一、問題の所在
記紀の崇神天皇条に、坂で出会った娘が内容のよくわからない歌を歌っていたので問い質したところ、何も言ってはいない、ただ歌っているだけだと答え、その場から消えていなくなったという話が載っている。
故(かれ)、大毘古命(おほびこのみこと)、高志国(こしのくに)に罷(まか)り往(ゆ)きし時、腰裳(こしも)を服(き)たる少女(をとめ)、山代(やましろ)の幣羅坂(へらさか)に立ちて、歌(うた)ひて曰く、
御真木入日子はや 御真木入日子はや 己(おの)が緒(を)を 盗み殺(し)せむと 後(しり)つ戸よ い行き違(たが)ひ 前(まへ)つ戸よ い行き違ひ 窺(うかか)はく 知らにと 御真木入日子はや(記22)
是(ここ)に、大毘古命、怪(あや)しと思ひて、馬を返し其の少女に問ひて曰ひしく、「汝(な)が謂へる言(こと)は何言(なにこと)ぞ」といひき。爾(ここ)に、少女が答へて曰く、「吾(あ)は言ふことなし。唯(ただ)に歌を詠(うた)はむとすらくのみ」といひて、即ち其の所如(ゆくへ)も見えずして忽(たちま)ちに失せぬ。(崇神記)
壬子に、大彦命(おほびこのみこと)、和珥坂(わにのさか)の上(うへ)に到る。時に少女(をとめ)有りて、歌(うたよみ)して曰く、一(ある)に云はく、大彦命、山背(やましろ)の平坂(ひらさか)に到る。時に、道の側(ほとり)に童女(わらはめ)有りて、歌(うたよみ)して曰く、
御間城入彦(みまきいりびこ)はや 己が命(を)を 弑(し)せむと 窃(ぬす)まく知らに 姫遊(ひめなそび)すも 一に云はく、大き戸より 窺(うかか)ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも
是に、大彦命異(あやし)びて、童女に問ひて曰く、「汝(いまし)が言(いひつること)は何辞(なにこと)ぞ」といふ。対へて曰く、「言(ものもい)はず。唯(ただ)歌ひつらくのみ」といふ。乃ち重ねて先の歌を詠(うた)ひて、忽(たちまち)に見えずなりぬ。(崇神紀十年九月)
坂の上に少女(童女)がいて歌を歌い、不審に思った大毘古命(大彦命)が問うたところ、ただ歌を歌っているだけだと答えている。この記述に続き、歌の内容について、武埴安彦(たけはにやすびこ)(武波邇安王(たけはにやすのみこ))の反逆の兆候を表わすものであると知れ、天皇は討伐したという展開に至っている。そういう流れになっているから、以下のように全体状況が解説されてきた。
西宮1979.に、「この歌は、神が少女の口を借りて歌わせているもので、だから「御真木入彦」と呼び捨てにしている。」(138頁頭注)、次田1980.に、「腰裳をつけた少女が、なぞめいた歌を歌って姿を消したというのは、この少女が神意を告げる巫女(みこ)であって、風刺の歌は、神の下した神託の一種と考えられたのである。『日本書紀』に「童謡(わざうた)」と呼んでいる歌にも、このように事件を風刺予告した歌とされるものが少なくない。」(97~98頁)、新編全集本古事記では、「乙女の歌は神の意思を伝えるもので、……天皇に神の加護が働いている。」(189頁頭注)、西郷2006a.に、「たんにものいうことと歌をうたうこととの間に、あまり大きな差がなかった消息を語っているといえよう。」(266頁)とある。これらは状況証拠による推測に過ぎず、大毘古命(大彦命)と少女(童女)との間のやりとりをきちんと読んでいるとはいえない。
記紀ともに、歌のあとで、歌を聞いた大毘古命(大彦命)と、歌を歌った少女(童女)との問答が載せられている。
記:「汝(な)が謂へる言(こと)は何言(なにこと)ぞ」→「吾(あ)は言ふことなし。唯(ただ)に歌を詠(うた)はむとすらくのみ」
紀:「汝(いまし)が言(いひつること)は何辞(なにこと)ぞ」→「言(ものもい)はず。唯(ただ)歌ひつらくのみ」
ここに明示されているのは、その詳細についてこれから検討するわけであるが、基本的には発声において、言(こと)と歌(うた)とは異なるという点である。少女(童女)が、「ミマキイリビコハヤ……」と歌に詠んでいたことについて、ナニコト(何言、何辞)を言っているのかと聞いたら、コトではなくてウタなのだ、という返事になっている。これは奇妙なことである(注1)。歌は節をつけ、拍子にあわせて発声することであるが、そのとき、言葉ではないということはない。ホーホケキョやコケコッコーではないからである。清濁甲乙あわせて90音弱の音からなるヤマトコトバを用いて歌っているはずである。それなのに、少女(童女)は言葉ではないと言っている。そして、何かの暗号であるかのように扱われ、その「表(しるし)」(記)や「怪(しるまし)」は何かと調べるに及んでいる。新編全集本古事記では、「乙女の歌は、いわゆる「謡歌(わざうた)」の一種で、神が人の口を借りて自らの意思を伝えるもの。乙女自身には、はっきりとした意識がない。」(189頁頭注)とされている。
