関東電友会 関東中支部ブログ

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電気通信の源流 東北大学 目次

2024-01-07 11:22:38 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 目次

 1.序言
 2.勉強開始
 3.東北大学の誕生
 4.東北大学物理学科
 5.八木秀次の登場
 6.弱電と強電
 7.東北大学工学部電気工学科の創設
 8.学会誌の占領
 9.電気学会と電気通信学会
10.指向性アンテナの発明
11.陽極分割マグネトロンの発明
12.英国軍が使っていた八木アンテナ
13.松前重義の活躍
14.技術者運動
15.工務局長から二等兵に
16.独創の科学者 西澤潤一
17.半導体研究所
18.光通信と西澤の発明
19.学士院賞の受賞



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電気通信の源流 東北大学 19.学士院賞の受賞

2024-01-07 11:05:11 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 19.学士院賞の受賞

 昭和49年、西澤は日本学士院賞を受賞した。名目は「半導体及びトランジスタの研究」である。これは学士院会員、八木秀次の推薦によるものである。学士院賞は、知名度こそ低いが、日本の学者にとっては文化功労者を上回る垂涎の顕彰である。
 学士院会員そのものの枠が狭小である。人文科学系の第一部が3つの分科(法学、文学、経済学)で70人、自然科学系の第二部が4つの分科(理学、工学、農学、医学)で80人、計7分科150人の会員で構成されている。そのなかでも八木が所属する第五分科の工学は建築、土木、化学、物理、電気・電子、金属など、抱える分野が広かった。電気・電子所属の会員の定数はわずか3名である。
 学士院賞は各分科から毎年一人ずつ選ばれるが、専門が細分化された現在の学問の世界では一つの分科の代表に選ばれるのが難しい。一つの分野の候補者が第五分科を代表する候補者に選ばれる割合は、8、9年に一回となる。戦後、昭和48年の時点で、電気・電子分野から学士院賞を受賞したのは、昭和23年の古賀逸策(水晶発振器)、昭和29年の山下英男(リレー式電算機)、昭和40年の江崎玲於奈(トンネルダイオード)と僅か3人しかいなかった。
「江崎の受賞からすでに8年。来年こそは電子工学から受賞者を出したい」
と、八木が満を持して推薦したのが西澤であった。世界に先駆けたレーザーや光通信の発明に象徴される半導体研究の先進性から、八木は孫弟子の西澤を、以前から高く評価していたのである。
 西澤にとって八木は、師の渡辺の、そのまた師である。大学に入ったとき、八木は既に阪大に移っていた。西澤は八木を
「東北大を、日本のエレクトロニクス研究のメッカに育てた伝説の人」
として知っているだけであった。
 八木から西澤へ、こうした師弟の絆こそ、東北大学の強さ、「独創力」の源動力にほかならない。

 仙台市の青葉山に展開する東北大理工系キャンパスの一角、工学部電気系研究棟の中庭に八木秀次の胸像が建っている。昭和51年に除幕された胸像はブロンズ製で、高さ70センチほどである。
 加藤睦奥雄東北大総長は除幕式の祝辞で
「片平キャンパス金属研究所前にある本多光太郎先生の銅像と共に、ここに八木先生の像を持つことは東北大学のこれからの研究に大きな影響を与えます。八木先生は東北大学が生み出す独創的な研究の象徴となられるでしょう」
と述べたのであった。

<18.光通信と西澤の発明
 電気通信の源流 東北大学 は本章「19.学士院賞の受賞」で完結です。 目次ページはこちら
コメント (1)
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電気通信の源流 東北大学 18.光通信と西澤の発明

2024-01-07 10:55:00 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 18.光通信と西澤の発明

