「RCの打ち放し」というのは、「外壁」がコンクリートの“肌合い”そのままのものを言います。建物によっては、「室内」の一部(玄関ホールや廊下等)が、「外壁」とまったく同じというのもあり、「断熱層」がないため「外気」がストレートに伝わりやすいということです。当然、冬の寒さも、夏の暑さもストレートに……。というより、「熱伝導率」の高いコンクリートのために、木造等に比べていっそう厳しくなります(もっともRCファンは、それを承知の上!?)。
ましてや『住吉の長屋』のように、家のど真ん中に「外部空間」があればなおさら。寒暖の厳しさは想像を超えるはずです。そこで以下のような、設計者つまり「建築家(安藤氏)」と「依頼者(住み手)」との“問答”が生まれたのでしょう。
依頼者「寒いときはどうしたらいいでしょうか?」
建築家「服を1枚多く着てください」
依頼者「それでも寒かったら?」
建築家「服を、もう1枚多く着てください」
依頼者「それでもまだ寒かったら?」
建築家「アスレチック・クラブへ行って、身体を鍛えてください」
「落語」のようなこのエピソードの真偽のほどは判りません(おそらく、実話です?!)。しかし、二人のこの“問答”の中に、「建築家」と「依頼者」との“あるべき姿”があるように思います。それは、“ひとが家に住むとはどういうことなのか”という問題提起となっているからでしょう。
安藤氏はそのことを、何かの本や講演などで語っていますが、こういう言い方をしていました。
――住み手には、住み継ぐ意志が必要である。
“住み継ぐ意志”とは、住宅に備わっている性能や機能に頼ることなく、「住み手」自身が創意工夫をするということです。“寒い、暑い”といって、すぐに冷暖房の温度を調節するのではなく、「住み手(側)」の感覚感性にそって”対応する”ということでしょう。1枚多くシャツを着ることも、アスレチック・クラブに通うことも、“住み手自身の工夫”による“住み継ぐ意志”の第一歩にほかなりません。
“住み継ぐ意志”とは、『どれだけ住み手自身のアクティブな選択肢が残されているか』にあるようです。ことにそれは、“季節と体感”に表れることでしょう。そのためにも、建築前の計画において「家そのもの(建築物)」をどこまで整備するか、あるいはしないか」という検討が不可欠であることは言うまでもありません。
具体的には、建物の向きをはじめ、庭と建物との配置関係などを、自然環境や気候風土、周囲の状況等を軸にチェックすることになります。つまりは、四季折々の温熱環境の把握から始まるのです。温度、湿度、風の向き、雨量、日照、採光、通風など。窓一つをとっても、窓の位置や数や大きさ、それに縦長か横長なのか。また窓と窓との関係など、“住み継ぐ意志”の実現のためには、本来、数多くの事前チェック項目があるのですが……。
「TADAO ANDO」として世界的に知られている「安藤忠雄」氏。日本でもっともポピュラーな建築家であり、講演会は無論、テレビでも“超”がつくほどの“人気”を集めています。私も何度か同氏の講演会に行きましたが、建築関係ではない一般の方が多いのが特徴でしょうか。
氏の設計による住宅に、『住吉の長屋』(大阪の住吉)という“小さな家”があります。おそらく日本で一番有名な「個人住宅」と言っても過言ではありません。建築好きの方であれば、ご存じのはずです。鉄筋コンクリート「打ち放し」の2階建てであり、昔からあった「木造長屋」の一部に「建て替えられた」ようです。
この住宅ほど、建築界にインパクトを与えた住宅もないと思います。大げさかもしれませんが、“住まいとは……、建築とは……”と言う根源的な問いを投げかけています。“プロ好み”の「住宅」であり「建築物」と言えるでしょう。事実、この住宅は「建築賞」を受賞し、今も建築学習者の教材にされたり、卒論のテーマに選ばれたりしているようです。
私見ですが、「RC一般住宅」の“古典”の地位を築きつつあるような気がします。『住吉の長屋』と検索するだけで相当数のサイトやブログがあり、写真(動画も)や感想が山ほど出て来ます。いかに多くの方が、この住宅に愛着や関心を持っているかが判ります。ぜひ一度、検索してみてください。