しかし、童謡(謡歌)(わざうた)と呼ばれるものは、「時の人」などが歌うもので、その人個人が意識していなくとも、集合意識を反映している。すなわち、歌われる限りにおいて、言(こと)葉であることに違いない。ナニコトか当人が理解していない場合には、わからない、知らないと答えるはずであり、言っていないとは言わない。別の視座が求められる。大毘古命(大彦命)と少女(童女)との間に認識の差があり、把握の仕方が咬み合わない事態に陥っている。だから珍問答が記されている。そう考えたほうがよい。
そこで、歌謡のなかの言葉に注目してみる。記紀のいずれにも、「ミマキイリビコハヤ」という言葉が入っている。このハヤは助詞である。体言につき、特別に極限的な状況であると思い、その対象について強い感動、詠嘆をあらわすものである。当然ながら口語文にあらわれる。
あづまはや(阿豆麻波夜)(景行記)
その大刀はや(曽能多知波夜)(景行記、記33)
うねめはや、みみはや(宇泥咩巴椰、弥弥巴椰)(允恭紀四十二年十一月)
言ひし工匠はや あたら工匠はや(伊比志拕倶弥皤夜 阿拕羅陀倶弥皤夜)(雄略紀十二年十月、紀78)
時代別国語大辞典では、文中か文末かの違いとして項立てしてある。同時に、連用の文節についている場合かどうかの違いとして見極めるべきものでもあろう。この個所では、「ミマキイリビコハヤ (ミマキイリビコハヤ)」で始まっている。文頭のハヤの例として珍しいものである。倒置形と捉えられなくもないが、意図的な配置なのであろう。そうなると、詠嘆の嘆息をして、ああ、と言っている。ならば、もはやそこで言葉は完了するはずである。ああ、どうしたらいいんだ、と溜め息をついている。どうしようもない、それでおしまいである。それが人の口である。にもかかわらず、続けて言葉が発せられているように聞こえる。だから大毘古命(大彦命)は「言(辞)」だと思い、対して少女(童女)は、それは言葉ではなく、ただ拍子をつけた「詠歌(歌)」なのだと主張している。
二、古事記の表現と用字について
記には、「唯為詠歌」と記されている(注2)。歌の提示箇所において、記ではほとんどの場合、前に何が付こうが「歌曰」の形である。「歌曰」なら「歌ひて曰く」、「其歌曰」なら「其の歌に曰く」、「御歌曰」なら「御歌に曰はく」、「答歌曰」なら「答ふる歌に曰く」である。それら訓みの小差はあれ、形式を踏んで歌謡部分は示されている。
そんななか、例外的に、「為歌曰」(記34)を「歌(うたよみ)為(し)て曰く」、「献御歌曰」(記55)を「御歌を献りて曰はく」、「送御歌曰」(記59)を「御歌を送りて曰く」、「為詠曰」(記104)を「詠(うたよみ)為て曰く」と通訓している。記55・59は、面前で歌ったのではなくて遠隔地で代理人を使い歌わせている。記34・104の例がウタヨミという形に訓まれている。記34の「歌」をウタヨミと訓むのには疑問が残る(注3)。
また、「詠」字は、記には次の4例に限られる。
旌(はた)を巻き戈(ほこ)を戢(をさ)め、儛ひ詠(うた)ひて都邑(みやこ)に停(とど)まりましき。(記序)
爾に、少女が答へて曰く、「吾は言ふことなし。唯に歌を詠(うた)はむとすらくのみ」といひて、……(崇神記、記22の後)
此の歌は、国主(くにす)等(ら)が大贄(おほにへ)を献る時々に、恒(つね)に今に至るまで詠(うた)ふ歌ぞ。(応神記、記48の後)
爾に、遂に兄(え)儛ひ訖(をは)りて、次に弟(おと)儛はむとする時に、詠(うたよみ)為(し)て曰く、……(清寧記、記104の前)
これらの例から、記の「詠」字は、その時に作られて歌われた歌ではなく、舞いの伴奏にきまって歌われたり、毎年の式典において恒常的に歌われていたりする、拍子をつけて決まり文句のように歌われる歌について使われているということがわかる。言葉を峻別するためには、「詠」、「詠歌」字にはウタヨミスという訓をつけるのがふさわしかろう。なぜなら、ヨムというヤマトコトバは、数えあげるときに声を発するところに始まっており、数え歌にその典型を成すからである(注4)。
旌を巻き戈を戢め、儛(まひ)の詠(うたよみ)して都邑に停まりましき。(記序)
爾に、少女が答へて曰く、「吾は言ふことなし。唯(ただ)に詠歌(うたよみ)すらくのみ」といひて、……(崇神記、記22の後)
此の歌は、国主等が大贄を献る時々に、恒に今に至るまで詠(うたよみ)する歌ぞ。(応神記、記48の後)
