『感性創房』kansei-souboh

《修活》は脱TVによる読書を中心に、音楽・映画・SPEECH等動画、ラジオ、囲碁を少々:花雅美秀理 2020.4.7

●演劇鑑賞:『うちに来るって本気ですか?』(西南学院大)

2015年04月28日 00時09分42秒 | ●演劇鑑賞

 

 3大学の「新入生歓迎公演」

  4月4日(土)の「西南学院大学」、同9日(木)の「福岡大学」、そして21日(火)の「九州大学」(伊都・箱崎キャンパス)と、3校の「新入生歓迎公演」の「舞台」を観た。

  この時季、各校の「演劇部」は「新入部員募集」のための「舞台公演」を行う。そのため、上演作品は “親しみやすい作品” を選ぶようだ。今回は、「西南学院大学」を取り上げてみたい。

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  「西南学院大学演劇部」といえば、何と言っても昨年の「新入生歓迎公演」のdecorettoのインパクトが強い。このときの「秀島雅也」氏をはじめ、「平川明日香」嬢や「宮地桃子」嬢の優れた演技は、今でも印象深く甦って来る。ことに今回の「舞台」で「主役」を務めた宮地嬢については、その演技の上手さや感性の豊かさに驚愕したほど。そのことは、本ブログにおいてかなり力を入れて綴った。

   さて、今回の『うちに来るって本気ですか?』(作:石原美か子)は、「田中里菜嬢が「演出」している。作品内容は、“コミカルなファミリー劇” であり、娘2人に息子3人という「5人の兄弟姉妹」の青春の一端を捉えている。三十路目前の長女の「結婚相手」の訪問を巡る、“ややドタバタ調” の「喜劇」ということになろうか。

  その長女〈縁(ゆかり)〉を演じたのが「宮地桃子」嬢。筆者としては、彼女の “コミカルな役” は初めてだった。彼女が「名優」であることは今さら言うまでもないが、他の役者諸君にしても丁寧な「役作り」をしており、演技には好感が持てた。

   同大演劇部特有の「キャスト」と「スタッフ」のバランスがとれた舞台であり、いつもながらの “節度ある演出・演技”、そして “音響・照明の企画・操作” だった。これといった “欠点” も “矛盾” もなく、“安定” した「キャスティング」であり、また「スタッフ」の高い技術力と言えるだろう。

 

  喜劇への“とまどい”?

   しかし、そうではあっても “物足りなさ” が残ったのはなぜだろうか。といってそれは、「物語の内容」や「特定シーン」に「問題」があったわけではない。筆者がそのように感じた最大の理由は、「演出家」や「役者諸君」が、“喜劇というものにとまどっていたのでは?” という疑念だった。

  この “喜劇への対応” というテーマは、「学生演劇部」や「アマチュア劇団」が抱える “大いなる弱点” と言ってよい。つまり、それだけ “コミカルな表現の課題” は懸念事項であり、筆者も一度きちんと話をしておきたいと思うに到った。とはいえ、この「課題」については「別の機会」に論じてみたい。

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  客席指定は柔軟に 

  ついでといっては何だが、“もうひとつ” 気になったことがある。それは「観客」に対する「座席の指定」が、少し“固定化” しすぎるように感じられた点だ。「会場」左右の「列」の制限はある程度納得できるにしても、「通路」を挟んだ「前列」をそっくり「着席不可」としたのは、正直言って疑問が残った。 

  確かに、「舞台より後ろに下がって観る」方が、万遍なく全体を見通せるとの親心なのだろう。無論、その気持ちはよく判る。しかし、“生の演劇舞台” の魅力は、“どの「座席」(位置)から観て” も、それはそれで “観客自身が自己の視界の及ぶ世界” として “選択する” ものでもあるからだ。そこに、テレビドラマや映画では得られない、“生の舞台のダイナミズム” が、そして “その無限の変化を秘めた魅力” がある。

   「座席制限」を「食材」に譬えるなら、『ここの部分はおいしくないので、お出しせずに廃棄処分にいたします』と言われているようなもの。しかし、“食通の客” にすれば、まさにその “廃棄処分の部位” を味わいたいのだ。

   筆者は、「河豚の肝」を口に入れようとは思わないが、“舞台観客席の肝”は望むところだ。筆者にとっての “生の舞台” の魅力とは、極力、役者と接近した中で “役者の眼を中心とする顔の表情” をつぶさに観ることにある。「役者の眼や顔全体の表情」ほど、“役者が演技をしている部分” はないし、この「顔の演技」にこそ、役者の善し悪しのほとんどが言い尽くされている。

