『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

・自己を忘るるというは……(坐禅の魅力と限界:4)

2011年07月31日 14時02分50秒 | ■禅・仏教

 “その坐禅”は、その日最後の一つか二つ前の「坐禅」ではなかったでしょうか。というのも外はすでに暗く、また空腹感も一切なかったからです。おそらく“その坐禅”は、「薬石(夕食)」から少し時間をおいたものでしょう。心身ともに安定し、また穏やかな気持ちでした。

 脚や足の痺れも気にならず、私は心地よく落ち着いていたことを記憶しています。「夜」というのに全身の疲れも眠気もなく、つい何時間か前に倒れそうになったことが嘘のようでした。“時間”のことも“日常生活”のことも少しも気にならず、“坐禅に没頭する”だけでした。まさにそのために、福岡から時間と費用をかけて来たのですから……。

 薄暗い僧堂に「」が鳴りました。正式な坐禅の開始を告げる「本鈴」です。私はいつもと違って心身ともにとてもリラックスした状態でした。というのも、「本鈴」による正式な坐禅開始となっても、すぐには全身がなじめないのが常だからです。
 そのため、「予鈴」から「本鈴」までの数分間が短く感じられ、もう2、3分「準備時間」が欲しいと思うことが何度かありました。

 それが今回は、ごく自然に「本鈴」すなわち“正式な坐禅”へと“入って”行けたのです。私は照明が乏しい中、“半眼”のまま「半間」(約90cm)ほど先の「単」の縁を見つめていました。静かに、「数息観(すうそくかん)」(※註1)という坐禅独特の呼吸法を繰り返しながら、“只管打坐(しかんたざ)”(※註2)の世界を辿り始めていたのです……。

 ところが、なぜか周りに落ち着きがないような気がしました。薄暗い僧堂とはいえ、“半眼”のために左右の“気配”を感じることができるのです。
 明らかに「単」を下りる人の動きがあり、それも一人や二人ではなさそうです。何が起きたのだろう? 火事などの緊急避難ではなそうだし……。それにしても、なぜ坐禅をしないで「単」を下りるのだろうか? 

 ……と思っているところへ、ふいに肩を叩かれました――。

 ――いい“坐相(ざそう)”(※註3)でしたね。

 坐禅をしなければいけない人が、なぜ立ちあがって声をかけるのだろうか。私は自分が置かれている立場を理解し得ないまま、声の主である若き雲水の笑顔を眺めているだけでした。

 ――なかなかでしたよ。

 その言葉を頭の中で反芻しながらも、私は何が起きているのかまだよく呑みこめなかったのです。しかし、坐禅仲間が全員「控室」に戻ったことを聴かされたとき、私はようやく状況を呑み込むことができたのです。

 そうです――。私が「本鈴」と思った鐘は、実は「終鈴」の鐘でした。
 つまり私は「予鈴」とともに「単」に上がり、そこで坐禅のための足を組んだり、身体を前後左右に揺り動かす動作だけと思っていたところ、「その後40分間」しっかりと「坐禅」を続けていたというわけです。「本鈴」が耳に入らないまま、40分もの時間を“ほんの数分”にしか感じなかったということでしょう。

 信じがたい不思議な“時間の感覚”であり、これまで体験したことのないものです。
 私はほぼ半年前に初めて永平寺を訪れて以降、事務所で座禅をするようになっていました。「坐る」ことにはある程度慣れていたのは確かです。それでもこのような体験は、後にも先にもこのときだけでした。
  
 ともあれ、私にとっての“その40分間の坐禅”は、“他のものが一切入り込む余地のない濃密な時間”でした。
 
 このときの「摂心」から戻った数日後、私は再び、道元の『自己をならふといふは、自己を忘るるなり』の“あの一節”を想い浮かべていました。(続く)

       ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ※註1:坐禅時の独特の呼吸法です。この「呼吸法」は今でも時々行っています。あくまでも私の個人的な感想ですが、自然に姿勢がよくなると同時に、「精神統一」にもなるようです。
 ※註2:「只管」は「ひたすら」、「打坐」は「坐わる」という意味です。道元的に言えば、あれこれ思い惑うことなく、とにかく“ひたすら坐禅しなさい”ということです。
 ※註3:「坐禅をしているときの坐っている姿」のことを言います。若い雲水の方でも、みなさんが一目置くよう方は「坐相」が堂々としています。背筋はスッと伸び、ピクリとも動きません。凛とした中にも、穏やかな美しさが感じられます。そういう方は「一チュウ」の40分が終わっても、そのまま一人黙々と坐禅を続けていました。


・三昧(ザンマイ)の先に(坐禅の魅力と限界:3)

