雄略紀の朝鮮半島との関連記事に、これまでの解釈では意味の通じない記述がある。
天皇の位に即かせたまひしより、是歳に至るまでに、新羅国、背き誕りて、苞苴入らざること、今までに八年なり。而るを大きに中国の心を懼りたてまつりて、好を高麗に脩む。是に由りて、高麗の王、精兵一百人を遣りて新羅を守らしむ。
頃有りて、高麗の軍士一人、取仮に国に帰る。時に新羅人を以て典馬 典馬、此には于麻柯比と云ふ。とす。而して顧に謂りて曰はく、「汝の国は、吾が国の為に破られむこと久に非じ」といふ。一本に云はく、汝が国、果して吾が土に成ること久に非じといふ。其の典馬、聞きて、陽りて其の腹を患むまねにして、退りて在後れぬ。遂に国に逃げ入りて、其の語へるを説く。
是に新羅の王、乃ち高麗の偽り守ることを知りて、使を遣して馳せて国人に告げて曰はく、「人、家内に養ふ鶏の雄者を殺せ」といふ。国人、意を知りて、尽に国内に有る高麗人を殺す。惟に遺れる高麗一人有りて、間に乗りて脱るること得て、其の国に逃げ入りて、皆具に為説ふ。高麗の王、即ち軍兵を発して、……(雄略紀八年二月)
新羅と高麗(高句麗)との間の攻防についての記述である。新羅は、倭が攻めてくるだろうと恐れ、高麗に精鋭部隊を派遣するように友好条約を結んだ。その時、一人の高麗兵が休暇をとって帰ることがあった。馬の世話をさせた新羅人とともに帰路についていたが、その兵士はいずれ高麗は新羅を滅ぼすだろうとひそひそ話をした。新羅の馬の世話人は、おなかの具合が悪いと言って列から遅れ離れて国へ帰ってその旨を説いた。情報は新羅王のもとに届き、王は高麗との間の条約は偽計であったと悟り、国中の人に対して国内にいる高麗人を殺そうと図った。そのときに用いた布告の言葉が三段落目にある。「人殺二家内所養鶏之雄者一」である。その結果、「国人知レ意、尽殺二国内所有高麗人一」ということになった。それでも一人生き残った高麗人がいて、国へ帰って状況を話した。そこで高麗国は兵をあげ、全面戦争へとつながっている。
話の肝となる部分が理解されていない。どうして「人殺二家内所レ養鶏之雄者一」という言葉が、高麗人一斉殺害の暗号として機能したのか。これまでに検討された見解を三つ示す。
「水戸公所ノレ修史新羅伝ニ曰悉ノ人頭ニ著二折風ヲ一形如シレ弁ノ士人捕ム二二鳥ノ羽ヲ一新羅ノ諷告蓋指レ此ヲ乎」(河村秀根ほか・書紀集解、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100258449/447?ln=ja)
「「鶏之雄者」は高句麗の将兵を示唆した表現であることは明らかである。……高句麗人を「鶏之雄者」といったのは、……[軍人の]服飾や標識によったとも考えられる。……[また、]新羅では軍隊の単位を幢と呼んだ。幢は……「毛 訓 thŏrŏk, mo」、現訓は thŏr で、鷄の古訓 tork, tok, tak と通用する。……進駐中の高句麗軍に対して、「鶏の雄者」すなわち tork(鶏→幢・対盧)を謎々的に示唆したものと解し得るのである。話そのものが謎的であるから、むしろこの方の解釈が妥当しよう。」(三品2002.103頁)
「[三品氏の]いずれの説を採るにせよ、「人殺二家内所レ養鶏之雄者一」の表現は、三韓の習俗、言語に精通していなければ為し得ない表現であることに違いない。とすれば、この記事は半島系の原資料に依拠した可能性が高い。」(瀬間2024.23頁)
「人殺二家内所レ養鶏之雄者一」→「国人知レ意、尽殺二国内所有高麗人一」という流れである。「高麗人」が殺され、生き残った「高麗一人」が生還している。これは、「精兵一百人」のうちの「高麗軍士一人」が休暇で帰り、残りの99人を殺そうと謀ったが、98人は殺したものの1人は生還したということなのだろうか。そうではなく、新羅国王は、民間人を含めて国中にいる「高麗人」を一掃しようとしたということなのではないか。三品氏の前提は誤っていると考える(注1)。
