◆鉄工場(こうば)と濃紫陽花(こあじさい)
よく降る梅雨の候。“よく”どころか、地域によっては“とんでもない豪雨”となっている。ちと度が過ぎる“雨のたくらみ”と言えるのだが、そういう時節の花といえば、やはり「アジサイ」だろうか。
数年前、初めて訪れた土地にて、思いもかけず「濃紫陽花のひと屯(たむろ)」に出会った。いつ降り始めてもおかしくない、どんよりとした曇りがちの空の下、あまり風もない昼下がりだった。
近くに鉄屑処理場とおぼしき街工場(こうば)があり、淀んだ空気の中に金属の切削・研磨の際に出る鉄鋼片の微細な粉塵が、何となく鼻先に漂っているような気がして仕方がなかった。
見知らぬ街の垢抜けしない小さな工場(こうば)。その隅っこを占める堂々たる紫陽花の一群。鞠の数は軽く三十を超えていただろう。逞しかったのを憶えている。
植物や色彩に縁のない場所だけに、殺風景な中の濃紺の鞠は異彩であり、いやが上にも人目を惹いた。
そのとき、俳句や短歌より先に『淡くかなしきもののふるなり、紫陽花いろのもののふるなり』という言葉が唇にのぼった。
教科書などでおなじみの三好達治の詩の一節だ。中学に入ってすぐの頃、「紫陽花」が「あじさい」であることを知ったのも、初めてこの詩に触れたときであったように記憶している。
☆
乳母車
三好達治
母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
三好達治
母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車(うばぐるま)を押せ
泣きぬれる夕陽にむかって
りんりんと私の乳母車を押せ
赤い総(ふさ)のある天鵞絨(びろうど)の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知っている
この道は遠く遠くはてしない道
――詩集『測量船』から
※「りんりん」の「りん」の文字は、「車」偏(へん)に、「隣」の「こざとへん」を除いた「つくり」と合体させた文字。「りんりん」とは、「車輪のきしる音」の形容。
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さて読者は、この詩をどのように鑑賞されただろうか。それぞれのイメージや想いの中で、個々の「詩の世界」に遊ばれたのかもしれない。
だが筆者は、正直言ってあまり触れたい気分にはならない。人口に膾炙したこの詩を、いまさら論じてもという気持が先に立つからだろう。
いや、本当のことを言えば、今回久しぶりにこの詩を眺めたとき、「この詩に対してこれまで抱いていた何か」が、音を立てて崩れ去ったからだ。なんとも罪作りな詩であり、詩人だ。
筆者がそう感じた原因は、次の3点にある。
1.『淡くかなしきもの』や『紫陽花いろのもの』という「色合いの穏かさや優しさ」が、「夕陽」「赤い総」「ビロードの帽子」等の「強烈な色調」によって減殺されている。
2.「はてしなき並樹」「そうそうと風」「泣きぬれる」「りんりんと」「冷たき額」「旅いそぐ鳥」「遠く遠くはてしない道」といった言葉は、あまりにも安直すぎる。
まるで何処かの「バーゲンセール」において、つい安かったのでまとめて買っちゃいましたとでも言いたげだ。
これらの言葉を用いる“詩的感興”が得られないため、感動も余韻も伝わりにくい。
3.以上「1」と「2」による不用意かつ冗漫な表現がこの詩の緊張感を損ね、せっかくの『淡くかなしき』と『紫陽花いろ』という二つの言葉による“秀逸な響き合いを“台無し”にしている。
のみならず、この“響き合い”から豊かに広がっていくはずの『淡くかなしいものの正体』も、『紫陽花いろの変幻自在な変容』も、ともに膨らむこともなく萎(しぼ)んでしまったようだ。
“たった2行”の“あの名詩”を作り出した“詩情”は、そしてその劇的な創造性に支えられた“感性”は何処に行ったのだろうか。
☆
雪
三好達治
太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。
☆
そこで秘かなる「私家版」(筆者)の『乳母車』は――、
☆
乳母車
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
母よ 私の乳母車を押せ
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知っている
この道は遠くはてしない道
※三好達治のファンのみなさん。お赦しを。
でも文面から三好達治さんへの愛情が溢れています。
明晰な分析のとおりであれば,大好きな三好さんの感性カムバック。
明日からしばらくアジサイの花を見るたびに三好さんの乳母車を思い出しそうです。
結局、いかに「メイン・ディッシュ」をひきたてるかということでしょうか。
達治のものは、やはり『雪』の詩が一番好きです。このたった「2行の世界」から、どれだけのイメージや物語が膨らんでいくことか。
しかもこの『雪』の詩は、接するその都度異なったイメージや物語を与えてくれるのです。だから飽きることなく、そのときそのときの“いのち”を与え続けることができるのでしょう。
多くを語れば、多くを表現できると考える人々には無縁の世界なのだと思います。
その点、さすがはわが友「セラビー氏」。
ありがとうございました。
あじさゐ少なくなり、
いっそう、あじさゐいろ雨にふゆるなり
昨今の「あじさゐ」風景のようです。本当に少なくなりましたね。あじさゐ……。
UKさん、ありがとうございます。
年を経るに従い、言葉に限らず、少しでも余計な物を省きたい、整理したい、少なくしたいと思うようになって行くものです。
これも一つの「断捨離」なのかもしれません。
私が「TVを放棄」した最大の理由も、是と同じです。。テレビ番組と言う名の、あまりにも真善美から離れた企画や構成に耐えきれなくなったからだと、自分では思っています。
残り少ない人生、できるだけ「ほんもの」に近いものに触れたいと、いっそう思うようになりました。