『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

●演劇鑑賞:『人数の足りない三角関係の結末』/演劇ユニット「 」(かぎかっこ):中

2015年05月31日 00時13分07秒 | ●演劇鑑賞

 

  「エピソード:3」に集約された謎

   【エピソード:3】(父と母と娘との三角形)(註1)には、「結婚式」当日の〈〉(丸尾行雄)、〈〉(酒井絵莉子)、そして〈ななえ)〉(せとよしの)が登場する。「花嫁控室」での “3人のやりとり” をはじめ、「父と娘」、「娘と母」そして「母と父」すなわち「夫婦」間の対話が進んで行く。

   ……と言えば、「嫁ぎゆく娘」と「夫婦」との “感動的な別れ” となりがちだが、一筋縄ではいかないこの「物語」の場合、“3人の間” には複雑な “いきさつ” があった。結論的に言えば、「父と娘」にも、「母と娘」にも、血のつながりはない

   のみならず〉と〈〉にしても、「(ななえ)」の「両親」となるためだけに「夫婦」となったにすぎない。しかも〈〉が「成人」したときに〈〉は家を出、〈娘〉が「結婚」すれば「離婚」するという「契約」が、すでに「結婚」の際になされていたようだ。

   以上の「事実」こそ、この「舞台」の「3つのエピソード」における「最大の謎」となるのだが、実はここでの「(ななえ)」は、「エピソード:2」の「山路)」の「娘」ということが後に判明する。それに加え、“見せかけの夫婦” のきっかけが、「エピソード:1」のドタキャン「料理人」とされた「長良川()」なる “和の鉄人” にあるようだ。ここに来て、ようやく、「3人×3エピソード=9人」+「α」なる「物語」の全容が、一応明らかになる。

        ☆

  独特の「家族の10か条」

  ともあれ、「控室」において、〈〉は〈〉から変態扱いや臭いもの呼ばわりを受けるなど散々な目に遭う。血のつながりのない「父娘」であり、年齢も15、6歳しか離れていない。どうやら「夫婦」は四十台半ば、「娘」は三十路前後のようだが。

   この〈〉は、3人が一緒に住み始めてから半年後、自分の下着が〈〉親の下着と一緒に洗濯されたことで「家出」をした経験を持っている。しかし、このときの「家出」がきっかけとなって「家族10か条」というルールが作られた。

  「ルール」については、〈〉すなわち「花嫁〈ななえ〉」が「披露宴会場」で参加者に語りかけるというスタイルで明かされて行く。この「ルール」はちょっと “泣かせる” ものだが、筆者としては「ルール」そのものよりも、そういう「ルールを必要とした家族」になるまでの“いきさつ”こそ知りたかったのだが。無論、「脚本」自体がそうなっているのだろう。

    「ルール」は変わっている。例えば、“感謝し合わない” とか “ごめんなさいを言わない” というもの。前者は、「家族」であれば “感謝しあう” のが当然であるため、あえて “感謝しあう” という “形式” は不要と言いたいのだろう。

   後者も前者と同じ考え方であり、“謝罪の必要” が生じたにしても、そういう事態は、家族として相手を思っての結果であるため、ことさら “謝罪の言葉” は必要ないという。 

   他の「ルール」として、下着は一緒に洗う。また、2人の喧嘩に残りの1人は加わらない。などだが、この「ルールは〈娘〉が成人になるまで守られることとなる。〈娘〉が「ルール」を紹介し終えたとき、「終幕」となった。

       ☆

 

  手堅い役者陣

   「役者」について述べてみよう。主宰の浜地泰造丸尾行雅の両氏に酒井絵莉子さんという3氏については、これまで何度もその “うまさ” や “凄さ” を見て来たし、今回も文句なしの演技だった。

  しかし今回、同劇団の役者として、初めて石川優衣さんを知った。とてもクリアな通りの好い声の持主であり、落ち着いた演技に好感が持てた。なぜこれまで同劇団の舞台に出演しなかったのか、不思議に思ったほど。

