「所」という字について、指事用法として漢文訓読でトコロと訓むことがあり、ヤマトコトバ本来のトコロという語(注1)の拡張として捉えられることが多い。ヤマトコトバでは、本来、トコロに場所以外の意味はなかった。地点、箇所、区域などの空間的な範囲を示す語である。“ところ”が、築島1963.に、「本来の日本語のトコロとは合はない例もある。例へば、 所得 所言 所感 所期 などは、「得ルコト」「言フコト」「感ズルコト」「期スルコト」などの意味である。即ち「所」は動詞に冠して体言を形作つてゐるわけであつて、この場合には場所・区域・箇所といふやうな空間的な意味は全く認められない。従つて本来の日本語のトコロとは全く別の意味である。それを「所」の字に引かれてトコロと訓じたのであつて、かやうなトコロの用法は訓読特有である。」(381~382頁。漢字の旧字体は改めた。)とある。
上代に、トコロ(ト・コ・ロはともに乙類)という語が、場所の意以外に使われたとは考えにくい。時代別国語大辞典に、「ところ[所・処]」の語義に、「①場所。空間上の一点をさす。……②助数詞。」としかなく、漢文訓読風に言っていたとは記されない。白川1995.に、古事記の「用字法には、かなりの一貫性がみられる」とし、「所は百数十例の大部分が「所遊」「所生のような助動詞の用法か、あるいは関係代名詞としての、「其の汝の所持之生大刀」のような用法が四例。特定の場所をいうものは「王子の坐す所」〔記、応神〕の一例があるのみである。」(536頁)とある。どうやら、太安万侶の辞書に、漢文訓読語「所(ところ)」はないようである。それが太安万侶の時代に共通することか、彼一人にかかっていることか、管見にしてわからない。
何が問題かといえば、もし上代に、漢文訓読調のトコロなる言葉があった、使われていた、話されていた、と想定されると、日本書紀などの会話体の中にも言葉として登場することになる。上代語にすでに漢文訓読語のトコロが蔓延していたとすると、上代語の概念を根底から変えなければならない。第一に、トコロが場所を指す言葉としてヤマトコトバに概念形成されているのに、別の言葉、コトの代替として使われていることがあったら、範疇を定める言葉そのものの意義が怪しくなってしまう(注2)。それが大問題に発展するのは、言葉が事柄と同じことであるとする言(こと)=事(こと)、即ち、筆者の主張する意味合いでの“言霊”信仰自体が揺らいでいたことになるからである。第二に、漢文に見られる「所」字に引かれてトコロと訓むことが、即ち、漢文訓読語が生れていたとすると、大勢の人たちが漢字を日常的に読んでいたことになりかねない。初期万葉の作品に口承性が指摘されていることと相容れない。たとえ漢文訓読語の「蓋(けだ)し」という語が額田王歌に見られるにしても、他の言葉の概念範疇に牴触する問題にはならず、新概念の話のみで済むものと思われる。しかし、コト(事)、トキ(時)、ヒト(人)という語と牴触してしてトコロ(所)という語が用いられ始めると、コト、トキ、ヒトなどそれぞれの語が厳密に定められていたヤマトコトバの決めごとが揺らいでしまい、言葉が曖昧模糊になる。本稿では、テキストの実例を手掛かりに、実際に“読む”という作業を行って、果して漢文訓読語「所(ところ)」が上代、それも飛鳥時代にあり得るかを明らかにしようと思う。念のために断るが、表記の字面が問題なのではなく、表記されているものが漢文訓読に使う助辞のトコロという語を書き記すために用いられた文字(漢字)であるかどうかを確かめようとするものである。
万葉集においては、漢文の訓読によってもたらされたと思われる「所(ところ)」という訓み方は知られない。沖森2009.に、「万葉集に「連体形+トコロノ」の訓みが考えられないことによって、上代における「所」の連体修飾格が完了の助動詞リの連体形ルで訓まれてきたようであるが、仮に万葉集の表記に助動詞ル表記の類推が少なからず働いていたとすれば、万葉集の訓法を根拠として「連体形+トコロノ」の訓みがなかったとは言えないであろう。」(109~110頁)と指摘されている。「言えない」だけで、「あった」とも「なかった」とも言っていない。ずるい言明であるが仕方のないことである。沖森氏は、「所」字の用法として、「一 場所の意」、「二 助動詞ユ、ラユ、ル、ラル」、「三 ル音節表記(連体修飾格表示)」、「四 ヤ行エ・レ音節表記」、「五 敬語表示」、「六 熟合、義訓、音仮名ソ乙類」というように、ヤマトコトバの音を基軸の1つとしてあげている。文法的に何かという解説から、実際に言葉を使う立場へと足を踏み入れている(注3)。
とはいえ、「所」字をトコロと訓むべき例のなかに、本来の場所の意と形式名詞の例とを一緒にして、深くは検討されていない。「言葉の中には《差異 différence》しかない」というソシュールの思想をもとにしてヤマトコトバを一語一語考えていく場合、形式名詞のトコロが現れた現れ方が不可解になっている。場所の意としている形式名詞の用例は、続日本紀の宣命である(注4)。
何乎怨志岐所止志氐加然将為(第18詔)(何を怨しき所としてか然将為(天平宝字元年(757))
知所毛無久怯久劣岐押勝我(第26詔)(知る所も無く怯く劣き押勝が)(天平宝字四年(760))
天乃授賜方牟所方(第31詔)(天の授け賜はむ所は)(天平宝字八年(764))
筆者も、これらは漢文訓読によって作られたトコロという語であり、トコロと訓んでいたと考える。コトやヒトという訓みを当てる例もある(注5)。
また、次の宣命も課題とされている。
是以令文所載多流乎跡止為而(第2詔)(是を以て令の文に載せたるを跡と為て)(慶雲四年(707))
「この「所」字はノルに対する他動詞ノスを表わすのではなく、漢文表記に影響された、いわゆる「指事之詞」の用法であり、ノセタルトコロというほどの意味であると見られる。興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点には、
経所載宝荘厳〈経(ニ)載セタル所ノ宝荘厳ノ〉(巻十49)
と訓読した例がある(築島裕『興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究 訳文篇』東京大学出版会、一九六五年による)。」(122頁)とも記されている。
この第2詔の「所」を「ノセタルトコロというほどの意味」とするのは当たらないと考える。藤原不比等が天皇(文武天皇)に仕えてくれたのは今に始まったことではなく、天武・持統天皇のときからである。藤原鎌足が孝徳天皇に仕えてくれた様が建内宿禰が天皇に仕えたのと同じ事だと詔して大錦冠を授けて増封したことがあった。そういう次第で大宝令の条文に載せてあるのを基準として、禄令に従って食封を授けよう、という意味である。大宝令に載っている条文をただ適用する、ということを言っているのではなく、大宝令の条文の成立に、父親の藤原鎌足の事績が関わっていること、だから大宝令にそのような条文を載せた。それと同じように藤原不比等も仕えてくれた。だから、よく仕えるのと令の条文を適用するのとは一時的な関係ではなく、連続的なスパイラルであると言っている。詔は続いている。
随令長遠久、始今而次々被賜将往物叙止(令の随に長く遠く、今を始めて次々に賜はり往かむ物ぞと)
禄を賜われば、不比等の子もまたよく天皇に仕え、それでまた禄を賜わり、さらにまたその子もまたよく天皇に仕え、を繰り返すであろうから、という意味である。このスパイラルを言いたいとき、「載せたるを」の助詞ヲは、強い意を持った接続助詞である。助詞のヲは感動詞の「諾(を)」に始まるとされ、その意の流れを汲んだ使い方といえる。そして、「令文」に「所載」したのは、藤原鎌足が伝説にいわれる建内宿禰のようによく仕えたことがもととなっている。たまたま「令文」に載っているのではなく、不比等のお父さんの鎌足が原因で「令文」に載せたのである。よって、「ノセタルトコロというほどの意味」ではなく、宣命の訓み方どおり、ノセタルヲと訓まなければならず、他動詞ノスを表したかったために「所」字が冠されているといえる。以上の読み方によって、「跡(あと)」の語義は、基準でありつつ先例であることと理解できる。
孝謙天皇宣命(正倉院文書、正集 第44巻 瑞字宣命(天平勝宝9年)、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000011104&index=42をトリミング)
さて、日本書紀に見える「所」の例を見てみることにする。古事記同様、「所帯(はかせる)」、「所生(うめらむ)」、「所謂・所云(いはゆる)」のような助動詞の用法(「所」は連体修飾格を形成する)も多く、「所以・所由(ゆゑ)」とヤマトコトバ一語に相当する例もある。「所由」のような字面から、ヨンドコロなる漢文訓読語があるが、それが上代にヨルトコロなどと言われていたのかどうか、にわかに信じがたいため以下検討する。まず、築島氏の指摘される、「~コト」を表す「所」の好材料として、以下に日本書紀における「所」+発語に関する動詞の例をいくつか見ることにする。
猨田彦神(さるたひこのかみ)の所乞(こはし)の随(まにま)に、(随二猨田彦神所乞一、)(神代紀第九段一書第一)
今、汝(いまし)が所言(まをすこと)を聞くに、深く其の理(ことわり)有り。(今者聞二汝所言一、深有二其理一。)(神代紀第九段一書第二)
故、天孫(あめみま)、鰐(わに)の所言(まをし)の随(まにま)に留り居(ま)して、相待つこと已に八日なり。(故、天孫随二鰐所言一留居、相待已八日矣。)(神代紀第十段一書第四)
狭野(さの)と所称(まを)すは、是れ年(みとし)少(わか)くまします時の号(みな)なり。(所二-称狭野一者、是年少時之号也。)(神代紀第十一段一書第一)
事(こと)辞(まをしさ)る所(ところ)無し。(事無レ所レ辞。)(神武前紀戊午年八月)
日(ひる)に夜に懐悒(いきどほ)りて、え訴言(まを)すまじ。(日夜懐悒、無レ所二訴言一。)(垂仁紀五年十月)
川上梟帥(かはかみのたける)叩頭(の)みて曰(まを)さく、「且(しばし)待ちたまへ。吾(やつかれ)有所言(ものもを)さむ」とまをす。(川上梟帥叩頭曰、且待之。吾有所言。)(景行紀二十七年十二月)
悉(ふつく)に所談(ものがたりこと)を聞きつ。(悉聞二所談一。)(雄略前紀安康三年八月)
此れを見る者(ひと)、咸(みな)言ふこと、卿(いまし)が噵(い)ふ所の如し。(見レ此者、咸言、如二卿所一レ噵。)(雄略紀元年三月)
遂に国に逃げ入りて、其の所語(かたらひ)を説く。(遂逃二-入国一、説二其所語一。)(雄略紀八年二月)
鹿父(かかそ)の曰く、「諾(せ)」といふ。即ち言ふ所(ところ)を知れり。(鹿父曰、諾。即知レ所レ言矣。)(仁賢紀六年是秋)
并せて任那(みまな)に在る近江毛野臣(あふみのけなのおみ)に詔(みことのり)すらく、「奏(まを)す所(ところ)を推(たづ)ね問ひて、相疑ふことを和解(あまな)はしめよ」とのたまふ。(并詔下在二任那一近江毛野臣上、推二-問所一レ奏、和二-解相疑一。」(継体紀二十三年四月是月)
日本(やまと)の天皇(すめらみこと)の詔(のたま)ふ所(ところ)は、全(もは)ら任那(みまな)を復(かへ)し建てよといふを以てせり。(日本天皇所レ詔者、全以レ復二-建任那一。)(欽明紀二年四月A)
別(こと)に汝(いまし)の噵(い)ふならく、卓淳(とくじゅ)等の禍(わざはひ)を致さむことを恐るといふは、……。(別汝所噵、恐レ致二卓淳等禍一、……。(欽明紀二年四月B)
是れ天皇の為(みため)に必ず褒め讃(あ)げられ、汝(いまし)の身のために賞禄(たまひもの)せられむ。(是為二天皇一所二必褒讃一、汝身所二当賞禄一。)(欽明紀二年七月)
乃(すなは)ち追(め)して天皇の宣(のたま)ふ所を問はしむ。(乃追遣レ問二天皇所一レ宣。)(欽明紀五年二月)
……的臣(いくはのおみ)等の新羅に往来(かよ)ふに由りて、方(まさ)に耕種(なりはひ)すること得たるは、朕(われ)曾(いむさき)より聞きし所なり。……(……由三的臣等往二-来新羅一、方得二耕種一、朕所二曾聞一。……)(欽明紀五年三月)
……日本(やまと)より還りて曰へらく、奏(まを)す所(ところ)の河内直(かふちのあたひ)・移那斯(えなし)・麻都等(まつら)が事は、報勅(かへりみことのり)無しといへりといふ。(還レ自二日本一曰、所レ奏河内直・移那斯・麻都等事、無二報勅一也。)(欽明紀五年十月)
請(まを)す所の兵士(いくさびと)(所レ請兵士)……請す所の軍(いくさ)(所レ請軍)(欽明紀五年十一月・十四年六月)
乞ふ所の救軍(すくひのいくさ)(所レ乞救軍)……乞ふ所の救兵(すくひのいくさ)(所レ乞救兵)……乞ふ所の軍(いくさ)(所レ乞軍)(欽明紀九年正月・十年六月)
大王(きみ)の述べたまふ所の三つの策(はかりごと)、亦愚(わ)が情(こころ)に協(かな)へり。(大王所レ述三策、亦協二愚情一而已。)(欽明紀五年十一月)
仏の、我が法(のり)は東(ひむかし)に流(つたは)らむ、と記(のたま)へるを果すなり。(果二仏所一レ記二我法東流一。)(欽明紀十三年十月)
王(こきし)の須(もち)ゐむ随(まま)ならむ。(随二王所一レ須。)(欽明紀十四年六月)
大舎(ださ)、国に還りて、其の言ひし所を告ぐ。(大舎還レ国、告二其所一レ言。)(欽明紀二十二年是歳条)
此の犬、世に希聞(めづら)しき所なり。(此犬世所二希聞一。)(崇峻前紀用明二年七月)
群臣(まへつきみたち)奏(まを)して言(まを)さく、「任那の官家(みやけ)を建つべきこと、皆(みな)陛下(きみ)の詔したまふ所(ところ)に同じ」とまをす。(群臣奏言、可レ建二任那官家一、皆同二陛下所一レ詔。)(崇峻紀四年八月)
天皇、猪(ゐ)を指(ゆびさ)して詔して曰はく、「何(いづれ)の時にか此の猪の頸を断(き)るが如く、朕が嫌(ねた)しとおもふ所(ところ)の人を断らむ」とのたまふ。……蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)、天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌(そね)むらしきことを恐る。(天皇指レ猪詔曰、何時如レ断二此猪之頸一、断二朕所嫌之人一。……蘇我馬子宿禰、聞二天皇所一レ詔、恐レ嫌二於己一。)(崇峻紀五年十月)