そもそも、朝鮮半島記事だからといって、ヤマトの末裔である日本人がよくわからないのは仕方がないと考えるのは間違いである。なぜなら、日本書紀は、対外的に流布させようと企図して作られたものではなく、ヤマトの人が理解できるように書かれた書物だからである。自己満足の史書であると言っても過言ではない。つまり、読者として想定されているヤマトの人がわかるように暗号文を創作しているはずなのである。朝鮮半島の風習や言語に依拠していてよくわからないというのでは話にならない(注2)。
ヤマトコトバで考えた時、ヲトリとは囮(媒鳥)のこと、すなわち、ヲキ(招)+トリ(鳥)の約であるとされている。鳥をもって鳥を捕まえる猟法である。いざ高麗との間で戦争になれば、派兵されている高麗の精鋭部隊だけでなく新羅国内の親高麗派の人たちも呼応蜂起して混乱に陥れ、新羅は敗れることになるだろうというのである(注3)。国家存続の危機感をいだいて新羅王はお触れを出している。
「所レ養鶏」の部分、「養ふ鶏」と訓まれている。ヤシナフは、安に複語尾のナフが付いた形で、失す~失ふ、幣ふ~賄ふ、祈ぐ~労ふ、と同様の語形変化であるとする説がある。幼児を育て養うことはヒダスといい、また、ハグクムという。ヤシナフは生活全般に及ぶ語で語義が広いとされている(注4)。問題は、鶏を飼うことをヤシナフと言っていることにある。聞いただけで何か変だなと気づくことであろう。「所レ飼鶏」ではなく「所レ養鶏」と明示してある。
鶏はヤシナフという言葉で表されるような対象なのか。家畜として動物を飼う場合、ウカヒ(鵜飼)、タカカヒ(鷹飼)、ウマカヒ(馬飼)などといい、また、コ(蚕)を飼うからカヒコ(蚕)という(注5)。ヤシナフトリとは豪勢なことである。
鶏の雌鳥は卵を産むから大事にされた。民家の内に鶏を飼う場合、一羽飼うのなら、昼間は家の外へ出していても夜はイタチなどに襲われかねないから家へ入れ、高い止り木に掴まらせて身の安全を確保した。その場合、飼っているのは雌鳥で、卵を取っていた。記事では「雄鶏」と指定されているから数多く飼育していたことになる。多数鶏がいれば、人との同居は収拾がつかなく困難だから別にヤカ(宅、舎)を設けて鶏舎で飼ったと思われる(注6)。一部は孵らせて雛鳥として育てて大きくし、雌鳥ならさらに卵を取ろうと目論んでいる。求められているのはもっぱら雌鶏である。飼育され続けている雄鶏は何をしているのか。卵を取るためでも若鶏の肉を取るためでもなく、動物として本来の寿命、すなわち、繁殖のため、受精のために生かされている。雄鶏一羽で雌鶏五羽の相手ができるそうである。自然界と同じ営みである。ただし、鶏は家畜化された鳥類であり、人間のもとでのみ生を永らえている。しかも雄鶏は、去勢された畜牛馬のように人間のために使役されることもない。それをヤシナフトリと呼んでいる。飼われているのではなく養われていると言えるのである。
ヤシナフトリとしての雄鶏は何不自由なく暮らしている。止り木にとまってコケコッコーと鳴き叫んだり、けたたましくせわしなく動き回っている。止り木を備えた鳥小屋が与えられ、その小屋は騒がしく揺れんばかりである。ヤ(屋、舎)+シナフ(撓)ほどなのである。中にいる雄鶏は、踊りでも踊っているように見える。踊るとは、足で弾みをつけてジャンプするような動きをいう。歩きながら小刻みに上体、顔を上下に、また前後に動かしている。足踏みして跳躍する動きをしている(注7)。