敷地(狭小地)いっぱいに建てられたこの建物の「建築面積」は、3.3m×1.41m=46.53㎡。約14.07坪(約28畳分)でしょうか。家の中に「中庭」があります。「中庭」という以上、もちろんその上部には「屋根」も「天井」もありません。そのため、雨の日にトイレ(1階)に行く場合、“傘をさす”必要があります。「家」のど真ん中に「外部空間」があるわけですから、必然そうなるでしょう。
つまり、“トイレに行く”ということは、「部屋」→「中庭(=室外)」→「トイレ」、そして「トイレ」→「中庭(=室外)」→「部屋」と“移動する”ことを意味しています。当然そのたびに、“冬は寒い冷気に、夏は暑い熱気に晒される”わけです。“それだけ”を採りあげるとき、まことに理不尽な家に違いありません。
事実、この住宅が発表された当時は、賞賛の声とともに、非難も相当あったようです。……“建築家の傲慢さの表れ”“住宅なるものの基本中の基本を逸脱している”“そこまでして、自然を採り入れる意味があったのだろうか”云々。
ではなぜそこまでしたのかということです。その理由は、第一に「狭小地」を最大限に活かしたいとの思いがあったのでしょう。第二に、プライバシーを守りながら“自然の光と気配”をできるだけ保ちたい……。前述の“建物の全部を天井や屋根で覆うことができなかった”というのは、「建ペイ率」や「容積率」という法規をクリアするためですが、同時に“自然の光と気配を保つ”ためでもあったのは事実です。
……と言えば、“だからと言って、トイレに行くのに傘をさすなど……。それを回避したプランもできたはずでは……”と叱られそうです。確かにごもっとも。しかし、建築家も施主も、なぜかそちらを選択したのです。
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――傘を差してトイレへ行く家。だから、あっしもかみさんに、『星を見ながら、ションベンに行くってえのも、風流だねえ』って言ったんです。そしたらかみさん、すかさず、『あなたの“風流”は、例え何歳になっても、また身体がどんな状態になっても、独りでおトイレに行けるってことでしょ?』って、念を押されちまいましてね……。
「SONGS」というNHKの音楽番組がある。
つい最近、2回に分けて “山口百恵特集” があった。
10月6日に放映された2回目は、さだまさし作詞・作曲の『秋桜(コスモス)』と、谷村新司作詞・作曲の『いい日旅立ち』を中心に、「引退コンサート」(1980年10月5日・日本武道館)の様子でまとめられていた。
『秋桜』が発表された1977年、山口百恵はまだ18歳だった。曲を提供したさだ氏は、このときの感想をこう述べている。
『……彼女は、まだ18歳でしたからね。(嫁ぐと言うことなど)わかるはずがない。早く “そういう(嫁ぐ)日” が来るといいですねといった気持でした……』
それから3年後――。「山口百恵・引退コンサート」の当日、自らのコンサートのために参加できなかったさだ氏は、コンサートから戻ったホテルのフロントで、山口百恵からの「電話メッセージ」を受け取る。ただでさえ慌ただしい引退コンサートのその日、彼女はわざわざ電話を掛けていたのだ。氏は感激しながら語る。
『……“さださんがこの曲を作ってくださった思いがやっとわかる日がやって来ました。本当に、本当に、ありがとうございます”……そういう彼女のメッセージでした。全文そのまま憶えていますよ。凄い人ですね……』
その彼女は『秋桜』を歌うにあたり、引退コンサートの聴衆に語りかける――。
『……嫁ぐ前の女として、ふと想うのですが、みなさんのお母さんも、私の母も素晴らしい人だなって。そして、そんな素晴らしい母と言う女性がいたからこそ、私達は今この一瞬を過ごしていられるんだなって……』
さだ氏や観客に語りかける彼女のメッセージは、そのまま“SONGS”となっている。
☆
『秋桜』を発表した翌1978年、今度は谷村新司氏に新曲を依頼する。それが同氏の作詞・作曲による『いい日旅立ち』だった。彼は幅広いファン層を意識してこの曲を作ったという。おかげで、私のような歌謡曲に疎い団塊オヤジでも、完璧にメロディーをたどることができる。
「引退コンサート」のラストナンバーは『さよならの向こうに』。曲が始まる前、彼女は自らの生き方を振り返るように、次のような最後のメッセージをフアンに託した――。