記序の例は、壬申の乱がおさまって、飛鳥の宮に落ち着いたことを言っている。「儛詠」が自由創作ダンスで遠くへ行ってしまうようでは形容としてかんばしくない。いつもながらの落ち着いたものである必要がある。そろっと行ってはそろっと帰る舞いを舞うのであり、踊るものではない(注5)。記22歌謡についての「唯為詠歌」は、「唯為レ詠レ歌」ではなく、「唯為二詠歌一」と捉え、「唯(ただ)に詠歌(うたよみ)すらくのみ」と訓むべきであろう。単に引き継がれている歌をくり返しているだけである、という意味である。
また、記34歌謡の「哭為歌曰」は、毎回同じ類型化した葬送歌ではない。その地の「なづき田」にふさわしい歌を作っているものである。したがって、ウタヨミという訓みはふさわしくない。筆者は、「哭き歌はして曰く、」、「哭き歌はむとして曰く、」などと訓み、むせび哭く声が歌になって言うには、哭いてもなお歌おうとして言っていることには、の意ととるのがよいかと考える。
ここまで理解したことをふまえて、途中経過として、問題の記22についての問答部分を再掲する。
是(ここ)に、大毘古命、怪(あや)しと思ひて、馬を返し其の少女に問ひて曰ひしく、「汝(な)が謂へる言(こと)は何言(なにこと)ぞ」といひき。爾(ここ)に、少女が答へて曰く、「吾(あ)は言ふことなし。唯(ただ)に詠歌(うたよみ)すらくのみ」といひて、即ち其の所如(ゆくへ)も見えずして忽(たちま)ちに失せぬ。(崇神記)
三、問答の構造的解釈―その自己循環的表明―
問答表現は実に的確である。大毘古命は、おや、変だな? と思っている。特殊、特異なことと感じている。何に不自然さを感じたか。第一に、腰裳を着用した少女が立っていたことである。ミニスカートの少女が寒風吹きすさぶ坂道に立っていて元気である。うずくまっていて寒がっていたのではない。山代の幣羅坂(注6)という、ウタヨミなどするはずがないところで歌っている。それが第二である。山代の幣羅坂というのだから、山のシロ(代)、山の代用になるものといえば人造の山、すなわち、古墳が思い浮かぶ。古墳を作るには、周囲にある土砂を掘削して運び、盛りあげてつき固める。土を掘るためにはシャベルが必要で、ヘラ(箆)のように持ち上げ返すことができなければならない。地面は軟らかい時もあれば硬い時もあるから、リズミカルに掘り進められるものではない。当然ながら男の仕事である。着物の裾を端折(はしょ)り、あるいは股引などで防御しながら作業する。ミニスカートで素足を露出する少女の出る幕ではない。このように、山代の幣羅坂で、作業を進めるための数え歌が聞こえるというのは、言葉に撞着が起きている。
井戸掘り(当麻曼荼羅縁起、池田洋子「当麻曼荼羅縁起絵巻―絵画構成に関する一考察―」『名古屋造形大学紀要』19号、2013年3月、27頁の図7-1、http://www.nzu.ac.jp/lib/journal/files/2013/3.pdf)
そして、第三に、なんだか意味不明の歌が聞こえた。鼻歌を歌っていたのではなく、きちんと言葉として成り立っている歌詞を歌っている。それも、ミマキイリビコという天皇の名が耳に入った。このように、場所、人物、内容のすべての面で不思議だと思ったのである。それを「思レ怪」としている。
そこで問答が行なわれた。
「汝所レ謂之言、何言。」→「吾勿レ言、唯為二詠歌一耳。」
「汝(な)が謂へる言(こと)は何言(なにこと)ぞ」という問いに対し、少女はまずその問い自体の発想からして誤っていることを指摘している。訓みとして、「吾(あ)は言ふことなし。」よりも正確なのは、「吾(あ)、言(こと)なし。」である。何も言っておらず、言葉ではないから事柄を表わすものでもない。記22は、「唯(ただ)に為詠歌(うたよみす)るのみ。」ものなのである。以前から伝統的に受け継がれてきた歌をそのとおりに詠む、ウタヨミをしているだけであると言っている。「述べて作らず」(孔子)である。したがって、そこにはコト性が皆無であると言わなければならない。「唯(ただ)に詠歌(うたよみ)すらくのみ。」のスラクといったク語法は、すること、の義であるからふさわしくないといえる(注7)。
そしてまた、これらが音声言語である点に思いを致さなければならない。コトには、言、事、のほかに、殊(異・別)の意がある(注8)。「思レ怪」におけるナニコト? とは、何が異なっているのか、What’s different? とも取れる。何も違わないよ、変なところなんてないよ、という意味で、コトナシと答えている。殊無し、Nothing different. である。
