関東電友会 関東中支部ブログ

このブログでは関東電友会関東中支部の活動状況を載せています。

電気通信の源流 東北大学 16.独創の科学者 西澤潤一

2023-12-31 18:38:56 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 16.独創の科学者 西澤潤一

 21世紀初頭、日本は世界最先端の技術レベルにあると自他ともに認め、また半導体生産量は世界で8割のシェアを占めていた。ドコモが第三世代携帯電話、フォーマの販売を開始し、世界の移動通信事業者から「日本は何故そんなに先を急ぐのか」と批判されたほどであった。
 その日本が、世界特許出願件数は第3位へと転落、競争力は過去最低の34位にまで落ちたとメディアが報じている。そうした中で、近ごろ話題になった科学者がいる。その人は、西澤潤一東北大名誉教授である。
 筆者が住むマンション内の友人から「NHKが面白い番組をやっています」と連絡が入った。6月21日、BS-3のNHKスペシャルで「独創の科学者~光通信に賭けた男 西澤潤一」という番組であった。この項のタイトルも、番組そのものを使っている。昭和60年に放送された番組を、世の警鐘のつもりで再放送したのであろう。平成も最後の年に亡くなられたので追悼の意味であるかもしれない。
 西澤は東北大工学部教授の長男として昭和元年に仙台市で生まれた。昭和20年、終戦の年に東北大学工学部に入学した。理学部を希望していたが、父親が電気工学科の抜山平一教授と相談し、渡辺寧の研究室に入れた。渡辺は八木の愛弟子で、ちょうど半導体の研究を始めた時期でもあり、西澤が半導体研究の道に進むきっかけとなった。
 昭和18年、「学生への徴兵猶予の停止」が発表されたが、学術研究が維持できなくなることを憂慮した東大からの申し入れによって、一週間後に大学院特別研究生制度が発足した。各帝大と東工大、早大、慶應などに、一講座あたり二名の研究生を残すことができるというもので、昭和18年度の第一回生には434人が選ばれた。西澤もこの中の一人に入った。
 西澤は特研生である時代に、独自の構造を持つダイオードやトランジスタ、イオン注入による半導体製造プロセスなどを発明した。日本で、個人としては最も数多くの特許を保有しているといわれる西澤の凄さが、すでに現れ始めた。
 特研生を終えた西澤は昭和28年に東北大学電気通信研究所の助手、29年に助教授、37年に教授となった。この間、多くの新規学説を発表した西澤であったが、学界では定説と異なっていると攻撃を受けた。発想が早すぎた八木が受けたと同様な、抜きんでた者の宿命である。日本の学会や企業は西澤の論文には目もくれずに、欧米の論文を有難がった。
 恩師の渡辺は、かかる状況を憂慮して、西澤が書いた論文を二年間、対外発表を控えさせた。しかし、西澤が書いたのと同じ論文が、欧米において次々と発表されていたのである。

<15.工務局長から二等兵に
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電気通信の源流 東北大学 15.工務局長から二等兵に

2023-12-31 18:30:29 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 15.工務局長から二等兵に

