ある夜――。「書き置き」を残して出て行こうとするB――。気づいたAが顔を出し、残高300万円の通帳と印鑑をBに渡す。とはいえ、『40万円だけ』しか貸さないと念を押し、通帳と印鑑を送り返すように告げるのだが……。男二人の友情と同情と寛容さは少しも損なわれてはいない。Bは、「借りた金」は5年あるいは7年後に……と曖昧な返事をする。
これが女であればどうだろうか。言うまでもなく、自分にとって“何の意味も価値もない男”に、ビタ一銭貸すことはないだろう。Bもそのことを百も承知であるからこそ、女(恋人)の元を去ったといえる。もっともBは、仮に女が大金を持っていたにしても、女から借りようとはしなかっただろう。
女はAの遁走を何事もなかったかのように受け止めている。気にするそぶりもなければ、話題にすることもない。
Aに向かって、「煙草に火を点ける」よう促す女――。実際(現実)の火”が「煙草」に点される。その瞬間、照明が落ちて「終幕」となった。
Aも『自分にとっての、自分の山脈をのぼる』のだろうか。そいういう『……きもち』に入りつつあるというのだろうか。この劇自体を象徴的に物語るシーンであり、終幕に相応しい印象的な演出、そして照明操作だった。
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……と、以上はあくまでも筆者個人の感想にすぎません。説明を判り易くするため、あえていろいろなものを「削ぎ落とし」たわけですが、細部を語り始めると、とてつもない連載となるでしょう。
芝居としては、「Bと女」、「Aと女」という「2組の男女」の恋愛感情も織り込まれているのでしょうが、その感じ方のニュアンスは千差万別です。「AとBの友情」もテーマの一つと受け止めた方もあったと思います。
ともあれ、期待に違わずいい舞台でした。3人という登場人物に、ゆったりとした物語の進行。微塵も「フラッシュ暗算化」の怖れがありません。そのため、役者個々の台詞や演技をじっくり楽しむことができました。筆者がこの舞台を「3回」にも分けて論じることができるのも、“観客としてのこころの余裕”によるものでしょう。
それにしても、「女」役の「酒井絵莉子」嬢。昨夏の「立ち上げ公演」でも、不思議な存在感がありました。二十歳そこらで、すでに「をんな」という「存在そのもの」を熟知しているかのようです。「役回りや演技」というだけで、あのように「女」、そして「をんな」を演じることができるでしょうか。
この12年余、筆者は九州大学をはじめ、西南学院大、福岡大学等「演劇部」の女子学生諸君を数多く観てきました。今でもいくつかの舞台を想い出すことがあり、何人かの演技の表情や声などが甦って来ます。
その意味において酒井嬢は、筆者個人というより、多くの観劇フアンの記憶に残り続けることでしょう。そう考えると、彼女を演劇ユニット立ち上げのパートナーとして選んだ「浜地泰造」(「A」役)氏に触れないわけにはいきません。
同氏についていえば、その飄とした表情や演技は、地味でありながらも「テント小屋」デヴュー当時から独特の個性を放っていたようです。ある年の学祭「テント小屋公演」のとき、筆者は氏の才能を感じ、感想文にそのような内容を記したように記憶しています。
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その泰造氏の今回の演出――。およそ「借金まみれ」などには無縁に見える「B」役の「丸尾行雅」氏。その“掴みどころのない”茫洋としたキャラクター。それを活かしながら、うまく「A」と「女」に対峙させた「演出家」としての力量は評価されるでしょう。
筆者は、今回の公演に友人で「アドリブログ」(当ブログ「ブックマーク」)の管理人セラビ―氏を誘いました。昨夏の「立ち上げ公演」にも誘い、今回が4回目です。今では彼は、紛れもない「演劇」ファンとなっています。専門の「ジャズ評論」にも活かせることでしょう。
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演劇ユニット「 」(かぎかっこ)。 “入り”の 「 は、酒井嬢であり、“締めくくり”の 」 は泰造氏を意味しているのかもしれません。そんな二人が、今後その 「 」 の中にどのような芝居を役者を、そして演出を包みこんでいくのでしょうか。楽しみはこれからも続くようです。(了)