2011年07月27日 23時17分26秒 | ■禅・仏教
 
 
 道元の著作の中でもっとも読まれているのが『正法眼蔵』であり、中でもひときわ人気があるのが『現成公案』の巻です。ご紹介した「三行」は、よく引用される有名な一節です。ご存じの方も多いと思います。

 私は、「作務」において感じた“一瞬”が、道元のいう“自己を忘れる”と同じだというつもりはありません。ただ感動的な歓びをともなった作務の後に、あの一節を諳んじることができたことを幸せに感じたということです。この『現成公案』や『正法眼蔵』については、別の機会に触れてみたいと思います。

 ともあれ無事に≪作務≫を終えた後は、10時からの≪坐禅≫であり、11時からの≪日中(にっちゅう)≫そして、正午ちょうどの≪中食(ちゅうじき)≫でした。「日中」とは、「日中諷経(にっちゅうふぎん)」を略称したようです。主に「読経」です。「中食」は言うまでもなく「昼食」となります。
  
 午後は13時の≪作務≫に始まり、14時の≪坐禅≫、16時の≪晩課(ばんか)≫そして17時の≪薬石(やくせき)≫と続きます。「晩課」とは夜の勤行、すなわち「読経」中心のものであり、「薬石」とは「夕食」のことです。
 一日の“締め括り”は、19時の≪夜坐(やざ)≫でした。「夜の坐禅」となるわけですが、この時間ともなるとさすがに疲労もピークを迎えていたのでしょう。21時の≪開枕(かいちん)≫すなわち「就寝」の合図とともに、誰もが“爆睡”状態に入っていました。
 
       ☆   ☆   ☆

 以上が「一般参禅」(1997年5月と8月)の日程でした。結局、この「一般参禅」での一日の「坐禅回数」は、3時50分からの「暁天坐禅」、10時と14時からの「坐禅」、そして19時からの「夜坐」の4回でした。

 「坐禅」のとき「線香」が焚かれます。その本来の理由は時間を計るためにあったのでしょう。一本の線香が燃え尽きる時間を「一チュウ(いっちゅう)」といい、およそ40分から45分ぐらいです。「チュウ」の字は「火偏(ひへん)」に「主」と綴ります。永平寺では、この「一チュウ」すなわち一回当たりの坐禅時間が、40分と決まっていたようです。

 「坐禅」を開始しようとするとき、まず「予鈴」として鐘がなります。つまりは、これから坐禅をしますよ。そのための準備に入ってくださいというわけです。「単」に座って、座禅をするために脚を組み、全身を伸ばしたり、揺すったりしながら、身も心も“坐禅の態勢”を整えます。その数分後に「本鈴」が鳴って正式な坐禅が始まります。

 雲水のみなさんと共にした12月と翌年2月の「摂心」については、手元にその当時の日程表はありませんが、一日に「十三チュウ」つまり「十三回の坐禅」があったように記憶しています。まさしく“坐禅三昧”そのものでした。

 この「摂心」のとき、「坐禅」と「坐禅」の間を何度か「経行(きんひん)」という所作でつないだような気がします。経行とは足の痺(しび)れを解(ほぐ)すために、坐禅者相互が並んで歩くことをいいます。歩くと言っても亀の歩みのごとく、実にのろのろとしたものです。1分間に数十センチ程度しか進まなかったように想います。坐禅をしている時と同じように息を整えて歩くことから“歩く坐禅”とも呼ばれています。

 初めて「経行」を体験したときのことです。それは1987年12月の「臘八摂心」のときでした。
 私は直前までの「坐禅」による“脚”の“痺れ”がとれず、単から“立ちあがる”ことすらできませんでした。それでも何とか立ちあがって「経行の歩み」に加わったものの、座禅による脚の痛みと痺れと疲れのためか、何度も全身が崩れ落ちそうになりました。
 何とか周りの人々に支えてもらったのですが、全身が自分のものではないような気がして仕方ありませんでした。
 
 しかし、この二、三回後の坐禅で、私は“時間を超えた自己”ともいうべき“存在”に気付くことになるのです。(続く)



・自己をならうというは……(坐禅の魅力と限界:2)

2011年07月23日 16時20分34秒 | ■禅・仏教

 ≪作務(さむ)≫とは、さまざまな「作業」を意味しています。食事を作ることも掃除をすることも作務であり、「寝ること」も「寝作務(ねざむ)」といって、これも修行の一つです。
 しかし、私たち参禅者の作務のほとんどは「掃除」でした。これについては、不思議なそして感動的な体験があります。それは初めての参禅のときでした(1987年5月)――。
 
       ☆   ☆   ☆ 

 ……「作務」の時間となりました。指導役の雲水が、『今から掃除をしますのでついて来てください』と言って歩き始めました。すぐに想い浮かんだのが「箒で庭を掃く姿」(※註1)でした。となれば“気晴らし”になると思い、参禅仲間とともに(男性五、六人)ちょっと楽しい気分になりました。
 