橡(つるばみ)の 解き洗ひ衣の あやしくも 殊(こと)に着欲しき この夕(ゆふへ)かも(万1314)
橡の 衣(きぬ)は人皆 事(こと)無しと 言ひし時より 着欲しく思ほゆ(万1311)
紅(くれなゐ)の 深染(こぞめ)の衣 下に着て 上に取り着ば 言(こと)なさむかも(万1313)
これら万葉歌の例は、ファッションの関連語としてコトという言葉が用いられている。すなわち、少女が腰裳スタイルで立っていたことが反映されている。奇抜なファッションをするとは、他の人に大っぴらにすることで、他の人から騒がれたりする。ふだんとは異なるから事件なのである。現代の報道リポーターの方が使う「事件です!」というせりふは、言い当てて然りなるものである
是(ここ)に、大毘古命、怪(あや)しと思ひて、馬を返し其の少女に問ひて曰ひしく、「汝(な)が謂へる言(こと)、何言(なにこと)ぞ」といひき。爾(ここ)に、少女が答へて曰く、「吾(あ)は言(こと)なし。唯(ただ)に為詠歌(うたよみす)るのみ」といひて、即ち其の所如(ゆくへ)も見えずして忽(たちま)ちに失せぬ。(崇神記)
少女は答えてどこへともなく消えて行っている。「詠歌」はいつもながらの伝承を伝えたにすぎず、そこに「個」はない。すなわち、「少女」は実存しない。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(ボーヴォワール)ではなく、何でもないと記されている。
以上、崇神記、記22「御真木入日子はや」歌謡の設定と問答に関して検討し、従来説の訓み方の不明と誤謬を正した。
(注)
(注1)奇妙さに耐えられずに、西郷2006aのような解説が生じている。
(注2)紀には、「勿レ言也。唯歌耳。」と答え、さらに、「乃重詠二先歌一、」と続いている。「先歌」と記している点は暗示的で、先ほど諳んじた歌というばかりか、それよりも以前からずっと同じことを歌い続けていて、大彦命が耳にしたのはそのn回目とn+1回目(nは自然数)というにすぎないかもしれないことを示している。
(注3)「為歌曰」(記34)は、「哭為歌曰」というつづきであり、必ずしもウタヨミシテと訓まれているわけではない。「哭きて為歌(うた)ひまして曰(いは)く、」(思想大系本、191頁)、「哭きて歌曰(うた)ひたまはく、」(次田1980.、167頁)、「哭為(みねな)かしつつ歌曰(うた)ひたまひしく、」(西郷2006b.、141頁)とある。
(注4)白川1995.に、「よむ〔数(數)・詠・読(讀)〕 四段。数を数えることを原義とする。」(794頁)とある。拙稿「「数(かず)」と「数(かぞ)ふ」と「数(よ)む」参照。ウタヨミする例としては、紀7~14歌謡、記9~14歌謡と目されている来目歌(久米歌)の例が確かなものとされている。拙稿「久米歌(来目歌)について」参照。
(注5)十一代目市川海老蔵は、高校時代に堀越ダンスが苦手で、「先生、舞えません。」と訴えていたそうである。
(注6)紀に、「和珥坂の上」または、「山背の平坂」とある。ワニノサカノウヘは、稲羽の素菟の説話が物語るように、ワニが踏臼(唐臼)を示すように一人使いの用具であり、竪杵を使うように数人の声の掛け合い、数え歌を歌うものとは異なり無言で行なうことから、そこにあるのは歌ではないことを暗示させている。フミ(踏)とフミ(文)と同音である。黙読できるほどに記録化されている。拙稿「「稲羽の素菟」論」参照。また、ヤマシロノヒラサカは、記の表現に近しいが主旨は異なる。山のシロ(代)となる人造の山というのは実は山ではなく、しかも平らな坂などない。あり得ない架空の場所であると白状している。
(注7)「吾欲従母於根国、只為泣耳。」(神代紀第五段一書第六)は、「吾(あ)は母に根国(ねのくに)に従はむと欲ひ、只(ただ)に泣くのみ。」と訓んでいる。
(注8)白川1995.に、「こと〔殊・異・別〕 一般とは異なるもの、特殊なことをいう。「言(こと)」「事(こと)」と同源の語で、それらもみな具体的なものとして一般からはなれ、それぞれ特殊な形態をとったものに外ならない。」(330頁)とある。
(引用文献)
次田1980. 次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
西郷2006a. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
西郷2006b. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
西宮1979. 西宮一民『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