……然るに、今し群卿(まへつきみたち)の噵(い)ふ所(ところ)の天皇(すめらみこと)の遺命(のちのおほみこと)は、少少(すこ)し我(おのれ)の聆(き)きし所(ところ)に違(たが)へり。……(然、今群卿所レ噵天皇遺命者、少少違二我之所一レ聆。)(舒明前紀推古三十六年九月)
卿(いまし)が噵(い)ふ所の如くならば、其の勝たむこと必ずや然らむ。(如二卿所一レ噵、其勝必然。)(皇極紀二年十一月)
舎人(とねり)、便ち語らふ所を以て、皇子(みこ)に陳(まを)す。(舎人、便以レ所レ語、陳二於皇子一。)(皇極紀三年正月)
果して言ふ所(ところ)の如くに、治めて差(い)えずといふこと無し。(果如レ所レ言、治無レ不レ差。)(皇極紀四年四月)
若し其の伴造(とものみやつこ)・尊長(ひとごのかみ)、訴ふる所を審(あきら)かにせずして牒(ふみ)を収め匱(ひつ)に納(い)れば、其の罪を以て罪せむ。(若其伴造・尊長、不レ審レ所レ訴収レ牒納レ匱、以二其罪一々之。)(孝徳紀大化元年八月)
……臣(やつかれ)、即ち恭(つつし)みて詔する所を承(うけたまは)りて、奉答而曰(こたへまを)さく、……。(臣、即恭承レ所レ詔、奉答而曰、……。)(孝徳紀大化二年三月)
……当に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし。(……当三聞二-解此所一レ宣。)(孝徳紀大化二年八月)
日本書紀に付されている訓はいわゆる古訓である。平安時代以降にそう訓むであろうと考えられて付けられている。昔の人が、さらに昔の人のことを慮り、頑張って研究した結果である。上に見るように、「所」字にトコロという訓が多い。とはいえ、それが必ずしも伝本の全てに付されたものではないことも事実であり、上にあげた以外の付訓例があることは断っておく。第一例に「所乞(こはし)」、第二例に「所言(まをすこと)」、第三例に「所言(まをし)」、第四例に「所称(まを)す」、第六例に「〔所〕訴言(まを)す」、第七例に「有所言(ものもを)さむ」、第八例に「所談(ものがたりこと)」、第十例に「所語(かたらひ)」、第十四例に「所噵(い)ふならく」、第十六例に「〔所〕必ず褒め讃(あ)げられ」、第二十三例に「所記(のたま)へる」、第二十四例に「所須(もち)ゐむ」などとある。また、第五例は「事(こと)辞(いな)ぶる所無し」とも訓まれている。今日の言い方では、言い逃れる余地がないという意味から、抽象的な比喩表現に「所」にトコロと当てて何ら不自然に感じない。これが厄介な“ところ”である。
今日的な印象として、関係代名詞風に用いられている「所(ところ)」という語は、少し奥まったことを表しているようである。「その点」、「その折」、「すなわちその」など、「その」と指事される。下接の事柄をまとめて指し示す役割を果たしているといえる。受身や使役、尊敬に当てる場合も、(自)動詞の直接性からすれば捻られている感じがある。その訓として、「所言」を言フトコロと訓めば、言ったことそのままではなく、言ったことの内容、趣旨、という意味にとることができる。例えば、「あいうえお」と言ったとして、それの言フトコロは、ア行音を言っていた、というように、ある種のフィルターがかかっていて構わないことになっている。「竹藪焼けた」の所とは、回文の一例を示した、「赤パジャマ、……」の所とは、早口言葉の一例を言っているなど、趣旨が同じであることに力点が置かれている。上にあげた例の最後の孝徳紀の例は、宣言したことの意味を悟れ、と天皇自ら言っているように受け取れてしまう。言っていることその言葉一言半句が問題なのではなく、言わんとしている趣旨、趣意、要旨が重要ということになる。旨(むね)のことである。言葉を発するには、口、唇、喉、鼻などが関わってくるが、そもそもの呼気を司るのは肺部分であるし、心(意(こころ))があるのも胸部であったと思われていたから、ムネが肝心のこととなる。
そもそも、言うこと自体には誤謬が付いて回る。同じことを言っていても人によって言っているニュアンスが異なることがある。同じことを聞いていても人によって受け取るニュアンスが異なることもある。神武前紀戊午年八月条の例は、図らずもそのことを示してしまっている例なのかもしれない。この部分の訓については後に触れる。
「所言」他の訓み方として、言フトコロといった言い回ししかできないのであろうか。できないのであれば、場所を表すのではない、連体修飾格を作ったり、指事にしたり、受身を表したり、関係代名詞であったり、「所謂(いはゆる)ところ」と重ねて訓んだりするトコロという語が、ヤマトコトバに古くからあったと認められ、上代語は大幅な見直しを余儀なくされる。神武前紀の例から、弁解の余地がないという比喩が罷り通っていて、トコロと言っていたに違いないと考えて良いのであろうか。雄略紀に、イヘルコトアリの例がある。
古(いにしへ)の人、云(い)へること有り。匹夫(いやしきひと)の志も、奪ふべきこと難しといへるは、方(まさ)に臣(やつこ)に属(あた)れり。(古人有レ云、匹夫之志難レ可レ奪、方属二乎臣一。)(雄略即位前紀安康三年八月)
古の人、云へること有り、娜毗騰耶皤麼珥(なひとやはばに)。此の古語(ふること)、未だ詳(つばひらか)ならず。(古人有レ云、娜毗騰耶皤麼珥。此古語未レ詳。)(雄略紀元年三月)
古の人、言へること有り。臣(やつこ)を知るは君に若くは莫し、子を知るは父(かぞ)に若くは莫しと。(古人有レ言、知レ臣莫レ若レ君、知レ子莫レ若レ父。)(雄略紀二十三年八月)
雄略紀を記した紀の編者はなかなかの知恵者である。関係代名詞に当たる文字を記さずに、ヤマトコトバにイヘルコトと訓ませるべく工夫されている。英文和訳でも、関係代名詞をトコロと訳さないで伝えるようにした方がわかりやすい。イヘルコトとは、言(云)ってしまわれて完了している“こと”、である。言ってしまって完了しているのは、言葉が事柄に転化しているような“こと”である。だから、「古人有云」とだけ書けば、イヘルコトとしか訓めないことになっている。古人の言ったことは確かめることはできないが、繰り返し暗誦されるような文言だから、イヘルコトなのである。しかし、第2例の「娜毗騰耶皤麼珥(なひとやはばに)」は「汝人や母似」の意であろうと解されながら、「此古語未詳」なる割注も入れている。何故このような語を持ち出したのか、後代の読者は不思議がらなければならない。わからなくなってしまっている言葉は、言霊信仰において、言=事とする際、どのように作用するのか。大問題であると思うが、言葉というものは実際問題としてわからなくなるものである。それを趣旨さえわかればよろしいという発想から、「所」字はないが、イヘルトコロと訓じてしまうことも今となっては受け入れられる。漢文訓読に由来するトコロという語に慣れてしまっている。けれども、言霊信仰は、言葉の主旨が問題なのではなく、言葉そのものが重要なのである。ナヒトヤハバニが「云へる“こと”」であり、「古“こと”」であるのはそういう事情からである。そうでなければ、コトという語に、言葉と事柄とを含めてしまうヤマトコトバ的な発想は生きて来ない。word と thing の間に何ら通用する“ところ”はない。
雄略紀元年三月条にある、「咸(みな)言ふこと、卿(いまし)が噵(い)ふ所の如し。(咸言、如卿所噵。)」は、コトのオンパレードなのであろう。みんなが言っていることは、あなたが言っていることと同じようなことである、の意で、「咸言ふコト、卿が噵ふコトの如(ゴト)し」と畳みかけているとすれば、発語としての面白味と現実味がある。「如(ごと)し」という語は、同一を意味するコトに形容詞の語尾シが付いた形である。つまり、ここで雄略天皇が言っているのは、この状況について、皆もあなたも言っていることは、「ことごと(尽・悉)くごと(如)し」である。ここにトコロなどという合い間を入れてしまったら、小咄は頓挫し、場は白けてしまう。笑劇場は閉鎖であろう。
舒明前紀の例に、推古天皇が何と言っていたか、天皇の遺勅の言葉尻が問題とされている。曖昧な遺勅の言葉尻によって、趣旨、すなわち、次期天皇に誰を指名する気だったのかが違ってくるからである。山背大兄王は、推古天皇の「遺命(のちのおほみこと)」の一言半句について、「少少違」うと主張している。それは、趣旨が違うという主張であるより先に、言葉(尻)そのものが違うと言っている。曖昧な遺勅の解釈の問題以前に、曖昧な遺勅の原語の一言半句を問題にしている。一言半句によって事柄が変わってくるということを、山背大兄王はよく理解しているように感じられる。今日のように遺言書の形態がなかったとき、遺勅は重要である。上代に遺言書はない。そもそも「書(ふみ)」というものがとてつもなく珍しい。遺された人が読めないものを書かれても何の役にも立たない。では、何の頼りもないかといえば、そういうことはないであろう。仮にそうであったとすると、無秩序状態に陥っていたということになる。無文字社会は始終アノミーであったという考えは当たらない。文字社会の方がかなり“野蛮”である。無文字社会において社会を成り立たせる規範とは何か。ヤマトの場合、それは、言=事とする言霊信仰にあった。事柄をそのままに言うようにするとともに、言ったことは事柄となるようにする。そう決める。だから、推古天皇の遺勅の言葉尻のようなことが山背大兄王と蘇我蝦夷側とで争われ、揉めることになったのである。山背大兄王は真剣に言っている。采女が聞いたとすることに関して、大の大人の、それも聖徳太子の息子で聡明とされた人が言い争っていて、形骸化していない。言霊信仰の下にあったからである。
舒明前紀の、「群卿所噵」と「我之所聆」の「所」は、趣旨の意とは解されていない。推古天皇の「遺命(のちのおほみこと)の一言半句が問題であった。オホミコトとは、オホ(大)+ミ(御)+コト(言)の意である。オホ(大)やミ(御)は尊敬の称である。コト(言)がコト(事)となり、次期天皇となる。したがって、「所噵」をイフトコロ、「所聆」をキクトコロという冗漫な訓は、少少違う。言葉が事柄に直結するから、言葉そのものが問題なのである。トコロが問題ではなく、コトが問題である。「所噵」はイヘルコト、「所聆」をキケルコトという訓みが正しいと考える。
事柄の内容、趣旨を示すために「所」字を使っている場合もあるかもしれない。一例をあげる。
式(も)ちて呈奏(いたせるまをしごと)を聞(き)きて、爰(ここ)に憂(うれ)ふる所(ところ)を覿(み)れば、日本府(やまとのみこともち)と安羅(あら)と、隣(となり)の難(わざはひ)を救(すく)はざること、亦(また)朕(わ)が疾(いた)む所なり。(式聞二呈奏一、爰覿レ所レ憂、日本府与二安羅一、不レ救二隣難、亦朕所レ疾也。)」(欽明紀九年四月)
この部分、新編全集本日本書紀の訳に、「爰覿レ所レ憂、」を「その憂慮の内容を考えてみると、」(②411頁)とある。「所」を、内容のことに解釈している。ここに、とても珍しい「覿」字が用いられている。筆者はその出典とするところを知らないが、天罰覿面というように、目の当たりに直面することを示す字である。内容を頭でよくよく考えてみたらわかったということではなく、憂い極まる上奏と直に向き合うと、の意味であろう。「式(も)て呈奏を聞きて、爰に憂(うれ)ふるを覿れば、日本府と安羅と、隣の難を救はざること、亦朕も疾(うれ)ふ。」と直説話法で捉えるのが正しいのではないか。百済から派遣されている使者、中部杆率掠葉礼(ちうほうかんそちけいせふれい)等を謁見していて、その悩める表情をつぶさに見ているからこのような詔が発せられたものと思われる。「憂(うれ)ふ」る様を「覿(み)」て、「朕(われ)も亦」、同じように「疾(うれ)ふ」と同調した。「爰」とその場であること、「亦」と同じであることが明記されている。「憂」と「疾」と別の字が使われているが、ヤマトコトバとしては同じウレフを表したものであろう。字義の違いを表現に及ぼした巧みな書き方といえる。そして、冗漫で奥まったトコロ訓では意味が通じないとわかる。残念ながら伝本にそのように訓まれた傍訓は見られないが、字を選びながら的確に記されていると考えられるのでこのように訓んでおく。
雄略紀八年二月条の例、「説其所語」の「所語」には、カタラヒ、と兼右本に傍訓がある。また、皇極紀三年正月条の「便以所語」の「語」に、カタラフ、と岩崎本に傍訓がある。カタルではなくカタラフと訓むべきであると思われたのには、動詞語尾フを接して、カタリ(語)+アフ(合)という相互的な意味を強調したかったからであろう。遊仙窟に、名詞形で「朝聞二烏鵲語(カタラヒ)一」と訓まれている。新編全集本日本書紀の「語(かた)らふ所(ところ)を以ちて皇子に陳(まを)す」とある個所の頭注に、「鎌子が語った言葉。『家伝』上に「舎人、語ラヒヲ軽皇子ニ伝フ。皇子大ニ悦ブ」。」(③85頁)と注されている。鎌子(中臣鎌足)が語った趣旨の意なら、「語(かた)る所(ところ)」と訓むべきである。鎌子と舎人が相語り合うこと、仲睦まじく会話すること、カタラフことのなかで出てきた言葉だから、カタラフ、カタラヒという訓が現れるのではないか。鎌子の言葉は直前に、「便(すなは)ち遇(めぐ)まるるに感(かま)けて舎人に語りて曰く、『……』」とあって、『……』ときちんと示され、「舎人を宛てて馳使(つかひ)とせるを謂ふなり」という割注が付けられている。鎌子が中大兄と仲睦まじく親交するに至る伏線としての話である。鎌子は軽皇子とではなく、その宮に仕える舎人と仲睦まじいらしい。だから、鎌子は軽皇子に直接言わずに、舎人を介している。それはまた、直接言ってしまったら約束のようなことになってしまうし、舎人を介して言っている限り、噂話のようなものだからであろう。言=事、言霊信仰の下にある人の性格上そのようになりやすい。今日においても、直接は言わずに蔭で言う感覚はわかるのではないか。つまり、ここは、鎌子が本心から語った言葉かどうかは確かにはわからないような、その場に「感(かま)け」た雰囲気的なカタラヒのことであると考えなければならない。鎌子が感けているという洒落をもって正しいと知れる。「所語」は、カタラヒと訓むべきである。カタラフトコロなる冗漫な訓を、話し合った内容、趣旨の意と考えようにも、鎌子と舎人が四方山話を繰り広げたなかでの一部分のため適切な訓とはならない。語り合いのなかの断片を舎人は軽皇子に陳述したのである。遊仙窟の「語(カタラヒ)」も、鳥(ヒトカラス・マラウドカラス)の鳴き声を、言葉としては断片であると捉えることで譬えている。