   また「客演」のせとよしのさんは、他大学の演劇部の部員でもあるようだ。今回、「エピソード:3」の〈娘〉役を演じたわけだが、酒井さんの〈母〉と丸尾氏の〈父〉という優れた役者や落ち付いた音響・照明等によって、印象深い演技を見せてくれた。

  それにしても、「エピソード:2」において「先輩OL」を演じた酒井さんは、いつもながらその存在感が凄い。「男」をめぐる「後輩OL」との “女の闘い” を演じたわけだが、“芯からのおんな” を実に “巧みにこなしていた”……というか “ドキリとするほどの女の生々しさ” を表現していた。その “リバタリアン的自然体” が酒井さんの真骨頂。「 」(かぎかっこ)の「旗揚げ公演」や前回の『山脈をのぼる気持ち』での演技同様、眼を見張るものがあった。

   その酒井さんの「先輩OL」役と渡り合ったのが「後輩OL」役の石川さんだった。酒井さん演じる「大阪のおばちゃん予備軍的感覚」に対し、「東京のお澄ましおねえさん的感覚」をうまく表現していた。凄みある低く太い酒井さんの声に対し、石川さんの声は柔らかくて高く、また爽やかなものであり、二人のやりとりは聞きごたえがあった。

   優れた主宰によって集められた役者陣だけあって、さすがである。安心して観ていられるというものだ。続く

             ★   ★   ★ 

 

  ※註1:前回の本稿(上)のあと、公演当日の「プログラム」を劇団員より郵送していただきました。

 それによると、「エピソード:1」は、【鉄人達の三角形】となっており、筆者が記した〈坂ノ上〉は〈坂乃上〉、〈サダコ〉は〈貞子〉となっていました。

 また「エピソード:2」は、【恋人達の三角形】。〈山路〉は〈〉、〈まきえ〉は〈女1〉、〈あい〉は〈女2〉という表記でした。

 さらに、「エピソード:3」は【父と母と娘の三角形】となっていました。今回、その表記に従い、前回本稿(上)に追記しています。


○演劇案内:『八月のシャハラザード』/西南学院大学演劇部

2015年05月24日 14時36分32秒 | ○福岡の演劇案内

 

  新人デヴューの季節

  5月下旬のこの時季、各大学の「演劇部」はどこも忙しいようだ。4月の「新入生歓迎公演」後に入部した新人が、間もなく「キャスト」や「スタッフ」としてデヴューする。各校とも、「夏季公演」へ向けての舞台稽古や舞台美術の準備が進んでいると思う。

  以上の “新人” は、いずれ優れた「脚本家」や「演出家」として育って来るはずだ。それは “いつどの時点” だろうか。この時季、筆者にとっては “未知の可能性を秘めた新人” と出会うことができる時節とも言える。

 今回の「西南学院大学演劇部」の「夏季公演」は、「八月のシャハラザード」。「シャハラザード」という言葉に何かを感じた方には、舞台はいっそう面白いに違いない。

               ★   ★   ★

 

  西南学院大学演劇部夏季定期公演

    『八月のシャハラザード

 

 【あらすじ】

  あなたはもう死んでしまったの

  謎の女に告げられた男は何も言えずに死んでしまったことを後悔し、愛する彼女に最後の言葉を伝えるためある男の協力を借りる。 しかし、その男も死んでしまい、とある事情で一緒に行動することに...

  これは2人の男の奇妙でせつない物語

 

●作/高橋 いさを

●演出/新ヶ江 優哉 

●日時/6月12日(金)18:00開場 18:30開演

       13日(土)13:00開場 13:30開演、17:30開場 18:00開演

●会場/西南学院大学内 西南会館3F 大集会場

  〒814‐0002 福岡市早良区西新6‐2‐92  

●料金/前売り券:200円  当日券:300円

 

 クリック!◆ 

  ◆西南学院大学演劇部HP

   このなかの「アクセス」に「会場」までの丁寧な案内が表示されています。

  ◆西南学院大学演劇部 Twitter

 

 


●演劇鑑賞:『人数の足りない三角関係の結末』/演劇ユニット「 」(かぎかっこ):上

2015年05月20日 00時11分48秒 | ●演劇鑑賞

 