 ところが辿り着いた所は「男性用の便所」でした。誰もが戸惑いと落胆の表情で顔を見合わせたものです。自宅以外の掃除それも「便所掃除」など、記憶の片隅にもありません。おそらく中学時代以来ではないでしょうか。ささやかな抵抗感と違和感とが全身をめぐり、“どうなることやら”と言うのが正直な感想でした。

 雑巾を手にした雲水は、淡々とした表情で「小便器の朝顔」を指さしました。そして『まずこれを綺麗にします』と言って、いきなり拭き始めたのです。誰もが呆気にとられて見ているだけでした。普段は墨染めの衣に坊主頭の若き雲水。その彼が黒っぽい作務衣をまとい、剃髪した頭を無地の手拭いで覆っています。

 「小便器」の外側を“すばやく”、しかし“確実に”拭き上げる動作はきびきびしており、結局、ものの二分ほどで一つを拭き終えたのです。手慣れた一連の流れには“無駄”がなく、何よりも、とても“自然”な印象を与えました。『今のような要領です――』。これまた淡々とした表情で雲水はそう結び、私たちに作務を促したのです。

 誰もが拭き始めたもののぎこちなく、無論、私も同様でした。しかし、たった今目にした雲水の“お手本”の印象は強く、私たちは誰しもすぐに“拭き上げる”という作務の世界に入っていけたような気がします。

       ☆   ☆   ☆

 作務を開始してどのくらい時間が経ったでしょうか――。自分ではまったく“時間の経過”についての意識がありませんでした(「参禅生活」のときは、腕時計はいつも外していました)。ふと気づくと、今にも顔や唇が「小便器」に触れんばかりに近づいていたのです。
 
 といって、“危ない”とか“汚い”といった感じは少しもありませんでした。“その一瞬”――私は自分が「便所掃除」をしていることも、「小便器の朝顔」を拭き上げていることも、そして“すんでのところで”顔や唇が小便器に触れていたことにも囚われることなく、今と言うこの時を“ただあるがままに生きている”という、そんな想いで実感していたのです。

 いつもと同じように呼吸し、何かを見つめそして耳にし、四肢を肢体をさまざまに動かせながら“今このとき”の中にいる……。自分の身体であっても自分のものでないような……そんな不思議な感覚に支配されながらも心地よく、何よりも自分と言うものを誇らしく感じることができました。同時に、“もう何もいらない”との満ち足りた想いに包まれてもいました。

 “無我無心”には到底及ばないものの、“ピュアで透明な意識”……そういう表現が相応しいのかもしれません。
 
       ☆   ☆   ☆   

 「作務」を終えて「控室」に戻るまでの間、私は「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」(※註2)の「現成公案(げんじょうこうあん)」(※註3)の一節を諳んじていました。大好きな部分です。

 仏道をならふといふは、自己をならふなり。
 自己をならふといふは、自己を忘るるなり。
 自己を忘るるといふは、万法に証せらるるなり。
 ※註4(続く)

       ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆   

 ※註1:「庭」と言っても半端な広さではありません。永平寺の「敷地面積」は10万坪(330,000㎡)とされています。よく「面積比較」の引き合いに出される「東京ドーム」の敷地面積が約46,000平方メートルですから、その7個分ということになります。「グランド面積」だけであれば13,000平方とのこと。何とその25個分ということに。
 ※註2:道元禅師が20数年をかけて著わしたとされ、全95巻から成っています。
 ※註3:「正法眼蔵」の第一巻として出て来ます。ごく短い文章であるうえに語調のよい文体のため、ついつい惹きこまれて行くようです。
 ※註4:「万法(まんぽう)」とは、“万事万象”といった意味です。  

・雲水の振鈴に起されて(坐禅の魅力と限界:1)

2011年07月19日 00時18分21秒 | ■禅・仏教

 3月末の引越以来、未だに荷解きしていない段ボールが7、8個残っています。つい先日、ようやく覚悟を決めて整理を開始しました。

 その中で永平寺の『参禅のしおり』が出て来ました。「永平寺」については、本ブログ『永平寺の参禅修行-叱られるために(上)』(2011.4.14)で触れています。

 結局、永平寺の「参禅」には、1987年の5月、8月、12月及び翌1988年2月の4回参加したようです。はじめの2回は「一般参禅」であり、文字通り素人の「一般人」としての参禅でした。
 次の12月の「臘八摂心(ろうはちせっしん)」(※註1)と2月の「涅槃会報恩摂心(ねはんえほうおんせっしん)」(※註2)は、雲水に交じってのものでした。そのため「坐禅」は「僧堂(そうどう)」で、また朝課(ちょうか)という読経などは「法堂(はっとう)」において体験しました。 ※以下の「日課」は「一般参禅用」のものです。