崇峻前紀に、「此の犬、世に希聞しき所なり。」(崇峻前紀用明二年七月)とある。すぐ近くに、「養(か)へる白犬(養白犬)」、「養へる犬(所養之犬)」とある。「所」字があろうがなかろうが、ヤマトコトバとしては同じらしい。すると、「此の犬、世に希聞(めづら)し。」と訓んで構わない。また、後ろの文とあわせて、「此の犬、世に希聞(めづら)しきこと、後に観(しめ)すべし。(此犬、世所二希聞一、可レ観二於後一。)」と訓むことも可能である。筆者にはそれが正解であるように思われる。
他に、崇峻紀五年十月条のついでの例、「朕所嫌之人」に、「朕(あ)が嫌(ねたしとおも)へる人」、「朕(み)が嫌(そね)む人」といった別訓もある。「朕(あ)が所嫌之人(そねむひと)を断る」と訓まれたらしい。記の「所持之生大刀(もたるいくたち)」のようにである。紀でも例えば、「所問(と)ふ意趣(こころ)を知(しろ)しめさずして(不知所問之意趣)」(垂仁紀四年九月)、「嶋の神の所請(こは)する珠(嶋神所請之珠)」(允恭紀十四年九月)、「天皇の所宣(のたま)ふ詔(天皇所宣之詔)」(欽明紀五年二月)、「所乞之意(まをすこころ)」(斉明紀六年十二月)などとある。するとそこに近い、「天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌(そね)むらしきことを恐る。(聞天皇所詔、恐嫌於己。)」の「所詔」も、「天皇のミコトノレルを聞きて」と訓めば良いと知れる。蘇我馬子は漢文表現で難しい詔の内容を解釈するのに熟考したのではなく、イノシシを殺す譬えが自分に向いているらしいと気づいたに過ぎない。ならばドミノ式に、欽明紀二年四月A、崇峻紀四年八月、孝徳紀大化二年三月の「所詔」も、内容的には大したことを詔していないことから、トコロと訓む漢文訓読は似合わないとわかる。ミコトノレル、ノタマヘルなどと訓むのがふさわしい。欽明紀二年四月Aの、「日本の天皇の詔(のたま)へるは、全(もは)ら、任那を復建(かへした)てよといふを以てせり」とあるのは、ぶっちゃけた話、日本の天皇の詔は、もっぱら任那を復建せよといっているだけだ、という意である。だから、「全」という語が登場している。詔に複雑に入り組んだところがあって晦渋にしてわからないということではなく、ちょっと長いだけで話は単純で、端的にいえば(=「全ら」)、任那の再建せよということだ、という意味である。そういった個所の「所詔」にトコロという訓が登場しては、表現の雑駁感が損なわれてしまっていただけない。
また、仁賢紀の「即ち言ふ所(ところ)を知れり」も、「諾(せ)」という言葉(音)が、「兄(せ)」という言葉(音)と合致する洒落であることに話の焦点があるから、「即知所言矣。」は、ズバッと、「即ちイヘルコト知れり。」と訓まなければ「即」字が生きて来ず、意味が十全に通じない。継体紀の、「推問所奏、和解相疑」についても、「奏す所(ところ)を推ね問ひて、相疑ふことを和解はしめよ」と訓むのでは、双方の言い分を弁護士を介して聞くことになり兼ねない。実際、記事では、新羅、百済の両国は使者を派遣しただけだったので、毛野臣は天皇の勅を伝えなかった。その結果、新羅は軍勢を率いて勅を聞きたいとし、なお応じなかったことから四村で掠奪されるに至っている。「或(あるひと)」の言葉として、毛野臣の外交的な「過(あやまち)」であると総括されている。けれども、「奏すトコロ」を推問するのではなく、「奏すコト」を推問せよとの詔であったから、近江の毛野臣は両国の王の言葉を直接聞こうと思ったのであろう。使者しか送って来なかったからと言って怒っていては話にならないのは確かである。けれども、なぜ話にならないかといえば、「詔を伝える体面と手段にこだわ」(新編全集本日本書紀②318頁)った点にあるのではない。ヤマトコトバを話し、ヤマトコトバしかわからない毛野臣が、朝鮮語しか知らず、朝鮮語しか話さない新羅王や百済王の言葉を直接聞いても、推問にならないからである。通訳、ヲサを介する融通が利かなかったから、事態をヲサ(収)めることができなかったという洒落である。全体の文脈を読み解けば、当該部分は、「奏(まを)すことを推ね問ひて、相疑ふことを和解はしめよ」と訓まれなければならない。言(こと)=事(こと)であるとする言霊信仰が、ヤマトコトバにしか通用しないこと、つまりは、外交的には何の役にも立たないことを語る記事になっているのである。日本書紀記者の深意を汲みとる必要がある。
同様のことは、欽明紀五年十月条にも言える。「奏(まを)す所(ところ)の……が事は、報勅(かへりみことのり)無し(所奏……事無報勅也)」の……部分は人名である。「所奏事」を真っ直ぐに訓めば、「奏(まを)せる事」である。コトと訓めば「報勅(かへりみことのり)」のミコトノリ=ミ(御)+コト(言)+ノリ(宣)と対照する。トコロと訓むのは、まごろっこしいと知れる。
欽明紀五年三月条の、「朕曾(いむさき)より聞きし所(ところ)なり(朕所曾聞)」という訓には、どっちつかずの中途半端さがある。長い百済王の上表文の一文である。キキシと言っているのなら、前から確かに聞いていた、とはっきりしているのに、トコロと漠然とした感じをつけられては、実際に聞いていたのか、間接的に聞き知っていたのかわからなくなる。例えば、キケルトコロナリ、ならば、聞いていたような気がすることだ、という意味にはなる。しかし、そうなると、最後にナリと断定する矛盾に遭遇する。百済王が、新羅は的臣等が往来したことで、農耕ができたということを前から聞いている、と言おうとしている箇所である。百済王が、新羅のかつての農耕事情について研究したり講義を受けていたりしているとは考えにくいので、伝聞として、あるいは食客から、以前、聞いたことがあるということであろう。奈良時代までの伝聞の助動詞ナリを、断定の助動詞ととって誤ったのではないか。「朕(われ)曾(いむさき)より聞こゆなり」、私には以前より、噂話で耳に入ってきていた、の意である。「夫れ葦原中国は猶(なほ)聞喧擾之響焉(さやげりなり)。聞喧擾之響焉、此には左揶霓利奈離(さやげりなり)と云ふ。」(神武前紀戊午年六月)とある。万葉集では、「所聞」に下二段動詞「聞こゆ」(万238・930他)の例が活用形を含めて25例ほどある。「聞こゆ」だけで伝聞を表すから、さらに活字化されていない伝聞の助動詞ナリを加えるのは屋上屋を構築するような言い回しである。「朕(われ)曾(いむさき)に聞こゆ」で良いのではないかと思われるが、原文語順に「朕所曾聞」とあり、「朕曾所聞」とはなく、「曾」に紀特有の訓、イムサキニの展開形、イムサキヨリと伝本傍訓から訓まれるらしい点から考えて、含むところがあるように見受けられる。イムサキニは、「去(い)にし先に」の約とされる。過ぎ去った先に、である。それをさらに強めた表現が、過ぎ去った先より、イムサキヨリである。ならば、受ける側も、キコユ(伝聞の動詞)+ナリ(伝聞の助動詞)と強調されているのであろう。
欽明紀に見られる救軍については、マヲス所のいくさ、コフ所のいくさ、といった訓が施されている。要請があって派兵していることを表したいから、「所請」「所乞」といった形が「兵士」、「軍」、「救軍」、「救兵」といった語に冠されている。領土的野心があったわけではないことを示したいからなのか、不明である。この両者を、マヲス、コフと別々に訓むべき特段の理由はない。また、「所」字をトコロと訓まずに、コハセルイクサ、コハセシイクサ、コハレルイクサ、コハユルイクサなどと訓むことに何ら不都合はない。筆者にはコハユルという訓みが適当であるように感じられる。第一に、「所謂」をイハユルと訓む。同様に奈良時代までに特有の助動詞を用いて、コハユルと訓まれたとすることに抵抗がない。第二に、欽明紀には、百済が高句麗の攻撃を受けて困っていることが記されている。その際、高句麗軍のことを「強敵(こはきあた)」(二年七月・五年十一月・十四年八月)と言っている。コフ(請・乞)、コハシ(強)のコはいずれも乙類である。コハキアタ(強敵)に対抗するには、コハユルイクサ(所請軍)で対応するのが言葉上わかりやすい。無論、百済語で言っているのではなく、ヤマトコトバに訳した時、そういう話らしいと理解するのに役立つということである。それでもヤマトの人にとっては、“わかる”ことだから援軍を送ることになる。わからないことには人も金も出さないであろう。
高句麗軍のことをヤマトコトバにコハキアタと呼んで納得するのには、甲冑の様子からよく見て取れる。白川1995.に、「こはし〔強・剛〕 表面が堅くて弾力性のない状態をいう。「皮」と同源の語で皮の堅さを示し、その形容詞形とみてよい。それより人の剛強なることをいう。」(336頁)とある。そして、「かは〔皮・革・韋〕」の項には、「すべてかたい外皮をいう。」(241頁)とある。金属製の甲冑が馬にまで施されている高句麗騎馬兵に襲撃されては怖いのである。恐怖感を表すコハシという語は、名義抄で「凌」字の訓に見えるものの、上代に用例は見られない。それでも、語源は同じであろうから、強(こは)い人と喧嘩するのは怖(こは)いという印象なのであろう。あるいは口語表現としてのみあったものかもしれない。それに対するために、兵を乞うようにする、コハユルより方法はあるまい。イハユル(所謂)という語が普遍的に謂われていることを指すように、コハユル(所請・所乞)とあれば、全般的に当たり前のこととして請(乞)われていると考えてよいであろう。海外派兵を拒む理由は見当たらない、多国籍軍に参加した方が良さそうだ、という判断材料になると同時にそのように示されている。そのように言われているからそのようにした。言=事とする言霊信仰下における、上代のヤマトコトバの典型である。
吉林集安高句麗族三室墓壁画甲騎具装戦闘図(高句麗古墳壁画、三室塚、5世紀初)
皇極紀二年十月条の「如卿所噵、其勝必然。」は、山背大兄王が蘇我入鹿に攻めれた時、三輪文屋(みわのふみや)に戦術を提案されたのに対して答えた言葉である。三輪文屋は、「深草屯倉(ふかくさのみやけ)に移向(ゆ)きて、茲(ここ)より馬に乗りて東国(あづまのくに)に詣(いた)りて、乳部(みぶ)を以て本(もと)と為て師(いくさ)を興して、還りて戦はむ。其の勝たむこと必じ」と請うている。この部分、新編全集本日本書紀には、「卿が噵ふ所の如く其の勝たむこと必ず然らむ。」(③81頁)と訓じている。その訓では、山背大兄王の言う「卿所噵」が、三輪文屋の言う戦術のことだけでなく、その戦術を採ったら必勝であろうという予想までも含んでいる。そして、念を押して、その通り勝つことは必然であると答えていることになる。旧訓の、「卿が噵ふ所の如くならば、……」と訓むと、「卿所噵」とは、三輪文屋の戦術のことだけを示し、まったくそのようにしたら、勝つことは必然である、と「対へて曰」っているということになる。筆者は、捉え方としては新編全集本に賛同したい。山背大兄王は、あなたが言うのと同じようにしたら、あなたの言うように戦いに勝つことも必ずやその通りであろう。だけれども、私は戦いということをそもそもしない。なぜなら、「万民(おほみたから)」に犠牲を強いることになるからだ、と記されている。山背大兄王の念頭には、戦うという発想がない。勝ち負けのことが問題なのではない。そこへ三輪文屋の提案があった。まったくの仮定の話として、思考実験として聞くと、あなたの言う通りに戦いをすれば、「其勝必然」と言っている。三輪文屋の「其勝必矣」を受けて、「「其勝必」然」と言っている。「然り」とは、that’s right. の意である。「諾(うべ)なり」=yes ではない。山背大兄王は、三輪文屋に、その論理展開を逐一辿って行って、あなたは理屈も通っていて、私はあなたのことを認める。理路整然としているし、戦略を考える才能も素晴らしい。だけれども、あなたの請求には応えられない、ということを言おうとしている。よって、「卿(いまし)が噵(い)へるが如(ごと)く、其の勝たむこと必ず然(しか)らむ。」と訓むのであろう。「所」字をトコロと訓むと、応答において逐一辿っていく感じがなくなって、論理の話ではなく勝敗の話になってしまい、読めていないということになる。
大化二年八月条の、「……当に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし。(……当聞解此所宣。)」には、「即ち恭みて詔する所を承(うけたまは)りて、奉答而曰(こたへまを)さく(即恭承所詔奉答而曰)」(大化二年三月)という類例が見え、「聞」にウケタマハルの訓があてがわれている。「所宣」、「所詔」を承諾して理解せよ、と言っている。しかし、「即ち恭みて詔する所を承(うけたまは)りて、奉答而曰(こたへまを)さく」という言い方は過剰である。何を承けるのか、それは、天皇のお言葉である。お言葉とは、コト(言)であり、コト(言)を承けて理解して実践したり奉答したりする。何をするか。やはり、コト(事・言)をする。コトのキャッチボールである。「所宣」は、「宣(の)りたまふこと」、「宣たまはむこと」、「所詔」は、「詔りしたまふこと」、「詔りしたまはむこと」、「詔れること」と訓むのがかなっている。大化改新のなかで人々を諭すためには、人々が悟れるように話さなければならないから、相手のふだん喋っている言葉で喋ったに違いあるまい。実際にそう行われたかどうかではなく、台詞として似つかわしく記されているに違いないと思われるのである。大化二年八月条の詔には、「若是(かく)宣ふ所を聞きて(聞二若是所一レ宣)」、「朕(わ)が懐(おも)ふ所を聴き知らしめむ(使レ聴二知朕所一レレ懐)」、「如此(かく)宣(の)たまはむことを奉(うけたまは)れ(如此奉レ宣)」ともある。「所」字があるかないかは、書き手の気分次第、アンチョコ次第という面も否めないであろう。それをヤマトコトバに戻す際、字があるからトコロと訓を付け、字がなければトコロとは訓付けしないと機械的に表わすのでは、原形の復元には近づかないであろう(注6)。