  【キャスト】 ●御殿場家:宮地桃子(長女:縁)、鼻本光展(長男:太一郎)、桝本大喜(次男:真琴)、讃井基時(三男:忍)、古賀麻友香(次女:百子)、 ●岸川織江(蝮田聖巳)、井口敬太(相良不見夫)。 

   【スタッフ】  田中里菜(演出・宣伝美術)、高倉輝(助演・小道具・衣装メイク)、尾野上峻(大道具・照明)、讃井基時(大道具・照明・舞台監督)、瀬川聖(大道具・小道具)、桝本大喜(大道具・制作)、森健一(大道具・制作)、岸川織江(小道具・音響)、宮地桃子(小道具・衣装メイク)、古賀麻友香(小道具・照明)、新ケ江優哉(小道具・音響・宣伝美術)、加藤希(音響・照明)、花浦貴文(音響・照明)、井口敬太(音響・制作)、藤野和佳奈(照明・衣装メイク・制作)、鼻本光展(衣装メイク・宣伝美術)。 以上の諸氏諸嬢。

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 ※演劇ユニット「 」(かぎかっこ)の『人数の足りない三角関係の結末』の「演劇鑑賞」は、次回の「福岡大学」、次々回の「九州大学」が終了した後に予定しています。


●演劇鑑賞:『陰湿クラブ』(「陰湿集団」旗揚げ公演)-(下)

2015年04月17日 00時01分23秒 | ●演劇鑑賞

  

 「舞台」と「観客席」との一体化 

   今回の「舞台」については 、“会場の狭さ” を巧みに活かした創意工夫にも感心した。「作・演出家」自身が「舞台美術」を手掛けたのは、そういう思惑があってのことだろう。「舞台」が始まった当初はそれほどでもなかったが、「物語」が進むにつれて、“この会場にして、この物語舞台あり” と納得がいった。

   「舞台」の特徴は、“会場の狭さ”を逆手に取り、“舞台と観客席とを一体化” させたことにある。ただでさえ “狭い会場” の “真ん中辺りを舞台部分” とし、この「舞台部分」を “両脇から挟むように観客席部分” を設けた。

   そのため、「演じる役者」にとっても、それを「見守る観客」にとっても、この「物語」が描こうとする “陰湿感” や、その “陰湿感” がもたらす “閉塞感” をいっそう強く “共有” できたような気がする。

   それに加え、「舞台」を挟んで “二手” に分けられた「観客」は、いつしか「舞台という世界」が繰り広げる “陰湿な世界” の「傍観者」に祭り上げられている。それも単なる「傍観者」ではない。“二手に分けられた「傍観者」(=観客)” は、あたかも “相互に監視” させられているかのようだった。

   筆者は「舞台部分」に眼を向けながらも、否応なく視界に入る「舞台向こうの観客(10人)」に対し、『舞台をちゃんと受け止めているだろうか』と、ときおり「表現者側」の気持ちになることもあった。「舞台向こうの観客」も、同じような気持ちを抱いたかもしれない。 

   ……いや、いや。「観客」は、“相互に監視し合う傍観者” どころではなかった。ときには、「同調者」や「支援者」、さらには「加害者」や「被害者」となっていたのかもしれない。「座席」が「役者」と身体が触れ合うほど近いため、“観客席に座っている” というよりも、“役者の一人として舞台の端に構えている” ……と錯覚する一瞬もあったほどだ。

   そのため、 「観客」として眼の前の「役者」を “観る” と言うことは、「観客」自身が「役者」から “見られている” ということでもある。無論、「観客」が「役者」を “観る” 場合との質的な違いはあるにしても、 “役者の眼差しの中に据えられている” という “実存感” は、「観客」の心の底に深く刻まれたに違いない。

   『……あのとき、自分は何の役を演じようとしていたのだろうか?』……と。その “実存感” こそ、“陰湿たるもの” に対し「傍観者」のままであってはなならないという「メッセージ」でもある。そう感じさせる「舞台会場の空間」であり、「演技・役者」であり、「演出」であり、「脚本」ということになろう。

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  頼もしい “若者たち” の闘志

  今回の「公演」は、劇団「陰湿集団」の《旗揚げ》となった。作・演出の「山本貴久」氏をはじめとする「キャスト」や「スタッフ」は、そういう覚悟をもって本作の舞台づくりに臨んだようだ。山本氏は、公演当日の「プログラム」の「演出の言葉」の中で、こう述べている。