記紀の崇神天皇条に、坂で出会った娘が内容のよくわからない歌を歌っていたので問い質したところ、何も言ってはいない、ただ歌っているだけだと答え、その場から消えていなくなったという話が載っている。
故(かれ)、大毘古命(おほびこのみこと)、高志国(こしのくに)に罷(まか)り往(ゆ)きし時、腰裳(こしも)を服(き)たる少女(をとめ)、山代(やましろ)の幣羅坂(へらさか)に立ちて、歌(うた)ひて曰く、
御真木入日子はや 御真木入日子はや 己(おの)が緒(を)を 盗み殺(し)せむと 後(しり)つ戸よ い行き違(たが)ひ 前(まへ)つ戸よ い行き違ひ 窺(うかか)はく 知らにと 御真木入日子はや(記22)
是(ここ)に、大毘古命、怪(あや)しと思ひて、馬を返し其の少女に問ひて曰ひしく、「汝(な)が謂へる言(こと)は何言(なにこと)ぞ」といひき。爾(ここ)に、少女が答へて曰く、「吾(あ)は言ふことなし。唯(ただ)に歌を詠(うた)はむとすらくのみ」といひて、即ち其の所如(ゆくへ)も見えずして忽(たちま)ちに失せぬ。(崇神記)
壬子に、大彦命(おほびこのみこと)、和珥坂(わにのさか)の上(うへ)に到る。時に少女(をとめ)有りて、歌(うたよみ)して曰く、一(ある)に云はく、大彦命、山背(やましろ)の平坂(ひらさか)に到る。時に、道の側(ほとり)に童女(わらはめ)有りて、歌(うたよみ)して曰く、
御間城入彦(みまきいりびこ)はや 己が命(を)を 弑(し)せむと 窃(ぬす)まく知らに 姫遊(ひめなそび)すも 一に云はく、大き戸より 窺(うかか)ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも
是に、大彦命異(あやし)びて、童女に問ひて曰く、「汝(いまし)が言(いひつること)は何辞(なにこと)ぞ」といふ。対へて曰く、「言(ものもい)はず。唯(ただ)歌ひつらくのみ」といふ。乃ち重ねて先の歌を詠(うた)ひて、忽(たちまち)に見えずなりぬ。(崇神紀十年九月)
坂の上に少女(童女)がいて歌を歌い、不審に思った大毘古命(大彦命)が問うたところ、ただ歌を歌っているだけだと答えている。この記述に続き、歌の内容について、武埴安彦(たけはにやすびこ)(武波邇安王(たけはにやすのみこ))の反逆の兆候を表わすものであると知れ、天皇は討伐したという展開に至っている。そういう流れになっているから、以下のように全体状況が解説されてきた。
西宮1979.に、「この歌は、神が少女の口を借りて歌わせているもので、だから「御真木入彦」と呼び捨てにしている。」(138頁頭注)、次田1980.に、「腰裳をつけた少女が、なぞめいた歌を歌って姿を消したというのは、この少女が神意を告げる巫女(みこ)であって、風刺の歌は、神の下した神託の一種と考えられたのである。『日本書紀』に「童謡(わざうた)」と呼んでいる歌にも、このように事件を風刺予告した歌とされるものが少なくない。」(97~98頁)、新編全集本古事記では、「乙女の歌は神の意思を伝えるもので、……天皇に神の加護が働いている。」(189頁頭注)、西郷2006a.に、「たんにものいうことと歌をうたうこととの間に、あまり大きな差がなかった消息を語っているといえよう。」(266頁)とある。これらは状況証拠による推測に過ぎず、大毘古命(大彦命)と少女(童女)との間のやりとりをきちんと読んでいるとはいえない。
記紀ともに、歌のあとで、歌を聞いた大毘古命(大彦命)と、歌を歌った少女(童女)との問答が載せられている。
記:「汝(な)が謂へる言(こと)は何言(なにこと)ぞ」→「吾(あ)は言ふことなし。唯(ただ)に歌を詠(うた)はむとすらくのみ」
紀:「汝(いまし)が言(いひつること)は何辞(なにこと)ぞ」→「言(ものもい)はず。唯(ただ)歌ひつらくのみ」
ここに明示されているのは、その詳細についてこれから検討するわけであるが、基本的には発声において、言(こと)と歌(うた)とは異なるという点である。少女(童女)が、「ミマキイリビコハヤ……」と歌に詠んでいたことについて、ナニコト(何言、何辞)を言っているのかと聞いたら、コトではなくてウタなのだ、という返事になっている。これは奇妙なことである(注1)。歌は節をつけ、拍子にあわせて発声することであるが、そのとき、言葉ではないということはない。ホーホケキョやコケコッコーではないからである。清濁甲乙あわせて90音弱の音からなるヤマトコトバを用いて歌っているはずである。それなのに、少女(童女)は言葉ではないと言っている。そして、何かの暗号であるかのように扱われ、その「表(しるし)」(記)や「怪(しるまし)」は何かと調べるに及んでいる。新編全集本古事記では、「乙女の歌は、いわゆる「謡歌(わざうた)」の一種で、神が人の口を借りて自らの意思を伝えるもの。乙女自身には、はっきりとした意識がない。」(189頁頭注)とされている。