飼育動物のなかでそのような動きをするものとしては馬があげられる。馬が驚いて跳びあがるさまは踊っているように見える。単発的な跳躍だけでなく、継続的な跳躍も馬はする。細かな足さばきをしながら軽く走る軽速歩である。この軽速歩を操るためには、騎乗者は馬上で立ったり座ったりして上下の反動を抜く乗り方をする。騎乗者が立ったり座ったりするというのは、立つのは鐙に着けた足を踏ん張ること、座るのはそれを緩めて鞍に座ることである。馬が踊っているとともに騎乗する人も踊っている。それを細かくくり返す。だから、踊りをする雄鶏とは、馬のことをいう駒のこと、また騎乗している精兵、軍士のことを言っていて、つまりは高麗のことを指しているとわかる。植民者として高麗人はすでに存在していた。
高麗の野心が伺い知れたのも、出張中の高麗精鋭が新羅で雇った典馬が送っていった時に聞きつけたからであった。馬を飼うこととは、ただその馬に食事を与えたり洗ってあげたりするメンテナンスに限らず、交尾させて繁殖させることも含まれる。馬が年を取って死んでしまったら、典馬は馬飼いでなくなってしまう。産まれてきた仔馬のことは特に駒とも呼ぶ。典馬が高麗軍から聞き出した秘密は信憑性が高いとわかるのである。
典馬になった新羅人は高麗兵が連れてきた馬の世話をしていただけだと思っていたが、高麗が考えていたのは新羅で高麗人を繁殖させて「うまはる」(注8)ことなのだと悟ったのである。駒(仔馬)が来て、牡馬と牝馬に育てば繁殖して数が増える。そこらじゅう駒だらけになって、つまりは高麗人だらけに陥り新羅は滅亡する。そういうシナリオを描いて精鋭部隊を駐屯させている。上げ膳据え膳で養っていては大変なことになる。高麗の陽動作戦に引っ掛かったら国は傾くということである。だから、「家内に養ふ鶏の雄者を殺せ」と命じて、皆、殺すようにと言っている。それぞれの家は人間(新羅人)の家よりも鶏舎を大事にしていてはいけない、本末転倒になると警鐘を鳴らしている。
(注)
(注1)高麗から民間人は来ていなかったとする考え方もなくはないが、国境に壁が作られていたわけでもパスポートやビザの制度があったわけでもない。
(注2)三品氏や瀬間氏は朝鮮半島の習俗、言語によった表現であるとし、半島系の原資料に依った表現であると考えているが、そのような資料は見出せていない。
(注3)現今の世界情勢を鑑みても、親ロシア派が住む地域はロシアの占領下に入って行っている。在留ロシア人の保護のために戦うというのがロシア側の言い分である。
(注4)白川1995.766頁。
(注5)「養」字でカフと訓む例もあるが、雄略紀のこの部分、書陵部本、前田本、熱田本ともヤシナフと訓んでいる。
(注6)鶏の飼い方は、宮崎安貞・農業全書に記されている。
(注7)踊るように見えない雄鶏は元気がないということで、繁殖用には適さない。
(注8)雄略紀には次のような用例がある。
是に高麗の諸将、王に言して曰さく、「百済の心許、非常し。臣、見る毎に、覚えず自づからに失ふ。恐るらくは、更蔓生りなむか。請はくは、逐除はむ」とまをす。(雄略紀二十年冬)
高麗は百済を滅ぼしたが、残党は飢えに苦しみながらもそのままでいた。これを許してその地に留めたら、再興しようとするに違いないから、この期に一掃してしまってはどうかと進言している。地盤があるところに居続けたら次の選挙の時どうなるかというのと同じである。どぶ板活動をして支持者を増やしていく。それを「蔓生る」という言葉で表している。高麗の諸将は、駒が増えていくこととはウマハルことなのだと自覚、認識していたのである。
(引用・参考文献)
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
