古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万葉集のウケヒと夢

2025年02月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 ウケヒについての現在の通説は次のようなものである。

 ウケヒは、本来、神意を判断する呪術・占いをいう。その動詞形がウケフ。 あらかじめ「Aという事態が生ずれば、神意はaにある。Bが生ずれば、神意はbにある」というように生ずる事態とその判断を条件として定め、得られた結果を神意と見なして、物事の真偽や吉凶、禍福などを占うものである。条件を口に出してから行うため、言葉の力を発揮させる言語呪術と認められる。狩猟を行い、獲物が得られるかどうかで神意を判断する「うけひ狩り」の例も見える。しかし、次第に意味が広く派生して行き、神にかけて誓いを行うことや、神に祈り願うことも表すようになる。(『万葉語誌』66頁、この項、新谷正雄)

 この説明には小さな誤謬がたくさん見られる。ウケヒは古代の占いの一種であるが、神意を求めるものとするのは短絡的である。あらかじめ言葉で言っておいて眼前の事態がどうなるかによって、将来の事態を予測しようと試みている。ヤマトコトバ(の使用)は、ことことであることを公理としていた。言葉と事柄とは相即の関係にあるものとし、使用した言語体系がヤマトコトバである。何でもかんでも言ってしまえばそのとおりになるということではない。「言霊ことだま」という言葉は多く誤解されているが、発した言葉に霊が宿っているのではなく、ヤマトコトバの使い手たちはことことであるように志向しており、言葉が現実の事態となることはあたかも霊が宿っているようだと見立てられて「言霊ことだま」と言われるようになっていただけで、用例としては数が少ない。逆に、前もって言っていたとおりにしない有言不実行をすると、ことことということになり、その人は信用を失う。そのような人がたくさん現れると、誰もが不信感をいだいてコミュニケーションはとれなくなる。言葉によって成り立っている世界の秩序は乱れ、発せられている言葉はもはや奇声にしか聞こえない。言葉が言葉でなくなるのである。社会は成り立たずにカオスに陥る。そうならないよう、ことことであるように努めていた。それが無文字時代のヤマトコトバを支える前提条件であった。
 そのような言語活動のなかで行われた占い法がウケヒである。将来のことでAになるかB(多くは¬A)になるかわからなくて困った時、試しにAになるなら目の前でもαとなり、B(多くは¬A)になるなら目の前でもβ(多くは¬α)になると言っておく。あらかじめ言っておいて実験をする。言っておいたことことなのだから、将来A、Bいずれのことになるかα、βからわかるという考え方である。夢も占いとして活用されたのは、夢のなかでα、βなら実際にA、Bとなることだろうと類推思考が働いたからである。夢のなかに神が現れることがあり、神意を告げることがあるが、夢から覚めて現実世界でどうするかは人間の行いである。人間が行わなければ実際に神意どおりにはならない。神のお告げをこととして、ことが同じになるように努めた当時の人たちの考え方、実践を伴うヤマトコトバ使用こそが占法を支えていたのである。
 万葉集のなかで使われているウケヒの例は次の四例である。みな動詞ウケフの形で使われ、四例中三例が夢と関わる形で詠まれている。

 都路みやこぢを 遠みかいもが このころは うけひて宿れど いめに見えぬ〔都路乎遠哉妹之比来者得飼飯而雖宿夢尒不所見来〕(万767)
 水の上に 数書く如き 吾が命 いもに逢はむと うけひつるかも〔水上如數書吾命妹相受日鶴鴨〕(万2433)
 さねかづら のちも逢はむと いめのみに うけひわたりて 年はにつつ〔核葛後相夢耳受日度年経乍〕(万2479)
 あひ思はず 君はあるらし ぬばたまの いめにも見えず うけひて宿れど〔不相思公者在良思黒玉夢不見受旱宿跡〕(万2589)

 これらの意味合いについて、祈り願う意に拡張されたものと捉えられているが誤解である。
 上に述べたとおり、夢のなかは現実のシミュレーションとなっている。歌の作者は寝る前に思い人に逢えるかどうかウケヒをして占っている。夢の中に現れて見る(α)のであれば現実にも本当に逢えて見ることになる(A)、現れずに見ることがない(β)のであれば現実にも逢えずに見ることはない(B)、これがウケヒの前言に当たる。実際に布団の周辺できちんと言葉にして発する必要はない。夢は当人しか知り得ないことなので、自分の頭のなかで決めているだけで事態は定まる。ウケヒの簡易版が夢占ということになる。
 万767・2589番歌では残念ながら夢に見ることはない。遠距離になって彼女の心も遠くなってしまったからだろうか、相思ではないらしい、と失恋の情を歌っている。
 万2479番歌はもう少し念の入った作り方がされている。現状の解釈は間違っている(注1)

 さねかづら のちも逢はむと いめのみに うけひわたりて 年はにつつ(万2479)
 (訳)(さね葛)後にも逢おうと、夢に見ることを祈誓(うけひ)し続けて年はいたずらに過ぎて行く。(新大系文庫本271頁)