 光通信には電気信号を光に変換するレーザダイオード、光を伝達する光ファイバー、受信した光から元の電気信号を取り出すフォトダイオードの三者が必要である。西澤はこれらのすべてを研究の対象にした。このときに「独創」「独自」「闘う」のキーワードが、研究を進める根本的な哲学であった。これらはKS鋼の本多、指向性アンテナの八木、無装荷ケーブルの松前から受け繋いだものである。
 昭和32年4月、西澤は半導体メーザー(誘導放出によるマイクロ波増幅)の日本特許を出願し、昭和35年に公告された。通信用のレーザー(誘導放出による光増幅)はメーザーから進歩したものである。レーザーの米特許は紆余曲折の後、コロンビア大学グールドが所有することとなったが、その発明の元になる研究ノートの日付は昭和32年11月である。もし西澤が米国に特許の出願をするか、学会誌に執筆していれば、レーザーの特許料を手中にできたかもしれないのであった。
 また、西澤は昭和39年に集束性(GI)光ファイバーの特許を出願した。このとき、西澤は弁理士を使わず自分で書類を書き上げたため、書類不備として却下の扱いを受けた。出願公告が出ると異議申し立てが出たりして、特許庁との係争が続き、期限切れとなってしまった。
 また昭和40年、香港の物理学者チャールズ・カオはガラスの不純物濃度を下げることにより光の損失を20㏈/㎞まで低減でき、通信に利用できる旨の論文を発表した。米コーニング社は昭和45年に同じ損失の光ファイバーの製造に成功をした。光ファイバーを発明した功績によりカオは平成21年のノーベル物理学賞を受賞した。その当時、西澤もノーベル賞候補として期待されていたが、惜しくも逸した。特許係争などで海外論文誌へ投稿していなかったことが残念である。
 平成14年、米電気電子学会(IEEE)は西澤の名を冠した「ニシザワメダル」を設立し、電子デバイスとその材料科学の分野で顕著な貢献をした個人・団体を顕彰している。

<17.半導体研究所
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電気通信の源流 東北大学 17.半導体研究所

2024-01-07 10:42:18 | 投稿
電気通信の源流 東北大学 17.半導体研究所

 昭和36年、渡辺寧と西澤潤一は、両者の特許料収入を見込んで、財団法人・半導体研究所を設立した。西澤は国内特許278件、米英等の9か国に157件の特許を取得している。他者の追随を許さぬ数である。
 大学の先端的な研究と産業界を結び付けることを目的に、東北大学の一隅に創設された研究所には、若手の工学博士や企業から送り込まれた技術者が集まって、研究に没頭した。
 毎週土曜日には定例検討会が開かれ、西澤の前でそれまでに得られた研究成果を発表し、西澤からの辛辣な質問を浴びながら、長時間の討論が行われた。厳しく鍛えられるので、弟子たちはこの検討会を西澤道場と称した。
 壁には西澤の三原則
  一、まだやられていないことでなければならない
  二、他所より早く発表しなければならない
  三、やり直しをせねばならない様ではならない
が大きく貼られている。第一項の「独創」。  これこそ八木の「指向性アンテナ」、「松前の無装荷ケーブル」へと、連綿と受け継がれてきた東北大学研究者の血統に違いない。
 昭和59年、神戸で「固体素子・材料国際学会」総会が開かれ、米国やソ連などから第一線級の科学者約一千名が集まった。会議の冒頭の特別講演で西澤は、新しい半導体「ガリウムひ素」の結晶化に成功したと発表した。これこそ、従来のシリコン半導体を用いたコンピュータの速度を100倍に高める、画期的な半導体の登場である。
 半導体講演が終わると、多くの聴衆が西澤の許に駆け寄って、さらに深い情報提供を求めた。西澤は一人一人に親切に対応していた。学生を指導していたときの厳しい顔から一変し、微笑みを浮かべた穏やかな研究者の姿がそこにあった。
「日本は真似をするだけの国ではない。今後は注目して見ている必要がある」
聴衆の多くが抱いた印象である。
 50年以上も前の昭和3年、八木がIRE総会で講演したときの驚愕した聴衆たち、そのときの光景を彷彿とさせる状況であった。
 ここで筆者の余談を少し述べる。電子通信学会の元会長・功績賞受賞者と現役員との懇親会が年に一回開催されるしきたりがあった。ときどき西澤教授の姿を見かけたが、他の出席者たちと親しげに会話をしている様子はなかった。しかし、ある高名な方の告別式で出棺を見送るとき、たまたま西澤教授と隣り合わせた。筆者の顔を見覚えて下さっており、四半刻の短時間であったが四方山の雑談をする機会があった。そのときには「特別な人」という違和感はなかった。

<16.独創の科学者 西澤潤一
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