瀬間2024. 瀬間正之「雄略紀朝鮮半島記事の編述」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝承』雄山閣、令和6年。
三品2002. 三品彰英『日本書紀朝鮮関連記事考證 下巻』天山舎、2002年。
宮崎安貞・農業全書 宮崎安貞編録、貝原楽軒刪補、土屋喬雄校訂『農業全書』岩波書店(岩波文庫)、昭和11年。
天皇の位に即かせたまひしより、是歳に至るまでに、新羅国、背き誕りて、苞苴入らざること、今までに八年なり。而るを大きに中国の心を懼りたてまつりて、好を高麗に脩む。是に由りて、高麗の王、精兵一百人を遣りて新羅を守らしむ。
頃有りて、高麗の軍士一人、取仮に国に帰る。時に新羅人を以て典馬 典馬、此には于麻柯比と云ふ。とす。而して顧に謂りて曰はく、「汝の国は、吾が国の為に破られむこと久に非じ」といふ。一本に云はく、汝が国、果して吾が土に成ること久に非じといふ。其の典馬、聞きて、陽りて其の腹を患むまねにして、退りて在後れぬ。遂に国に逃げ入りて、其の語へるを説く。
是に新羅の王、乃ち高麗の偽り守ることを知りて、使を遣して馳せて国人に告げて曰はく、「人、家内に養ふ鶏の雄者を殺せ」といふ。国人、意を知りて、尽に国内に有る高麗人を殺す。惟に遺れる高麗一人有りて、間に乗りて脱るること得て、其の国に逃げ入りて、皆具に為説ふ。高麗の王、即ち軍兵を発して、……(雄略紀八年二月)
新羅と高麗(高句麗)との間の攻防についての記述である。新羅は、倭が攻めてくるだろうと恐れ、高麗に精鋭部隊を派遣するように友好条約を結んだ。その時、一人の高麗兵が休暇をとって帰ることがあった。馬の世話をさせた新羅人とともに帰路についていたが、その兵士はいずれ高麗は新羅を滅ぼすだろうとひそひそ話をした。新羅の馬の世話人は、おなかの具合が悪いと言って列から遅れ離れて国へ帰ってその旨を説いた。情報は新羅王のもとに届き、王は高麗との間の条約は偽計であったと悟り、国中の人に対して国内にいる高麗人を殺そうと図った。そのときに用いた布告の言葉が三段落目にある。「人殺二家内所養鶏之雄者一」である。その結果、「国人知レ意、尽殺二国内所有高麗人一」ということになった。それでも一人生き残った高麗人がいて、国へ帰って状況を話した。そこで高麗国は兵をあげ、全面戦争へとつながっている。
話の肝となる部分が理解されていない。どうして「人殺二家内所レ養鶏之雄者一」という言葉が、高麗人一斉殺害の暗号として機能したのか。これまでに検討された見解を三つ示す。
「水戸公所ノレ修史新羅伝ニ曰悉ノ人頭ニ著二折風ヲ一形如シレ弁ノ士人捕ム二二鳥ノ羽ヲ一新羅ノ諷告蓋指レ此ヲ乎」(河村秀根ほか・書紀集解、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100258449/447?ln=ja)
「「鶏之雄者」は高句麗の将兵を示唆した表現であることは明らかである。……高句麗人を「鶏之雄者」といったのは、……[軍人の]服飾や標識によったとも考えられる。……[また、]新羅では軍隊の単位を幢と呼んだ。幢は……「毛 訓 thŏrŏk, mo」、現訓は thŏr で、鷄の古訓 tork, tok, tak と通用する。……進駐中の高句麗軍に対して、「鶏の雄者」すなわち tork(鶏→幢・対盧)を謎々的に示唆したものと解し得るのである。話そのものが謎的であるから、むしろこの方の解釈が妥当しよう。」(三品2002.103頁)
「[三品氏の]いずれの説を採るにせよ、「人殺二家内所レ養鶏之雄者一」の表現は、三韓の習俗、言語に精通していなければ為し得ない表現であることに違いない。とすれば、この記事は半島系の原資料に依拠した可能性が高い。」(瀬間2024.23頁)