    多い登場人物の複雑な関係 

   主宰浜地泰造氏の演出による今回の「舞台」――。演劇ユニット「 」(かぎかっこ)としての3回目の「公演」のようだ。その「案内チラシ」にはこう書かれていた――。※「太字」と「下線」は筆者。

 

   《 フランス料理中華料理和食。 先輩のOL後輩のOL。 3つの三角関係が織り成すそれぞれの悩み。

  3人集まるとつい始めてしまうような相談を、糾弾を、決断をしているだけなのに、この三角関係、何かが足りない足りないものが埋まったときにおとずれるのは喪失再生か。 

  三者三様9つのすがたを、かぎかっこが5人で描きだす。

 

  筆者は、上記の “前説” にタイトル名の『人数の足りない三角関係の結末』を加え、今回の「舞台」の展開を自分なりに想い描いた。古稀まであと2年と十日余の “単細胞系前期高齢型知能” には、ややこしい展開が予想される「舞台」の “予習” は欠かせないのだ。ことに各人物のキャラクターと、人物相互間の関わりなどの “事前整理” は、絶対不可欠といえる。

   そうした備えがなければ、おそらく舞台進行中の筆者は、間違いなく3、4ケタの “フラッシュ暗算” に追いまくられる。備えあれば憂いなし。予習あれば狼狽なし。

   ……のつもりだった。だが「舞台」は、「登場人物・各3人」×「エピソード・3つ」=9人の人間模様という、単純な「掛け算」では終わらなかったのだ。

   実際の「舞台」は、筆者の予測とキャパ(capacity)を超える “謎と推理に充ちた世界” となった。その “実態” を解き明かすためにも、「舞台」の全容を眺めてみよう。といっても、筆者自身、正直言って細部については、聞き洩らしや見落としがあるようだ。筆者は観劇中も多少メモを取ってはいるものの、無論、必要 最低限なものでしかなく、いつも苦労している。

         ★

  「舞台」すなわち『人数の足りない三角関係の結末』(作/大根健一)は、“時間・空間的に異なる” 3つの「エピソード」からなっている。だがこれら「3つ」は、一見、“脈絡もない” ような “ふり” をしながら、その実、“オムニバス的” に繋ながっている。上記の「前説」をもとに、それら3つの「エピソード」をまとめてみると……。

 

  TV番組を支える“裏事情に裏の顔”―エピソード:1

  【●エピソード:1】は、かなり昔に人気を博した『料理の鉄人』を想わせる設定だった。かれこれ20年前から10数年前まで、筆者は結構この番組を観ていた記憶がある。別に「料理」に興味を持ったからではなく、裏方の「料理人」を「エンターテイナー」として表舞台に登場させた番組作りのオリジナリティに惹かれたからかもしれない。「料理の鉄人」達を紹介する “鹿賀丈史のエンターテイナーぶり” も見事であり、不思議なリアリティと快感をもたらしていた。

   それはともかく、今回の「舞台」では「3人」の「料理の鉄人」……っぽい人物が登場する。「フランス料理」の〈坂ノ上〉(浜地泰造)、「中華料理」の〈〉(丸尾行雅)、「和食」の〈サダコ〉(石川優衣)。

   この【●エピソード:1】は、表向き華々しい「テレビ番組」の “舞台裏” を “覗き趣味的” に見せながら、その実、「人物3人」の“裏の顔や裏事情”を、“覗き込む” ように明らかにして行く

   鼻もちならない感じで、キャバクラ好きという〈坂ノ上〉。いかにも中国人が話しそうな日本語を、たどたどしく “きめてみせる”〈〉。本来は普通の食堂のオーナーである〈サダコ〉。彼女は今回、同じ「和食」の女鉄人〈長良川(ながらがわ)〉のドタキャンのため、急遽「代役」として頼まれたという。

