最大のポイントは殺害の“動機”
「演劇」にかぎらず、「映画」や「テレビドラマ」等において「殺人」を扱った作品は、良きにつけ悪しきにつけインパクトがある。それだけに、一歩間違うとどうしようもない「駄作」になる半面、「秀作」となる可能性も秘めている。
「主役」が「悪党」をバッタバッタと切り捨てる「時代劇」は別にして、「現代劇」における「殺人」は、慎重であって欲しいものだ。シリーズの最後として、「演劇における殺人」について触れてみたい。
結論的に言えば、いかに「観客」を “納得” さらに進んで “共感” させるうるかということだろう。とはいえ、「殺人者」が “共感” されるというのは容易なことではない。しかし、少なくとも “赦す” という気持ちを「観客」に抱かせる必要はある。そうでなければ、「物語全体」や「他の登場人物」に対する “共感” など望むべくもなく、「舞台そのもの」がつまらない。
確かに「徹底的な悪党」として、「観客」に “嫌悪や憎悪” を与えたまま終わることもある。だがそれは基本的には、「史実」すなわち「ノンフィクションの舞台」というものがほとんどだろう。これは「観客」が “赦す” とか “赦さない” といった問題ではない。ともあれ、“罪の意識” もなく “ゲーム感覚” で殺人を繰り返すといったものは勘弁して欲しい。
結論として、以下の「3点」がポイントであり、(1)(2)(3)と、その「重要度」は低くなる。
(1)殺人者に、“やむをえない” と思われる明確な “動機” 又は “大義名分” があったかどうか。
(2)殺人者に、“罪悪感” や “悔恨の情” があるかどうか。又は事後、芽生えたかどうか。
(3)殺人者に、“何らかの制裁” 又は “司法の裁き” があるかどうか。又は将来その可能性があるかどうか。
以上の「3点」は、総て備わっていれば理想だが、なかなかそうもいかないだろう。最重要ポイントは、言うまでもなく(1)であり、“殺人動機” の “正当性” や “不可避性” が強いほど、「観客」の “納得” や “共感” が得られやすい。
また(2)のように、「殺人者」の “罪悪感” や “悔恨の情” が強ければ強いほど、「観客」の “赦しの気持ち” は強くなる。そして、「殺人者」が “罪の報い” として何らかの “報復” や “制裁” を受け、又は司法によって “逮捕” そして “裁かれる” ことになれば、「観客」の “応報感情” はある程度満たされる。
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『六月の綻び』の優れた殺意表現
以上のような抽象的な説明では判りにくいので、本ブログで連載した『六月の綻び』(作・演出:森聡太郎)を具体的な教材として採り上げてみたい。
この「舞台」は、「5人」と思われる “家族の崩壊” と、彼らの謎めいた “消失” を描いている。もっと言えば「父親と母親」の2人が “消え”、〈兄〉と〈弟〉と〈妹〉の3人が残ったところから、この物語は始まる。
残った兄妹3人の間に “葛藤” や “軋轢” が生まれ、それがもとで〈兄〉さらに〈妹〉と、順次「家」の中から消えて行く。そして最後に、〈弟〉だけが “一人残る” と言うもの。
“消えた” と思われる「両親」、そして「弟」に「妹」。“消えた” とは、“その存在そのものが消された” のであり、どうやら “殺人” と関わっている。
問題は、どのような理由すなわち “動機” によって、「兄弟3人」は「両親」を “消し” たのか。“誰” がどうやって……。また「弟」は、両親が消えた後、どのような “動機” で「兄」や「妹」を “消した” のだろうか。
その “動機” は「連載シリーズ」に譲るとして、筆者が注目して欲しいと思うのは、この舞台のラストシーンだ。
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弟 ★5「……こうしてぼくはまた一人で肉を食べているんです。硬くなっていくんです。肉だけは……。兄貴と妹は僕の身をギリギリに裂いて、ドロドロになるまでしゃぶって呑み込んで行きました。家族が僕の心を食べて、僕は家族の身体を食べたのです。……そして、ここに残った僕は何なんでしょうか? 僕の身体には、いま家族の血が流れています。僕たちは文字通り、形を超えた家族となったのです。これは多分、とても幸せなことなんです。」
そう言った後、椅子から転がり落ちる〈弟〉。しかし、急に何かに脅えたかのように床に蹲(うずくま)りながら、泣き叫ぶように声を出す。
弟 ★6「ここから出してください。もう誰もいないんです。もう食べるものがないんです。……助けてください。誰か僕を見つけてください。」
――外から家の壁を激しく叩く音。『止めてください』と何回も叫び続ける〈弟〉。
――照明が消えても(暗転)、外から家の「壁」を叩き続ける音がしている。
――BGMが入る。 終幕――
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“動機” については、今一度眼を通した上で理解されたい。この「ラストシーン」は非常に良くできている。ことに「★6」の最後の「台詞」に注目して欲しい。
彼〈弟〉は、“この家” から “逃れたい” のであり、“助けて欲しい” と言っている。このことは、彼が “家族が消えた《内なる家族》” から脱出し、《外なる社会》へ身を置きたいことを意味する。
結局、彼は “罪の意識” すなわち “良心の呵責” に耐えきれず、《内なる家族》で起きた総ての出来事を白日のもとに晒したいはずだ。要するに、“法的正義の執行” を求めているのであり、そのことによって彼は当然 “処罰” される。だが同時に、彼は “魂の救い” も得るだろう。無論、“彼の救い” は “観客自身の救い” でもある。
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以上の(1)(2)(3)点に、(4)「殺害方法」、そして(5)「舞台上の殺害表現」の2つを付け加えなければならない。
つまりは、“殺害方法そのもの” が “残忍ではない” ことも重要なポイントであり、同時に「舞台における演劇としての表現」にしても、“嫌悪感” を呼び起こすようなものであってはならない。
その意味において、『六月の綻び』の「殺害の表現」は優れている。劇中、「刃物」は登場しても、それは「障害」や「殺人」を意味するものではなく、単に振り回していたにすぎない。
筆者が素晴らしいと思ったのは、「兄」と「妹」が “消えた” とき、「弟」が “姿が見えない兄や妹” の身体から「シャツ」を剥ぎ取るような仕草をし、それをハンガーに通して掛けたことだ。何と言う詩情そして余情だろうか。筆者は思わず、芥川の『羅生門』の一節を想い浮かべていた。
言葉(台詞)上の表現そして演技と言い、実に繊細であり、「舞台演劇」の表現手法を最高度に活かしたと言える。それを、実に “抑制の効いた” タッチで、しかも “表現行為として赦されるギリギリ ”のところで止めているところが凄い。いわば “寸止め” といったところだろうか。洗練された作者の理性と感性のなせる業であり、「秀作」たる所以だ。(了)