古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

推古紀二十六年、河辺臣の安芸国における造船用材伐採譚について

2020年05月06日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 推古紀二十六年には、河辺臣が安芸国で、タブーを顧みずに霹靂の木を船材として伐採した話が載る。雷神は怒るが、河内臣は剣を振り上げて君命のほうが重要であると言い放って戦い、結果、落雷したものは小さな魚と化して木の枝の分かれ目に挟まったのでそれを焼き、最終的に大きな船を造っている。

 是年(ことし)、河辺臣名を闕(もら)せり。を安芸国(あぎのくに)に遣して、舶(つむ)を造らしむ。山に至りて舶の材(き)を覓(ま)ぐ。便(たちまち)に好き材を得て伐らむとす。時に人有りて曰く、「霹靂(かむとき)の木なり。伐るべからず」といふ。河辺臣曰く、「其れ雷(いかづち)の神なりと雖も、豈(あに)皇(きみ)の命(みこと)に逆(さか)はむや」といひて、多く幣帛(みてぐら)を祭(いはひまつ)りて、人夫(おほみたから)を遣(や)りて伐らしむ。則ち大雨(ひさめ)ふりて雷電(いなつるび)す。爰(ここ)に河辺臣、剣(つるぎのたかみ)を案(とりしば)りて曰く、「雷の神、人夫(おほみたから)を犯すこと無(まな)。当に我が身を傷(やぶ)らむ」といひて、仰ぎて待つ。十余(とより)霹靂(かむとき)すと雖も、河辺臣を犯すこと得ず。即ち少(ちひさ)き魚(いを)に化(な)りて、樹の枝(また)に挟れり。即ち魚を取りて焚(や)く。遂に其の舶を脩理(つく)りつ。(推古紀二十六年是年)

 話の主役は「河辺臣」とあり、闕名とされている。カハヘ(ヘは甲類)という名に負う役割を果たしていると考えられる。カハヘ(ヘは甲類)は、皮の辺、皮膚のことである。和名抄に、「肌膚 陸詞切韻に云はく、膚〈音は府、□隅反、字は亦、肤に作る、波太倍(はだへ)〉は体の肌也、肌〈居夷反、賀波倍(かはへ)〉は膚の肉也といふ。」とあり、ハダ(肌・膚)ともいう。濁音であるという保証はない。このハダという語からは、2つの語が連想される。第一に、「徴(はた)る」である。徴税することである。

 壇越(だんをち)や 然(しか)もな言ひそ 里長が 課伇(えつき)徴(はた)らば 汝(いまし)も泣かむ(万3847)

 いま、河辺臣は、船の材料を徴発しに行っている。名に負う役目を果たしている。
 第二に、「はためく」である。「ばためく」とも言われたのではないかとされるが、「はだめく」の可能性もある。新撰字鏡に、「■(石偏に郎)礚 上、魯當反、平、下、苦盖反、石声、止□呂久(とど(?)ろく)、又奈留(なる)、又比々佐久(ひびさく)、又波太女久(はためく)」とあり、揺れ動くように鳴り響きとどろくことをいう(注1)。ハタメクのこの意は、また、ハタタクともいう。「水無月の照りはたたくにも障らず来たり。」(竹取物語)とある。霹靂神のことはハタタガミとも呼ばれている。
 また、同じく新撰字鏡に、「爆 曝嚗、同字、方老・蒲角・普剥三反、燌起也、散也、皮太女久(はためく)」とあり、炎や火花が盛んにあがり、炎が勢いよく燃え動くことをいう(注2)。それらを合わせてこの語を考えると、イメージとして、長谷寺のだだおしのようなことであると推定される。万3847の里長も、徴税に当たり、確実に在宅している夜間に松明をもって突然訪れ、わあわあ言って取り立てていたのであろう。
長谷寺だだおし(
公式チャンネル大和 長谷寺「2016長谷寺だだおし Festival in the next spring of "dadaosi" at hasedera」
https://www.youtube.com/watch?v=yBBhmWrumLo&feature=youtu.be)
 すなわち、河辺臣の態度、挙動は、鳴りとどろきながら火花を散らせるものであった。その様が、「案剣曰、雷神無人夫、当我身」といったことに表わされている。「案剣」は他にも例がある。

 乃ち撫剣(つるぎのたかみとりしば)りて雄誥(をたけび)して曰はく、撫剣、此には都盧耆能多伽弥屠利辞魔屢(つるぎのたかみとりしばる)と云ふ。「慨哉(うれたきかな)、大丈夫(ますらを)にして……」とのたまふ。(神武前紀戊午年五月)
 因りて、剣(つるぎのたかみ)案(とりしば)り弓彎(ひきまかな)ひて、逼(せ)めて催(お)ひ入れしむ。(神武前紀戊午年八月)
 皇子、臂(ただむき)を攘(かきはつ)りて剣(つるぎ)を案りて奏言(まを)さく、「近江の群臣(まへつきみたち)、多(さは)なりと雖も、何ぞ敢へて天皇の霊(みかげ)に逆(さから)はむや。……」とまをす。(天武紀元年六月)