しかし、童謡(謡歌)(わざうた)と呼ばれるものは、「時の人」などが歌うもので、その人個人が意識していなくとも、集合意識を反映している。すなわち、歌われる限りにおいて、言(こと)葉であることに違いない。ナニコトか当人が理解していない場合には、わからない、知らないと答えるはずであり、言っていないとは言わない。別の視座が求められる。大毘古命(大彦命)と少女(童女)との間に認識の差があり、把握の仕方が咬み合わない事態に陥っている。だから珍問答が記されている。そう考えたほうがよい。
そこで、歌謡のなかの言葉に注目してみる。記紀のいずれにも、「ミマキイリビコハヤ」という言葉が入っている。このハヤは助詞である。体言につき、特別に極限的な状況であると思い、その対象について強い感動、詠嘆をあらわすものである。当然ながら口語文にあらわれる。
あづまはや(阿豆麻波夜)(景行記)
その大刀はや(曽能多知波夜)(景行記、記33)
うねめはや、みみはや(宇泥咩巴椰、弥弥巴椰)(允恭紀四十二年十一月)
言ひし工匠はや あたら工匠はや(伊比志拕倶弥皤夜 阿拕羅陀倶弥皤夜)(雄略紀十二年十月、紀78)
時代別国語大辞典では、文中か文末かの違いとして項立てしてある。同時に、連用の文節についている場合かどうかの違いとして見極めるべきものでもあろう。この個所では、「ミマキイリビコハヤ (ミマキイリビコハヤ)」で始まっている。文頭のハヤの例として珍しいものである。倒置形と捉えられなくもないが、意図的な配置なのであろう。そうなると、詠嘆の嘆息をして、ああ、と言っている。ならば、もはやそこで言葉は完了するはずである。ああ、どうしたらいいんだ、と溜め息をついている。どうしようもない、それでおしまいである。それが人の口である。にもかかわらず、続けて言葉が発せられているように聞こえる。だから大毘古命(大彦命)は「言(辞)」だと思い、対して少女(童女)は、それは言葉ではなく、ただ拍子をつけた「詠歌(歌)」なのだと主張している。
二、古事記の表現と用字について
記には、「唯為詠歌」と記されている(注2)。歌の提示箇所において、記ではほとんどの場合、前に何が付こうが「歌曰」の形である。「歌曰」なら「歌ひて曰く」、「其歌曰」なら「其の歌に曰く」、「御歌曰」なら「御歌に曰はく」、「答歌曰」なら「答ふる歌に曰く」である。それら訓みの小差はあれ、形式を踏んで歌謡部分は示されている。
そんななか、例外的に、「為歌曰」(記34)を「歌(うたよみ)為(し)て曰く」、「献御歌曰」(記55)を「御歌を献りて曰はく」、「送御歌曰」(記59)を「御歌を送りて曰く」、「為詠曰」(記104)を「詠(うたよみ)為て曰く」と通訓している。記55・59は、面前で歌ったのではなくて遠隔地で代理人を使い歌わせている。記34・104の例がウタヨミという形に訓まれている。記34の「歌」をウタヨミと訓むのには疑問が残る(注3)。
また、「詠」字は、記には次の4例に限られる。
旌(はた)を巻き戈(ほこ)を戢(をさ)め、儛ひ詠(うた)ひて都邑(みやこ)に停(とど)まりましき。(記序)
爾に、少女が答へて曰く、「吾は言ふことなし。唯に歌を詠(うた)はむとすらくのみ」といひて、……(崇神記、記22の後)
此の歌は、国主(くにす)等(ら)が大贄(おほにへ)を献る時々に、恒(つね)に今に至るまで詠(うた)ふ歌ぞ。(応神記、記48の後)
爾に、遂に兄(え)儛ひ訖(をは)りて、次に弟(おと)儛はむとする時に、詠(うたよみ)為(し)て曰く、……(清寧記、記104の前)
これらの例から、記の「詠」字は、その時に作られて歌われた歌ではなく、舞いの伴奏にきまって歌われたり、毎年の式典において恒常的に歌われていたりする、拍子をつけて決まり文句のように歌われる歌について使われているということがわかる。言葉を峻別するためには、「詠」、「詠歌」字にはウタヨミスという訓をつけるのがふさわしかろう。なぜなら、ヨムというヤマトコトバは、数えあげるときに声を発するところに始まっており、数え歌にその典型を成すからである(注4)。
旌を巻き戈を戢め、儛(まひ)の詠(うたよみ)して都邑に停まりましき。(記序)
爾に、少女が答へて曰く、「吾は言ふことなし。唯(ただ)に詠歌(うたよみ)すらくのみ」といひて、……(崇神記、記22の後)
此の歌は、国主等が大贄を献る時々に、恒に今に至るまで詠(うたよみ)する歌ぞ。(応神記、記48の後)
