中国から伝わった龍(竜)は、なぜかタツと訓まれることがある。地名「龍田」に当てられることも多い。空想上の生き物としてのタツは万葉集の例(注1)が名高く、日本書紀にも「龍」は見える。
伏して来書を辱なみ、具に芳旨を承はる。忽に隔漢の恋を成し、復抱梁の意を傷ましむ。唯羨はくは、去留恙無く、遂に披雲を待たまくのみ。〔伏辱来書具承芳旨忽成隔漢之戀復傷抱梁之意唯羨去留無恙遂待披雲耳〕(中略)
龍の馬も 今も得てしか あをによし 奈良の都に 行きて来むため〔多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠尓与志奈良乃美夜古尓由吉帝己牟丹米〕(万806)(中略)
龍の馬を 我は求めむ あをによし 奈良の都に 来む人のたに〔多都乃麻乎阿礼波毛等米牟阿遠尓与志奈良乃美夜古邇許牟比等乃多仁〕(万808)(後略)
豊玉姫、方に産まむときに龍に化為りぬ。(神代紀第十段本文)(注2)
大将軍紀小弓宿禰、龍のごとく驤り、虎のごとく視て、旁く八維を眺る。(雄略紀九年五月)
其の馬、時に濩略にして、龍のごとくに翥ぶ。(雄略紀九年七月)
壮に及りて鴻のごとく驚り、龍のごとく翥り、輩と別に群を越えたり。(欽明紀七年七月)
大鷦鷯帝の時、龍馬西に見ゆ。(白雉元年二月)(注3)
……空中にして龍に乗れる者有り。……西に向ひて馳せ去ぬ。(斉明紀元年五月)
想像上の動物である「龍」は中国で考えられていたものである。日本で昔ながらのものとしてヤマタノヲロチや、ヤヒロワニ、クラオカミ、クラミツハは龍に似ていると思われているが、「龍」字を当てることも、○○タツと呼ばれることもない。万葉歌や雄略紀、斉明紀の例に見られるタツは、空を飛び駆ける馬のような存在として認識されている。トヨタマビメがお産のときに変じていたという「龍」については、古事記や紀一書第一・第三ではヤヒロワニになっていたとされている。
「龍」は天駆ける馬であり、それをヤマトコトバでタツと造語している。どうしてそう命名したか、ながらく疑問とされている。説として、身を立てて天にのぼるところからタツ(立・起)と言ったのだろうという説が古くから行われている。瀬間2024.は説文、玉篇、易経、管子などを渉猟し、龍に「身を立つ」に相当する記述はないと指摘し、漢字の一部を取って訓としたという説を提示している。「龍(竜)」字のなかに「立」字があるからタツと命名した字形訓であるという(注4)。
この説は興味深いものだが、なかなかにあり得ない。なぜなら、その字を知らない人にとっては何を言っているのかわからないからである。
虎についても日本には生息していないが、話に頭が大きくて揺らしながら歩くネコのような生き物だと伝えられた。毛皮を見せながら説明されたのだろう。それをコと言っても誰にも通じないから、頭を揺らしては時折大声を張り上げる生態の生き物のことを連想している。酔っ払いである。彼らは「蕩せる」状態にあるから、トラと命名している。酔っぱらいのことを指してオオトラというのは、tiger に先んじて考えられていた言葉ということである。
龍という生き物は天駆ける馬のことだと考えている。もちろん、天駆けるような horse がいて駿馬だとありがたがられていても、実際に天駆ける horse というものはいない。つまり、龍は龍であり、馬は馬である。天上を駆けるのと地上を駆けるのとで種類は別である。
この間の事情を物語る逸話を紹介する。
列仙伝の馬師皇に次のようにあり、賛が付いている(注5)。
馬師皇者、黄帝時馬医也。知馬形気生死之診、治之輒愈。後有龍下向之、垂耳張口。皇曰、此龍有病、知我能治。乃鍼其唇下口中、以甘草湯飲之而愈。後数数有疾龍出其波、告而求治之。一且龍負皇而去。
師皇典馬 厩無残駟 精感群龍 術兼殊類 霊虬報徳 弭鱗御轡 振躍天漢 粲有遺蔚
黄帝の時に名獣医がいた。その馬師皇に診てもらった馬は必ず良くなった。そうしているうちに、龍が空から下ってきた。皇は龍が病気だと言い、鍼治療をし薬を与えた。口コミで龍がたくさん訪れるようになり、治してやっていた。ある日、龍は皇を背に乗せてどこかへ行ってしまった。そういう話である。
賛の部分をいま仮に訓む。
師皇 馬を典るに、厩に残れる駟無し。群れる龍を精しく感るに、術兼ねて類を殊つ。霊しき虬 徳に報へ、鱗を弭へ轡を御らしむ。 天漢に振き躍りて、粲げて遺せる蔚有り(注6)。
