……雪と戯れている男。雪は男のためにあり、男は雪のためにある……。永平寺の僧堂の一角を占めている不惑の男の五体。軽やかで清浄無垢な雪の感触に覚まされつつ……。
男の周りに存在するもの……降り込む雪とその雪空、窓から差し込む雪明り、黒光りのする僧堂の三和土(たたき)と剥き出しの巨木な梁、そして高い天井空間……。
私はそれらのものを漫然と見遣りながら、呟く言葉もないまましばらく佇んでいました。それでも、さすがに「振り込む雪」だけは拙(まず)いと思い、ようやく窓を閉めました。
人の気配を感じたとき、一人の雲水が箒と大きな塵取りをもってかけつけていました。私は彼に感謝し詫びながらも、爽やかな気持ちでした。それは雲水がとても楽しそうに雪を掃き取っていたからです。
「控室」に戻る途中、普段と同じ“角度”と“目線”で永平寺に降る雪を観ました。特にこれといって変わった雪ではありませんでした。しかし、あらためて“雪の白さと明るさ”と、雪の持っている“温もり”を感じたような気がしました。新鮮であり、幸せな気持でした。
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「開枕」の消灯後、その夜はなかなか寝付けませんでした。私を目がけて飛んできた“雪の様子”が想念の中で何度も繰り返され、繰り返されるたびに私の記憶はいっそう鮮明に“雪の様子”を想い出して行ったのです。雪に始まった想念は、際限もなく広がり始めようとしていました。
『さきほどのあの一瞬のために、何度もここ永平寺に来るようになったのかもしれない。あの一瞬のために、この八か月、毎日欠かさず坐禅を重ねるようになったのだろうか……』
しかし実際、その“想念”は整然とまとまっているわけではありませんでした。正直言って“錯綜”し“混乱”していたのです。あまりにも多くのものが、脈絡もなく“私”に押し寄せていました。
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福岡に戻ってからと言うもの、私は急速に「坐禅」に対する情熱と興味を喪い始めていました。「坐蒲(ざふ)」(=坐禅用の座布団)を前にしても、なかなか“坐禅”する気持になれなかったのです。といって「坐禅」が嫌いになったわけでも、「禅」そのものを否定しようという気持もまったくありませんでした。
ただ、『坐禅そして禅というものだけで、自分の人生や行動の指針を考えてよいものだろうか』という“疑念”が湧き起こっていました。
『他に何かありはしないだろうか。確たる何かが……』
「坐禅」に、そして「禅」に今後の「人生」を託してみようと思っていただけに、急速に湧き起こってきたこの“疑念”は、私自身のその後の“生き方”を大きく左右するものでした。
そして、私はその“問い”に対する“一つの答え”を『聖書』に見出そうとしていました。だがこれとの闘いも、それから二十年以上もの長きに渡り、一筋縄ではいかなかったのです。無論、現在も苦闘中であることに変わりはありません。
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現在、「坐禅」をすることはありません。しかし、数息観はときどき試みています。また道元の著作に眼を通すとともに、禅の公案である『無門關』は愛読書の一つです。
ちなみに、知人等から『禅』や『坐禅』について尋ねられたとき、私の答えは決まっています。
『自分が納得いくまで坐禅するなり、著作を読むなりすればよいでしょう』と。
私自身がそうであったように、考え方や感じ方は人それぞれです。同じ人であっても、置かれた環境や周りの人々との関係によって変化するものであり、また変化し続けるものだからです。
“決定的なこと”は誰にも判らないということです。最後はその人自身の闘いでしかなく、現段階でそれ以上のことは言えないと思います。
私が“坐禅”や“禅”から受けた感動や恩恵はとても素晴らしものです。無論、今もその気持に少しも変わりはありません。
しかし、あえて一つだけ言うとするなら、「坐禅」そして「禅なるもの」とは、その本人自身は“確立”しえても、あるいは“救い”えても、“それ以上でもそれ以下でない”ということです。
曹洞禅における「坐禅」は壁に向かって行い、これを『面壁(めんぺき)』といいます。“坐る”というのは、まさに“孤立無援”の闘いであるのです。誰から助けられることもなければ、誰一人助けることもありません。
つまり、坐禅そして禅とは、身近な家族の誰一人の痛みも苦しみも取り除くことはできず、また愛することも愛を深めることも、そして救うことも癒すこともできないということです。
ここに“坐禅”の、そして“禅”の“魅力”とその“限界”とがあるのではないでしょうか。……無論、これはあくまでも私の個人的な感想にすぎませんが。
はたして諸兄諸姉にとって、『坐禅そして禅とは』……これいかに! (了)