記序の例は、壬申の乱がおさまって、飛鳥の宮に落ち着いたことを言っている。「儛詠」が自由創作ダンスで遠くへ行ってしまうようでは形容としてかんばしくない。いつもながらの落ち着いたものである必要がある。そろっと行ってはそろっと帰る舞いを舞うのであり、踊るものではない(注5)。記22歌謡についての「唯為詠歌」は、「唯為レ詠レ歌」ではなく、「唯為二詠歌一」と捉え、「唯(ただ)に詠歌(うたよみ)すらくのみ」と訓むべきであろう。単に引き継がれている歌をくり返しているだけである、という意味である。
また、記34歌謡の「哭為歌曰」は、毎回同じ類型化した葬送歌ではない。その地の「なづき田」にふさわしい歌を作っているものである。したがって、ウタヨミという訓みはふさわしくない。筆者は、「哭き歌はして曰く、」、「哭き歌はむとして曰く、」などと訓み、むせび哭く声が歌になって言うには、哭いてもなお歌おうとして言っていることには、の意ととるのがよいかと考える。
ここまで理解したことをふまえて、途中経過として、問題の記22についての問答部分を再掲する。
是(ここ)に、大毘古命、怪(あや)しと思ひて、馬を返し其の少女に問ひて曰ひしく、「汝(な)が謂へる言(こと)は何言(なにこと)ぞ」といひき。爾(ここ)に、少女が答へて曰く、「吾(あ)は言ふことなし。唯(ただ)に詠歌(うたよみ)すらくのみ」といひて、即ち其の所如(ゆくへ)も見えずして忽(たちま)ちに失せぬ。(崇神記)
三、問答の構造的解釈―その自己循環的表明―
問答表現は実に的確である。大毘古命は、おや、変だな? と思っている。特殊、特異なことと感じている。何に不自然さを感じたか。第一に、腰裳を着用した少女が立っていたことである。ミニスカートの少女が寒風吹きすさぶ坂道に立っていて元気である。うずくまっていて寒がっていたのではない。山代の幣羅坂(注6)という、ウタヨミなどするはずがないところで歌っている。それが第二である。山代の幣羅坂というのだから、山のシロ(代)、山の代用になるものといえば人造の山、すなわち、古墳が思い浮かぶ。古墳を作るには、周囲にある土砂を掘削して運び、盛りあげてつき固める。土を掘るためにはシャベルが必要で、ヘラ(箆)のように持ち上げ返すことができなければならない。地面は軟らかい時もあれば硬い時もあるから、リズミカルに掘り進められるものではない。当然ながら男の仕事である。着物の裾を端折(はしょ)り、あるいは股引などで防御しながら作業する。ミニスカートで素足を露出する少女の出る幕ではない。このように、山代の幣羅坂で、作業を進めるための数え歌が聞こえるというのは、言葉に撞着が起きている。
井戸掘り(当麻曼荼羅縁起、池田洋子「当麻曼荼羅縁起絵巻―絵画構成に関する一考察―」『名古屋造形大学紀要』19号、2013年3月、27頁の図7-1、http://www.nzu.ac.jp/lib/journal/files/2013/3.pdf)
そして、第三に、なんだか意味不明の歌が聞こえた。鼻歌を歌っていたのではなく、きちんと言葉として成り立っている歌詞を歌っている。それも、ミマキイリビコという天皇の名が耳に入った。このように、場所、人物、内容のすべての面で不思議だと思ったのである。それを「思レ怪」としている。
そこで問答が行なわれた。
「汝所レ謂之言、何言。」→「吾勿レ言、唯為二詠歌一耳。」
「汝(な)が謂へる言(こと)は何言(なにこと)ぞ」という問いに対し、少女はまずその問い自体の発想からして誤っていることを指摘している。訓みとして、「吾(あ)は言ふことなし。」よりも正確なのは、「吾(あ)、言(こと)なし。」である。何も言っておらず、言葉ではないから事柄を表わすものでもない。記22は、「唯(ただ)に為詠歌(うたよみす)るのみ。」ものなのである。以前から伝統的に受け継がれてきた歌をそのとおりに詠む、ウタヨミをしているだけであると言っている。「述べて作らず」(孔子)である。したがって、そこにはコト性が皆無であると言わなければならない。「唯(ただ)に詠歌(うたよみ)すらくのみ。」のスラクといったク語法は、すること、の義であるからふさわしくないといえる(注7)。
そしてまた、これらが音声言語である点に思いを致さなければならない。コトには、言、事、のほかに、殊(異・別)の意がある(注8)。「思レ怪」におけるナニコト? とは、何が異なっているのか、What’s different? とも取れる。何も違わないよ、変なところなんてないよ、という意味で、コトナシと答えている。殊無し、Nothing different. である。