これらのこと(注7)から、日本書紀の「所」+発語に関する動詞のもとの言葉、もともとヤマトコトバで表したかった言葉は、後代に漢文訓読で広まったトコロという言葉ではなく、イヘルコト、マヲセルコト、カタラヒ、イフコト、キキシコト、キコユナリ、ミコトノレル、ノリタマハムコト、ノタマヒシコト、ノタマヘルコト、ノレルコト、マヲサレルコトなどといった訓がかなっていると理解された。
漢文訓読によって新しくトコロという和訓が成立した時期は、記紀万葉に見る限り、飛鳥時代に成ったものでない。諸先学の指摘するとおり、漢文に見られる「所」字に、場所の意味のトコロの用法と、助辞としての用法があり、そのため、ヤマトコトバのトコロという語を当ててみてトコロという言葉の語意を拡張させて理解するようになっていったのであった。早くて奈良時代半ばに、確実に平安時代初期に成り立っていることであろうかと思われる。上代には、古事記のように、選択的に「所」字の使用を控えているやり方と、日本書紀のように(巻により執筆者が異なるから偏りが見られるが、)ためらいなく使われるやり方があったようである。日本書紀の執筆者は、漢文の助辞である「所」をどのように捉えたのであろうか。同じ言葉であるのに「所」字が脱落、または添加していない例が近いところに混じっている。その感覚を理解するのは案外、簡単なのかもしれない。万葉集の表記を見てもわかるように、教科書文法なるものはなかった。どう書いても通じれば良い。同じ「所念」で、オモホユ(万7)、オボホシ(万29)、オボホス(万50)、オボホエ(万191)、オボホセ(万206)、オモヘ(万635)などと細かく異なる。太安万侶が書記法に悩んでいることは記の序に打ち明けられている。いろいろなやり方が試みられ、記紀万葉のなかにいろいろなやり方が交差している。最終的な目標は一つである。確かにその言葉(「訓(よみ)と「音(こゑ)」)とわかること、それだけである。それしか方法がないからである。「所念」と「所」を添加した理由は、指摘されているとおり、オモフとは訓まないよ、という符号、符牒、標識と捉えられて使われたものであろう。「所念之○○」とあるなら、連体修飾格として使っているという意識が強いと解釈されようが、「所」字を上に冠しただけでは、文法的、構文的な意識が高かったとまでは言えないのではないか。今日の言葉の感覚に通じてしまうため、「所」と頭にある際に安易愚直にトコロと訓んでいるが、万葉集に「所念」とあって、「念(おも)ふ所(ところ)」と訓む例は一例も見られない。万葉集に見られないからと言ってそういう言い方がなかっとは言えないのではあるが、歌の七文字に入れようと思えば入るものであり、表現としても面白いかもしれない可能性があるのにそうしていないのは、そういう言い方が行われていなかった蓋然性が高いことを示してくれている。同時代の表記において、記紀万葉のなかにたいへんな齟齬、乖離がある。どう書くか迷っていた時代である。どう言うか迷っていたのではない。ヤマトコトバにはおそらくすでに1万年ほども歴史があったであろう。ヤマトコトバは文字を持たなかった。文字を持たないヤマトコトバが人々の間でやり取りされて十全の機能を果たせたのは、言葉が神経質なほど正確であったからであろう。一言半句について、何を言っているか、いちいち定められるから、互いにわかり、通じ合うことができた。今日のように字面を頼りにでき、あてがありながら話すのとは、言葉というものの性格が異なるのである。
以上、飛鳥時代に「所」字にトコロ訓を当てない排除的な理由を述べた。繰り返しになるが、「所」+発語に関する動詞、の形をとる「所」字に~コトと当てる選択的な理由としては、それが言葉に当たるからである。言葉も事柄もコトであった。それが同じことにならないと訳が分からなくなってしまうから、同じになるように心掛けた。それを筆者は言霊信仰と呼んでいる。「所」+発語に関する動詞という形は、発せられた言葉を括弧で括る作用を字面的にはもたらしている。上にトコロと訓む場合、奥まった感じがあると述べた。発語された言葉を括弧で括ってしまって鎮座ましませることに由来するのであろう。その例については、記紀万葉にないものとして例示しておらず、(注4)を参照されたいが、一度発語されたものを括弧で括って、さて、どういう意味であろうか、と受け止めてからそれに対して応答をする場合がある。発語が時間的にかなり前であったり、空間的にかなり離れている場合もある。そういったケースでは、言葉が再現、再生されるとき、ノイズが入ることが多い。それでも言葉は言葉に違いないから、本来的にはコトなのである。ご飯大盛りと注文して、意外に少なかったり、軽くしてと頼んで、予想外に多かったりするのは、言葉自体が違っているということではないし、言葉が通じていないのでもなく、その店のコト(盛られたご飯の量)としては正しいのである。仲居さんに、「お言葉どおりです」などと差し出す方がいる。ここに、言葉というものが、言葉として単独に成立しているのではなく、媒介的役割を兼ね備えていること(それがなければ成り立たないのだが、)が浮き彫りになろう。崇峻紀四年の例は、群臣が奏上しているのは、任那の官家を再建することについて、全員、陛下の仰っていることに同じであると言っている。全体主義である。任那の再建に、遅れることもなければ先んずることもない。それが、「奏して言さく」といった二重の言い回しに現れているのかどうかについては、別に論じることにする。「所レ詔」、つまり、詔に翼賛している。あまり意見というものを持たないのが群臣自身の身のためになったようである。群臣に関してのことではあるが、崇峻朝の時代精神についてこの記述から読み取れるものがある。そうした空気に図に乗った天皇は、軽率な行動から暗殺されてしまっている。生原稿としての歴史書として捉えることがふさわしいようである。そうすれば、“読む”ことの醍醐味が味わえる。歴史は“読む”ことに始まり、“読む”ことに終わるものである。しかるに、無文字時代、無文字文化のことを記した部分、わかりやすい発語を中心に考え直してみると、実は“聞く”ことが大事なのである。おそらく、考え方自体が無文字文化的であるから、表記された日本書紀は、“聞く”ために記された先史時代の残影を留めたものなのであろう(注8)。本稿ではトコロと言っているかどうかに限って聞き分けた次第である。
(注)
(注1)本稿では触れないが、ヤマトコトバ本来のトコロという語意については、白川1995.に、「「床」「底」を語根として、神聖の居るところを意味するもので、永遠なるものの意味をもつ語であり、処・所の字義にまさしく対応する。」(536頁)とある。
また、山田1935.に、「ところ」という語の「現今の普通文」での濫用とも見える例を、福地源一郎「明治今日の文章」から24例ほど引いている。そして、「今の「ところ」といふ語の起源は漢文中の「所」字の訓読に基づくものなるは争ふべからざるものと思はる。」(299頁)としている。「然る所」、「何々に候ふ所」、「何々であつたところ」、「ところで」、「ところが」などとどんどん用法が発展していったもののもとを糺そうとしている。つまり、漢文を訓読するに当たって、「所」字をすべてトコロと訓んで構わないようになってしまった不思議さを、漢文の用例の列挙から探ろうとし、途中で終っている。動詞の上にある例、助動詞「不」・「勿」等に冠する例、体言を用言として取り扱えるようにする例、それが主格になる例、「有」・「無」の支配を受ける例、国語に訳すと連体格になる例、国語に訳すと「ヲ」格・「ニ」格等の補語になる例、国語に訳すと「に」・「にて」・「なり」・「たり」の賓格になる例を挙げている。
(注2)丸山1981.に、「《chien(犬)》という語は、《loup(狼)》なる語が存在しない限り、狼をも指すであろう。このように、語は体系に依存している。孤立した記号というものはないのである。」(96頁)という有名な例示がある。言葉とは、箱の中に入っている饅頭か、圧搾空気の入った風船かという議論である。漢文訓読に由来する「所(ところ)」なる語がないとき、どうであったろうかと仮定しながら議論を進めている。
(注3)一方、平安時代にトコロと読んだ形式名詞については、大坪2015.に、「トコロは、本文の「所」を読むことが多く、「處・攸」などを読むこともあるが、補読することは稀れである。だから、補読する場合も、トコロは一般にヲコト点で示さず、略符号または仮名を用ゐるのが普通である。トコロは、実質名詞として場所を示す他、形式名詞として、活用する語の連体形を受けて、次のやうに用ゐられる。
a コト(事)・モノ(物)・トキ(時)などと同じ意味で用ゐられるもの。
b アルトコロハの形で、選択の接続詞に近い用法を持つもの。
c ──トコロノの形で、関係代名詞的に用ゐられるもの。
d トコロトナルの形で、受身の表現に用ゐられるもの。
いづれも、本文の「所」を直訳した結果生まれた翻訳文法である。(45~46頁)」とまとめられている。
(注4)沖森2009.は、基本的に万葉集と続日本紀の宣命、金光明最勝王経古点の例から検討されている。筆者に疑問なのは、続日本紀の詔を記した宣命の扱いについてである。宣命体と呼ばれる詔の記し方によって、訓みが確かとわかるわけであるが、60以上ある宣命の、文武天皇の①文武元年(697)、②慶雲四年(707)、元明天皇の③同年、④和銅元年(708)、そして聖武天皇の⑤神亀元年(724)があげられている。④と⑤の間に16年の開きがあり、都が藤原京から平城京へ遷っている。都が平安京へ遷った時、ヤマトコトバは甲類と乙類の区別がなくなる大変化を起している。平城京へ遷都し、世代も代っている時も、少なからず変化はあったのではないか。しかし、宣命の表記について一律に、同じような言葉使いとしてとっている。
沖森氏は、春日1985.から、「~ノトコロ」と補加して訓む点が、諸仏の尊位に関わる例なので、一種の敬語として取り扱われたのではないか、という説を引き、「敬語表示」としての「所」との関係を導き出している。
真筆が残っていて漢籍や仏典を書写していた聖武天皇や光明皇后は、仏典に「所」字を見て、「~トコロ」と訓んで敬語表示と考えることがあった可能性は否定できないが、宣命の漢文訓読に由来する「所(ところ)」の変遷について、また、「所(ところ)」語義の“世俗化”が起こったといえるものなのか、疑問である。また、宣命の①~④詔において、文武天皇や元明天皇に、仏典の教養なり、漢籍の素養なりがあったかも、不明と言わざるを得ない。①~④詔に現われる「所」字は、「所知」、「所思」、「所念」といった慣用例ばかりで、「所載(のせ)」のみ珍しい。この「所載」の例は本文で見た。つまり、「所」字は、慣用句的にしか①~④宣命詔には出てきていない。
そんななか、藤原京時代、宣命以外の一般の「所」字に、漢文訓読のトコロという訓をつける慣れがあったとは想像しにくい。それまで、ヤマトコトバで、トコロといえば決まった場所のことで、具体的な場所、その一地点を指していた。それが相対的な位置関係、漠然とした抽象的な意味へまでも拡張しているのである。仏典に見えるように、なんとも壮大な表現がたとえ話として多く登場してくることに慣れないと、トコロってどこよ? と聞き返したくなったに違いない。トコロってその辺のことよ、その辺ってどのあたりよ? 無量無辺のトコロよ、といった押し問答になろう。壮大表現と抽象的な概念は、ともに生身の現実からははずれた meta-な関係にあるように思われ、両者はいっぺんに悟られる事柄のようにも思われる。そう仮定した時、遡ることおよそ100年の聖徳太子は、漢籍や仏典の「所」字をどのように認識していたのか、課題は尽きない。
(注5)例えば、久米1893.。また、福田1973.の「天下之愚著『ことのしらへ』」(225頁以下)に、トコロという語によって時間に幅を持たせることができる点について、コトという語とかかわらせた解説が行われている。
(注6)原形の復元については、ここでは、日本書紀の執筆者が、何を思って書こうとしていたか、といった程度のこととして捉えていただきたい。何を思ってという“ところ”がミソである。思うには言葉がなければならず、本稿では特に発語に関する「所」字について考えており、口頭の音声言語について見ている。
(注7)斉明紀四年八月条の割注に、「或所云授位二階使検戸口」とある部分、「所」字は、「本」の誤写ではないかと疑われている。ひょっとすると、「或(あるふみ)に、所云(いはゆる)位(くらゐ)二階(ふたしな)を授くによりて、戸口(へひと)を検(かむが)へしむるなり」と訓み、訳も分からない蝦夷の懐柔に当たって、位二階の授与が方便であることがすでに定着しており、イハユルことであった点を示したものかもしれない。
当然のことであるが、日本書紀の「所」用字例は、本稿であげたものに限らずとても多い。「所」+発語に関する動詞の例としても漏れがあることもあるであろう。後考を俟ちたい。
(注8)時間的、空間的に離れた発語を以てしてもコトとして、トコロとしてないことは、無文字文化の言語活動に meta-性を有さないこととして理論上納得できるものである。
(引用・参考文献)
沖森2009. 沖森卓也『日本古代の文字と表記』吉川弘文館、2009年。
大坪2015. 大坪併治『平安時代における訓點語の文法 上』(大坪併治著作集5)風間書房、平成27年。
