電気通信の源流 東北大学 6.弱電と強電
ドイツに留学した八木は、ドレスデン工科大学にて高い周波数の電気振動を研究しているバルクハウゼン教授に師事、博士号取得のための研究をすることになった。ドレスデンはエルベ川の谷間に位置したザクセン州の州都で、陶器の町マイセンから近い。
バルクハウゼンは名著「電気振動学入門」により電波工学の意義を世界に知らしめたことで名高い。電気工学を「強電工学」と「弱電工学」に分類したのもバルクハウゼンである。いかにして強い電力を発生し、それを減衰させないで遠くにまで送るかをテーマとする発電と送配電の工学が「強電工学」であり、弱い電流で仕事をする有線や無線の通信工学が「弱電工学」である、とした。
八木は、「日本では、弱電はまったく片隅の学問にされている」とバルクハウゼンに語った。
「日本でも弱電の研究をするのは自由なのだが、産業界が強電全盛であり、弱電をやろうとする人間がいない。大学に弱電の講座はなく、電信電話学という講義が一科目あるだけで専任の講師もおらず、毎週、逓信省の技師が講義をしにくるのだ」と八木は嘆いた。
しかし日本でも最初から強電ばかりが盛んだったわけではない。明治10年、東京帝国大学に初めて電気工学に関する学科が設けられた時は電信学科という名称であった。明治政府が成立した次の年に東京と横浜間に電信が開通した。有線による電話も、ベルが発明した翌年の1877年には取り入れ、都市間の電話交換も明治23年から始まっている。
八木はこんなことを説明したのちに、弱電が衰えた理由を次のように述べた。
「政府が電信電話を官営の独占事業にした。競争がなかったので、政府は外国から技術を輸入、運営するだけだった。それに対して電力事業の方は、電灯が普及した明治のなかばころから民間会社間で激しい競争が始まった。大資本の電力会社が出現した。そのために大学の電気工学科の卒業生は多くが電力会社に就職し、政府の通信事業に行く者は何年かに一人という状況だ。」
これを聞いたバルクハウゼンは驚きつつ、「弱電の方が強電よりも理学的で、研究しても面白いのに・・・」と言ったという。
八木が日本にいた頃から、欧米の学会誌には大学や企業の研究者の弱電研究論文が多く載っていた。すでにいくつかの国では、弱電が独立した学会となり、弱電だけの学会誌が存在していたのである。そのあと、ベルリン工科大学で学ぶうちに八木は、ヨーロッパでは弱電研究者の方が強電研究者より一段と高く尊敬されていることを知ったのだった。
バルクハウゼンは次のように言った。
「科学は発見し、工学は発明するという。その科学と工学は真空のなかで生まれるわけではない。それぞれの時代の制約のなかで生まれる。科学者と工学者とはそれぞれが自分の社会をつくっていて、排他的な要素を持っている。
電波の存在を予告したマクスウェルは、生きているうちはその論文はまったく無視されていた。電波を発見したヘルツも、電波が通信に使われるなんて考えもしなかった。このように、自分の発見を、自分で評価することは難しい。どこの国でも、創造は規制の権威への挑戦なのである」
八木はバルクハウゼンの言葉をかみしめて味わっていた。
大正3年、第一次世界大戦の勃発でドイツを後にした八木は、スイス、イタリア、フランスを転々としたのちに、ドーバー海峡を渡って英国にたどり着いた。そこで彼はフレミングの師事を受けることになった。フレミングは「電磁誘導に関する右手の法則と、地場の電流に対する力の左手の法則」で知られていた。
このときのフレミングは、真空管の将来性についての関心でいっぱいであった。フレミングは明治37年(1904年)に二極真空管を発明した。その後に、真空管は電波を発振することや信号を増幅する作用があることが見つかり、その応用が飛躍的に拡大されようとしていた。こうした時代の変化のただ中に、八木は身を置いていたのである。
八木はフレミング教授の実験助手として、欧州で当時の新しい話題であった光電効果の研究などに取り組んだ。こうした過程で、八木は物理学の領域に深く立ち入ることになり、また電波の領域に取り込まれていった。
八木はフレミングの著書「無線電信学教科書」にある言葉、
「無線学は非常に魅惑的なものであって、一度この研究に踏み込んだ者は生涯これから抜け出ることはできない」
を実感したのである。
余談ではあるが、八木はフレミングから英語の言葉遣いについて注意を受けたことから、週に三回、英文学者から英語の教えを受け、代わりに日本語を教えた。八木の英語のレベルは大きく向上したが、相手も八木の教えが役立ったらしい。その相手というのが「源氏物語」を十年かけて英語に翻訳し、日本の古典文学を世界に広めたアーサー・ウェイリーである。
八木がロンドンへ来てから約一年後、ドイツの飛行船によるロンドンの空襲が激しくなった。八木は残る留学期間を米国で過ごし、祖国へと戻って行った。
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