「人殺二家内所レ養鶏之雄者一」→「国人知レ意、尽殺二国内所有高麗人一」という流れである。「高麗人」が殺され、生き残った「高麗一人」が生還している。これは、「精兵一百人」のうちの「高麗軍士一人」が休暇で帰り、残りの99人を殺そうと謀ったが、98人は殺したものの1人は生還したということなのだろうか。そうではなく、新羅国王は、民間人を含めて国中にいる「高麗人」を一掃しようとしたということなのではないか。三品氏の前提は誤っていると考える(注1)。
そもそも、朝鮮半島記事だからといって、ヤマトの末裔である日本人がよくわからないのは仕方がないと考えるのは間違いである。なぜなら、日本書紀は、対外的に流布させようと企図して作られたものではなく、ヤマトの人が理解できるように書かれた書物だからである。自己満足の史書であると言っても過言ではない。つまり、読者として想定されているヤマトの人がわかるように暗号文を創作しているはずなのである。朝鮮半島の風習や言語に依拠していてよくわからないというのでは話にならない(注2)。
ヤマトコトバで考えた時、ヲトリとは囮(媒鳥)のこと、すなわち、ヲキ(招)+トリ(鳥)の約であるとされている。鳥をもって鳥を捕まえる猟法である。いざ高麗との間で戦争になれば、派兵されている高麗の精鋭部隊だけでなく新羅国内の親高麗派の人たちも呼応蜂起して混乱に陥れ、新羅は敗れることになるだろうというのである(注3)。国家存続の危機感をいだいて新羅王はお触れを出している。
「所レ養鶏」の部分、「養ふ鶏」と訓まれている。ヤシナフは、安に複語尾のナフが付いた形で、失す~失ふ、幣ふ~賄ふ、祈ぐ~労ふ、と同様の語形変化であるとする説がある。幼児を育て養うことはヒダスといい、また、ハグクムという。ヤシナフは生活全般に及ぶ語で語義が広いとされている(注4)。問題は、鶏を飼うことをヤシナフと言っていることにある。聞いただけで何か変だなと気づくことであろう。「所レ飼鶏」ではなく「所レ養鶏」と明示してある。
鶏はヤシナフという言葉で表されるような対象なのか。家畜として動物を飼う場合、ウカヒ(鵜飼)、タカカヒ(鷹飼)、ウマカヒ(馬飼)などといい、また、コ(蚕)を飼うからカヒコ(蚕)という(注5)。ヤシナフトリとは豪勢なことである。
鶏の雌鳥は卵を産むから大事にされた。民家の内に鶏を飼う場合、一羽飼うのなら、昼間は家の外へ出していても夜はイタチなどに襲われかねないから家へ入れ、高い止り木に掴まらせて身の安全を確保した。その場合、飼っているのは雌鳥で、卵を取っていた。記事では「雄鶏」と指定されているから数多く飼育していたことになる。多数鶏がいれば、人との同居は収拾がつかなく困難だから別にヤカ(宅、舎)を設けて鶏舎で飼ったと思われる(注6)。一部は孵らせて雛鳥として育てて大きくし、雌鳥ならさらに卵を取ろうと目論んでいる。求められているのはもっぱら雌鶏である。飼育され続けている雄鶏は何をしているのか。卵を取るためでも若鶏の肉を取るためでもなく、動物として本来の寿命、すなわち、繁殖のため、受精のために生かされている。雄鶏一羽で雌鶏五羽の相手ができるそうである。自然界と同じ営みである。ただし、鶏は家畜化された鳥類であり、人間のもとでのみ生を永らえている。しかも雄鶏は、去勢された畜牛馬のように人間のために使役されることもない。それをヤシナフトリと呼んでいる。飼われているのではなく養われていると言えるのである。
ヤシナフトリとしての雄鶏は何不自由なく暮らしている。止り木にとまってコケコッコーと鳴き叫んだり、けたたましくせわしなく動き回っている。止り木を備えた鳥小屋が与えられ、その小屋は騒がしく揺れんばかりである。ヤ(屋、舎)+シナフ(撓)ほどなのである。中にいる雄鶏は、踊りでも踊っているように見える。踊るとは、足で弾みをつけてジャンプするような動きをいう。歩きながら小刻みに上体、顔を上下に、また前後に動かしている。足踏みして跳躍する動きをしている(注7)。