 

   『……脚本を、陰湿集団で演劇をする者として、また、日本に生きる1人の若者として、書かせてもらいました。…(中略)…舞台と客席の境目は、決して現実と非現実の境目では無いと、僕は思うのです……』(※註:「太字」は筆者)

 

   “日本に生きる1人の若者として” という一語が頼もしい。無論、この「言葉」は、山本氏だけのものではなく、キャストの「白居真知」氏、「丸尾行雅」氏、そして、「長野真結」嬢や「三留夏野子」嬢のものでもあろう。

   何と言っても、「役者」5人の「台詞回し」や「演技」が活き活きとしており、観客の全身にビシバシ沁み込んできた。「役者」として見ても、これまで以上のレベルを感じたわけだが、その一方、彼等自身 “本当にこれでいいのか?” という “戸惑い” があったかもしれない。

   その “戸惑い” は、「スタッフ」として関わった「照明」の「伊比井花菜」嬢、「音響」の「竹田津敏史」氏、そして「宣伝美術」の「本村茜」嬢にしても同じではなかっただろうか。

   確かに、“意味や展開が不明な部分や疑問点” がなかったと言えば嘘になる。しかし、それは「舞台を創造する側」と「受取る側」との “立場の違いから来る解釈のズレ” と言う程度のものだった。だからこそ「彼等」と「観客」とは、互いに “舞台と客席の境目は、決して現実と非現実の境目では無い” という確信を共有することができたと思う。

   『陰湿集団』の「プロフィール」は語る――。

 

  九州大学演劇部OBを中心に結成された陰湿な劇団。日々、まがりくねったものをもとめて活動中。

 

  青年らしい含羞と、静かな闘志が含まれている。彼等に敬意を表し、筆者も “日本に生きる1人の大人として” 次に彼らが “晒してくれるであろう陰湿なるもの” を受け止めることにしよう。それとともに、身の回りの “陰湿なるもの” に絶えず眼を向けたい。そのことは、必然、筆者自らの “陰湿なるもの” を直視することでもある。

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   今回、筆者が改めて確信したことがある。それは「演劇という表現」は、単なる “娯楽” に留まらず、今回のような堂々たる “社会的メッセージ” を伝えうるということだ。

   もっともっと、こういう  “若者や学生だからこそ為し得る” 作品を望みたいし、学生諸君には果敢に挑戦して欲しい。 それが結果として、“あるべき人間としてのsomething” となれば……。

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   【キャスト】:白居真知、丸尾行雅、山本貴久、客演(2人):長野真結、三留夏野子。 

   【スタッフ】:舞台美術:山本貴久、照明:伊比井花菜、音響:竹田津敏史、制作・衣装:白居真知、宣伝美術:本村茜、宣伝美術イラスト:丸尾行雅。……以上の諸氏諸嬢。

   今回の『陰湿クラブ』は、豊かな感性と想像力に支えられた質の高い作品だった。「音響」や「照明」のプランや操作も、節度をもったものであり、小さな会場の不自由さの中で、意欲的な試みも感じられた。

   また今回の「案内チラシ」その他の「丸尾行雅」氏のイラストやデザインも素晴らしい。この小さな紙幅の中に、“哲学性豊かな世界観”が拡がっている。プロ級の実力を備えているのではないだろうか。

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  『陰湿集団』の優れた「旗揚げ公演」を心から祝福するとともに、団員各位の感性と創造性のいっそうの研鑚に期待したい。(了)

 

 


●演劇鑑賞:『陰湿クラブ』(「陰湿集団」旗揚げ公演)-(上)

2015年04月14日 03時16分22秒 | ●演劇鑑賞

 

  「案内チラシ」は、『陰湿クラブ』についてこう語る――。

   《「陰湿クラブ」? 子どもたちの間で流行っているらしい。姿を見せず、痕跡を残さず、自らの手を汚さずに悪事を働く。……本当にそんなものがいるのか? それは強い? それとも弱い? 少ない? そもそも何の為にいる? ……あ、「陰湿クラブ被害者の会」始めたんですけど、入ります? 今なら事前の申し込みで入会無料キャンペーン中。傍観者大歓迎。》 (※註:「太字」や「下線」は筆者)

 

