる。

       ★ 

   スバルしずかに梢を渡りつつありと、はろばろと美し古典力学  永田和宏

   作者、ながたかずひろ氏は今回の選者であり、京大名誉教授の細胞生物学者。『はろばろと美し古典力学』とは、何とも新鮮でロマンティックな表現。ことに『はろばろと美し』が秀逸であり、「上の句」とりわけ冒頭の『スバル』を見事に受け止めている。

  『古典力学』の「文字」や「五感」から想像される「理解できそうで理解できないイメージ」の妙というのだろうか。といって違和感もなく、何となく併存している。それがこの歌の世界をグンと広げているのだろう。そのため、『しずかに梢を渡りつつありと』に落ち着いた存在感と説得力があり、身近な感じを与えてもいる。

   何度もこの歌を呟くとき、筆者には宮沢賢治の『銀河鉄道』の一節や谷村新司の『昴(スバル)』のメロディが浮かんだ。同時に、遠い小学低学年の頃に食い入るように見ていた小松崎茂画伯の画……その「空想宇宙世界」の精緻なフルカラ―も浮かんで来た。

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   ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。 

    作者は今回の選者の穂村弘(ほむらひろし)氏。正直言って、あまり好きになれない作品だ。穂村氏自身が、今回の「一首」のために積極的に選んだのだろうか……。「話題作り」のために、編集上の都合として “選ばされた” のではないだろうか。……氏には、他に優れた作品が沢山あるというのに。よりによって……という気持ちがどうしても消えない。もし穂村氏自身がわざわざ「この作品」を選んだとしたら、その趣旨は何だろう? ご本人にうかがってみたい。

    氏は、塚本邦雄の『輸出用蘭花の束を空港へ空港へ乞食夫妻がはこび』という作品に、“脳を直撃されるような衝撃を受けた” ことがその作歌の原点と言われたようだが……。

   私も塚本短歌大好き人間の一人だ。しかし、正直言って この作品だけは、どうしても好きになれないでいる。ずばり言って、どうにも “作為” が “鼻を突く” ような気がしてならないからだ。

 塚本作品といえば、やはり個人的には、前回ご紹介した『皇帝ペンギン』や『馬を洗はば』のいずれか、ことに後者に “脳天を直撃された” というのであれば、「この〝ハロー〟の作品」についても、多少は理解できると思うのだが……。

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   こんなにも湯呑茶碗はあたたかくしどろもどろに吾はおるなり  山崎方代

   やまざきほうだい。第二次大戦により右目を負傷、後に失明したようだ。左目もかなりの弱視であった由。妻子を持たず、「漂白の歌人」として生涯を送る。口語体の短歌であり、自由律俳人の尾崎放哉や種田山頭火に通じるものがある。正直に告白すると、今回の百首の中で筆者が一番好きな作品だ。

   『こんなにも湯呑茶碗はあたたかく』に、五感を超えた “生活実感” いや “生の実感” が息づいている。そう感じさせるのは、『しどろもどろに』という “言葉” ……何と名状しがたい表現だろうか。この言葉の “不器用” な、それでいて嫌味でも自己卑下でもない “神聖な” 響き。何度も呟いているうちに、その “神聖さ” に打ち負かされたような気がして来る。

   他の作品を併せてみるとよく判る。一途に無欲恬淡を貫いた孤老。というより、結果として自然にそのような “生き方” に導かれて行ったのだろう。諸事万般において、ひたすら “つましい” 生き様……とでも言うのだろうか。そういう雰囲気がよく出ている。

   結句の『吾はおるなり』が不思議な感覚や響きをもたらし、『しどろもどろに吾はおるなり』と続けるとき、この作者にしかない独特の “漂白” と “諦念” とが滲み出て来る。

   それにしてもこの歌……。“実存主義” の短歌的一例と言えそうだ。もしサルトルが生きており、短歌を知っていたとするなら、彼は間違いなく水の入った「グラス」の代わりに、温かい湯がたっぷりと入った「湯呑茶碗」を使ったに違いない。

    他の作品は――、

   手のひらに豆腐をのせていそいそといつもの角を曲りて帰る

   このようになまけていても人生にもっとも近く詩を書いている

   宿無しの吾の眼玉に落ちて来てどきりと赤い一ひらの落葉

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   以上をもって今回の『新・百人百歌』の評は終り。以下は、紙幅の都合で評を省略した作品。 

   かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる  吉井 勇

   よしいいさむ。彼の歌と言えば、何といっても処女歌集『酒ほがい』。

   少女云うこの人なりき酒甕(かめ)に凭りて眠るを常なりしひと

        

   終わりなき時に入らむに束の間の後前ありや有りてかなしむ  土屋文明  

   つちやぶんめい。解説によれば、『九二歳の夫が、九四歳で逝く妻を悲しむ歌である。終わりなき死後の時間』とある。

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   春の夜にわが思ふなりわかき日のからくれなゐや悲しかりける  前川佐美雄

  まえかわさみお。太平洋戦争突入の前年に刊行された歌集にある作品。

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  このシリーズを始めて思ったことがある。それは私家版の『新・百人一首:近現代』を選んでみたいということだ。その中には、今回の文藝春秋編の作品も三分の一ほど入るだろう。

   となれば折角の機会、『百人一句』として「俳句」も選んでみたいものだ。ただし、こちらは芭蕉以前からの作品も含めたもの。団塊頑固親爺の “偏見” と “依怙贔屓” で選ぶ『百人一句』。……乞う。ご期待! ただし、時期は未定も未定。命あるうちに……。 (