飼育動物のなかでそのような動きをするものとしては馬があげられる。馬が驚いて跳びあがるさまは踊っているように見える。単発的な跳躍だけでなく、継続的な跳躍も馬はする。細かな足さばきをしながら軽く走る軽速歩である。この軽速歩を操るためには、騎乗者は馬上で立ったり座ったりして上下の反動を抜く乗り方をする。騎乗者が立ったり座ったりするというのは、立つのは鐙に着けた足を踏ん張ること、座るのはそれを緩めて鞍に座ることである。馬が踊っているとともに騎乗する人も踊っている。それを細かくくり返す。だから、踊りをする雄鶏とは、馬のことをいう駒のこと、また騎乗している精兵、軍士のことを言っていて、つまりは高麗のことを指しているとわかる。植民者として高麗人はすでに存在していた。
高麗の野心が伺い知れたのも、出張中の高麗精鋭が新羅で雇った典馬が送っていった時に聞きつけたからであった。馬を飼うこととは、ただその馬に食事を与えたり洗ってあげたりするメンテナンスに限らず、交尾させて繁殖させることも含まれる。馬が年を取って死んでしまったら、典馬は馬飼いでなくなってしまう。産まれてきた仔馬のことは特に駒とも呼ぶ。典馬が高麗軍から聞き出した秘密は信憑性が高いとわかるのである。
典馬になった新羅人は高麗兵が連れてきた馬の世話をしていただけだと思っていたが、高麗が考えていたのは新羅で高麗人を繁殖させて「うまはる」(注8)ことなのだと悟ったのである。駒(仔馬)が来て、牡馬と牝馬に育てば繁殖して数が増える。そこらじゅう駒だらけになって、つまりは高麗人だらけに陥り新羅は滅亡する。そういうシナリオを描いて精鋭部隊を駐屯させている。上げ膳据え膳で養っていては大変なことになる。高麗の陽動作戦に引っ掛かったら国は傾くということである。だから、「家内に養ふ鶏の雄者を殺せ」と命じて、皆、殺すようにと言っている。それぞれの家は人間(新羅人)の家よりも鶏舎を大事にしていてはいけない、本末転倒になると警鐘を鳴らしている。
(注)
(注1)高麗から民間人は来ていなかったとする考え方もなくはないが、国境に壁が作られていたわけでもパスポートやビザの制度があったわけでもない。
(注2)三品氏や瀬間氏は朝鮮半島の習俗、言語によった表現であるとし、半島系の原資料に依った表現であると考えているが、そのような資料は見出せていない。
(注3)現今の世界情勢を鑑みても、親ロシア派が住む地域はロシアの占領下に入って行っている。在留ロシア人の保護のために戦うというのがロシア側の言い分である。
(注4)白川1995.766頁。
(注5)「養」字でカフと訓む例もあるが、雄略紀のこの部分、書陵部本、前田本、熱田本ともヤシナフと訓んでいる。
(注6)鶏の飼い方は、宮崎安貞・農業全書に記されている。
鶏第二
には鳥は人家に必ずなくて叶はぬ物なり。鶏犬の二色は田舎に殊に畜ひ置くべし。……
多く畜はんとする者は、広き園の中に稠しくかきをし廻し、狐狸犬猫の入らざる様に堅く作り、戸口を小さくしたる小屋を作り、其中に塒を数多く作りて、高下それぞれの心に叶ふべし。尤わらあくたを多く入れ置きて、巣に作らすべし。さて園の一方に粟黍稗を粥に煮てちらし置き、草を多くおほへば、やがて虫多くわき出づるを餌とすべし。是時分によりて三日も過ぎずして虫となる。其虫を喰尽すべき時分に、又一方かくのごとく、年中絶えず此餌にて養へば、鶏肥へて卵を多くうむ物なり。園の中を二つにしきりをくべし。又雑穀の粃、其外人牛馬の食物ともならざる物を多く貯へて、はみ物常に乏しからざる様にすべし。卵も雛も繁昌する事限なし。甚だ利を得る物なれども、屋敷の広き余地なくては、多く畜ふ事なり難し。凡雄鳥二つ雌鳥四つ五つ程畜ふを中分とすべし。春夏かいわりて廿日程の間はひな巣を出でざる物なり。飯をかはかして入れ、水をも入れて飼ひ立つべし。