橡(つるばみ)の 解き洗ひ衣の あやしくも 殊(こと)に着欲しき この夕(ゆふへ)かも(万1314)
橡の 衣(きぬ)は人皆 事(こと)無しと 言ひし時より 着欲しく思ほゆ(万1311)
紅(くれなゐ)の 深染(こぞめ)の衣 下に着て 上に取り着ば 言(こと)なさむかも(万1313)
これら万葉歌の例は、ファッションの関連語としてコトという言葉が用いられている。すなわち、少女が腰裳スタイルで立っていたことが反映されている。奇抜なファッションをするとは、他の人に大っぴらにすることで、他の人から騒がれたりする。ふだんとは異なるから事件なのである。現代の報道リポーターの方が使う「事件です!」というせりふは、言い当てて然りなるものである
是(ここ)に、大毘古命、怪(あや)しと思ひて、馬を返し其の少女に問ひて曰ひしく、「汝(な)が謂へる言(こと)、何言(なにこと)ぞ」といひき。爾(ここ)に、少女が答へて曰く、「吾(あ)は言(こと)なし。唯(ただ)に為詠歌(うたよみす)るのみ」といひて、即ち其の所如(ゆくへ)も見えずして忽(たちま)ちに失せぬ。(崇神記)
少女は答えてどこへともなく消えて行っている。「詠歌」はいつもながらの伝承を伝えたにすぎず、そこに「個」はない。すなわち、「少女」は実存しない。「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(ボーヴォワール)ではなく、何でもないと記されている。
以上、崇神記、記22「御真木入日子はや」歌謡の設定と問答に関して検討し、従来説の訓み方の不明と誤謬を正した。
(注)
(注1)奇妙さに耐えられずに、西郷2006aのような解説が生じている。
(注2)紀には、「勿レ言也。唯歌耳。」と答え、さらに、「乃重詠二先歌一、」と続いている。「先歌」と記している点は暗示的で、先ほど諳んじた歌というばかりか、それよりも以前からずっと同じことを歌い続けていて、大彦命が耳にしたのはそのn回目とn+1回目(nは自然数)というにすぎないかもしれないことを示している。
(注3)「為歌曰」(記34)は、「哭為歌曰」というつづきであり、必ずしもウタヨミシテと訓まれているわけではない。「哭きて為歌(うた)ひまして曰(いは)く、」(思想大系本、191頁)、「哭きて歌曰(うた)ひたまはく、」(次田1980.、167頁)、「哭為(みねな)かしつつ歌曰(うた)ひたまひしく、」(西郷2006b.、141頁)とある。
(注4)白川1995.に、「よむ〔数(數)・詠・読(讀)〕 四段。数を数えることを原義とする。」(794頁)とある。拙稿「「数(かず)」と「数(かぞ)ふ」と「数(よ)む」参照。ウタヨミする例としては、紀7~14歌謡、記9~14歌謡と目されている来目歌(久米歌)の例が確かなものとされている。拙稿「久米歌(来目歌)について」参照。
(注5)十一代目市川海老蔵は、高校時代に堀越ダンスが苦手で、「先生、舞えません。」と訴えていたそうである。
(注6)紀に、「和珥坂の上」または、「山背の平坂」とある。ワニノサカノウヘは、稲羽の素菟の説話が物語るように、ワニが踏臼(唐臼)を示すように一人使いの用具であり、竪杵を使うように数人の声の掛け合い、数え歌を歌うものとは異なり無言で行なうことから、そこにあるのは歌ではないことを暗示させている。フミ(踏)とフミ(文)と同音である。黙読できるほどに記録化されている。拙稿「「稲羽の素菟」論」参照。また、ヤマシロノヒラサカは、記の表現に近しいが主旨は異なる。山のシロ(代)となる人造の山というのは実は山ではなく、しかも平らな坂などない。あり得ない架空の場所であると白状している。
(注7)「吾欲従母於根国、只為泣耳。」(神代紀第五段一書第六)は、「吾(あ)は母に根国(ねのくに)に従はむと欲ひ、只(ただ)に泣くのみ。」と訓んでいる。
(注8)白川1995.に、「こと〔殊・異・別〕 一般とは異なるもの、特殊なことをいう。「言(こと)」「事(こと)」と同源の語で、それらもみな具体的なものとして一般からはなれ、それぞれ特殊な形態をとったものに外ならない。」(330頁)とある。
(引用文献)
次田1980. 次田真幸『古事記(中)全訳注』講談社(講談社学術文庫)、昭和55年。
西郷2006a. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
西郷2006b. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
西宮1979. 西宮一民『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。