       ☆    ☆    ☆   

 ≪起床洗面≫が3時30分となっています(冬期はこれより1時間遅くなったようです)。そんなに早く起きていたのだろうかと、正直言って驚きました。
 この「起床」の際の相図として、「振鈴(しんれい)」というものがあります。若い雲水が、手にした小さな鐘(鉦)を振りながら僧房の雲水や宿泊の参禅者を起こします。

 夏場といっても無論まだ空は暗く、“大本山”と呼ぶに相応しい開祖の仏寺はとにかく広いのです。何人もの若い雲水たちが必死の様子で走り回っていたのでしょう。一度その姿を見たような記憶があるのですが……。
 樹齢七百年もの杉の樹々に囲まれ、一切の世俗から断たれた静謐な佇まい――。その静寂を突き破るように振鈴が駆け抜け、朝がそして一日が始まるのです。“静”の世界の中でもっとも“動”を感じる瞬間です。

 この振鈴の開始から20分後の3時50分、≪暁天坐禅(ぎょうてんざぜん)≫が始まります。その日最初の、文字通り“明け方”の「坐禅」です。
 
 それが終わると、5時より≪朝課(ちょうか)≫が小一時間続いたでしょうか。「朝課」とは朝の「勤行(ごんぎょう)をさし、主に読経するものです。この後、ちょっとした自由時間があり、7時ちょうどから≪小食(しょうじき)≫つまり「朝食」となります。「食事」の作法の厳しさについては、ご紹介したブログのとおりです。

 とにかく、食事の進み具合は早いという印象でした。参禅者全員の食事の速さが揃うようにとの指導のため、横目でチラチラ見ながらというのが基本でした。といって辺りを見渡そうものなら、“何をきょろきょろ観ているのですか。ここは道場ですよ”と叱責されたでしょう。

 永平寺では、坐禅や食事をする「僧堂」に、「浴司(よくす)」と「東司(とうす)」(=便所)を併せた建物を“三黙道場(さんもくどうじょう)”としています。つまりは食べることも、排泄することも、そして坐禅することも経典を読むことも、その総てが修行というわけです。
 ことに「僧堂」では余計な音をたてたり、不用意な所作などを慎まなければならず、一挙手一投足に厳しい雲水の目が注がれていました。

 とても“再進(さいしん)”という“おかわり”をする余裕などありませんでした。仲間が「応量器(おうりょうき)」(=食器※註3)を上げ下げする動作を頼りに、その気配を聴き耳を立ててうかがっていたのです。そのため、普段マイペースでゆったりと食事をする女性にとっては、大変な“修行”となったようです。
 
 8時30分から≪作務(さむ)≫、10時から≪坐禅≫そして11時の≪日中≫と続き、12時ちょうどに≪中食(ちゅうじき)≫という「昼食」時間を迎えます。

       ☆    ☆    ☆   

 ※註:1 釈尊は35歳の12月8日、すなわち「臘」月(ろうげつ)の「八」日に菩提樹の下で悟りを開いたとされ、それにちなんでのものです。なお「摂心」とは、坐禅三昧といったものです。永平寺では12月1日から8日までの七泊八日あるようですが、私は前半の三泊四日の参加でした。
 註:2 釈尊の涅槃(死去)にちなみ、その教えに対する恩に報いるための坐禅修行ということでしょう。
 註:3 先にご紹介のブログ記事に詳しく書いています。
 

・アルフレッド・ハウゼ in 寺井尚子(3)-終章

2011年07月16日 15時46分33秒 | ●JAZZに親しむ

 ……時間を少し遡(さかのぼ)ってみよう。前回“動きの中の寺井尚子を見るのは初めて”と言った。だが実は“動きの中”どころか、彼女の姿を見ること自体“初めて”だった。

 あの日、筆者はセラビー氏宅でまず数枚のCDジャケットを目にした。「寺井尚子」の文字とともに、写真集の“モデル”にでも出てきそうな麗しい女性が写っていた。成熟した雰囲気の中にも顔立ちは清雅な印象を与え、しっとりとした知性の中にも秘められた女の情念を感じた。その瞬間、筆者は思わずセラビー氏に語りかけていた。

 ――この表情いいですね。

 だが彼は、すかさず別のCDジャケットを示しながら躊躇なく言った。

 ――こっちの方がいいと想いますが。

 そこには、演奏中の彼女の姿があった。少し眉をひそめたその表情には、苦渋すら浮かんでいる。先ほどの“モデルスマイル”とは別人のようだ。だが“女性ヴァイオリニスト”が、そしていっそう“女性の美”が感じられた。