春日1985. 春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』(春日政治著作集別巻)勉誠社、昭和60年。
久米1893. 久米幹文『続日本紀宣命略解』吉川半七、明治26年。国会図書館デジタルコレクションhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772195
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。『同③』小学館、1998年。
築島1963. 築島裕『平安時代の漢文訓読につきての研究』東京大学出版会、1963年。
福田1973. 福田定良『落語としての哲学』法政大学出版局、1973年。
丸山1981. 丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店、1981年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、昭和10年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173586
※本稿は、2016年5~6月稿を、2021年10月に改稿したものである。
上代に、トコロ(ト・コ・ロはともに乙類)という語が、場所の意以外に使われたとは考えにくい。時代別国語大辞典に、「ところ[所・処]」の語義に、「①場所。空間上の一点をさす。……②助数詞。」としかなく、漢文訓読風に言っていたとは記されない。白川1995.に、古事記の「用字法には、かなりの一貫性がみられる」とし、「所は百数十例の大部分が「所遊」「所生のような助動詞の用法か、あるいは関係代名詞としての、「其の汝の所持之生大刀」のような用法が四例。特定の場所をいうものは「王子の坐す所」〔記、応神〕の一例があるのみである。」(536頁)とある。どうやら、太安万侶の辞書に、漢文訓読語「所(ところ)」はないようである。それが太安万侶の時代に共通することか、彼一人にかかっていることか、管見にしてわからない。
何が問題かといえば、もし上代に、漢文訓読調のトコロなる言葉があった、使われていた、話されていた、と想定されると、日本書紀などの会話体の中にも言葉として登場することになる。上代語にすでに漢文訓読語のトコロが蔓延していたとすると、上代語の概念を根底から変えなければならない。第一に、トコロが場所を指す言葉としてヤマトコトバに概念形成されているのに、別の言葉、コトの代替として使われていることがあったら、範疇を定める言葉そのものの意義が怪しくなってしまう(注2)。それが大問題に発展するのは、言葉が事柄と同じことであるとする言(こと)=事(こと)、即ち、筆者の主張する意味合いでの“言霊”信仰自体が揺らいでいたことになるからである。第二に、漢文に見られる「所」字に引かれてトコロと訓むことが、即ち、漢文訓読語が生れていたとすると、大勢の人たちが漢字を日常的に読んでいたことになりかねない。初期万葉の作品に口承性が指摘されていることと相容れない。たとえ漢文訓読語の「蓋(けだ)し」という語が額田王歌に見られるにしても、他の言葉の概念範疇に牴触する問題にはならず、新概念の話のみで済むものと思われる。しかし、コト(事)、トキ(時)、ヒト(人)という語と牴触してしてトコロ(所)という語が用いられ始めると、コト、トキ、ヒトなどそれぞれの語が厳密に定められていたヤマトコトバの決めごとが揺らいでしまい、言葉が曖昧模糊になる。本稿では、テキストの実例を手掛かりに、実際に“読む”という作業を行って、果して漢文訓読語「所(ところ)」が上代、それも飛鳥時代にあり得るかを明らかにしようと思う。念のために断るが、表記の字面が問題なのではなく、表記されているものが漢文訓読に使う助辞のトコロという語を書き記すために用いられた文字(漢字)であるかどうかを確かめようとするものである。
万葉集においては、漢文の訓読によってもたらされたと思われる「所(ところ)」という訓み方は知られない。沖森2009.に、「万葉集に「連体形+トコロノ」の訓みが考えられないことによって、上代における「所」の連体修飾格が完了の助動詞リの連体形ルで訓まれてきたようであるが、仮に万葉集の表記に助動詞ル表記の類推が少なからず働いていたとすれば、万葉集の訓法を根拠として「連体形+トコロノ」の訓みがなかったとは言えないであろう。」(109~110頁)と指摘されている。「言えない」だけで、「あった」とも「なかった」とも言っていない。ずるい言明であるが仕方のないことである。沖森氏は、「所」字の用法として、「一 場所の意」、「二 助動詞ユ、ラユ、ル、ラル」、「三 ル音節表記(連体修飾格表示)」、「四 ヤ行エ・レ音節表記」、「五 敬語表示」、「六 熟合、義訓、音仮名ソ乙類」というように、ヤマトコトバの音を基軸の1つとしてあげている。文法的に何かという解説から、実際に言葉を使う立場へと足を踏み入れている(注3)。
とはいえ、「所」字をトコロと訓むべき例のなかに、本来の場所の意と形式名詞の例とを一緒にして、深くは検討されていない。「言葉の中には《差異 différence》しかない」というソシュールの思想をもとにしてヤマトコトバを一語一語考えていく場合、形式名詞のトコロが現れた現れ方が不可解になっている。場所の意としている形式名詞の用例は、続日本紀の宣命である(注4)。
何乎怨志岐所止志氐加然将為(第18詔)(何を怨しき所としてか然将為(天平宝字元年(757))
知所毛無久怯久劣岐押勝我(第26詔)(知る所も無く怯く劣き押勝が)(天平宝字四年(760))
天乃授賜方牟所方(第31詔)(天の授け賜はむ所は)(天平宝字八年(764))
筆者も、これらは漢文訓読によって作られたトコロという語であり、トコロと訓んでいたと考える。コトやヒトという訓みを当てる例もある(注5)。
また、次の宣命も課題とされている。
是以令文所載多流乎跡止為而(第2詔)(是を以て令の文に載せたるを跡と為て)(慶雲四年(707))
「この「所」字はノルに対する他動詞ノスを表わすのではなく、漢文表記に影響された、いわゆる「指事之詞」の用法であり、ノセタルトコロというほどの意味であると見られる。興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点には、
経所載宝荘厳〈経(ニ)載セタル所ノ宝荘厳ノ〉(巻十49)
と訓読した例がある(築島裕『興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝古点の国語学的研究 訳文篇』東京大学出版会、一九六五年による)。」(122頁)とも記されている。
この第2詔の「所」を「ノセタルトコロというほどの意味」とするのは当たらないと考える。藤原不比等が天皇(文武天皇)に仕えてくれたのは今に始まったことではなく、天武・持統天皇のときからである。藤原鎌足が孝徳天皇に仕えてくれた様が建内宿禰が天皇に仕えたのと同じ事だと詔して大錦冠を授けて増封したことがあった。そういう次第で大宝令の条文に載せてあるのを基準として、禄令に従って食封を授けよう、という意味である。大宝令に載っている条文をただ適用する、ということを言っているのではなく、大宝令の条文の成立に、父親の藤原鎌足の事績が関わっていること、だから大宝令にそのような条文を載せた。それと同じように藤原不比等も仕えてくれた。だから、よく仕えるのと令の条文を適用するのとは一時的な関係ではなく、連続的なスパイラルであると言っている。詔は続いている。
随令長遠久、始今而次々被賜将往物叙止(令の随に長く遠く、今を始めて次々に賜はり往かむ物ぞと)
禄を賜われば、不比等の子もまたよく天皇に仕え、それでまた禄を賜わり、さらにまたその子もまたよく天皇に仕え、を繰り返すであろうから、という意味である。このスパイラルを言いたいとき、「載せたるを」の助詞ヲは、強い意を持った接続助詞である。助詞のヲは感動詞の「諾(を)」に始まるとされ、その意の流れを汲んだ使い方といえる。そして、「令文」に「所載」したのは、藤原鎌足が伝説にいわれる建内宿禰のようによく仕えたことがもととなっている。たまたま「令文」に載っているのではなく、不比等のお父さんの鎌足が原因で「令文」に載せたのである。よって、「ノセタルトコロというほどの意味」ではなく、宣命の訓み方どおり、ノセタルヲと訓まなければならず、他動詞ノスを表したかったために「所」字が冠されているといえる。以上の読み方によって、「跡(あと)」の語義は、基準でありつつ先例であることと理解できる。
孝謙天皇宣命(正倉院文書、正集 第44巻 瑞字宣命(天平勝宝9年)、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000011104&index=42をトリミング)
さて、日本書紀に見える「所」の例を見てみることにする。古事記同様、「所帯(はかせる)」、「所生(うめらむ)」、「所謂・所云(いはゆる)」のような助動詞の用法(「所」は連体修飾格を形成する)も多く、「所以・所由(ゆゑ)」とヤマトコトバ一語に相当する例もある。「所由」のような字面から、ヨンドコロなる漢文訓読語があるが、それが上代にヨルトコロなどと言われていたのかどうか、にわかに信じがたいため以下検討する。まず、築島氏の指摘される、「~コト」を表す「所」の好材料として、以下に日本書紀における「所」+発語に関する動詞の例をいくつか見ることにする。
猨田彦神(さるたひこのかみ)の所乞(こはし)の随(まにま)に、(随二猨田彦神所乞一、)(神代紀第九段一書第一)
今、汝(いまし)が所言(まをすこと)を聞くに、深く其の理(ことわり)有り。(今者聞二汝所言一、深有二其理一。)(神代紀第九段一書第二)
故、天孫(あめみま)、鰐(わに)の所言(まをし)の随(まにま)に留り居(ま)して、相待つこと已に八日なり。(故、天孫随二鰐所言一留居、相待已八日矣。)(神代紀第十段一書第四)
狭野(さの)と所称(まを)すは、是れ年(みとし)少(わか)くまします時の号(みな)なり。(所二-称狭野一者、是年少時之号也。)(神代紀第十一段一書第一)
事(こと)辞(まをしさ)る所(ところ)無し。(事無レ所レ辞。)(神武前紀戊午年八月)
日(ひる)に夜に懐悒(いきどほ)りて、え訴言(まを)すまじ。(日夜懐悒、無レ所二訴言一。)(垂仁紀五年十月)
川上梟帥(かはかみのたける)叩頭(の)みて曰(まを)さく、「且(しばし)待ちたまへ。吾(やつかれ)有所言(ものもを)さむ」とまをす。(川上梟帥叩頭曰、且待之。吾有所言。)(景行紀二十七年十二月)
悉(ふつく)に所談(ものがたりこと)を聞きつ。(悉聞二所談一。)(雄略前紀安康三年八月)
此れを見る者(ひと)、咸(みな)言ふこと、卿(いまし)が噵(い)ふ所の如し。(見レ此者、咸言、如二卿所一レ噵。)(雄略紀元年三月)
遂に国に逃げ入りて、其の所語(かたらひ)を説く。(遂逃二-入国一、説二其所語一。)(雄略紀八年二月)
鹿父(かかそ)の曰く、「諾(せ)」といふ。即ち言ふ所(ところ)を知れり。(鹿父曰、諾。即知レ所レ言矣。)(仁賢紀六年是秋)
并せて任那(みまな)に在る近江毛野臣(あふみのけなのおみ)に詔(みことのり)すらく、「奏(まを)す所(ところ)を推(たづ)ね問ひて、相疑ふことを和解(あまな)はしめよ」とのたまふ。(并詔下在二任那一近江毛野臣上、推二-問所一レ奏、和二-解相疑一。」(継体紀二十三年四月是月)
日本(やまと)の天皇(すめらみこと)の詔(のたま)ふ所(ところ)は、全(もは)ら任那(みまな)を復(かへ)し建てよといふを以てせり。(日本天皇所レ詔者、全以レ復二-建任那一。)(欽明紀二年四月A)
別(こと)に汝(いまし)の噵(い)ふならく、卓淳(とくじゅ)等の禍(わざはひ)を致さむことを恐るといふは、……。(別汝所噵、恐レ致二卓淳等禍一、……。(欽明紀二年四月B)
是れ天皇の為(みため)に必ず褒め讃(あ)げられ、汝(いまし)の身のために賞禄(たまひもの)せられむ。(是為二天皇一所二必褒讃一、汝身所二当賞禄一。)(欽明紀二年七月)
乃(すなは)ち追(め)して天皇の宣(のたま)ふ所を問はしむ。(乃追遣レ問二天皇所一レ宣。)(欽明紀五年二月)
……的臣(いくはのおみ)等の新羅に往来(かよ)ふに由りて、方(まさ)に耕種(なりはひ)すること得たるは、朕(われ)曾(いむさき)より聞きし所なり。……(……由三的臣等往二-来新羅一、方得二耕種一、朕所二曾聞一。……)(欽明紀五年三月)
……日本(やまと)より還りて曰へらく、奏(まを)す所(ところ)の河内直(かふちのあたひ)・移那斯(えなし)・麻都等(まつら)が事は、報勅(かへりみことのり)無しといへりといふ。(還レ自二日本一曰、所レ奏河内直・移那斯・麻都等事、無二報勅一也。)(欽明紀五年十月)
請(まを)す所の兵士(いくさびと)(所レ請兵士)……請す所の軍(いくさ)(所レ請軍)(欽明紀五年十一月・十四年六月)
乞ふ所の救軍(すくひのいくさ)(所レ乞救軍)……乞ふ所の救兵(すくひのいくさ)(所レ乞救兵)……乞ふ所の軍(いくさ)(所レ乞軍)(欽明紀九年正月・十年六月)
大王(きみ)の述べたまふ所の三つの策(はかりごと)、亦愚(わ)が情(こころ)に協(かな)へり。(大王所レ述三策、亦協二愚情一而已。)(欽明紀五年十一月)
仏の、我が法(のり)は東(ひむかし)に流(つたは)らむ、と記(のたま)へるを果すなり。(果二仏所一レ記二我法東流一。)(欽明紀十三年十月)
王(こきし)の須(もち)ゐむ随(まま)ならむ。(随二王所一レ須。)(欽明紀十四年六月)
大舎(ださ)、国に還りて、其の言ひし所を告ぐ。(大舎還レ国、告二其所一レ言。)(欽明紀二十二年是歳条)
此の犬、世に希聞(めづら)しき所なり。(此犬世所二希聞一。)(崇峻前紀用明二年七月)
群臣(まへつきみたち)奏(まを)して言(まを)さく、「任那の官家(みやけ)を建つべきこと、皆(みな)陛下(きみ)の詔したまふ所(ところ)に同じ」とまをす。(群臣奏言、可レ建二任那官家一、皆同二陛下所一レ詔。)(崇峻紀四年八月)