甚だ多く畜ひ立つるは、人ばかりにては夜昼共に守る事なり難く、狐猫のふせぎならざる故、能よき犬を畜ひ置きてならはし守らすべし(但しかやうにはいへども、農人の家に鶏を多く飼へば、穀物を費し妨げ多し。つねのもの是をわざとしてもすぐしがたし。しかれば多くかふ事は其人の才覚によるべし)。(325〜326頁、漢字の旧字体は改めた)
近世の養鶏場の例(佐藤信季述・培養秘録、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/839587/1/36をトリミング結合)
には鳥は人家に必ずなくて叶はぬ物なり。鶏犬の二色は田舎に殊に畜ひ置くべし。……
多く畜はんとする者は、広き園の中に稠しくかきをし廻し、狐狸犬猫の入らざる様に堅く作り、戸口を小さくしたる小屋を作り、其中に塒を数多く作りて、高下それぞれの心に叶ふべし。尤わらあくたを多く入れ置きて、巣に作らすべし。さて園の一方に粟黍稗を粥に煮てちらし置き、草を多くおほへば、やがて虫多くわき出づるを餌とすべし。是時分によりて三日も過ぎずして虫となる。其虫を喰尽すべき時分に、又一方かくのごとく、年中絶えず此餌にて養へば、鶏肥へて卵を多くうむ物なり。園の中を二つにしきりをくべし。又雑穀の粃、其外人牛馬の食物ともならざる物を多く貯へて、はみ物常に乏しからざる様にすべし。卵も雛も繁昌する事限なし。甚だ利を得る物なれども、屋敷の広き余地なくては、多く畜ふ事なり難し。凡雄鳥二つ雌鳥四つ五つ程畜ふを中分とすべし。春夏かいわりて廿日程の間はひな巣を出でざる物なり。飯をかはかして入れ、水をも入れて飼ひ立つべし。
甚だ多く畜ひ立つるは、人ばかりにては夜昼共に守る事なり難く、狐猫のふせぎならざる故、能よき犬を畜ひ置きてならはし守らすべし(但しかやうにはいへども、農人の家に鶏を多く飼へば、穀物を費し妨げ多し。つねのもの是をわざとしてもすぐしがたし。しかれば多くかふ事は其人の才覚によるべし)。(325〜326頁、漢字の旧字体は改めた)

(注7)踊るように見えない雄鶏は元気がないということで、繁殖用には適さない。
(注8)雄略紀には次のような用例がある。
是に高麗の諸将、王に言して曰さく、「百済の心許、非常し。臣、見る毎に、覚えず自づからに失ふ。恐るらくは、更蔓生りなむか。請はくは、逐除はむ」とまをす。(雄略紀二十年冬)
高麗は百済を滅ぼしたが、残党は飢えに苦しみながらもそのままでいた。これを許してその地に留めたら、再興しようとするに違いないから、この期に一掃してしまってはどうかと進言している。地盤があるところに居続けたら次の選挙の時どうなるかというのと同じである。どぶ板活動をして支持者を増やしていく。それを「蔓生る」という言葉で表している。高麗の諸将は、駒が増えていくこととはウマハルことなのだと自覚、認識していたのである。
(引用・参考文献)
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
瀬間2024. 瀬間正之「雄略紀朝鮮半島記事の編述」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝承』雄山閣、令和6年。
三品2002. 三品彰英『日本書紀朝鮮関連記事考證 下巻』天山舎、2002年。
宮崎安貞・農業全書 宮崎安貞編録、貝原楽軒刪補、土屋喬雄校訂『農業全書』岩波書店(岩波文庫)、昭和11年。