 この「やりとり」の後、筆者は生まれて初めて寺井尚子のCDを聴き、また動画付きの『JEALOUSY』を観たのだった。

      ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ともあれ、セラビー氏宅での“寺井尚子体験”は、音楽に関する久しぶりの衝撃と興奮をもたらした。筆者は帰りの車の中で、繰り返し押し寄せて来るアップテンポのヴァイオリンと、その多彩なメロディに圧倒されていた。自宅までの20kmという距離はあっという間に過ぎた。

 帰宅後、「寺井尚子の試聴動画」を探した。そこには彼女の「ジェラシー(JEALOUSY)」や「ラ・クンーパルシータ」とともに、何と「アルフレッド・ハウゼ楽団」の同名の曲もあった。

 筆者はまず「アルフレッド・ハウゼ」の「ジェラシー」を選んだ。これこそ紛れもなく、47年前の“アルフレッド・ハウゼ”の“サウンド”そのものだった。次に、再確認の意味で寺井尚子の「ジェラシー」を聴き、さらに両者の「ラ・クンパルシータ」を聴き比べた。
 その結果、筆者は確信した。やはり寺井尚子のDNAは、間違いなくアルフレッド・ハウゼから来たものであると

 そしてそのあと、筆者の目は『ハバネラ』というタイトルの動画に釘づけになった。何を隠そう、この一曲によって、筆者は“寺井尚子ワールド”への“真のあゆみ”を辿り始めることとなるのだ
 
      ☆   ☆   ☆

 『ハバネラ』。歌劇『カルメン』におけるもっともポピュラーな歌曲。いや、『カルメン』の中でというより、すべての「歌劇」の中でも突出して知られている。誰しも、一度ならず二度、三度と耳にされたはずだ。
 恋多きジプシー女“カルメン”――。拘置された牢獄から逃れるため、護送役のドン・ホセを誘惑しようとするあの第一幕のアリア(独唱曲)――。 

 まず動画「ハバネラ」の「冒頭のシーン」の寺井尚子の衣装に惹かれた。右肩にデザインされたサーモン系の赤いノースリーブ。……明らかに彼女は『カルメン』を意識している。その恋人(エスカミーリョ)を心に秘めながら、彼マタドーラ(闘牛士)の象徴ともいえる「赤いマント」に包まれているのであろう。
 
 黒っぽいスカートは、裾にオシャレな襞(?)を織り込んだもの。どこか「ジブシー女」をイメージづけているのかもしれない。そして、いつもは無造作に垂らした亜麻色の長い髪は、頭の後ろでコンパクトにまとめられている。

 舞台背景の照明をギリギリまで落としているため、演奏者と楽器とがひときわ浮かび上がって見える。ベースに導かれたヴァイオリンの「イントロ」が始まる。カメラアングルは“カルメン”いや“寺井尚子”をやや斜め前下から見上げている。そのため成熟した女性(にょしょう)の上半身のフォルムが、あますところなく現れる。
 
 その柔らかなフォルムから繰り出される寺井尚子の全身のライン。一つは右肩からヴァイオリンの弓を持つ右腕へ、一つは首筋から肢体の胸のあたりへと続く。そして最後の一つはヴァイオリンを挟んだ顎から左肩の付け根へ、さらには弦を抑える左手、左指へと流れていく……。
 
 フォルムは全身を律動的に撓(しな)らせ、弓を持った右手を、そしてヴァイオリンを支える左手を操って行く。紡ぎ出される多彩で繊細な音の数々。女性ヴァイオリニストのフォルムは淀みなく流れ、ときには切なく、ときには妖しくその表情を変えながら、感動的なメロディを、リズムを、そしてハーモニーを次々に創り上げていく。

 ……美しい無駄のないフォルム。その繊細で大胆な動き。ヴァイオリンと言う楽器の動きを、筆者はこれほど魅力的に感じたことはなかった。それにしても、何と躍動感あふれるフォルムの流れだろうか。そして“女性美の動き”だろうか。それはおそらく、人間の四肢が表現しうる限界といえるのではないだろうか。そう想えてならなかった……。

 もはや、筆者の余計な「能書き」など“無用の長物”と言うもの。各位に、直接“カルメン”いや“寺井尚子”さんに触れていただきたいと願うばかりだ。

  ●寺井尚子の試聴動画:『ハバネラ』(Habanera)


 今回初めて知ったが、「ハバネラ」は『恋は野の鳥』という意味のようだ。その「アリア」は次の一節で締めくくられている。

  ――あなたが私を好きじゃないなら、私が好きになる。私があなたを好きになったら、せいぜい用心することね。

 せいぜい、そういう用心とやらをしてみたいものだ。(了) 
 