天皇、猪(ゐ)を指(ゆびさ)して詔して曰はく、「何(いづれ)の時にか此の猪の頸を断(き)るが如く、朕が嫌(ねた)しとおもふ所(ところ)の人を断らむ」とのたまふ。……蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)、天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌(そね)むらしきことを恐る。(天皇指レ猪詔曰、何時如レ断二此猪之頸一、断二朕所嫌之人一。……蘇我馬子宿禰、聞二天皇所一レ詔、恐レ嫌二於己一。)(崇峻紀五年十月)
……然るに、今し群卿(まへつきみたち)の噵(い)ふ所(ところ)の天皇(すめらみこと)の遺命(のちのおほみこと)は、少少(すこ)し我(おのれ)の聆(き)きし所(ところ)に違(たが)へり。……(然、今群卿所レ噵天皇遺命者、少少違二我之所一レ聆。)(舒明前紀推古三十六年九月)
卿(いまし)が噵(い)ふ所の如くならば、其の勝たむこと必ずや然らむ。(如二卿所一レ噵、其勝必然。)(皇極紀二年十一月)
舎人(とねり)、便ち語らふ所を以て、皇子(みこ)に陳(まを)す。(舎人、便以レ所レ語、陳二於皇子一。)(皇極紀三年正月)
果して言ふ所(ところ)の如くに、治めて差(い)えずといふこと無し。(果如レ所レ言、治無レ不レ差。)(皇極紀四年四月)
若し其の伴造(とものみやつこ)・尊長(ひとごのかみ)、訴ふる所を審(あきら)かにせずして牒(ふみ)を収め匱(ひつ)に納(い)れば、其の罪を以て罪せむ。(若其伴造・尊長、不レ審レ所レ訴収レ牒納レ匱、以二其罪一々之。)(孝徳紀大化元年八月)
……臣(やつかれ)、即ち恭(つつし)みて詔する所を承(うけたまは)りて、奉答而曰(こたへまを)さく、……。(臣、即恭承レ所レ詔、奉答而曰、……。)(孝徳紀大化二年三月)
……当に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし。(……当三聞二-解此所一レ宣。)(孝徳紀大化二年八月)
日本書紀に付されている訓はいわゆる古訓である。平安時代以降にそう訓むであろうと考えられて付けられている。昔の人が、さらに昔の人のことを慮り、頑張って研究した結果である。上に見るように、「所」字にトコロという訓が多い。とはいえ、それが必ずしも伝本の全てに付されたものではないことも事実であり、上にあげた以外の付訓例があることは断っておく。第一例に「所乞(こはし)」、第二例に「所言(まをすこと)」、第三例に「所言(まをし)」、第四例に「所称(まを)す」、第六例に「〔所〕訴言(まを)す」、第七例に「有所言(ものもを)さむ」、第八例に「所談(ものがたりこと)」、第十例に「所語(かたらひ)」、第十四例に「所噵(い)ふならく」、第十六例に「〔所〕必ず褒め讃(あ)げられ」、第二十三例に「所記(のたま)へる」、第二十四例に「所須(もち)ゐむ」などとある。また、第五例は「事(こと)辞(いな)ぶる所無し」とも訓まれている。今日の言い方では、言い逃れる余地がないという意味から、抽象的な比喩表現に「所」にトコロと当てて何ら不自然に感じない。これが厄介な“ところ”である。
今日的な印象として、関係代名詞風に用いられている「所(ところ)」という語は、少し奥まったことを表しているようである。「その点」、「その折」、「すなわちその」など、「その」と指事される。下接の事柄をまとめて指し示す役割を果たしているといえる。受身や使役、尊敬に当てる場合も、(自)動詞の直接性からすれば捻られている感じがある。その訓として、「所言」を言フトコロと訓めば、言ったことそのままではなく、言ったことの内容、趣旨、という意味にとることができる。例えば、「あいうえお」と言ったとして、それの言フトコロは、ア行音を言っていた、というように、ある種のフィルターがかかっていて構わないことになっている。「竹藪焼けた」の所とは、回文の一例を示した、「赤パジャマ、……」の所とは、早口言葉の一例を言っているなど、趣旨が同じであることに力点が置かれている。上にあげた例の最後の孝徳紀の例は、宣言したことの意味を悟れ、と天皇自ら言っているように受け取れてしまう。言っていることその言葉一言半句が問題なのではなく、言わんとしている趣旨、趣意、要旨が重要ということになる。旨(むね)のことである。言葉を発するには、口、唇、喉、鼻などが関わってくるが、そもそもの呼気を司るのは肺部分であるし、心(意(こころ))があるのも胸部であったと思われていたから、ムネが肝心のこととなる。
そもそも、言うこと自体には誤謬が付いて回る。同じことを言っていても人によって言っているニュアンスが異なることがある。同じことを聞いていても人によって受け取るニュアンスが異なることもある。神武前紀戊午年八月条の例は、図らずもそのことを示してしまっている例なのかもしれない。この部分の訓については後に触れる。
「所言」他の訓み方として、言フトコロといった言い回ししかできないのであろうか。できないのであれば、場所を表すのではない、連体修飾格を作ったり、指事にしたり、受身を表したり、関係代名詞であったり、「所謂(いはゆる)ところ」と重ねて訓んだりするトコロという語が、ヤマトコトバに古くからあったと認められ、上代語は大幅な見直しを余儀なくされる。神武前紀の例から、弁解の余地がないという比喩が罷り通っていて、トコロと言っていたに違いないと考えて良いのであろうか。雄略紀に、イヘルコトアリの例がある。
古(いにしへ)の人、云(い)へること有り。匹夫(いやしきひと)の志も、奪ふべきこと難しといへるは、方(まさ)に臣(やつこ)に属(あた)れり。(古人有レ云、匹夫之志難レ可レ奪、方属二乎臣一。)(雄略即位前紀安康三年八月)
古の人、云へること有り、娜毗騰耶皤麼珥(なひとやはばに)。此の古語(ふること)、未だ詳(つばひらか)ならず。(古人有レ云、娜毗騰耶皤麼珥。此古語未レ詳。)(雄略紀元年三月)
古の人、言へること有り。臣(やつこ)を知るは君に若くは莫し、子を知るは父(かぞ)に若くは莫しと。(古人有レ言、知レ臣莫レ若レ君、知レ子莫レ若レ父。)(雄略紀二十三年八月)
雄略紀を記した紀の編者はなかなかの知恵者である。関係代名詞に当たる文字を記さずに、ヤマトコトバにイヘルコトと訓ませるべく工夫されている。英文和訳でも、関係代名詞をトコロと訳さないで伝えるようにした方がわかりやすい。イヘルコトとは、言(云)ってしまわれて完了している“こと”、である。言ってしまって完了しているのは、言葉が事柄に転化しているような“こと”である。だから、「古人有云」とだけ書けば、イヘルコトとしか訓めないことになっている。古人の言ったことは確かめることはできないが、繰り返し暗誦されるような文言だから、イヘルコトなのである。しかし、第2例の「娜毗騰耶皤麼珥(なひとやはばに)」は「汝人や母似」の意であろうと解されながら、「此古語未詳」なる割注も入れている。何故このような語を持ち出したのか、後代の読者は不思議がらなければならない。わからなくなってしまっている言葉は、言霊信仰において、言=事とする際、どのように作用するのか。大問題であると思うが、言葉というものは実際問題としてわからなくなるものである。それを趣旨さえわかればよろしいという発想から、「所」字はないが、イヘルトコロと訓じてしまうことも今となっては受け入れられる。漢文訓読に由来するトコロという語に慣れてしまっている。けれども、言霊信仰は、言葉の主旨が問題なのではなく、言葉そのものが重要なのである。ナヒトヤハバニが「云へる“こと”」であり、「古“こと”」であるのはそういう事情からである。そうでなければ、コトという語に、言葉と事柄とを含めてしまうヤマトコトバ的な発想は生きて来ない。word と thing の間に何ら通用する“ところ”はない。
雄略紀元年三月条にある、「咸(みな)言ふこと、卿(いまし)が噵(い)ふ所の如し。(咸言、如卿所噵。)」は、コトのオンパレードなのであろう。みんなが言っていることは、あなたが言っていることと同じようなことである、の意で、「咸言ふコト、卿が噵ふコトの如(ゴト)し」と畳みかけているとすれば、発語としての面白味と現実味がある。「如(ごと)し」という語は、同一を意味するコトに形容詞の語尾シが付いた形である。つまり、ここで雄略天皇が言っているのは、この状況について、皆もあなたも言っていることは、「ことごと(尽・悉)くごと(如)し」である。ここにトコロなどという合い間を入れてしまったら、小咄は頓挫し、場は白けてしまう。笑劇場は閉鎖であろう。
舒明前紀の例に、推古天皇が何と言っていたか、天皇の遺勅の言葉尻が問題とされている。曖昧な遺勅の言葉尻によって、趣旨、すなわち、次期天皇に誰を指名する気だったのかが違ってくるからである。山背大兄王は、推古天皇の「遺命(のちのおほみこと)」の一言半句について、「少少違」うと主張している。それは、趣旨が違うという主張であるより先に、言葉(尻)そのものが違うと言っている。曖昧な遺勅の解釈の問題以前に、曖昧な遺勅の原語の一言半句を問題にしている。一言半句によって事柄が変わってくるということを、山背大兄王はよく理解しているように感じられる。今日のように遺言書の形態がなかったとき、遺勅は重要である。上代に遺言書はない。そもそも「書(ふみ)」というものがとてつもなく珍しい。遺された人が読めないものを書かれても何の役にも立たない。では、何の頼りもないかといえば、そういうことはないであろう。仮にそうであったとすると、無秩序状態に陥っていたということになる。無文字社会は始終アノミーであったという考えは当たらない。文字社会の方がかなり“野蛮”である。無文字社会において社会を成り立たせる規範とは何か。ヤマトの場合、それは、言=事とする言霊信仰にあった。事柄をそのままに言うようにするとともに、言ったことは事柄となるようにする。そう決める。だから、推古天皇の遺勅の言葉尻のようなことが山背大兄王と蘇我蝦夷側とで争われ、揉めることになったのである。山背大兄王は真剣に言っている。采女が聞いたとすることに関して、大の大人の、それも聖徳太子の息子で聡明とされた人が言い争っていて、形骸化していない。言霊信仰の下にあったからである。
舒明前紀の、「群卿所噵」と「我之所聆」の「所」は、趣旨の意とは解されていない。推古天皇の「遺命(のちのおほみこと)の一言半句が問題であった。オホミコトとは、オホ(大)+ミ(御)+コト(言)の意である。オホ(大)やミ(御)は尊敬の称である。コト(言)がコト(事)となり、次期天皇となる。したがって、「所噵」をイフトコロ、「所聆」をキクトコロという冗漫な訓は、少少違う。言葉が事柄に直結するから、言葉そのものが問題なのである。トコロが問題ではなく、コトが問題である。「所噵」はイヘルコト、「所聆」をキケルコトという訓みが正しいと考える。
事柄の内容、趣旨を示すために「所」字を使っている場合もあるかもしれない。一例をあげる。
式(も)ちて呈奏(いたせるまをしごと)を聞(き)きて、爰(ここ)に憂(うれ)ふる所(ところ)を覿(み)れば、日本府(やまとのみこともち)と安羅(あら)と、隣(となり)の難(わざはひ)を救(すく)はざること、亦(また)朕(わ)が疾(いた)む所なり。(式聞二呈奏一、爰覿レ所レ憂、日本府与二安羅一、不レ救二隣難、亦朕所レ疾也。)」(欽明紀九年四月)
この部分、新編全集本日本書紀の訳に、「爰覿レ所レ憂、」を「その憂慮の内容を考えてみると、」(②411頁)とある。「所」を、内容のことに解釈している。ここに、とても珍しい「覿」字が用いられている。筆者はその出典とするところを知らないが、天罰覿面というように、目の当たりに直面することを示す字である。内容を頭でよくよく考えてみたらわかったということではなく、憂い極まる上奏と直に向き合うと、の意味であろう。「式(も)て呈奏を聞きて、爰に憂(うれ)ふるを覿れば、日本府と安羅と、隣の難を救はざること、亦朕も疾(うれ)ふ。」と直説話法で捉えるのが正しいのではないか。百済から派遣されている使者、中部杆率掠葉礼(ちうほうかんそちけいせふれい)等を謁見していて、その悩める表情をつぶさに見ているからこのような詔が発せられたものと思われる。「憂(うれ)ふ」る様を「覿(み)」て、「朕(われ)も亦」、同じように「疾(うれ)ふ」と同調した。「爰」とその場であること、「亦」と同じであることが明記されている。「憂」と「疾」と別の字が使われているが、ヤマトコトバとしては同じウレフを表したものであろう。字義の違いを表現に及ぼした巧みな書き方といえる。そして、冗漫で奥まったトコロ訓では意味が通じないとわかる。残念ながら伝本にそのように訓まれた傍訓は見られないが、字を選びながら的確に記されていると考えられるのでこのように訓んでおく。
雄略紀八年二月条の例、「説其所語」の「所語」には、カタラヒ、と兼右本に傍訓がある。また、皇極紀三年正月条の「便以所語」の「語」に、カタラフ、と岩崎本に傍訓がある。カタルではなくカタラフと訓むべきであると思われたのには、動詞語尾フを接して、カタリ(語)+アフ(合)という相互的な意味を強調したかったからであろう。遊仙窟に、名詞形で「朝聞二烏鵲語(カタラヒ)一」と訓まれている。新編全集本日本書紀の「語(かた)らふ所(ところ)を以ちて皇子に陳(まを)す」とある個所の頭注に、「鎌子が語った言葉。『家伝』上に「舎人、語ラヒヲ軽皇子ニ伝フ。皇子大ニ悦ブ」。」(③85頁)と注されている。鎌子(中臣鎌足)が語った趣旨の意なら、「語(かた)る所(ところ)」と訓むべきである。鎌子と舎人が相語り合うこと、仲睦まじく会話すること、カタラフことのなかで出てきた言葉だから、カタラフ、カタラヒという訓が現れるのではないか。鎌子の言葉は直前に、「便(すなは)ち遇(めぐ)まるるに感(かま)けて舎人に語りて曰く、『……』」とあって、『……』ときちんと示され、「舎人を宛てて馳使(つかひ)とせるを謂ふなり」という割注が付けられている。鎌子が中大兄と仲睦まじく親交するに至る伏線としての話である。鎌子は軽皇子とではなく、その宮に仕える舎人と仲睦まじいらしい。だから、鎌子は軽皇子に直接言わずに、舎人を介している。それはまた、直接言ってしまったら約束のようなことになってしまうし、舎人を介して言っている限り、噂話のようなものだからであろう。言=事、言霊信仰の下にある人の性格上そのようになりやすい。今日においても、直接は言わずに蔭で言う感覚はわかるのではないか。つまり、ここは、鎌子が本心から語った言葉かどうかは確かにはわからないような、その場に「感(かま)け」た雰囲気的なカタラヒのことであると考えなければならない。鎌子が感けているという洒落をもって正しいと知れる。「所語」は、カタラヒと訓むべきである。カタラフトコロなる冗漫な訓を、話し合った内容、趣旨の意と考えようにも、鎌子と舎人が四方山話を繰り広げたなかでの一部分のため適切な訓とはならない。語り合いのなかの断片を舎人は軽皇子に陳述したのである。遊仙窟の「語(カタラヒ)」も、鳥(ヒトカラス・マラウドカラス)の鳴き声を、言葉としては断片であると捉えることで譬えている。