 稲岡1998.は、「「もし後に逢うことを許されるなら、今夜の夢の中でも逢わせ給え。もし後に逢うことが許されぬものなら、今夜の夢の中でも逢わぬようにさせ給え」というようなウケヒをしたものと思われる。……夢の中で逢えても現実に逢えるわけでもなく、いたずらにウケヒを繰り返すばかりでの意味。」(327頁)と解説している。この考え方には矛盾がある。毎晩寝る前に夢に現れてくれ、そうしたら実際にも逢うことができる、とウケヒを続けたというのだろうか。ウケヒという占い法は確立している。夢で逢えたら現実にも逢えなくてはならない。夢で逢えているのに現実に逢えないということは、ことことであることを容認することになる。ヤマトコトバの根本原則から逸脱する。αなのにBだからといって再度ウケヒをくり返すとしたら、それはもはやすでにウケヒの信頼性は失墜している。騙されたとわかっても騙され続けて吉凶のおみくじを引き続ける、ということを歌にしたものではない。もし仮にそうなら、もはやウケヒという言葉など使わないであろう。神のお告げを夢に見たときも実践するのは人間である。ウケヒの占いをして夢に逢ったならば、現実においても待ちの姿勢ではなく、雨が降ろうが槍が降ろうが、どんな支障も乗り越えて逢わなければならない。そうしないと、言=事とする言霊信仰に反し、神やらいにやらわれる存在に堕すことになる。
 二句目の「後も逢はむと」という言い回しは、また逢おうと思いながら、そう言っておきながら、実際には逢わずにいることの表現として使われている。言っていることとやっている事が異なるなら、言=事とする言霊信仰に反するのではないかと思われるであろう。天罰は当たらないかと心配されるかもしれない。そういう時、人はいろいろ言い訳をする。

 …… さねかづら 後も逢はむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 磐垣淵いはかきふちの こもりのみ 恋ひつつあるに ……(万207)
 ことのみを 後も逢はむと ねもころに 吾を頼めて 逢はざらむかも(万740)
 月草の れる命に ある人を いかに知りてか 後も逢はむとふ(万2756)
 恋ひつつも 後も逢はむと 思へこそ おのが命を 長くりすれ(万2868)
 恋ひ恋ひて 後も逢はむと なぐさもる 心しなくは 生きてあらめやも(万2904)
 ありありて 後も逢はむと ことのみを かため言ひつつ 逢ふとは無しに(万3113)
 …… さな葛 後も逢はむと 慰むる 心を持ちて ま袖持ち とこうち払ひ うつつには 君には逢はね いめにだに 逢ふと見えこそ あま足夜たるよを(万3280)
 …… さな葛 後も逢はむと 大船の 思ひたのめど うつつには 君には逢はず 夢にだに 逢ふと見えこそ 天の足夜に(万3281)
 ありさりて 後も逢はむと 思へこそ 露の命も ぎつつ渡れ(万3933)

 また逢おうねと言っておきながら逢わずにいることは許されるのか。そこには大人の知恵がある。時間を味方につけている。つまり、いずれ逢うのではあるが、今のところはまだ逢っていない、そういう中途半端な状態に今はあると述べている。あげた例では、残念ながらまだ逢うに至っていないと言っている。その場合、傾向として、本当に逢う気でいながらまだ逢っていないと思われる例に万2904・3933番歌があり、逢う気は醒めてしまっているが「後も逢はむ」とかつて言った、あるいは思った都合上の宙ぶらりんの状況にある意を表していると思われる例に万740・3113がある。もちろん、捉え方によってどうとでも取れるところがある。本心か否かは別であって、そういう歌が作られるならいとなっている。歌は言語遊戯の性格を持つ。言葉巧みなマニピュレーターということではなく、誰もがふつうに行う言語活動である。
 万2479番歌の場合は、一応のところまた逢おうねという気持ちは持ち続けていて、寝る前のウケヒの儀式は、あるいは形骸化しているかもしれないが、続けているにもかかわらず夢に見ることがないからそのままあなたと逢わずに年月が経ってしまった、と逢っていないことの言い訳をしていて、それが歌となっている。
 万葉集において夢にウケヒをしている三例で、ウケヒの語義はウケヒ本来の意である。ウケヒという言葉を使っている以上それはウケヒである。単に祈ったり、誓いを立てたりする意なら、イノリテヌレド、チカヒテヌレドなどと直截に歌えばいい。短歌形式の三十一音しかないところで間の抜けた言葉づかいをするべくもない。

(注)
(注1)内田1988.も、「ウケヒワタルとは、夢に相手を期待しつつ、かなわぬままに幾夜をも過すのであろう。ウケヒは、右の二例[万2589・2479]で、一方的に望ましい帰結を願うことへと傾いている。しかし、同様のホクと異なり、その実現への期待はむしろ裏切られるものと予想されている。或いは、それが適ったからといって(夢に相手を見たからといって)、それが逢瀬を約束すると本気で信じているわけでもない。ウケヒは、ここでその少ない可能性への果敢ない期待としてある。」(36頁)とやはり誤解している。
(注2)万2433番歌について拙稿「万葉集2433番歌「如数書吾命」とウケヒについて」参照。

(引用文献)
稲岡1998. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第十一』有斐閣、平成10年。
内田1988. 内田賢徳「ウケヒの論理とその周辺─語彙論的考察─」『萬葉』第128号、昭和63年2月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1988
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。

※本稿は、2018年11月稿を2025年2月に改稿したものである。