   3人はそれぞれ「番組プロデューサー」との打合せということで、一人ずつ「舞台」から立ち去る。ということは、「坂ノ上と陳」「陳とサダコ」「サダコと坂ノ上」という “3とおりのデュオ” 状態が生まれる。そのような状態では “席を外している一人” に対する “残った二人の精神的優位性”が働きがちだ。そのため自然な成り行きとして、“欠席裁判的な悪口” や “眼の前の二人なればこそ” の “取引” や “駆け引き” も生まれる。

   この3人もその例に漏れないのだが、実は、〈坂ノ上〉と〈陳〉とは〈サダコ〉の前では不仲を装ってはいるものの、どうやらそれは番組構成上の演出と思われる。つまりは “つるんで” おり、実際には「坂ノ上・陳」の連合と「サダコ」との「2:1」の闘いとなる。だが、“或る予想外の出来事” によって、真っ当なクッキング・ファイトとなりそうだ。

              ☆   ☆

  漂流する三角関係―エピソード:2

   【●エピソード:2】は、海を漂流中の「人の女」と「」の計3人が登場する。3人は同じ会社に勤めている。「女」2人は先輩の〈まきえ〉(酒井絵莉子)と後輩の〈あい〉(石川優衣)であり、この二人は〈山路〉(浜地泰造)に “二股” をかけられている。つまりは、“三角関係の社内恋愛” というわけだが、〈山路〉は離婚経験者であり、〈ななえ〉という名前の少女がいるようだ。          

   なぜどのような経緯で漂流するようになったのかは不明だが(筆者の見落としや聞き損ないかもしれないが)、とにかく海の上で「3人だけの生活」を送っている。いや、何とか生きている。そうではあっても、〈山路〉を巡る女二人の “闘い” は凄い。この「二人の女」の間に挟まれた〈山路〉にとっては、“二重の漂流” というべきだろうか。“海” と “女の嫉妬” という。にもかかわらず〈山路〉は、“無人島に着いたら、二人の女にばれないよう二人と付き合って行こう” との夢想を抱いている。

   だが、そんな〈山路〉のユートピアン的ロマンチシズムなど軽~く吹き飛ばす女二人の “生命力” 。……というか “生理学的女子力” は凄い。この期に及んで〈山路〉に “子作り” を迫るため競い合おうとしている。女同士の見栄やハッタリ、意地や憎悪とはいえ、“生身の女性の産みの執念” のようなものがふっと頭を掠めた。

   “産む性” の “産める強さ” というものだろうが、この面での “性の強さ” があるかぎり、男は太刀打ちできない。ともあれ、そのように想起させる「酒井・石川2女優の “女のやりとり” に凄みを感じた。それは言うまでもなく「脚本」の勝利でもあるのだが。

   “嫉妬” と “執念” と “闘争” においてパワーザップする二人の女とは逆に、パワーダウンしていく男……〈山路〉。彼は「再就職」を果たして東京にいるはずだったとの想いに囚われている。そうした中、“逞しい女二人の中で、〈山路〉はある決心をする

   “自分がいなくなった後、ゆっくり話し合うこと” を二人の女に言い残し、海に消えて行く。だが、女二人の漂流は続く……。 [続く]

 


○演劇案内:『アイ・ドン・ノー・ホェア・アイ・アム』(陰湿集団)

2015年05月15日 00時05分33秒 | ○福岡の演劇案内

 

  “アイ・ドン・ノー・ホェア・アイ・アム” ……。いかにも「若者」や「自由人」それに「哲人」が、いとも簡単に角砂糖一個をカップに放り込むように呟きそうだ。ときには危険なドラッグと一緒に、得体の知れない自由とやらを求めながら……。

   いや、ひょっとしたらあえて自由を放棄しながら、それが “本当の自由” とでも言わんばかりに……。メイン・ストリートを、僅か一本入っただけで、街のワン・ブロックの様相は一変する。マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンが、どことなく聴こえてきそうな……マンハッタンの一角に……。

        ★

  半年ほど前、知人が「カール・サンドバーグ(Carl Sandburg)」という人物について話をしていた。そのときサンドバーグの有名な 言葉として教えてくれたのが、次の一節だった。正確を期すため、今回あらためてネットで確認した。

  

    I’m an idealist. I don’t know where I’m going, but I’m on my way.