   上記「太字」の「キーワード」を整理すると――、

   第1は、『陰湿クラブ』という “陰湿な加害主体” (=加害者)。第2は、その “被害者及びその関係者” (=被害者)である『陰湿クラブ被害者の会』。そして第3は、以上「当事者」(加害者・被害者)に対する『傍観者』(第三者)ということになろう。

   今回の「舞台」は、“学校でのイジメ” を “テーマ” としているかのように見える。そうなれば、「いじめる子」に「いじめられる子」に「見て見ぬふりをしている子」となり、「加害者」、「被害者」そして「傍観者」が、一応揃うことになる。

   しかし、ここでの『陰湿クラブ』とは、実は “世の中” に蔓延(はびこ)る “およそ陰湿なるさまざまな意識(思想や考え)や行為(行動や事件)” を示唆している。“世の中” の部分に、“地域社会” や “日本” さらには “国際社会” といった言葉を当てはめて考えるとよく解る。中には “陰湿” のレベルを超え、“陰険” や “陰惨” といったものもあるようだが……。

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   だが、これら『陰湿クラブ』の「関係者」は、「加害者・被害者・傍観者」の「三者」に留まらず、「同調者」や「支援者」などが複雑に絡むこともあるだろう。のみならず、「A」と言う『陰湿クラブ』の「加害者」が、「B」においては「被害者」となり、また単なる「傍観者」ということも考えられる。さらには、「C」なる『陰湿クラブ』の「支援者」や「同調者」が、いつの間にか中心的な「加害者」に……といったことも起こり得る。

   “ややこしい人間関係の相克”によって創りだされ、変化し、消滅していく “陰湿なるもの” ……。それはまた新たに創りだされ、変化し、消滅……を繰り返して行く。「人間社会」が営々と引き継がれるということは、“人間の本質” でもある “陰湿なるもの” と向き合うということかもしれない。いや……待ったなしに、向き合わざるをえないというところだろう。

   たえず “陰湿な意識(思想や考え)や行為(行動や事件)” に眼を光らせ、遅きに失することなく立ち向かうように……この「物語」は、そう投げかけてもいるようだ。

   もっと突き進めて行けば、“人間として生きる” とは、気付かないうちに “自分自身” が、“姿を見せず、痕跡を残さず、自らの手を汚さずに悪事を働く存在” になりうる可能性があるということかもしれない。同時に、自分の身の回りのそのような存在を “安易に許してはいないだろうか” と問いかけることでもあるようだ。

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   今回の「舞台」は、“学校でのいじめ” という “ありきたりのテーマ” を展開しながらも、どことなく “現象学” や “実存主義”の雰囲気、それに “詩情” を漂わせてもいる。

   そのように感じさせた最大のポイントは、まずは高い問題意識に裏付けられた優れた「台詞」にある。次に演技における所作や小道具の使い方に、新しい試みが感じられたからだろう。舞台の場面転換に “ぎこちなさ” があったのはご愛敬としても、 “実験的な試み” という演出や演技の熱い想いは、充分伝わって来た。

   “今この瞬間に生き、この瞬間にしかできない何かを為す……” 。「作・演出家」をはじめとする「キャスト」や「スタッフ」の “意識” を強く感じた。彼等は「演劇舞台」の創造者である前に、自らの “五感” や “認識判断” を鼓舞させながら、懸命に “得体の知れない世の中の陰湿なるもの” と闘っているかのようだ。 

   しかし、我々が生きている “今この瞬間に存在する陰湿なるもの”、すなわち『陰湿クラブ』とは、“その真の正体” とは、いったいどのようなものだろうか。……あれだけ “真実を追究しよう” と懸命に立ち廻った「主人公」の「ジャーナリスト(記者)」は、その本質を掴みえたのだろうか……。 

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   今回の「舞台」は、正直言って “世界の陰湿さ” という捉え難いテーマに、多少競り負けした感は否めない。と言うより、この “あまりにも大きく、あまりにも強い、そしてあまりにも捉え難い本質” など、所詮、“容易に捉えることなどできなかった” のだ。

   無論、そのことは「作・演出家」も「キャスト・スタッフ」も百も承知であるわけだが、食らいつくことを諦めてはいなかった。そこに “青春の力強さと潔さ” を感じた。安易に妥協せず貪欲に“高み”を目指そうとする彼等の “覚悟” が、“まがい物でなかった” ことは確かだ。