『……私が選んだ結論、とても“わがままな生き方”だと思いながら押し通してしまいます……』
その“わがままな生き方”をひたむきに貫き通した山口百恵。21歳という若さで、華々しいスターの座を自ら放棄し、嫁いで行った伝説の歌姫――。
それから30年。彼女は“あの引退の日”から今日ここまで、一切姿を見せることも自らの動向を伝えることもなかった。無論、これからもそうするだろう。“慎ましさ”と“信念に貫かれた頑なさ”によって。
☆
山口百恵の魅力と存在感は、色褪せることなく輝き続けるに違いない。「引退コンサート」のあの最後の最後に見せた引き際の “さりげなさ” を思い起こさせながら……。ファンの心を揺さぶった数々のシーンを思い出させながら……。14歳でデビューした少女が、愛する人のもとへと嫁ぐために “潔く爽やかに” 去って行った“伝説の序章”――。
その“伝説”は、いまも確実に生き続け、“その後”を綴り続けている。
……無理もない。小学三年生のあの夏、毎週のように“天然のウナギ”を食べていたのだ。その味は前回述べたように「薄味のタレ」であり、またさっぱりとした「塩味」だった。……祖父が獲ったばかりの鰻は、豊かに丸々と太っていた。脂ののった活きのいい魚身は厚く締って勢いがあった。だが今、口に含んでいるものは……。
口の中の蒲焼と格闘しながら、わたしは「店の栞(しおり)」に眼を通し始めた。手持無沙汰の解消と気を紛らわすためでもあったのだろう。だが栞には「鰻」そのものについての説明はほとんどなく、見開き2ページの大半は『秘伝のタレ』と店の歴史の「能書」で占められていた。明治時代に創業したという「ウナギ屋」。その店名も「能書」の内容もまったく記憶にはない。
しかし、『秘伝のタレ』の濃厚な甘辛さは、山椒系の薬味とともにしっかりと舌先そして脳裏に刻み込まれている。
あのとき食べた「ウナ重」は、正直言って一瞬、躊躇するほどの値段だった。金額は想い出せないが、「学生の一日三食分の食事代」にほぼ匹敵したように記憶している。そのためもったいないという気持が働き、何とか我慢して全部をたいらげたようだ。というより、舌先を騙しながら胃の中に押し込んだようだが。
結局、学生時代の「ウナギ屋」体験は、そのときが最初で最後となった。その後、社会人となってから、おそらく十回前後の「ウナギ屋」体験があったように想う。だがそれはいずれも接待によるものだった。自らの意志で「ウナギ屋」に入ったことも、「ウナギの蒲焼」を買い求めたこともない。無論、これからもその意志は貫きたいと思う。……と思うものの、付き合いの席となればどうなることやら……。
☆ ☆ ☆
“天然”の鰻は、成魚になるまでに五年を要するという。一方、成長促進剤入りの餌で育てられた“養殖物”は、半年から一年で出荷されるようだ。ことに近年、中国や韓国など近隣諸国からの輸入物は、いっそう成長促進効果の高い餌のため、出荷までの時間がかなり短縮されると、何かの雑誌に書いてあった。
だが以上のような事情は知らなくとも、天然物と養殖物との“味の違い”は判るような気がする。
とはいえ、今日ほとんど天然物を口にすることがない以上、養殖物との“比較”による学習効果は当分期待できそうにもない。そうなれば、「ウナギ屋」の「能書」はさらに饒舌になって行くのかもしれない。そしてそれに伴って、『秘伝のタレ』とやらの甘辛さも、いっそう濃厚になって行くのだろうか……。
≪……創業○○年。初代・□□源左衛門が生涯をかけて一滴一滴絞り出すように生みだした伝承のタレ。幻の名品と言われる△△醤油と、名人○○伝次郎が当店のためだけに創った『和三盆(わさんぼん)』(砂糖)との奇跡の出逢い。この二つに、精選された食材の数々と十数種もの薬味が加わり、芳醇な甘味と辛みとが絶妙な調和を保ちながら、『秘伝のタレ』の時を刻んでいく……≫
――ねえ。あたくしもウナギ屋さんに負けちゃったのかしら。炭火の煙に、焦げた匂い。滴り落ちる濃くて、甘辛いタレ……。 鼻も舌先も完全にやられてしまったわ。タレにウナギがくっついて来ちゃったみたい。でもこのウナギ、朝鮮半島の養殖物ですってね。きっとあの方……ほら、あの方よ……ヨン様という……あの方も召し上がっていらっしゃるのかも……。 <了>