 

  今回の「 舞台」のタイトルは、「下線部分」で “止まっている”。いや、おそらく “止められている”。「I’m」のあとに何が来るのか。“どのような意識や行動を描き出そう” というのだろうか。仮に、「I’m」のあとに自然に続きがちな「going」が来るとしたら、その先は “どのような結末がある” というのだろうか”

  作・演出の「山本貴久」氏以下、『陰湿集団』の「キャスト・スタッフ」は、“どのような世界” を展開するのだろうか。『陰湿集団』というこの劇団は、前回紹介したその「プロフィール」に “日々、まがりくねったものをもとめて活動中” とあった。となれば、この舞台においても “陰湿集団” の哲学に則った “まがりくねったもの” を見せてくれるというのだろうか。

  それにしても、3月下旬に「旗揚げ公演」を済ませたばかりの同劇団。2か月ちょっとで、今回の作品に取り組んだという。精力的な活動に驚くとともに、その若さとエネルギーに対し、あらためて敬意を表したい。

           ★   ★   ★

 

   陰湿集団」第1回倉庫公演のご案内 

    『 アイ・ドン・ノー・ホェア・アイ・アム 

  

 【あらすじ】 

 ある店に来た親子。息子はゲームをやめない。奇妙な注文ばかりしていく他の客たち。

 さて、父親の順番が来た。彼は何を注文するのか。

 

●作・演出/山本 貴久

●日時/30日(土) ・17:00

                31日() ・13:00  ・17:00

●場所(会場)/九州大学箱崎キャンパス内プレハブ倉庫

  住所:福岡市東区箱崎6-10-1

   クリック! ◆「九州大学箱崎キャンパス」の校内マップ

●料金/無料

 クリック! ■陰湿ブログ

        陰湿集団(twitter)      

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映画ファン」のみなさんへ

  次回は「演劇鑑賞」となりますので、『シンドラーのリストり』(映画鑑賞)はその後に再開いたします。今しばらくお待ちください。

 


●演劇鑑賞:『段ボール少女』(九州大学演劇部)

2015年05月09日 00時00分54秒 | ●演劇鑑賞

 

  創造的な舞台空間の拡がり

  「九州大学・伊都キャンパス」内での「演劇会場」といえば、いつも「学生支援施設」の一室(音楽室?)となっている。それを「舞台」ごとに工夫しているようだが、いつも異なったセットに仕上がっている。何でもないことだが、これだけでもかなりのエネルギーと工夫とが求められるはずだ。

  もっともそこに、「演劇」にかける学生諸君の熱い想いやエネルギーが感じられる。と同時に、「演劇舞台」と言う名の「創造空間」の可能性が拡がりを見せてもいる。今回も〈段ボール少女〉を象徴する世界が、間口約5間×奥行約2間ほどの「舞台」のほぼ半分に、さまざまな大きさの「段ボール」を配して描かれていた。 

  今回の作品は、「九州大学演劇部」のオリジナル脚本らしく “社会的メッセージ性” が強い。『陰湿クラブ』(作・演出:山本貴久)の「演劇鑑賞」(4月17日)でも述べたように、学生諸君にはこのような「精神性の高い作品」創りに、もっと挑戦して欲しい。               

       ★

  さて今回の「物語」は、一応「幼児虐待」を題材としているが、作者の “本当の狙い” はどれだけ言い尽くされただろうか。残念ながら、それがうまく伝わらなかったのは、やはり「50分何がしの時間」では足りなかったからだろう。今思うに、「舞台」の冒頭からいきなり〈恭子〉を登場させていたらどうだったろうか……。いやそれでも……やはり……と、帰り道にそんな想いが脳裏を掠めた。

   しかし、誰よりも「作・演出」担当の「田中利沙」嬢自身が、“言い足りなさ” を一番よく感じているはずだ。そう思うと、今回の「作品」は大きな試練そして財産として残ったに違いない。