馬師皇(王世貞撰・有象列仙全傳、京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ(公開)https://www.archives.kyoto.jp/websearchpe/detail?cls=152_old_books_catalog&pkey=0000002438、1-28をトリミング)
馬を診るのと龍を診るのとでは種類が違うのだから、馬医ではなく龍医でなくてはならないはずである。もちろん、龍は空想上の動物であり、龍医という職業はない。たぐいまれな馬医であった師皇の医術は、馬にも龍にも通じ兼ねたものであって、種類の分け隔てを断つものであった。
この逸話がどれほどヤマトの人に知られていたかは定かではない。ただ、「龍の馬」と歌にいきなり歌われるぐらいだから、龍とは馬と近類だと考えられていたことは確かである。筆者が列仙伝のこの賛に注目したのは、「殊つ」というヤマトコトバゆえである。「殊儛」という舞がある。大系本日本書紀は、「タツヅはタツイヅの約であろうか。立つのと、進むのとを合わせいう語か。殊は断(たつ)の意があるために、立つに通用させたものか。」(111頁)と注している。
小楯、謂りて曰はく、「可怜し。願はくは復聞かむ」といふ。天皇、遂に殊儛〈殊儛、古に立出儛と謂ふ。立出、此には陀豆豆と云ふ。儛ふ状は、乍いは起ち乍いは居て儛ふなり。〉作たまふ。誥びて曰はく、
倭は そそ茅原、浅茅原 弟日、僕らま。
小楯、是に由りて深く奇異ぶ。更に唱はしむ。天皇、誥びて曰はく、
石上 振の神榲〈榲、此には須擬と云ふ。〉本伐り 末截ひ、〈伐本截末、此には謨登岐利須衛於茲婆羅比と云ふ。〉市辺宮に 天下治しし、天万国万押磐尊の御裔、僕らま。(顕宗前紀)
「殊儛」は龍の舞をイメージしているのであろう。「殊」という字をあえて用いているのは、ふだんの舞い方と類を異にしているのに一類に入れて「舞(儛)」であると言っていることを込めている言葉であることを示そうとしているからであろう。現在の市川團十郎(十三代)が高校在籍中、授業のダンスがうまくできず、「先生、舞えません」と訴えていたという。ダンスは舞ではない。長崎くんちの龍踊に見られるように、龍は日本舞踊のように腰を低くし続けるものとは違い、竿を使って上下動をくり返す踊りである。
以上、「龍」は、言葉の範疇として、馬と近縁性を持ちつつ類を殊にすることをもってうまいこと立つことを示すようにヤマトコトバにうつしとられ、タツと呼ばれるようになったのではないかと考えられることを述べた。むろん、了解されるという次元のことであり、語源を正したというものではない。
(注)
(注1)拙稿「万葉集の「龍の馬(たつのま)」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d8777a3302a4f3fb5bf68d8b6fab7396参照。
(注2)他書では八尋わになどに変じている。ここで龍を登場させた理由は不明であるが、お産の苦しみにおいて腹這ひもがくようにではなく、踊るようにもがいていたと表したかったからかもしれない。
(注3)この例では中国の祥瑞記事に倣い、音読みされる。
(注4)161〜163頁。宮崎1929.に、「糴」をイリヨネ、「莣」をワスレグサ、「禾(芒)」をノギと訓む例をあげている。それと同様に考えようというのであるが、ノギははたしてノという片仮名が生まれた後、はじめて使われた語なのだろうか。古事記には「頃者、赤海鯽魚、喉に鯁ありて、物を得食はずと愁へ言へり。」(記上)とある。
(注5)国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300051310(12 of 58)参照。日本国見在書目録の雑伝の最後に「列仙伝三巻〈劉向撰〉」 と記載されている。
(注6)「天漢」は万806番歌の題詞にある「隔漢之恋」と通じている。天の川は、空中をも水中をも進む龍を表すのにうってつけの舞台である。
(引用・参考文献)
瀬間2024. 瀬間正之「漢字が変えた日本語─別訓流用・字注訓・字形訓の観点から─」『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。(『日本語学』第41巻第2号、2022年夏。)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
