安倍晋三首相は25日、中国の李克強首相の案内で、四川省成都市郊外の古代の水利かんがい施設「都江堰」を視察した。昨年5月の日中韓首脳会談の際に来日した李氏は、安倍氏と共に北海道を訪れ、農場などを視察した。関係者によると今回の視察はその返礼で、安倍氏側が都江堰を希望したという。 →こちらのニュース 中国の報道
(都江堰(は、成都の西北約60km郊外の灌県に、秦に時代の紀元前306年から紀元前251年にかけ、建設された水利施設で、2000年に世界文化遺産に登録された。)
このニュースを読み、1993年~1995年に、また2003年に成都を頻繁に訪れて折に、ここも何回も訪問したことを思いだした。昔の写真を引っ張り出し、綴ってみよう。
(報道画像では、もやっていてよく見えないが、私が訪問した時もいつももやっていた。私の写真も鮮明でないのはお許しください)
中国・四川省の平野は、肥沃な土地と豊かな作物に恵まれることから、「天府の国」と呼ばれてます。この豊かな大地を支える基礎ともなっているのが、約2250年前の紀元前 306年から紀元前251年にかけて 、当時の蜀郡の太守(地方長官)李冰とその息子二郎の指揮により築かれた水利施設の「都江堰」です。
成都から北西へ約60km離れた都江堰市にあります。水利施設の名が現在の市の名前となってます。四川省北部の山地を源にした岷江は北から南へ流れ、宜賓という所で長江に合流するが、その流れが都江堰市に入ると玉壘山に妨げられ、増水期になると氾濫し、災害となった一方,東側にある成都平野へ流れず、灌漑水不足で農業発展の障害となっていました。そこで新しい水路を作り、岷江の水を平野に導入しようと李冰、二郎親子が指揮する治水事業が始まったのです。
岷江(に中洲を造り、西側(金馬河)を岷江本流とし、東側(灌江)の水を玉塁山の断崖に切り抜かれた狭い導水路=「宝瓶口」を通じ、切り開いた運河を通して、成都盆地へ流す。
中州と「飛沙堰」
都江堰全景
「宝瓶口」
都江堰建設を指揮した李冰と、その死後に工事を完成させた李二郎の親子を祀った「二王廟」
治水事業のポイントは「宝瓶口(ほうへいこう」「魚嘴(ぎょし)」「飛沙堰(ひしゃえん)」の三つの部分からなります。玉壘山を切り開いた導入水路=「宝瓶口」が成都平野へ流れている水路の入り口となっています。 水路の幅20メ-トル、高さ40メ-トルで、その名のごとく瓶の口に似ています。その当時はまだ火薬もなく、岩山を掘ることは大変なことでした。岩山の上で火を燃やし 熱くしておき、水をかけ岩石を割り工事を進めたそうです。
「宝瓶口」がある東側支流に水が流れるように、上流側の河の中に岷江の河を掘り下げた土砂で築いた長さ1kmにわたる金剛提と呼ばれる中州を作りました。先端の所が魚の口の形をしているので、「魚嘴 (ぎょし)」と呼ばれ、これにより岷江の流れを本流と支流に二分します。
さらに洪水を防ぐため「宝瓶口」の近くの金剛提の部分に200メ-トルの「飛沙堰」を建設しました。増水時には「宝瓶口」が堰の役割をするので、支流の水位があがり、「飛沙堰」を通じて、本流に水がもどる構造となっているわけです。
この結果、 支流の下流に水が流れすぎないように制御して洪水を防ぐことができるのです。「都江堰」は秦代からずっと使用されており、現在も67万ヘクタールもの広い田畑をうるおしています。
金剛提中域に架けられた安瀾橋は、古く宋代以前からあったとされる全長500mのつり橋です。幅2mほどのこの橋は、地元の何先徳夫妻が先導して建てたものとされるが、現在の姿になったのは1974年以降です。
安瀾橋の東側にある二王廟は李冰親子を記念するため南北時代に 建立されたものです。当初は「崇徳祠」として建造され、李冰の石像を立てました。宋代には二人が「王」と崇められ、二郎の像を増築し、「崇徳祠」も「二王廟」と 改名されました。李冰親子は道教の神々として祀られています。
参考: 都江堰の衛星写真がGOOGLE MAPSで見れます 都江堰・二王廟→こちら
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