  といっても、「作品」自体がしっかりしているため、「キャスト」の熱演をうまく引き出すことができたわけだし、「音響」や「照明」等の「スタッフ」にしても、優れた企画・技術力を十二分に発揮していた。そのため、最低限の “作者の狙い” は何とか伝わったと言えるだろう。

       ☆

   「物語」は、〈恭子〉(竹ノ内晴奈)という「謎めいた19歳(?)の乙女」と〈斎藤〉(板橋幸史)という刑事部から転属して来た「警察官」を中心に進んで行く。〈恭子〉はある日突然、〈斎藤〉のアパートに現われ、『匿ってくれ』とそのまま強引に居着くわけだが、何処からどのようにして入り込んだかは謎に満ちている。状況からして、明らかに “家出少女” ではあるものの、真実はファジーとなっている。ただ〈恭子〉には不思議な力があり、『変な声が聞こえてくる』という。

   一方、〈斎藤〉は先輩婦警の〈世良〉(村上悠子)と組んで、「児童虐待」のおそれのある家庭を調査監視のために訪問している。ある日、訪問した一軒の家で、〈きょうこ〉という「3歳の女児」の死に出会う。〈斎藤〉の眼には、「段ボール」の中に排泄物と一緒に横たわる女児の「遺体」が横たわっていた……というのだが。

   ……わずか3歳で生涯を終えた〈いとう きょうこ〉という幼児。一方、部屋に散乱した「段ボール」を片付け、別の「段ボール」に何かを詰めて〈斎藤〉の部屋を出て行こうとする〈恭子〉。彼女の「苗字」を糺そうとする〈斎藤〉に、〈恭子〉は〈さくらい〉という苗字を告げる。そして、「お見合い結婚」から逃げるためだったと言い残し、大きな「段ボール」を引き摺りながら出て行く。 ――終幕。

   なかなか素晴らしい演出・演技の「ラストシーン」だった。やや大げさな言い方だが、この「ラスト」によって、前述した “言い足りなさ” がかなり救われたと言える。

       ★

 

   繋がっている “生” と “死”

   「ラストシーン」は、「段ボール」の中で “死” を迎えた〈きょうこ〉と、これから「段ボール」を引き摺りながらも “生きて行かなければならない” 〈恭子〉とを対照的に描きながら、結局、〈きょうこ〉も〈恭子〉も “受け入れられなかった” と、一応そのように言いたいのかもしれない。

   しかし、この「ラストシーン」の本当の狙いは、〈きょうこ〉という3歳の「死者」と、〈恭子〉という19歳の「生者」とが、ようやく “ここに来て繋がった” ということだろう。と言っても無論、両者は「別の人間」であり、「別個の人格」だ。

   それぞれが、明らかに “別の親” と “別の家庭環境” の中で生き、“その親や家族の愛情を受け” ながら、“喜びや悲しみ” を共有し、ときには “憎悪や虐待” の対象となったのだろう。その結果、一方は “命を落とし”、他方は “何とか生き続けた” と言うことなのだろうか。

   〈恭子〉が《段ボール》を引き摺りながら〈斎藤〉のアパートを跡にする「ラストシーン」は、確かに〈恭子〉が  “受け入れられなかった” ことを示している。もちろん “受け入れなかった” のは、「家庭」であり「社会」であり、警察官の〈斎藤〉が象徴的に示す「秩序」というものだろう。

   しかし、“生命力の逞しさ” を感じさせる〈恭子〉にとって、それらによって “受け入れられなかった” ことなど、いかほどのものだろうか。彼女にしてみれば、それらは “いとも簡単に自分の方から拒否できる” ものではないだろうか。“どんなことをしても、自分一人で生き抜いて見せる” と言わんばかりの、強さと執念とを感じた。

   〈恭子〉が引き摺って行った《段ボール》は、彼女の “溢れる生命力と未来の生” を象徴すると同時に、〈3歳で死を迎えた女児〉の “死の時空” を象徴してもいる。筆者の推測だが、作者が本当に言いたかったのは、“時空を超えた死と生” を “アウフヘーベン(止揚)する生” といったものではなかっただろうか……。そんな気がしてならない。そう感じさせたのも、二十歳にも満たない〈恭子〉の空恐ろしいほどの “逞しさ” と “希望” にあった。