 「案剣」や「撫剣」とは、剣を抜いてきっちり握って高く構える示威姿勢である。取り縛ると言っているのだから片手で握っている(注3)。片腕で剣をふり高く上げて、鬨の声のエイエイオーのオーや、頑張ろう頑張ろうなどと声を上げる様を指している。強気の態度で何も恐れることなく、霹靂する雷神に対している。カミナリよりも大きな声を上げて、カミナリよりも大きな火柱の松明をかざして剣をきらめかせていたに相違ない。火を焚いていたことは記述にないが、「大雨雷電」に対抗するには、暗い中で剣の刃のきらめきを見せびらかせる示威行為を示していたと考えられる。雷光の瞬間のみに光ったとするのでは、目には目を、歯(刃)には歯(刃)を、音には音を、光には光をの対比として弱い。
 イカヅチという言葉を使っている。イカ(厳)+ツ(助詞)+チ(霊)の意と解されている。語構成としてそうかもしれないし、そうでないかもしれない。少なくとも、言葉というものは音としてひとまとまりのものとしてできている。細分化してきっとこうであろうと分析することよりも、使われている実情に即すことが求められる。その言葉が地口や洒落として使われているならば、その地口や洒落の面白さに密着しなければ何もわからない。それが言葉を操る人類の知恵というものである。ここでは、河辺臣と雷神との力比べを語っている。どちらが強いか競争している。相手の声(音)や光(火)などで競っているのだから、イカヅチのイカは、赤子の鳴き声、おぎゃあおぎゃあのことを指す、イカイカ(イガイガ)という語と関連するとわかる。

 ……弦打しつつ、声づくりゐ給ひつるに、寅の時ばかりに、いかいかと泣く。(うつほ物語・国譲下)
 そこらの内外額をつき、おしこりてどよみたるに、御子いかいかと泣き給ふ。(栄花物語・月の宴)

 泣く子と地頭には勝てぬ、というぐらいだから大泣きしているのだけれど、それにまさる声をあげれば良いということでもある。河辺臣の声は大きかった。何の違いか。それは、赤ん坊の声には、言葉が伴わないという点である。片言でものを言っていて、口をパクパクさせるばかりである。それを古語にアギトフ(ギは甲類、トは乙類)という。アギトフは、魚が水面で口をパクパク開閉することにも用いられる。同じようなものだと認められたから一つの言葉で表わされている。

 則ち皇子(みこ)の鵠(くぐひ)を見て言(あぎと)ふこと得たりと知ろしめして……(垂仁紀二十三年十月)
 頃(しばらく)ありて、魚(いを)皆浮き出でて、水の随(まにま)に噞喁(あぎと)ふ。(神武前紀戊午年九月)

 実際、船材を徴発しに行っているのは、安芸(あぎ、ギは甲類)である。アギトヒ(言・噞喁、ギは甲類、トは乙類、ヒは甲類)とは、アギ(安芸)+トヒ(訪)(注4)のことであると確かめられる。トフという動詞には、問いただすことのほかに、ものを言うこと、訪問することの意がある。

 然るに、是の御子、八拳鬚(やつかひげ)心前(こころさき)に至るまで真言(まこと)とはず。(垂仁記)
 真木(まき)の上に 降り置ける雪の しくしくも 思ほゆるかも さ夜問へ我が背(万1659)

