学生時代から親しくさせていただいている先輩の稲川和夫さん(元ならコープ理事長。元早大生協幹部職員)から手紙をいただいた。メールやフェースブックを覗くより手紙の手書きの文章はうれしい。ただ、今回の手紙は、50年前に大学生協関西地連事務局長であった稲川さんを手こずらせた過激派学生のその後のことを「抵抗と絶望の狭間」という本で知り驚いたということで、長文だった。それは稲川さんたちの論争相手であった彼ら=塩見孝也(京大)や森恒夫(大阪市大)が上京し、赤軍派や連合赤軍のリーダーとして過激な行動を繰り返し、内ゲバで多くの仲間を殺し、あさま山荘事件などを起こしたことを嘆き、批判するものでした。
関西地連傘下の大学生協が彼ら過激派の暴力のもとで混迷、困難下にあったころ、東京の大学生協は彼らの直接介入は許さなかったが、全共闘運動のあとのあらたな暴力集団、革マル派や中核派(当時、新左翼は5流13派と言われたが私には違いは分からないし、分かる人もいなかった)が台頭し、彼らの暴力行為は生協の活動や事業にも大きな影響を与えていた。私が早大生協の専務になった1969年春は全共闘による安田講堂攻防戦がおわり、東大が入試をやめた春でした。大学立法反対を掲げ革マル派などが「無期限バリケードスト」を唱えるなか、生協はそのような挑発的行動に反対し、大学の教員・職員組合や院生協議会など7団体と集会や署名運動に取り組んだ。暴力反対を主張する生協に対する革マル派の嫌がらせは、70年春には生協の加入受付をしているアルバイターを拉致、暴行するにいたった。そのため、革マル支配下にあった文学部での加入受付や総代選挙などの行事には私をふくめ背広姿の大人が立ち会うといった対応をした。70年10月、文学部の学生・山村正明君が革マルの暴力に抗議する遺書を残し、文学部に隣接する穴八幡境内で自殺した(私は文学部出身のため当時から彼を「君」づけで話したし、後述の川口君も同様です。後輩を愛おしく思うためと理解を)。学生の反暴力、反革マルの声は強まったが、彼らそれを巧妙に交わして大学当局の一部まで抱え込み全学的に支配を広げていった。そして72年11月、革マル派は文学部学生・川口大三郎君を虐殺、東大病院の近くに放棄する事件を起こした。その事件とその後の暴力反対、革マル派追放のための取り組みを書いたのが「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅、文芸春秋)で、稲川さんに示唆されて読みました。当時、私は早大専務と東京事業連合専務を兼任し、地域生協支援の活動も本格化していたので、この事件を「けしからん」と思ったものの学生諸君と深い論議をすることはなかったので、新たに知ったことが多かった。
「彼は早稲田で死んだ」の筆者・樋田さんは川口君の1年下の1年生であったが、暴力を排除した自主、自立の自治会を確立するためノンセクトの学生として新執行部の委員長になり、2年間にわたり懸命の努力をし、全学的に暴力反対の大きなうねりを作った。しかし、自身も彼らにつかまり鉄パイプでリンチを受け、入院。退院後、仲間に守られ登校するが革マルの襲撃を受け続け、ついに運動から手を引くことになる。それらのいきさつ、考え悩んだことも正直に書かれている。筆者は革マルにつかまらないように用心しながら通学、卒業し朝日新聞の記者になり、阪神支局の赤報隊事件に遭遇、その犯人捜しの仕事も続けた。そのことも書かれているこの本は、貴重な体験談であり、よく取材されたルポルタージュであり、正確な一つの社会運動史であり、暴力と非暴力、非寛容と寛容という筆者の哲学の書でもあると思われた。(なお、この本には反暴力の新自治会を発足させるとき執行部に革マルに「民青」と思われる人が入るのはセクト間抗争という口実になると考え立候補を辞退てもらったと書いている。その中には今、私と絵の会や9条の会で一緒の人もいるが、コロナ禍で話せないでいるので、ここで名前を出すのは遠慮した。)
私は学生時代の体験から60年安保のころの思い出と合わせ読んだ「薔薇雨(1960年6月)」や「未完の時代・1960年代の記録」については,かってこのブログにも紹介を載せたが、その後も60年代以降の学生運動に関する書物はいろいろ出ている。それらをよく読んではいないが、私は全共闘運動を含め新左翼と言われる人たちの運動は暴力を是認し、それを行使したために学生運動をはじめ日本社会の変革を目指す諸運動にマイナスの影響を与え、学生も若い労働者も「運動」や「組織」から遠ざけることになったことが「総括」されていないのが問題だと考えています。人々を殺害したり、諸運動を妨害しただけでなく、社会の健全な前進を阻害し、今の混迷と停滞の日本を作った要因の一つではないかと思っているがどうでしょうか。
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