   筆者は彼等に対し、将来へ向けた “救いと可能性” を強く感じることができた。その証というほどではないが、帰り際、傍にいた山本・丸尾の両君に握手を求め、気持ちよく家路に就くことができた。 (続く)

 

                                                                                                          

 


●演劇鑑賞『幸せはいつも小さくて東京はそれよりも大きい』/九州大学大橋キャンパス

2015年04月04日 01時28分51秒 | ●演劇鑑賞

 

  ● 幸せはいつも小さくて 東京はそれよりも大きい

●原作:広田淳一 ●脚色・演出:廣兼真奈美 ●助演:井料航希、遠藤智 

●九州大学:大橋キャンパス演劇部

 

   終始、気になった“絶叫”口調

   この「舞台」については、“絶叫” 感覚の「台詞回し」がずっと気になって仕方がなかった。〈役〉の特徴を出すためかもしれないが、 “耳触り” な感じが抜けないまま舞台は終わった。他の役者の優れた台詞回しや演技がいくつもあっただけに、残念でならない。

  無論、「絶叫調」の総てを否定するつもりはない。しか し、「ごく普通の会話」において、「絶叫調」で喋らなければならないケースというのは、果たしてどれだけあるだろうか。 “不自然かつ不要不急な絶叫場面” が目立ったことは否めない。

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  「絶叫調」の「欠点」とは、次のようなものだろうか。

 1.“絶叫調” の「台詞(言葉)」は、とにかく “聞き取りにくい”。その上、台詞が “絶叫調という画一化された響き” のため、その役者は無論のこと、相手役者の “真の感情や意識” も当然伝わりにくい。そのため、舞台上の役者のやりとりが判然としないまま、 “未解答のフラッシュ暗算問題が、頭の中にどんどん溜まって行く” ような気分だった。 

 2.“絶叫調” は、とかく “不自然でオーバーな表現” となりやすい。そのため、「その役者」だけでなく、その「役者」と絡む他の「役者」の「台詞内容」や「演技そのもの」も “リアリティ” が奪われがちとなる。

   「舞台」は、白色系で統一した素晴らしい背景、そして大道具、小道具だった。本来、そこから少しずつ生み出されて来るはずの “繊細な感性による想像の世界” が、あれよという間に萎んでしまった感がする。何とももったいない話だ。

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  「演劇」という“作り物”が生み出す……

   思うに、人が「舞台演劇」に惹かれるのは、眼の前で「役者」達が繰り広げる “フィクション(作り物)の世界” を、少なくとも「舞台が進行している間」(=幕が下りるまで)は、“夢や希望やロマンを抱かせてもらえる時空(=時間・空間)” として堪能できることにある。

   それはときには、 “限りなく「ノンフィクション(本物)」に近い緊張と興奮をもたらす時空” として “酔いしれさせてくれる” ものでもある……のだが。

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   「観客」は眼の前の「舞台」を、 “この瞬間の仮の世界”と意識しながらも、心のどこかで “現実世界らしきもの” を感じようとするものであり、また “現実世界との繋がり” を見出そうとしている(※無論、その逆もあるだろう)。

  それだからこそ「観客」は、「役者」すなわちその「台詞回し」や「演技」に、「観客」自身や「観客」の身近な人間をそこに見出そうとするし、秘かに “共感したい” と想っている。 “感情移入” や “自己投影”とはそういうことだろう。

   あるいは、こうも言えるだろう。「観客」とは、「演劇舞台」という「作り物の世界」に、 「傍観者」として参加しながらも、心情的には、“自らをその「作り物の世界」へ投げ込もうとする存在” でもある。

   「優れた演劇舞台」とは、“ときには” このような「観客=人間」の習性を巧みに取り込もうとするものであり、また「傍観者=人間」のままで留まろうとしている「観客」を、何とか “舞台の中の時空に引き摺りこもうとする” ……ように思えるのだが。

       ☆

   〈三谷クミコ〉役の「河野澄香」嬢の好演が眼を惹いた。掴みどころのない〈役〉の雰囲気がよく出ており、しっかりと “クミコ・ワールド” を発信していた。その「台詞回し」や「演技」には、〈クミコ〉ならではの独特の “ため” や “ゆらぎ” のようなものが感じられた。

   それにしても、“正常でも異常でもない” どこか “病んだ” とも言えるこのキャラクターは、本来、かなりの演技力を要するはずだが……。それを簡単に表現していたのが印象的だった。