       ★  ★  ★  ★  ★  ★  ★


 ※読者のみなさんへ 寺井尚子さんのことについてお知りになりたい方は、本ブログのブックマークにリンクされている『アドリブログ』の「寺井尚子」シリーズをごらんください。
  


◆ハザードの向こうに(ハザード入門:7)

2011年07月14日 13時22分37秒 | ■ハザード入門 
 
 「毎日新聞」7月13日(水)の21時32分配信の記事は、菅首相の対原発に対する「記者発表」を「署名記事」の形で次のように報じていました(原文のまま、一部省略)。

 『――菅首相は(中略)、“最終的な廃炉に長い期間を要するリスクの大きさを考え、これまでの安全確保という考え方だけでは律することができない技術だと痛感した”と政策転換の理由を説明した。

 停止中の原発の再稼働については、原子力安全委員会が関与するとした政府の統一見解に沿って、首相、枝野幸男官房長官、細野豪志原発事故担当相、海江田万里経済産業相の4人で判断すると説明。“専門的な立場の皆さんの提起があり、それが大丈夫となれば4人で合意して稼働を認めることは十分あり得る”と述べた。

 当面の電力需給に関しては“必要な電力を供給することは政府の責務”と強調。今夏と年末については“必要な電力供給は可能との報告が耳に入っており、そう遠くない時期に計画を示す”とした。来年以降は“天然ガス活用なども含めて計画を立てていきたい”と述べるにとどめた――。』

       ☆   ☆   ☆

 ……記事は続けて、「脱原発解散」や民主党内外からの「退陣要求」問題に触れ、最後を今回の対応の遅れに対する菅首相の謝罪で締め括っていました。

 それにしても、もう少し「中身のある発表」、そして「新聞記事」にならなかったものでしょうか。大新聞社の署名記事であっただけに、いっそうその感を強くしました。
 ことに今回の「記者発表」が、事前予測では『高らかな脱原発宣言』となるのではとの期待が大きかっただけに、マスコミ各社をはじめ多くの人々を落胆させたようです。無論、筆者もその一人です。

 言うまでもなく「原発自体の分析評価」や「脱原発問題」は、安易に判断することができません。そのため「具体策」や「工程表(脱原発へ向けての段階的スケジュール)」が、出しにくい問題です。
 しかし、「一国の首相』として、“脱原発について自分はこうしたい”との「ビジョン」を明確に示すチャンスではなかったでしょうか。たとえ“まもなく辞任する首相の脱原発ビジョンなどナンセンス”との非難をを浴びようとも……。 

 『脱原発』をめぐっては、電力を大前提とした“工業生産性”や、原発に基づく“地域経済”、それに“代替エネルギー”の問題があります。しかし、それらを遥かに凌ぐ“テーマ”はいくらでもあったはずです。

 一例を挙げるなら、『生命の絶対安全・健康なくして、他の何ものも存在しえない』ということでしょうか。およそ人間社会いや人間存在の価値という意味において、“このテーマ”以上のものはないでしょう。

 放射能汚染に怯えながら、毎日のようにカウンターで計測している母親のグループ。神経質なまでにシーベルトにこだわって精神を病んだと言う主婦。生まれ育った街や職場を捨てて家族で遠隔地へと移住する人々。子供の将来を考え、夫だけを首都圏に残して子供たちと実家(故郷)へ帰った妻たち――。
 そのような傾向は「農林漁業」といった「生産者側の人々」の中にも見られ、住み慣れた仕事や生活の場を捨て始めた人々もいます。


 「原発事故」が、地域社会の人間関係や家族のあり方までを変えようとしています。のみならず、このテーマが“職住育遊”のすべての分野でも取りざたされるようになって来ました。もう「原発問題」という限定されたテーマ問題ではないのです。

 筆者は断言できるほどの「データ」や「合理的な根拠」を持っているわけではありませんが、このところ“胸騒ぎ”のように感じるのは「次の原発事故」のことです。とにかく“起きないこと”をひたすら祈るしかありません。
 
 しかし、不幸にして次なる原発事故が起きたとき、先の福島を含めた「原発問題国・日本」の国際地位やイメージは、どれだけ傷が深いことでしょうか。そのレベルと影響の大きさは量り知れません。貿易対象品目としての「農林業・水産関係品」に対する敬遠措置はもとより、観光産業をはじめ、企業間の交流や商取引、そして金融・不動産部門を含め、日本の各種生産やサービスに対する忌避意識は、想像を超えたものとなるでしょう。 

 そうならないためにも、“長期に渡る「脱原発ビジョン」と解決へ向けての「具体的行動」”が早急に不可欠です。一国の首相を辞めさせるとか辞めさせないとかのレベルではありません。
 