 雷神の霹靂の「言・噞喁(あぎとひ)」に対して、河辺臣の「安芸訪問(あぎとひ)」は上を行っていた。雷神の「言・噞喁」は小さく、河辺臣の「安芸訪問」は大きかった。その話(咄・噺・譚)の落ちとして、「即化少魚、以挟樹枝。」となっている。小魚が「噞喁」している。木の枝分かれしているところに挟まっていたという。どの部分が挟まっていたか。アギトフという語が、アギト(顎・鰓)を動詞化したものであることから、鰓の部分が挟まっていたという設定である。和名抄に、「鰓 唐韻に云はく、鰓〈蘇来反、阿岐度(あぎと)〉は魚の頬也といふ。」とある。鰓は左右に張っている。それがそれぞれイカ(イガ)と音を立ててイカイカ(イガイガ)と泣いていたとわかる。
カワハギ(Akiyoshi's Room様「マルハゲの皮を剥いた姿PB112236.jpg」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/カワハギ)
 魚に鳴くものがいる。ホウボウやコトヒキが名に知られるが、「小魚」とあるのでアジやカワハギの小ぶりなものが想定されている。大した力がないことを謂わんとしているからには、すぐ採れて特別なものではない「小魚」として扱われて似つかわしい。アジにはぜんご(ぜいご)と呼ばれるとげとげの鱗がある。それをイガイガと捉えたとする解釈である。対してカワハギは、その名のとおり、調理する際まるごと皮を剥いでしまう。河辺臣という名は、皮や肌にゆかりがあることを示すから、上手にさばいたと言っているらしく、こちらのほうが有望である。ぜんごなどに煩わされることなく、皮の処理に滞りがない(注5)。「挟樹枝」とあって「焚魚」に至っているなら、包丁(刀子)ではなくハサミ(鋏)だけで調理してしまったことを言いくるんでいる可能性が高い(注6)。鰭をハサミで切り落とし、内臓はハサミで開いてえぐって掻き出し、あとは皮をつるんと剥き、下処理は完了する。それを丸焼きにして、あるいは串焼きにして食べる。前歯でかじりながら食べていく。前歯を使ってかじっていくことは、ツムという。

 また、さやうに鬚がちなるものの、椎つみたる。(枕草子・四十二段)

 新撰字鏡には、「𪘹 上字、盧盍反、齧声、波太女久(はためく)」ともあり、ハタメクことはかじることの意のツムことと同じ義を表わしている。アギトフこと、すなわち、口をパクパクさせながらかじっていっている。それがツムであり、同じ音の言葉にツム(舶)があって造船している。言葉の展開と事態の展開が同時進行している。これこそ、言葉が事柄と同じことであるとした言霊信仰のよく表われた伝承である(注7)。言い伝えていくばかりなのだから、言行一致が貫かれなければならない。
 最初に地元民から、「霹靂木也。」と指摘されていた。古訓に、カムトキノキと付されている。和名抄に、「雷公〈霹靂電附〉 兼名苑に云はく、雷公は一名に雷師〈雷の音は力回反、和名は奈流加美(なるかみ)。一に以加豆知(いかづち)と云ふ。〉といふ。釈名に云はく、霹靂〈霹の音は辟、靂の音は歴也、和名は加美度岐(かみとき)。〉は霹析也、靂は歴也、歴は皆破り析(さ)く也といふ。玉篇に云はく、電〈音は甸、和名は以奈比加利(いなびかり)、一に以奈豆流比(いなつるび)と云ひ、又、以奈豆末(いなづま)と云ふ。〉は雷の光也といふ。」とある。

 霹靂(かむとけ)の 日香天之 九月の 時雨の降れば 雁がねも いまだ来鳴かず 神南備の 清き御田屋の 垣内田の 池の堤の 百足らず 斎槻の枝に 瑞枝さす 秋の赤葉 巻き持てる 小鈴もゆらに 手弱女に 吾はあれども 引き攀ぢて 峯もとををに ふさ手折り 吾は持ちて行く 君が插頭に(万3223)(注8)

 この歌ではカムトケと訓まれてきており、その形が古かったものかもしれない。紀では古訓どおりカムトキ(トは乙類、キは甲類)と読むべきなのであろう。カム(雷)+トキ(解)の意から、カム(噛・醸)+ト(助詞)+キ(酒、キは甲類)に通じている。醸むと酒ができるという自己定義をする言葉と考える。キ(酒)はまた、サケ(酒、ケは乙類)といい、その古形はサカで、複合語を作って酒槽(さかふね)、盃(さかづき)、酒壺(さかつぼ)などと言う。御神木を伐る場合、御神酒(おみき)を注ぐのが習慣であった。ここでは「霹靂木」がサカキ(榊・賢木)であることを表わそうと苦心している。「天の香山(かぐやま)の五百真賢木(いほつまさかき)を根こじにこじて、」(記上)などとある。地元民は、それは御神木だから伐っては駄目だと言っていた。榊を霹靂木と言い添えたがために、それを雷の神と言い直して、イカヅチのイカはおぎゃあおぎゃあだからということになって、上に述べたように論理展開が進んでいき、話ができあがっていた。くり返しになるが、言行一致を言葉が体現する限りにおいて、言い伝えは口承のもと伝えられることが可能であった。よって、話は言葉が循環するような構造で構成されている。
 そのように考えた時、この推古二十六年の河辺臣の安芸国での造船譚は、さて何を物語ろうとして物語られたものなのか、現代的な感触では不可解なところが出てくる。実際に船材が徴発されて大型船が造られたことがあったらしいのであるが、霹靂=雷問答や落雷小魚現象が実際にあったのかといったことは、連立方程式を解く際に係数をそろえて加減したら消えてなくなるようなもので、もはやどうでもよいことになる。おそらくは準構造船と呼ばれるタイプの船をこの時に造ったということを記憶に残すために、この話は創られていると言えるのであろう。少なくともこの一つの逸話のなかにおいて、闕名の河辺臣とは誰かといった詮索は、およそナンセンスな問いである(注9)