崇峻前紀に、「此の犬、世に希聞しき所なり。」(崇峻前紀用明二年七月)とある。すぐ近くに、「養(か)へる白犬(養白犬)」、「養へる犬(所養之犬)」とある。「所」字があろうがなかろうが、ヤマトコトバとしては同じらしい。すると、「此の犬、世に希聞(めづら)し。」と訓んで構わない。また、後ろの文とあわせて、「此の犬、世に希聞(めづら)しきこと、後に観(しめ)すべし。(此犬、世所二希聞一、可レ観二於後一。)」と訓むことも可能である。筆者にはそれが正解であるように思われる。
他に、崇峻紀五年十月条のついでの例、「朕所嫌之人」に、「朕(あ)が嫌(ねたしとおも)へる人」、「朕(み)が嫌(そね)む人」といった別訓もある。「朕(あ)が所嫌之人(そねむひと)を断る」と訓まれたらしい。記の「所持之生大刀(もたるいくたち)」のようにである。紀でも例えば、「所問(と)ふ意趣(こころ)を知(しろ)しめさずして(不知所問之意趣)」(垂仁紀四年九月)、「嶋の神の所請(こは)する珠(嶋神所請之珠)」(允恭紀十四年九月)、「天皇の所宣(のたま)ふ詔(天皇所宣之詔)」(欽明紀五年二月)、「所乞之意(まをすこころ)」(斉明紀六年十二月)などとある。するとそこに近い、「天皇の詔したまふ所を聞きて、己を嫌(そね)むらしきことを恐る。(聞天皇所詔、恐嫌於己。)」の「所詔」も、「天皇のミコトノレルを聞きて」と訓めば良いと知れる。蘇我馬子は漢文表現で難しい詔の内容を解釈するのに熟考したのではなく、イノシシを殺す譬えが自分に向いているらしいと気づいたに過ぎない。ならばドミノ式に、欽明紀二年四月A、崇峻紀四年八月、孝徳紀大化二年三月の「所詔」も、内容的には大したことを詔していないことから、トコロと訓む漢文訓読は似合わないとわかる。ミコトノレル、ノタマヘルなどと訓むのがふさわしい。欽明紀二年四月Aの、「日本の天皇の詔(のたま)へるは、全(もは)ら、任那を復建(かへした)てよといふを以てせり」とあるのは、ぶっちゃけた話、日本の天皇の詔は、もっぱら任那を復建せよといっているだけだ、という意である。だから、「全」という語が登場している。詔に複雑に入り組んだところがあって晦渋にしてわからないということではなく、ちょっと長いだけで話は単純で、端的にいえば(=「全ら」)、任那の再建せよということだ、という意味である。そういった個所の「所詔」にトコロという訓が登場しては、表現の雑駁感が損なわれてしまっていただけない。
また、仁賢紀の「即ち言ふ所(ところ)を知れり」も、「諾(せ)」という言葉(音)が、「兄(せ)」という言葉(音)と合致する洒落であることに話の焦点があるから、「即知所言矣。」は、ズバッと、「即ちイヘルコト知れり。」と訓まなければ「即」字が生きて来ず、意味が十全に通じない。継体紀の、「推問所奏、和解相疑」についても、「奏す所(ところ)を推ね問ひて、相疑ふことを和解はしめよ」と訓むのでは、双方の言い分を弁護士を介して聞くことになり兼ねない。実際、記事では、新羅、百済の両国は使者を派遣しただけだったので、毛野臣は天皇の勅を伝えなかった。その結果、新羅は軍勢を率いて勅を聞きたいとし、なお応じなかったことから四村で掠奪されるに至っている。「或(あるひと)」の言葉として、毛野臣の外交的な「過(あやまち)」であると総括されている。けれども、「奏すトコロ」を推問するのではなく、「奏すコト」を推問せよとの詔であったから、近江の毛野臣は両国の王の言葉を直接聞こうと思ったのであろう。使者しか送って来なかったからと言って怒っていては話にならないのは確かである。けれども、なぜ話にならないかといえば、「詔を伝える体面と手段にこだわ」(新編全集本日本書紀②318頁)った点にあるのではない。ヤマトコトバを話し、ヤマトコトバしかわからない毛野臣が、朝鮮語しか知らず、朝鮮語しか話さない新羅王や百済王の言葉を直接聞いても、推問にならないからである。通訳、ヲサを介する融通が利かなかったから、事態をヲサ(収)めることができなかったという洒落である。全体の文脈を読み解けば、当該部分は、「奏(まを)すことを推ね問ひて、相疑ふことを和解はしめよ」と訓まれなければならない。言(こと)=事(こと)であるとする言霊信仰が、ヤマトコトバにしか通用しないこと、つまりは、外交的には何の役にも立たないことを語る記事になっているのである。日本書紀記者の深意を汲みとる必要がある。
同様のことは、欽明紀五年十月条にも言える。「奏(まを)す所(ところ)の……が事は、報勅(かへりみことのり)無し(所奏……事無報勅也)」の……部分は人名である。「所奏事」を真っ直ぐに訓めば、「奏(まを)せる事」である。コトと訓めば「報勅(かへりみことのり)」のミコトノリ=ミ(御)+コト(言)+ノリ(宣)と対照する。トコロと訓むのは、まごろっこしいと知れる。
欽明紀五年三月条の、「朕曾(いむさき)より聞きし所(ところ)なり(朕所曾聞)」という訓には、どっちつかずの中途半端さがある。長い百済王の上表文の一文である。キキシと言っているのなら、前から確かに聞いていた、とはっきりしているのに、トコロと漠然とした感じをつけられては、実際に聞いていたのか、間接的に聞き知っていたのかわからなくなる。例えば、キケルトコロナリ、ならば、聞いていたような気がすることだ、という意味にはなる。しかし、そうなると、最後にナリと断定する矛盾に遭遇する。百済王が、新羅は的臣等が往来したことで、農耕ができたということを前から聞いている、と言おうとしている箇所である。百済王が、新羅のかつての農耕事情について研究したり講義を受けていたりしているとは考えにくいので、伝聞として、あるいは食客から、以前、聞いたことがあるということであろう。奈良時代までの伝聞の助動詞ナリを、断定の助動詞ととって誤ったのではないか。「朕(われ)曾(いむさき)より聞こゆなり」、私には以前より、噂話で耳に入ってきていた、の意である。「夫れ葦原中国は猶(なほ)聞喧擾之響焉(さやげりなり)。聞喧擾之響焉、此には左揶霓利奈離(さやげりなり)と云ふ。」(神武前紀戊午年六月)とある。万葉集では、「所聞」に下二段動詞「聞こゆ」(万238・930他)の例が活用形を含めて25例ほどある。「聞こゆ」だけで伝聞を表すから、さらに活字化されていない伝聞の助動詞ナリを加えるのは屋上屋を構築するような言い回しである。「朕(われ)曾(いむさき)に聞こゆ」で良いのではないかと思われるが、原文語順に「朕所曾聞」とあり、「朕曾所聞」とはなく、「曾」に紀特有の訓、イムサキニの展開形、イムサキヨリと伝本傍訓から訓まれるらしい点から考えて、含むところがあるように見受けられる。イムサキニは、「去(い)にし先に」の約とされる。過ぎ去った先に、である。それをさらに強めた表現が、過ぎ去った先より、イムサキヨリである。ならば、受ける側も、キコユ(伝聞の動詞)+ナリ(伝聞の助動詞)と強調されているのであろう。
欽明紀に見られる救軍については、マヲス所のいくさ、コフ所のいくさ、といった訓が施されている。要請があって派兵していることを表したいから、「所請」「所乞」といった形が「兵士」、「軍」、「救軍」、「救兵」といった語に冠されている。領土的野心があったわけではないことを示したいからなのか、不明である。この両者を、マヲス、コフと別々に訓むべき特段の理由はない。また、「所」字をトコロと訓まずに、コハセルイクサ、コハセシイクサ、コハレルイクサ、コハユルイクサなどと訓むことに何ら不都合はない。筆者にはコハユルという訓みが適当であるように感じられる。第一に、「所謂」をイハユルと訓む。同様に奈良時代までに特有の助動詞を用いて、コハユルと訓まれたとすることに抵抗がない。第二に、欽明紀には、百済が高句麗の攻撃を受けて困っていることが記されている。その際、高句麗軍のことを「強敵(こはきあた)」(二年七月・五年十一月・十四年八月)と言っている。コフ(請・乞)、コハシ(強)のコはいずれも乙類である。コハキアタ(強敵)に対抗するには、コハユルイクサ(所請軍)で対応するのが言葉上わかりやすい。無論、百済語で言っているのではなく、ヤマトコトバに訳した時、そういう話らしいと理解するのに役立つということである。それでもヤマトの人にとっては、“わかる”ことだから援軍を送ることになる。わからないことには人も金も出さないであろう。
高句麗軍のことをヤマトコトバにコハキアタと呼んで納得するのには、甲冑の様子からよく見て取れる。白川1995.に、「こはし〔強・剛〕 表面が堅くて弾力性のない状態をいう。「皮」と同源の語で皮の堅さを示し、その形容詞形とみてよい。それより人の剛強なることをいう。」(336頁)とある。そして、「かは〔皮・革・韋〕」の項には、「すべてかたい外皮をいう。」(241頁)とある。金属製の甲冑が馬にまで施されている高句麗騎馬兵に襲撃されては怖いのである。恐怖感を表すコハシという語は、名義抄で「凌」字の訓に見えるものの、上代に用例は見られない。それでも、語源は同じであろうから、強(こは)い人と喧嘩するのは怖(こは)いという印象なのであろう。あるいは口語表現としてのみあったものかもしれない。それに対するために、兵を乞うようにする、コハユルより方法はあるまい。イハユル(所謂)という語が普遍的に謂われていることを指すように、コハユル(所請・所乞)とあれば、全般的に当たり前のこととして請(乞)われていると考えてよいであろう。海外派兵を拒む理由は見当たらない、多国籍軍に参加した方が良さそうだ、という判断材料になると同時にそのように示されている。そのように言われているからそのようにした。言=事とする言霊信仰下における、上代のヤマトコトバの典型である。
吉林集安高句麗族三室墓壁画甲騎具装戦闘図(高句麗古墳壁画、三室塚、5世紀初)
皇極紀二年十月条の「如卿所噵、其勝必然。」は、山背大兄王が蘇我入鹿に攻めれた時、三輪文屋(みわのふみや)に戦術を提案されたのに対して答えた言葉である。三輪文屋は、「深草屯倉(ふかくさのみやけ)に移向(ゆ)きて、茲(ここ)より馬に乗りて東国(あづまのくに)に詣(いた)りて、乳部(みぶ)を以て本(もと)と為て師(いくさ)を興して、還りて戦はむ。其の勝たむこと必じ」と請うている。この部分、新編全集本日本書紀には、「卿が噵ふ所の如く其の勝たむこと必ず然らむ。」(③81頁)と訓じている。その訓では、山背大兄王の言う「卿所噵」が、三輪文屋の言う戦術のことだけでなく、その戦術を採ったら必勝であろうという予想までも含んでいる。そして、念を押して、その通り勝つことは必然であると答えていることになる。旧訓の、「卿が噵ふ所の如くならば、……」と訓むと、「卿所噵」とは、三輪文屋の戦術のことだけを示し、まったくそのようにしたら、勝つことは必然である、と「対へて曰」っているということになる。筆者は、捉え方としては新編全集本に賛同したい。山背大兄王は、あなたが言うのと同じようにしたら、あなたの言うように戦いに勝つことも必ずやその通りであろう。だけれども、私は戦いということをそもそもしない。なぜなら、「万民(おほみたから)」に犠牲を強いることになるからだ、と記されている。山背大兄王の念頭には、戦うという発想がない。勝ち負けのことが問題なのではない。そこへ三輪文屋の提案があった。まったくの仮定の話として、思考実験として聞くと、あなたの言う通りに戦いをすれば、「其勝必然」と言っている。三輪文屋の「其勝必矣」を受けて、「「其勝必」然」と言っている。「然り」とは、that’s right. の意である。「諾(うべ)なり」=yes ではない。山背大兄王は、三輪文屋に、その論理展開を逐一辿って行って、あなたは理屈も通っていて、私はあなたのことを認める。理路整然としているし、戦略を考える才能も素晴らしい。だけれども、あなたの請求には応えられない、ということを言おうとしている。よって、「卿(いまし)が噵(い)へるが如(ごと)く、其の勝たむこと必ず然(しか)らむ。」と訓むのであろう。「所」字をトコロと訓むと、応答において逐一辿っていく感じがなくなって、論理の話ではなく勝敗の話になってしまい、読めていないということになる。
大化二年八月条の、「……当に此の宣(の)たまふ所を聞(うけたまは)り解(さと)るべし。(……当聞解此所宣。)」には、「即ち恭みて詔する所を承(うけたまは)りて、奉答而曰(こたへまを)さく(即恭承所詔奉答而曰)」(大化二年三月)という類例が見え、「聞」にウケタマハルの訓があてがわれている。「所宣」、「所詔」を承諾して理解せよ、と言っている。しかし、「即ち恭みて詔する所を承(うけたまは)りて、奉答而曰(こたへまを)さく」という言い方は過剰である。何を承けるのか、それは、天皇のお言葉である。お言葉とは、コト(言)であり、コト(言)を承けて理解して実践したり奉答したりする。何をするか。やはり、コト(事・言)をする。コトのキャッチボールである。「所宣」は、「宣(の)りたまふこと」、「宣たまはむこと」、「所詔」は、「詔りしたまふこと」、「詔りしたまはむこと」、「詔れること」と訓むのがかなっている。大化改新のなかで人々を諭すためには、人々が悟れるように話さなければならないから、相手のふだん喋っている言葉で喋ったに違いあるまい。実際にそう行われたかどうかではなく、台詞として似つかわしく記されているに違いないと思われるのである。大化二年八月条の詔には、「若是(かく)宣ふ所を聞きて(聞二若是所一レ宣)」、「朕(わ)が懐(おも)ふ所を聴き知らしめむ(使レ聴二知朕所一レレ懐)」、「如此(かく)宣(の)たまはむことを奉(うけたまは)れ(如此奉レ宣)」ともある。「所」字があるかないかは、書き手の気分次第、アンチョコ次第という面も否めないであろう。それをヤマトコトバに戻す際、字があるからトコロと訓を付け、字がなければトコロとは訓付けしないと機械的に表わすのでは、原形の復元には近づかないであろう(注6)。