 昭和16年末、第三代工務局長荒川大太郎の交代時期が近付いた。次の工務局長は大正12年東北大卆、荒川の後任で無線課長を務めていた小野孝が候補であったが、彼は二年後輩の松前に席を譲ったのであった。松前は調査課長から大政翼賛会の総務部長に転出していたが、小野孝は率先して松前を再び逓信省に復帰させる運動の先頭にたち、逓信省幹部を説いたという。そして彼自身は日本電気子会社に転じた。潔い生き方である。なお、戦後の電電公社施設局無線課長を務めた小野浄治氏(昭和27年東大卆)は孝の令息で、二代続いての同職位である。
 なお、序に記述すると、元電電総裁の米澤滋は第二代工務局長米澤与三七の令息であり、筆者の同期生、辻明氏の父君は元電電公社東京電気通信局長の辻正あった。職位の上下は別として、電電公社内にはご子息を電電内に就職させる例が多く、おそらく数パーセントの比率で居られたように思う。
 松前が工務局長に就任して5日後の12月8日、太平洋戦争が始まった。初戦こそ有利に戦いを進めた日本だったが、工業力に勝る米国に次第に巻き返されていった。昭和19年6月にマリアナ諸島西方の海上で日米機動部隊の決戦が行われ、日本海軍は大敗をした。その大きな原因となったのが、米軍が使用した波長3センチの高性能レーダーと、超小型レーダーを持つ信管を装着した高射砲弾であった。八木がIREで発表した新技術を、米国は大きく進歩させていたのである。サイパン島陥落の責任をとる形で東条内閣は総辞職をした。
 その前年末に兵役法が改正された。それまで満40歳を上限としていた兵役年齢が満45歳にまで引き上げられた。しかし松前は逓信省の局長で、勅任官である。その任免は勅命でしか行えないので自分に召集はないと考えていた。その松前に召集電報が届いたのである。
 松前が倒閣運動の一角を担っていたことを知っていた東条は、退任前にその恨みをはらすべく、首相命令として懲罰召集をしたのであった。逓信省の関係者が、陸軍省に必死に交渉したが効を奏しなかった。松前は二等兵となってサイゴンの南方軍司令部へ送られた。
 このとき、八木秀次は東京工業大学の学長であったが、松前が召集された四月後の昭和19年12月に、内閣技術院の総裁になった。これは松前の根回しによるものだったという。八木は、住友通信工業(現日本電気)社長の梶井剛(元工務局長)と相談して、松前を技術院の参技管に採用する人事を発令した。召集の解除に際しては当然ながら陸軍兵務局の強い抵抗に遭ったが、松前が無事に戦地から帰還できたのは八木の奮闘の結果にほかならない。

<14.技術者運動
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電気通信の源流 東北大学 14.技術者運動

2023-12-24 23:18:11 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 14.技術者運動

 松前は、官庁が法科優先で、技術者の地位が低いことに我慢できず、技術者の地位向上運動を起こした。過去に逓信省の局長はすべて法科出身であり、技術者は電信課長か電話課長止まりであった。工学士が局長になる工務局が新設されたのは大正14年になってからである。
 初代の工務局長は名古屋市の出身、明治33年東京帝大電気工学科卆の稲田三之助であった。彼は早稲田大学理工学部の教授も務めた。
 第二代の米澤与三七は明治39年東京帝大卒である。彼は、昭和40年から52年まで、三期12年間電電公社総裁を務めた米澤滋の父君である。
 第三代の梶井剛(前出)は明治45年東京帝大卒業で、筆者は拝謁の栄に浴したことがある。
 第四代の荒川大太郎は大正8年の東京大学卆業でCCIR(国際無線諮問委員会)第四回総会に日本代表で出席し、活躍された。工務局の初代無線課長でもあり、第15代無線課長を務めた筆者から遥かな先輩にあたる。
 松前は、工務局の技術者を中心として「技術談話会」を結成、逓信省の技術者の地位向上と権限の拡大を求める運動を始めた。三年後には「逓信技友会」に発展し、逓信大臣に技術者の待遇改善と工務局への四課増設を要求するに至った。この要求によって調査課が新設されたことは先に述べた。
 松前の活動は逓信省内だけにとどまらなかった。官庁を横断して各省の技術者に働きかけた。昭和12年には「六省技術者協議会」を結成し、神田学士会館で第一回の会合を開くに至った。六省は大蔵、内務、農林、商工、逓信、鉄道で、後に厚生省も加わり七省となる。
 筆者が電電公社に入社したとき、技術系社員は研究所を含め約40名、事務系社員は約30名であった。これら社員は7、8年後に本社の係長或いは通信部課長レベル、17、8年後に本社の課長或いは中規模の電話局長レベルに昇進する。その後には退社する人が多くなるが、残った社員は27、8年後に本社の局長或いは通信局長になる。ここまでの昇進は、事務系も技術系も全く同じテンポである。
 筆者はこのように、事務系と技術系が同じであることを当たり前のことだと受け止めていた。
 しかし、これは電電公社だけの例外的なことなのであった。逓信省以来の伝統を受け継いでいた、正しくは松前重義の活躍の恩恵に浴していたのである。筆者は電電公社技術局の総括調査役のとき職務上から全技懇(全国技術者懇話会)に出席し、そのことを知った。例えば、通産省の技術系職員は工業技術院院長が最終職位であり局長に昇進した例を筆者は存じていない。そして各省庁の代表から、電電公社の技術者は羨ましいと言われ、驚いたのであった。