(注)
(注1)どのような音色を表わしているか未詳であるが、字義から石の鐘のことであると仮定すれば、例えば、石の編鐘に「小松玲子 Live at 絵本塾ホール」(https://www.youtube.com/watch?v=E0wAwgpCuKw)があり、響き渡っている。
(注2)ハタタクにこの「爆」の意に当たる古い用例が見られないようであるが、ハタタガミ(霹靂神)のことを勘案すれば、含んでいると考えるのがふさわしかろう。
(注3)剣道において、両手で握って構えたとき、すでに握りに力が入っていたら、それはビビっているということになる。
(注4)トヒ(問・訪)のト音は、上代語に甲乙両音が認められている。「問ひ放(さ)け(刀比佐気)」(万795)、「問ひつつ(刀比都追)」(万3978)、「問ふ人(刀布比登)」(万4425)は甲類、「言(こと)問はぬ(許等騰波奴)」(万812)、「言(こと)問(ど)ひ(己等騰比)」(万884)、「問はば(等波婆)」(万3689)は乙類である。どうして甲乙入り乱れているかについては筆者には不明である。
(注5)tibikitune様「決定的瞬間!カワハギの鳴き声」(https://www.youtube.com/watch?v=Dh2SGXDCQ5E)、南紀和歌山釣太郎様「手際よくカワハギを調理する(カワハギの皮をぱっぱとはがしていく)」(https://www.youtube.com/watch?v=gCr3bVf3YpU)参照。
(注6)鋏が用途別にそれぞれどのような形態をしていたか勉強不足でわからないが、次のような例がある。
鉄鋏(伝群馬県高崎市乗附町出土、古墳時代、6世紀、現存長14.0cm、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/C0077129.jpgをトリミング)
鉄鉗(岡山市一本松古墳出土、古墳時代、5世紀、東博展示品)
(注7)新編全集本に、「当時、落雷は恐怖の対象ではないことを戯画化した面もみられる。」(574頁頭注)という感想が述べられている。井上2016.に、「もともとあった「霹靂の木」にまつわる挿話と推古天皇とを関連づけ、記載された可能性が考えられる。」(11頁)とあるが、その理由については説かれていない。隔靴掻痒の議論にはコメントしない。筆者は、話の内部において、完結するようにヤマトコトバが使われていること、そのヤマトコトバのあり方にこそ関心がある。
(注8)二句目の「日香天之」には定訓がない。筆者は一句目にも疑念を抱くもので、「霹靂(かむとき)し 日かぐる天(あめ)の」と訓んでいる。拙稿「万葉集3223番歌の「日香天之」と1807番歌の「帰香具礼」の解釈」参照。
(注9)阿部1964.に、河辺臣は蘇我氏の支族であるとする論考がある。また、井上2016.に、「『日本書紀』完成間近の七一八年以降にも加筆が認められる推古紀には、推古天皇をどのような人物像として描くべきか、という後代の意思が介在していた。あるべき「歴史」として、記すべき事績が取捨選択され、再構成されたと考えられる。……すでに現代では意図をはかりかねるような事柄をも含めて、当時の概念では「歴史」や「史実」であったと考えるべきなのかもしれない。」(13頁)とある。
 概念は言葉でできている。当時の人たちが何をどのように考えていたのかを知るためには、「歴史」や「史実」といった近世、近代に生まれた用語ではなく、上代のヤマトコトバにもとづいて探らなければならない。
 無文字時代の歴史は話(咄・噺・譚)として口づてに伝えられた。口づてにしか伝わらないとは、コロナウイルスに等しい。どうなったら伝わり、どうしたら伝わらないか、瞭然である。人と接しないことばかりが感染拡大を防ぐことだという原初的な対処法が物語っているのは、話(story)と歴史(history)との関係は、パラダイム・シフトなどという微細な差異ではなく、意表を突くほどにまるきり違うものなのだということである。すべての方々にご理解いただきたいし、すべての方々がわからなければどうすることもできない事態なのである。

(引用・参考文献)
阿部1964. 阿部武彦「蘇我氏とその同族についての一考察」『北海道大学文学部紀要』第12号、1964年3月。(https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/33285/1/12_P123-135.pdf)
井上2016. 井上さやか「『日本書紀』における人物造形―推古天皇代の物語性―」『万葉古代学研究年報』第14号、奈良県立万葉文化館、2016年3月。(http://www.manyo.jp/ancient/report/pdf/report14_01_nihonsyoki.pdf)
新編全集本 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。

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