宮崎1929. 宮崎道三郎「漢字の別訓流用と古代に於ける我邦制度上の用語」『宮崎先生法制史論集』岩波書店、昭和4年。
伏して来書を辱なみ、具に芳旨を承はる。忽に隔漢の恋を成し、復抱梁の意を傷ましむ。唯羨はくは、去留恙無く、遂に披雲を待たまくのみ。〔伏辱来書具承芳旨忽成隔漢之戀復傷抱梁之意唯羨去留無恙遂待披雲耳〕(中略)
龍の馬も 今も得てしか あをによし 奈良の都に 行きて来むため〔多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠尓与志奈良乃美夜古尓由吉帝己牟丹米〕(万806)(中略)
龍の馬を 我は求めむ あをによし 奈良の都に 来む人のたに〔多都乃麻乎阿礼波毛等米牟阿遠尓与志奈良乃美夜古邇許牟比等乃多仁〕(万808)(後略)
豊玉姫、方に産まむときに龍に化為りぬ。(神代紀第十段本文)(注2)
大将軍紀小弓宿禰、龍のごとく驤り、虎のごとく視て、旁く八維を眺る。(雄略紀九年五月)
其の馬、時に濩略にして、龍のごとくに翥ぶ。(雄略紀九年七月)
壮に及りて鴻のごとく驚り、龍のごとく翥り、輩と別に群を越えたり。(欽明紀七年七月)
大鷦鷯帝の時、龍馬西に見ゆ。(白雉元年二月)(注3)
……空中にして龍に乗れる者有り。……西に向ひて馳せ去ぬ。(斉明紀元年五月)
想像上の動物である「龍」は中国で考えられていたものである。日本で昔ながらのものとしてヤマタノヲロチや、ヤヒロワニ、クラオカミ、クラミツハは龍に似ていると思われているが、「龍」字を当てることも、○○タツと呼ばれることもない。万葉歌や雄略紀、斉明紀の例に見られるタツは、空を飛び駆ける馬のような存在として認識されている。トヨタマビメがお産のときに変じていたという「龍」については、古事記や紀一書第一・第三ではヤヒロワニになっていたとされている。
「龍」は天駆ける馬であり、それをヤマトコトバでタツと造語している。どうしてそう命名したか、ながらく疑問とされている。説として、身を立てて天にのぼるところからタツ(立・起)と言ったのだろうという説が古くから行われている。瀬間2024.は説文、玉篇、易経、管子などを渉猟し、龍に「身を立つ」に相当する記述はないと指摘し、漢字の一部を取って訓としたという説を提示している。「龍(竜)」字のなかに「立」字があるからタツと命名した字形訓であるという(注4)。
この説は興味深いものだが、なかなかにあり得ない。なぜなら、その字を知らない人にとっては何を言っているのかわからないからである。
虎についても日本には生息していないが、話に頭が大きくて揺らしながら歩くネコのような生き物だと伝えられた。毛皮を見せながら説明されたのだろう。それをコと言っても誰にも通じないから、頭を揺らしては時折大声を張り上げる生態の生き物のことを連想している。酔っ払いである。彼らは「蕩せる」状態にあるから、トラと命名している。酔っぱらいのことを指してオオトラというのは、tiger に先んじて考えられていた言葉ということである。
龍という生き物は天駆ける馬のことだと考えている。もちろん、天駆けるような horse がいて駿馬だとありがたがられていても、実際に天駆ける horse というものはいない。つまり、龍は龍であり、馬は馬である。天上を駆けるのと地上を駆けるのとで種類は別である。
この間の事情を物語る逸話を紹介する。
列仙伝の馬師皇に次のようにあり、賛が付いている(注5)。
馬師皇者、黄帝時馬医也。知馬形気生死之診、治之輒愈。後有龍下向之、垂耳張口。皇曰、此龍有病、知我能治。乃鍼其唇下口中、以甘草湯飲之而愈。後数数有疾龍出其波、告而求治之。一且龍負皇而去。
師皇典馬 厩無残駟 精感群龍 術兼殊類 霊虬報徳 弭鱗御轡 振躍天漢 粲有遺蔚
黄帝の時に名獣医がいた。その馬師皇に診てもらった馬は必ず良くなった。そうしているうちに、龍が空から下ってきた。皇は龍が病気だと言い、鍼治療をし薬を与えた。口コミで龍がたくさん訪れるようになり、治してやっていた。ある日、龍は皇を背に乗せてどこかへ行ってしまった。そういう話である。
賛の部分をいま仮に訓む。
師皇 馬を典るに、厩に残れる駟無し。群れる龍を精しく感るに、術兼ねて類を殊つ。霊しき虬 徳に報へ、鱗を弭へ轡を御らしむ。 天漢に振き躍りて、粲げて遺せる蔚有り(注6)。