<13.松前重義の活躍
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電気通信の源流 東北大学 13.松前重義の活躍

2023-12-24 23:05:42 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 13.松前重義の活躍

 松前重義は明治34年、熊本県上益城郡大島町村長の家で生まれた。曽祖父は熊本藩士であったという。小学5年生のとき熊本市に移ったが、夕刻に町中に電灯が灯ったのを見て電気の勉強を志したというから、かなりの田舎育ちである。
 多くの方は松前重義というと東海大学の創立者だと思う。しかし筆者時代の電気通信技術者はすぐに「無装荷ケーブルの発明者」と頭に浮かぶ。筆者の年代とあえて断ったのは、もっと後の年代になると「装荷」という言葉を教えられることはなく、さらには銅線を使わず光ファイバー通信時代に変るためである。
 装荷というのは、電話信号を伝送するための銅線の対にインダクタンスを付加し、もともとのキャパシタンスを打ち消して、信号が遠距離に伝わったときの減衰量を少なくする技術を言う。コロンビア大学のピューピンにより今世紀初頭に発明された。
 装荷は、音声の減衰を少なくできるが、高い周波数の電気信号が送れなくなる。松前の発明は装荷を止め、抜山教授が研究していた増幅器と濾波器を利用して信号を強くする。高い周波数を送る効果として、音声信号の周波数を高い方に移し、幾つかの音声を重ね合わせ(これを周波数分割多重という)て伝送することが可能になる。
 今から考えると当たり前のことに思えるが、当初「無装荷ケーブル」は、周囲から強い反対を受けた。日本人が考え出した新しいことは誰も信用しない時代だったのである。繰り返し行った試験の結果が逓信省工務局長の梶井剛に認められて、ようやく採用された。梶井は昭和27年に電電公社初代総裁になる方である。
 昭和10年に日本・朝鮮・満州間の無装荷ケーブル建設工事が始まり、14年には東京・奉天間が完成して世間を驚かせた。松前はその功績で電気学会浅野賞を受賞するが、祝金千円をもとに、三鷹の自宅内に私塾「望星学塾」を開設した。早くも教育者としての一面を覗かせたのである。
 昭和12年、工務局に調査課が新設されると松前は初代調査課長となった。5つの係を置いて有為の技術者を集めた調査課は、逓信省の技術参謀本部であった。新技術を開発し、それを電気通信事業の上で活用していく。ここに後の電電公社技術局の雛が誕生したのである。

<12.英国軍が使っていた八木アンテナ
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12月22日(金) カラオケ同好会 例会

2023-12-23 16:50:06 | 同好会活動
カラオケ同好会 12月例会

 令和5年12月22日、カラオケ同好会・令和5年12月例会を開催いたしました。
 今月は、通常の第4金曜日の実施としたので、暮れもかなり押し詰まった日程でした。
 会場は先月例会と同じ、世田谷代田の「カラオケわかまつ」。
 12月に入り,暑くなったり寒くなったりを繰り返していましたが、当日は今冬最強の寒波に日本列島が覆われて、特に朝晩はかなり寒い日でした。
 寒さと暮れの繁忙時期ということで、参加者も少ないかなとの危惧もありましたが、今年最後の例会ということもあってか、昨年10月の再開後では最多の12名の方々が参集されました。
 いつものように当日、11時半に小田急線梅が丘駅に集合後、バスで会場に移動。
 各自持参の昼食等を食べながら、飲みながら、12時過ぎから歌唱開始。
 今回も和やかな雰囲気で進行し、いつものようにバラエティに富んだ歌が披露され、デュエット曲も披露されました。
 さらに今回は、ギター持参の会員がギターで歌唱の伴奏するという趣向も披露
されました。
 全員が3曲を歌唱したあと、希望者が4曲目を歌唱するうちに、楽しい時間は、あっという間に過ぎて終了時間となり、全員で当会のテーマ曲「遠き昭和の」を歌唱し、次回、新年1月例会での再会を約して散会しました。
 終了後の有志による反省会は、梅が丘まで戻り4名で行いました。
 次回1月の例会は、令和6年1月26日(第4金曜日です)に今回と同じ会場での開催を予定していますが、今後のコロナの感染状況等を見ながら、最終的に開催の可否を決定したいと思います。
 同好会会員には、個別に周知いたします。
関東中支部カラオケ同好会責任者・畑瀬



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