 ハザードの向こうにあるもの――。まさにそれは『国家の存亡そのもの』ではないでしょうか。
 
 *******

 

・アルフレッド・ハウゼ in 寺井尚子(2)

2011年07月08日 08時24分39秒 | ●JAZZに親しむ

 『アルフレッド・ハウゼだ……』

 そう……それは紛れもなく、あの少年の日にステレオにかじりついて聴いたメロディであり、テンポだった。疑いようのない『アルフレッド・ハウゼ』のコンチネンタルタンゴであり、呼吸だった。歯切れの良い「バンドネオン」が醸し出す心地よさや、哀愁と郷愁に充ちた「アコーディオン」の音色を感じさせるものだった。
 
 何よりも寺井尚子という女性ヴァイオリニストの弦から紡ぎ出される“ジェラシー(嫉妬)”という曲想の真実というべきだろうか。
 
 ……“嫉妬に苛まれた不安定な感情の起伏”に耐えようとする“ひとりの女”。“情念”に身をまかせながらも切なさに揺れ動く。
 だが筆者がその“女の情念”を決定的に感じたのは、帰り間際にセラビー氏から見せてもらった「動画付き」CDの『JEALOUSY』だった。

       ☆      ☆      ☆

 生まれて始めてみる“動きの中の寺井尚子”――。やや“コケティッシュな感じ”というべきだろうか。成熟した女性が、左肩に挟んだヴァイオリンから「ソロ」の「イントロ」を奏で始める。一瞬にして浸り、そして演じ始める“女のジェラシー”。その“素の顔”と“素の情感”。半ば無造作に束ねた長い亜麻色の髪が、ノースリーブの腕から繰り出される弦に揺れる――。 

 ……かつて愛され、抱きすくめられた記憶が呼び戻されているのかもしれない。充たされない想いをあてもなく引き摺る女。男の背信に哀しみを感じながらも、どこか吹っ切れたかのような表情を見せ始めてもいる。だがやはり赦せないとでも言うかのように。

 そのように「曲想」と「寺井尚子」の表情とが流れて行く。

 ……だが、もはやどうすることもできない感情の昂(たかぶ)り。やむなく男を赦すことによって抑えようとするのだろうか。終息に向かいつつある女のジェラシー

 淀みなく繰り広げられる“ジャズ・ヴァイオリニスト寺井尚子”の四肢のうねり。その“うねり”は、クライマックスに近づくに連れていっそう艶めかしく映る。そのとき“女性ヴァイオリニスト”と“ジェラシーに弄(もてあそ)ばれた女”とが重なり合う。  

 “ヴァイオリニスト”いや“女”の表情は、“官能の極”を垣間見たかのようだ。いっそう終りに近づく曲想。半ば瞳を閉じたままの女の瞼に、控え目な陶酔が漂っている。 

 そして、ヴァイオリンを弾き終えた瞬間、女は弦を持った右手を高く掲げる。あたかも今演じ切った曲を誰かに捧げるかのように。天を仰ぎみるその充ち足りた表情には歓びが浮かんでいる。ジェラシーも男も、そして苛(さいな)まれた感情も過去も、総てを何処かに置き忘れてきたかのように――。

 だがその肩と顎(あご)に挟んだバイオリンを、彼女は決して離そうとはしない。まるで今まで触れ合って来た恋人と、そのままの時間を続けていたいとでも言わんばかりに――。
 
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 筆者は一瞬にして、寺井尚子のファンとなった。その女性美に酔いしれるとともに、あの“少年の日のアルフレッド・ハウゼ”を甦えらせたのだった……。
 
 紛れもなく「寺井尚子」の中に「アルフレッド・ハウゼ」がいる。いや「アルフレッド・ハウゼ」の中に「寺井尚子」がいる。いやいや、「寺井尚子」の中に「筆者の中のアルフレッド・ハウゼ」がいるというべきだろうか。

 『アドリブログ』によれば、わが友セラビー氏にとって、彼女は“女王様”であり、“癒しの女神”という。(続く)

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 ●寺井尚子試聴動画:『ジェラシー(JEALOUSY)』

  ★Alfred Hause(1921.8.8~2005.1.14):ドイツのヴェストファーレン出身。1942年、「アルフレッド・ハウゼ楽団」を設立。一度解散したのち、1948年「アルフレッド・ハウゼ・タンゴ・オーケストラ」を結成。1965年に初来日。


・アルフレッド・ハウゼ in 寺井尚子(1)

2011年07月04日 18時52分29秒 | ●JAZZに親しむ

 1週間前の土曜の夜。筆者はパソコンを持参のうえ友人の家にいた。彼は滅法パソコン関係に詳しい。そのためテクニカルな入力作業をやってもうらための訪問だった。筆者の仕事の「ホームページ」やこの「ブログ」が支障なく運営できるのも、実は彼のサポートがあるからともいえる。