馬師皇(王世貞撰・有象列仙全傳、京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ(公開)https://www.archives.kyoto.jp/websearchpe/detail?cls=152_old_books_catalog&pkey=0000002438、1-28をトリミング)
馬を診るのと龍を診るのとでは種類が違うのだから、馬医ではなく龍医でなくてはならないはずである。もちろん、龍は空想上の動物であり、龍医という職業はない。たぐいまれな馬医であった師皇の医術は、馬にも龍にも通じ兼ねたものであって、種類の分け隔てを断つものであった。
この逸話がどれほどヤマトの人に知られていたかは定かではない。ただ、「龍の馬」と歌にいきなり歌われるぐらいだから、龍とは馬と近類だと考えられていたことは確かである。筆者が列仙伝のこの賛に注目したのは、「殊つ」というヤマトコトバゆえである。「殊儛」という舞がある。大系本日本書紀は、「タツヅはタツイヅの約であろうか。立つのと、進むのとを合わせいう語か。殊は断(たつ)の意があるために、立つに通用させたものか。」(111頁)と注している。
小楯、謂りて曰はく、「可怜し。願はくは復聞かむ」といふ。天皇、遂に殊儛〈殊儛、古に立出儛と謂ふ。立出、此には陀豆豆と云ふ。儛ふ状は、乍いは起ち乍いは居て儛ふなり。〉作たまふ。誥びて曰はく、
倭は そそ茅原、浅茅原 弟日、僕らま。
小楯、是に由りて深く奇異ぶ。更に唱はしむ。天皇、誥びて曰はく、
石上 振の神榲〈榲、此には須擬と云ふ。〉本伐り 末截ひ、〈伐本截末、此には謨登岐利須衛於茲婆羅比と云ふ。〉市辺宮に 天下治しし、天万国万押磐尊の御裔、僕らま。(顕宗前紀)
「殊儛」は龍の舞をイメージしているのであろう。「殊」という字をあえて用いているのは、ふだんの舞い方と類を異にしているのに一類に入れて「舞(儛)」であると言っていることを込めている言葉であることを示そうとしているからであろう。現在の市川團十郎(十三代)が高校在籍中、授業のダンスがうまくできず、「先生、舞えません」と訴えていたという。ダンスは舞ではない。長崎くんちの龍踊に見られるように、龍は日本舞踊のように腰を低くし続けるものとは違い、竿を使って上下動をくり返す踊りである。
以上、「龍」は、言葉の範疇として、馬と近縁性を持ちつつ類を殊にすることをもってうまいこと立つことを示すようにヤマトコトバにうつしとられ、タツと呼ばれるようになったのではないかと考えられることを述べた。むろん、了解されるという次元のことであり、語源を正したというものではない。
(注)
(注1)拙稿「万葉集の「龍の馬(たつのま)」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d8777a3302a4f3fb5bf68d8b6fab7396参照。
(注2)他書では八尋わになどに変じている。ここで龍を登場させた理由は不明であるが、お産の苦しみにおいて腹這ひもがくようにではなく、踊るようにもがいていたと表したかったからかもしれない。
(注3)この例では中国の祥瑞記事に倣い、音読みされる。
(注4)161〜163頁。宮崎1929.に、「糴」をイリヨネ、「莣」をワスレグサ、「禾(芒)」をノギと訓む例をあげている。それと同様に考えようというのであるが、ノギははたしてノという片仮名が生まれた後、はじめて使われた語なのだろうか。古事記には「頃者、赤海鯽魚、喉に鯁ありて、物を得食はずと愁へ言へり。」(記上)とある。
(注5)国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300051310(12 of 58)参照。日本国見在書目録の雑伝の最後に「列仙伝三巻〈劉向撰〉」 と記載されている。
(注6)「天漢」は万806番歌の題詞にある「隔漢之恋」と通じている。天の川は、空中をも水中をも進む龍を表すのにうってつけの舞台である。
(引用・参考文献)
瀬間2024. 瀬間正之「漢字が変えた日本語─別訓流用・字注訓・字形訓の観点から─」『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。(『日本語学』第41巻第2号、2022年夏。)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
宮崎1929. 宮崎道三郎「漢字の別訓流用と古代に於ける我邦制度上の用語」『宮崎先生法制史論集』岩波書店、昭和4年。