   それにしても、〈恭子〉役の「竹ノ内晴奈」嬢は、なかなかの熱演だった。〈恭子〉は、“生をまっとうしえなかった”〈きょうこ〉を背負っているかのようであり、そのように感じさせる演技には、鬼気迫るものがあった。無論、相手役〈斎藤〉の「板橋幸史」氏も好演だった。    

            ★

 

  いっそう洗練された「音響」と「照明」

   今回の「舞台」は、とにかく「竹ノ内晴奈」嬢の「音響効果」と「兼本俊平」氏の「音響操作」が素晴らしかった。「クラッシック曲」をベースとした「音響効果」すなわち「音」の「企画デザイニング」が、物語の性格や展開にとてもよくマッチしていた。

   何よりも、その優れたデザイニングを、絶妙なタイミングと音量によって創りだしたオペレーターの兼本氏の功績であろう。

   優れた感性とイマジネーションの二人にして初めて可能であり、筆者が理想と考えるものに近い。無駄な「音響継続の時間」もなく、「音量」もとても心地よいものだった。どうりで、〈恭子〉がいっそう魅力的なキャラクターになったはずだ。

  また地味ながらも、「寺岡大輝」氏の「照明効果」に、「伊比井花菜」嬢の「照明操作」もよかった。派手な色彩照明など不要だ。優れた「照明効果」や「照明操作」は、「音響効果」や「音響操作」と相互に響き合っている。今回の「舞台」は、それをさらに強く確認させてくれた。

   最近の「九州大学演劇部」の「音響」や「照明」は、ぐんとそのレベルを上げたような気がしてならない。あの「海峡公演」の『桜刀』以降、特にそう感じる。

 

 【キャスト】  板橋幸史(斎藤)、竹ノ内晴奈(恭子)、村上悠子(世良)、寺岡大輝(田島)、中山博晶(おじいちゃん)、田中利沙(女)、石川悠眞(男)。

 【スタッフ】 中山博晶(装置)、寺岡大輝(照明効果)、伊比井花菜(照明操作・宣伝美術)、竹之内晴奈(音響効果)、兼本俊平(音響操作)、村上悠子(小道具)、田中利沙(衣装)、板橋幸史(制作)。 以上の諸氏諸嬢。

       ★

  作者「田中利沙」嬢の非凡な才能を感じる作品だ。筆者の余計なお世話かもしれないが、機会があれば、本作に手を加え、90分くらいのものにしてみたらどうだろうか。このままではとても惜しいような気がしてならないのだが……。

  ともあれ、「作・演出家」以下、この舞台の「キャスト」&「スタッフ」各位に敬愛と感謝の意を表したい。

 


●演劇鑑賞:『真っ黒サンタとまっしろ少女』他(福岡大学)

2015年05月02日 00時00分47秒 | ●演劇鑑賞

 

  「福岡大学演劇部」の今回の舞台公演は、30~35分の作品が3本だった。

  第1作は、「麻生悠花」嬢の作・演出による『opfer』。「タイトル」名は、「ドイツ語」の「生贄」や「犠牲」といった意味のようだ。神への「捧げ物」といったニュアンスを指しているのかもしれない。

  第2作は、「馬場佑介」氏の作・演出の『ゴジラが消えた日』。「ゴジラ」と渾名された松井秀喜選手に対する野球少年の想いを綴っている。

  第3作の『真っ黒サンタとまっしろ少女』も同じ馬場氏による作・演出。なお同氏は、全体の演出も担当した。第3作において、馬場氏は主人公の泥棒(真っ黒サンタ)を演じたわけだが、同氏なりの強い想い入れを感じた。

             ★

    しかし「3作品」とも、正直言って心に迫るものに乏しかった。作者が “言わんとしていること” がよく解らなかったからだろうか。「演出の言葉」から察するに、おそらく “作者の狙い” は、いずれの作品とも難しく考えずに物語をそのまま面白く感じてくれたら、ということなのかもしれないが……。