   ことにそれは、〈小田ユキヒト〉役の「植木健太」氏と二人だけのシーンにおいて、いっそう顕著に感じられた。二人の役者の感性や演技力と言えばそれまでだが、この「舞台」を最後まで支えた原動力となったことは確かだ。  

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 【キャスト】、9名:小田ユキヒト(植木健太)、星野カズユキ(江原圭佑)、仁村ヒトミ(成清花菜)、石橋ミカ(小渕あさ)、見城ダイスケ(石光真之助)、高橋サトル(今岡宏朗)、木村シズカ(藤田萌花)、木村ジュンタ(森友楽)、三谷クミコ(河野澄香)。

 【スタッフ】、8名:弥永さえ日高彩伽徳永拓海岸田祐真阿部隼也三留夏野子緒方卓也齊藤美穂。――の各氏各嬢。

  


○福岡の演劇案内『段ボール少女』(九州大学伊都・箱崎キャンパス)

2015年04月01日 05時45分54秒 | ○福岡の演劇案内

 

  刺激的な演劇会場、「シゲキバ」

    筆者の「三月観劇」シリーズは後半戦となっていました。先々週と先週の土曜夕刻、いずれも「九州大学演劇部」(伊都・箱崎キャンパス)の作品を、同じ「会場」で観ることができました。

  この2作品については、本「演劇鑑賞」で触れるつもりですが、「シゲキバ」という「会場名」もさることながら、全体で「42㎡」ちょっとの “広さ” に驚きました。「会場全体」の「床面積」から「舞台部分」を差し引いた残りが「観客席部分」といった感じでしょうか。と言って、「舞台」と「観客席」とが、明確に分離している訳ではありません。

  “狭い” と言えば狭いし、そうでないと言えば、それはそれで “何とかなる広さ” なのでしょうが、“刺激的な場” であることは確かです。絵画関係の「個展会場」にもなるというのも頷けます。

   「京間」(ちょっと広めのモジュール)感覚「和室」の「六畳」が「四室」といったところでしょう。最小限の照明灯などが組み込まれているため、「天井高」は通常の「居室」よりちょっと高い「2.8m」となっていました。

   その “狭さ” ……いえ、“広さ” がもたらす実際の2作品の「舞台」……。ともにそれぞれの感性と想像力を駆使した “創造性豊かな舞台” であったことは確かです。

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  さて、「九州大学演劇部」(伊都・箱崎キャンパス)の「新入生歓迎公演」の詳細が決まったようです。今回の作品は、「演出」を担当する「田中利沙」嬢のオリジナルとなっています。

   「タイトル」と「あらすじ」からして、どことなく、“それらしき雰囲気” が漂って来ませんか? 若き女流の感性と想像力、それに「世界観」……楽しみにしています。

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   なお、「2015年新年度」より、従来の「学生演劇の公演案内」という「カテゴリー」のタイトルを「福岡の演劇案内」としました。これまでのように、「大学演劇部」中心からの脱却です。

   筆者自身、もっと自由に “いろいろな劇団” の「舞台」に接したいと思うようになりました。学生・非学生、プロ・アマ問わず、“本当の舞台演劇” なるものを発掘したいとの気持ちが強くなったからだと思います。

   そういう意味において、新たな「福岡の演劇案内」の初回に、「九州大学演劇部」の「作品」を採り上げたことは、偶然とはいえとても意義深いものがあります。

   筆者と演劇との “きっかけ” となったのが同部であり、この「演劇部」に脈々と流れる高い問題意識や貪欲なまでのチャレンジ精神は、 “あるべき劇団” の一つの理想形のように思えるからです。 特にこの1年半ほどの活動には、目を見張るものがあります。

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   九州大学演劇部 2015年度春季新歓公演

   段ボール少女

 ●作・演出/田中 利沙


  【あらすじ】

 当たり前の温もりがそこにはなかった
 彼女は限界を感じ、助けを求め、新たな居場所を見つける。
 傷つけ、傷つき、傷つけ、傷つき…
 精神は疲弊し、感覚は麻痺していく。

 そして彼女はある扉を開ける。


 ●日 時/ 公演は「曜」と「曜」です。開場は開演の30分前

   420日() 18:40~ 

   421日() 18:40~

 ●場 所/九州大学伊都キャンパス

        学生支援施設:音楽練習室4

 ●料 金/100円 (九州大学の新入生無料)

 クリック! ◆九州大学演劇部公式HP

  ※上記「HP」は、「伊都・箱崎キャンパス」のものです。