 ところで彼の家を訪問した際、最近“ある楽しみ”を見つけた。それは彼のコレクションの「ジャズ」の「CD」を聴かせてもらうことだ。
 彼は熱烈な「ジャズファン」。といって、特に「オーディオ」や「音」に凝っているという風でもない。彼の“熱い眼差し”と“主張”は、ひたすら「Jazzmen」や「Jazzwomen」そして彼らを中心とする「グループ」にあるようだ。

 実は、彼こそこのブログの「ブックマーク」に名を連ねる『アドリブログ~セラビ―のJAZZ/FUSION批評』の管理人『セラビ-』氏そのひとだ。

 とはいえ、「JAZZ」や「JAZZ/FUSION」と言われても、限りなく素人に近い筆者にはよく判らない。しかし、判らないなりに少しずつセラビー氏の『JAZZ/FUJION批評』を読んでいるうちに、何となく“云わんとするところの雰囲気”が判るようになってきた。

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 そもそも「JAZZ」なるものの存在を知ったのは、高校一年の頃の友人の家だった。その父親が大のオーディオファンであり、またジャズをこよなく愛した。煙草臭い「オーディオルーム」に、モノクロポスターのJazzmenの写真が所狭しと貼ってあった。広さは6畳ほどだったろうか。どえらい大きさの剥き出しのスピーカーが、唸るようなベースの低音によって“振動”していたのを憶えている。筆者がそれに気付いたとき、友人の父親はとても嬉しそうな顔をした。彼はスピーカーの凄さとそれを探し出したいきさつを、楽しそうに語り始めた。

 ジャズピアノのオスカー・ピーターソンカウント・ベイシー、テナーサックスのジョン・コルトレーン、クラリネットのベニ―・グッドマンといった名前を耳にしたのはこの頃であり、マイルス・デーヴィスのトランペットやアートブレーキ―のドラミングサウンドに興奮した。

 まさしく“カルチャーショック”だった。だが“JAZZ”への“少年”の傾倒は浅く、生まれつきの飽きっぽさと気まぐれにより、あっさりと他の「ジャンル」へ乗り換えてしまった。つまりは、JAZZを理解するにはあまりにも未熟であり、LIVE感覚のアドリブがもたらすジャズの音楽性を感じることができなかったのだ。

 いつしか少年は、非ジャズ系の「ビッグバンド」へと傾斜し始めていた。だがその“とっかかり”は、ジャズ系の「グレン・ミラー(GRENN MILLER)」や「デューク・エリントン(DUKE ELLINGTON)」だった。
 そこから次第に「映画音楽」や「ムードミュージック」へと流れ、「ジェームズ・ラスト(JAMES LAST)」「パーシーフェイス(Percy Faith)」「ポールモーリア(PAUL MAURIAT)」「ビリーボーン(BILLY VAUGHN)」そして「ヘンリー・マンシーニ(HENRI MANCINI)」や「マントヴァーニ(MANTOVANI)」へと、いっそう“ムードミュージック”性を帯びたものへと向かっていった。

 少年の「ビックバンドへの傾倒」はその後も続き、「星条旗よ永遠なれ」を作曲した「スーザ(SOUSA)」のマーチ曲から、「ペレス・プラード(PEREZ PRADO)」のマンボ、そして「ザヴィア・クガート(XAVIER CUGAT)」や「スタンリー・ブラック(STANLEY BLACK)」のラテンへと移った。無論、いずれも「楽団」の名前だ。

 高校二年のとき、コンチネンタルタンゴの巨匠『アルフレッド・ハウゼ(ALFRED HAUSE)楽団』のレコードを、擦り切れるほどかけていた。だがそれ以来、少年は自らの意志によって、このオーケストラの「バンドネオン」も「アコーディオン」の音色も求めることはなかった……。

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 それから47年後の先週土曜の夜――。セラビー氏お奨めの寺井尚子という女性ジャズヴァイオリニストの曲を聴くことになった。イントロに魅惑的なヴァイオリンのソロが流れ、続いて情熱的なアップテンポのピアノとのコラボ、そしてベース、ドラムを加えたジャズ・カルテットのサウンドへ……。

 ……芳醇な音の広がりときらびやかな音色。身体の底から突き上げて来る心地よいスピード感……。筆者の全身が、何かを迎え入れるかのように緩やかに反応し始めた……コンチネンタルタンゴのテンポとリズム……ヴァイオリンの響きが全身に押し寄せ続ける……ヴァイオリンの圧倒的な存在感……。筆者は思わず声を出して呟いていた。

 『アルフレッド・ハウゼだ……』


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  ●寺井尚子/試聴動画:『ラ・クンパルシータ』