 

   音響過多と過剰音量に懸念

   しかし、「内容」よりも筆者が気になったのは、「音楽の多用過剰な音量」であり、「役者」の演技や台詞の魅力を損ねたことにあった。さまざまな「楽曲」をたて続けに流すため、必然、「舞台」に落ち着きがなくなり、役者の「台詞回し」をはじめ、その「動き」や「表情」をじっくり味うことができなかった。

   「演劇」において、役者の「台詞回し」や「声」に勝る「音楽」や「音」が他にあるだろうか。不要不急な「音響」によって、「舞台の進行」が追い立てられたような気がしてならなかった。この「音響問題」は、ここ数年の同大演劇についていつも感じる。

   初心に返って他劇団との比較検証を行い、 “役者の魅力を引き出す音響” を心がけて欲しい。……とここまで書いて来て、筆者は昨年12月27日に綴った『2014福岡都市圏の学生演劇を観終えて:下』を想い出した。その中で、同大演劇部の『天使は瞳を閉じて』に対する演劇評の最後に、以下のような一文を加えた。「原文」のまま再掲してみよう(太字も下線も)。   

    ★★「ミュージカル」や「音楽劇」ではない普通の「舞台」において、「音楽」や「音量(ボリューム)」は、ただひとえに「役者を活かすために存在する。それらは、「役者の台詞回し」を、すなわち「役者」の “言葉や声” を魅力的かつ効果的にするための補助手段にすぎない。

   逆な言い方をするなら、「役者」の “演技” や “台詞回し” の魅力を損なうものは、総て排除しなければならない。

    「舞台」から「音楽」や「効果音」を取り去っても、さらには「舞台美術」や「小道具」や「衣装」や「照明」を取り去っても、「役者」が存在する限り「舞台」は成立する

   ……「舞台演劇」における “絶対不変の原理” とも言えるこの意味を、演劇に携わる人々とともに、今ここで再確認したいと思う。★★

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   「舞台演劇」については、「人」それぞれ、「学校」そして「劇団」それぞれの考えがある。とはいえ、そこには「舞台演劇」という表現形式が歴史的に背負って来た節度が求められる。無論、同大演劇部はそれを承知の上での「舞台創造」、すなわち「演出・演技」そして「音響」等なのだろうが……。

   今回の公演において、同大演劇部が作成した「新入生」向けの「演劇部・案内パンフレット」の表紙には、“演劇とは、皆で一つの作品を作り上げる総合芸術”という大きな文字が目を引く。この場合の「総合芸術」という意味を、もう一度 “演劇の原点” に立ち返って考えて欲しい。

 

   【キャスト】 ◎『opfer崎戸優弥(王子)、泉加那子(エリナ)、岩下祐里奈(魔法使い)、山中悠史(蛇)、松田隆寛(吟遊詩人)、山口奈子(教師)。 ◎『ゴジラが消えた日』岩下祐里奈(青年期のタケル)、大野日向子(少年期のタケル)、藤駿太郎(父親)、山中悠史(大和)、上村由美子(マネージャー)、馬場佑介(審判)、関大祐(相手ピッチャー)。 ◎『真っ黒サンタとまっしろ少女』馬場佑介(泥棒=真っ黒サンタ)、泉加那子(まっしろ少女)、関大祐(父親)、眞鍋朱里(母親)。

   【スタッフ】 岩下祐里奈舞台監督・衣装メイク)、麻生悠花舞台)、安田和輝(同)、馬場佑介(同)、河口愛(同)眞鍋朱里(同・記録)、野間直人(同・小道具)。山口奈子照明)、武藤君佳(同)、水谷耕(同)、関大祐(同)。藤駿太郎音響)、上村由美子(同)、西田尚史(同)、崎戸優弥(同)、矢山康哲(同)、藤岡美有(同)。大野日向子衣装メイク)、田中悠希(同)、奥水真美(同)、長谷川太一(同)、入江好海(同)。泉加那子制作)、松田隆寛(同)、荻迫由衣(同)。 以上の諸氏諸嬢。