これらのこと(注7)から、日本書紀の「所」+発語に関する動詞のもとの言葉、もともとヤマトコトバで表したかった言葉は、後代に漢文訓読で広まったトコロという言葉ではなく、イヘルコト、マヲセルコト、カタラヒ、イフコト、キキシコト、キコユナリ、ミコトノレル、ノリタマハムコト、ノタマヒシコト、ノタマヘルコト、ノレルコト、マヲサレルコトなどといった訓がかなっていると理解された。
漢文訓読によって新しくトコロという和訓が成立した時期は、記紀万葉に見る限り、飛鳥時代に成ったものでない。諸先学の指摘するとおり、漢文に見られる「所」字に、場所の意味のトコロの用法と、助辞としての用法があり、そのため、ヤマトコトバのトコロという語を当ててみてトコロという言葉の語意を拡張させて理解するようになっていったのであった。早くて奈良時代半ばに、確実に平安時代初期に成り立っていることであろうかと思われる。上代には、古事記のように、選択的に「所」字の使用を控えているやり方と、日本書紀のように(巻により執筆者が異なるから偏りが見られるが、)ためらいなく使われるやり方があったようである。日本書紀の執筆者は、漢文の助辞である「所」をどのように捉えたのであろうか。同じ言葉であるのに「所」字が脱落、または添加していない例が近いところに混じっている。その感覚を理解するのは案外、簡単なのかもしれない。万葉集の表記を見てもわかるように、教科書文法なるものはなかった。どう書いても通じれば良い。同じ「所念」で、オモホユ(万7)、オボホシ(万29)、オボホス(万50)、オボホエ(万191)、オボホセ(万206)、オモヘ(万635)などと細かく異なる。太安万侶が書記法に悩んでいることは記の序に打ち明けられている。いろいろなやり方が試みられ、記紀万葉のなかにいろいろなやり方が交差している。最終的な目標は一つである。確かにその言葉(「訓(よみ)と「音(こゑ)」)とわかること、それだけである。それしか方法がないからである。「所念」と「所」を添加した理由は、指摘されているとおり、オモフとは訓まないよ、という符号、符牒、標識と捉えられて使われたものであろう。「所念之○○」とあるなら、連体修飾格として使っているという意識が強いと解釈されようが、「所」字を上に冠しただけでは、文法的、構文的な意識が高かったとまでは言えないのではないか。今日の言葉の感覚に通じてしまうため、「所」と頭にある際に安易愚直にトコロと訓んでいるが、万葉集に「所念」とあって、「念(おも)ふ所(ところ)」と訓む例は一例も見られない。万葉集に見られないからと言ってそういう言い方がなかっとは言えないのではあるが、歌の七文字に入れようと思えば入るものであり、表現としても面白いかもしれない可能性があるのにそうしていないのは、そういう言い方が行われていなかった蓋然性が高いことを示してくれている。同時代の表記において、記紀万葉のなかにたいへんな齟齬、乖離がある。どう書くか迷っていた時代である。どう言うか迷っていたのではない。ヤマトコトバにはおそらくすでに1万年ほども歴史があったであろう。ヤマトコトバは文字を持たなかった。文字を持たないヤマトコトバが人々の間でやり取りされて十全の機能を果たせたのは、言葉が神経質なほど正確であったからであろう。一言半句について、何を言っているか、いちいち定められるから、互いにわかり、通じ合うことができた。今日のように字面を頼りにでき、あてがありながら話すのとは、言葉というものの性格が異なるのである。
以上、飛鳥時代に「所」字にトコロ訓を当てない排除的な理由を述べた。繰り返しになるが、「所」+発語に関する動詞、の形をとる「所」字に~コトと当てる選択的な理由としては、それが言葉に当たるからである。言葉も事柄もコトであった。それが同じことにならないと訳が分からなくなってしまうから、同じになるように心掛けた。それを筆者は言霊信仰と呼んでいる。「所」+発語に関する動詞という形は、発せられた言葉を括弧で括る作用を字面的にはもたらしている。上にトコロと訓む場合、奥まった感じがあると述べた。発語された言葉を括弧で括ってしまって鎮座ましませることに由来するのであろう。その例については、記紀万葉にないものとして例示しておらず、(注4)を参照されたいが、一度発語されたものを括弧で括って、さて、どういう意味であろうか、と受け止めてからそれに対して応答をする場合がある。発語が時間的にかなり前であったり、空間的にかなり離れている場合もある。そういったケースでは、言葉が再現、再生されるとき、ノイズが入ることが多い。それでも言葉は言葉に違いないから、本来的にはコトなのである。ご飯大盛りと注文して、意外に少なかったり、軽くしてと頼んで、予想外に多かったりするのは、言葉自体が違っているということではないし、言葉が通じていないのでもなく、その店のコト(盛られたご飯の量)としては正しいのである。仲居さんに、「お言葉どおりです」などと差し出す方がいる。ここに、言葉というものが、言葉として単独に成立しているのではなく、媒介的役割を兼ね備えていること(それがなければ成り立たないのだが、)が浮き彫りになろう。崇峻紀四年の例は、群臣が奏上しているのは、任那の官家を再建することについて、全員、陛下の仰っていることに同じであると言っている。全体主義である。任那の再建に、遅れることもなければ先んずることもない。それが、「奏して言さく」といった二重の言い回しに現れているのかどうかについては、別に論じることにする。「所レ詔」、つまり、詔に翼賛している。あまり意見というものを持たないのが群臣自身の身のためになったようである。群臣に関してのことではあるが、崇峻朝の時代精神についてこの記述から読み取れるものがある。そうした空気に図に乗った天皇は、軽率な行動から暗殺されてしまっている。生原稿としての歴史書として捉えることがふさわしいようである。そうすれば、“読む”ことの醍醐味が味わえる。歴史は“読む”ことに始まり、“読む”ことに終わるものである。しかるに、無文字時代、無文字文化のことを記した部分、わかりやすい発語を中心に考え直してみると、実は“聞く”ことが大事なのである。おそらく、考え方自体が無文字文化的であるから、表記された日本書紀は、“聞く”ために記された先史時代の残影を留めたものなのであろう(注8)。本稿ではトコロと言っているかどうかに限って聞き分けた次第である。
(注)
(注1)本稿では触れないが、ヤマトコトバ本来のトコロという語意については、白川1995.に、「「床」「底」を語根として、神聖の居るところを意味するもので、永遠なるものの意味をもつ語であり、処・所の字義にまさしく対応する。」(536頁)とある。
また、山田1935.に、「ところ」という語の「現今の普通文」での濫用とも見える例を、福地源一郎「明治今日の文章」から24例ほど引いている。そして、「今の「ところ」といふ語の起源は漢文中の「所」字の訓読に基づくものなるは争ふべからざるものと思はる。」(299頁)としている。「然る所」、「何々に候ふ所」、「何々であつたところ」、「ところで」、「ところが」などとどんどん用法が発展していったもののもとを糺そうとしている。つまり、漢文を訓読するに当たって、「所」字をすべてトコロと訓んで構わないようになってしまった不思議さを、漢文の用例の列挙から探ろうとし、途中で終っている。動詞の上にある例、助動詞「不」・「勿」等に冠する例、体言を用言として取り扱えるようにする例、それが主格になる例、「有」・「無」の支配を受ける例、国語に訳すと連体格になる例、国語に訳すと「ヲ」格・「ニ」格等の補語になる例、国語に訳すと「に」・「にて」・「なり」・「たり」の賓格になる例を挙げている。
(注2)丸山1981.に、「《chien(犬)》という語は、《loup(狼)》なる語が存在しない限り、狼をも指すであろう。このように、語は体系に依存している。孤立した記号というものはないのである。」(96頁)という有名な例示がある。言葉とは、箱の中に入っている饅頭か、圧搾空気の入った風船かという議論である。漢文訓読に由来する「所(ところ)」なる語がないとき、どうであったろうかと仮定しながら議論を進めている。
(注3)一方、平安時代にトコロと読んだ形式名詞については、大坪2015.に、「トコロは、本文の「所」を読むことが多く、「處・攸」などを読むこともあるが、補読することは稀れである。だから、補読する場合も、トコロは一般にヲコト点で示さず、略符号または仮名を用ゐるのが普通である。トコロは、実質名詞として場所を示す他、形式名詞として、活用する語の連体形を受けて、次のやうに用ゐられる。
a コト(事)・モノ(物)・トキ(時)などと同じ意味で用ゐられるもの。
b アルトコロハの形で、選択の接続詞に近い用法を持つもの。
c ──トコロノの形で、関係代名詞的に用ゐられるもの。
d トコロトナルの形で、受身の表現に用ゐられるもの。
いづれも、本文の「所」を直訳した結果生まれた翻訳文法である。(45~46頁)」とまとめられている。
(注4)沖森2009.は、基本的に万葉集と続日本紀の宣命、金光明最勝王経古点の例から検討されている。筆者に疑問なのは、続日本紀の詔を記した宣命の扱いについてである。宣命体と呼ばれる詔の記し方によって、訓みが確かとわかるわけであるが、60以上ある宣命の、文武天皇の①文武元年(697)、②慶雲四年(707)、元明天皇の③同年、④和銅元年(708)、そして聖武天皇の⑤神亀元年(724)があげられている。④と⑤の間に16年の開きがあり、都が藤原京から平城京へ遷っている。都が平安京へ遷った時、ヤマトコトバは甲類と乙類の区別がなくなる大変化を起している。平城京へ遷都し、世代も代っている時も、少なからず変化はあったのではないか。しかし、宣命の表記について一律に、同じような言葉使いとしてとっている。
沖森氏は、春日1985.から、「~ノトコロ」と補加して訓む点が、諸仏の尊位に関わる例なので、一種の敬語として取り扱われたのではないか、という説を引き、「敬語表示」としての「所」との関係を導き出している。
真筆が残っていて漢籍や仏典を書写していた聖武天皇や光明皇后は、仏典に「所」字を見て、「~トコロ」と訓んで敬語表示と考えることがあった可能性は否定できないが、宣命の漢文訓読に由来する「所(ところ)」の変遷について、また、「所(ところ)」語義の“世俗化”が起こったといえるものなのか、疑問である。また、宣命の①~④詔において、文武天皇や元明天皇に、仏典の教養なり、漢籍の素養なりがあったかも、不明と言わざるを得ない。①~④詔に現われる「所」字は、「所知」、「所思」、「所念」といった慣用例ばかりで、「所載(のせ)」のみ珍しい。この「所載」の例は本文で見た。つまり、「所」字は、慣用句的にしか①~④宣命詔には出てきていない。
そんななか、藤原京時代、宣命以外の一般の「所」字に、漢文訓読のトコロという訓をつける慣れがあったとは想像しにくい。それまで、ヤマトコトバで、トコロといえば決まった場所のことで、具体的な場所、その一地点を指していた。それが相対的な位置関係、漠然とした抽象的な意味へまでも拡張しているのである。仏典に見えるように、なんとも壮大な表現がたとえ話として多く登場してくることに慣れないと、トコロってどこよ? と聞き返したくなったに違いない。トコロってその辺のことよ、その辺ってどのあたりよ? 無量無辺のトコロよ、といった押し問答になろう。壮大表現と抽象的な概念は、ともに生身の現実からははずれた meta-な関係にあるように思われ、両者はいっぺんに悟られる事柄のようにも思われる。そう仮定した時、遡ることおよそ100年の聖徳太子は、漢籍や仏典の「所」字をどのように認識していたのか、課題は尽きない。
(注5)例えば、久米1893.。また、福田1973.の「天下之愚著『ことのしらへ』」(225頁以下)に、トコロという語によって時間に幅を持たせることができる点について、コトという語とかかわらせた解説が行われている。
(注6)原形の復元については、ここでは、日本書紀の執筆者が、何を思って書こうとしていたか、といった程度のこととして捉えていただきたい。何を思ってという“ところ”がミソである。思うには言葉がなければならず、本稿では特に発語に関する「所」字について考えており、口頭の音声言語について見ている。
(注7)斉明紀四年八月条の割注に、「或所云授位二階使検戸口」とある部分、「所」字は、「本」の誤写ではないかと疑われている。ひょっとすると、「或(あるふみ)に、所云(いはゆる)位(くらゐ)二階(ふたしな)を授くによりて、戸口(へひと)を検(かむが)へしむるなり」と訓み、訳も分からない蝦夷の懐柔に当たって、位二階の授与が方便であることがすでに定着しており、イハユルことであった点を示したものかもしれない。
当然のことであるが、日本書紀の「所」用字例は、本稿であげたものに限らずとても多い。「所」+発語に関する動詞の例としても漏れがあることもあるであろう。後考を俟ちたい。
(注8)時間的、空間的に離れた発語を以てしてもコトとして、トコロとしてないことは、無文字文化の言語活動に meta-性を有さないこととして理論上納得できるものである。
(引用・参考文献)
沖森2009. 沖森卓也『日本古代の文字と表記』吉川弘文館、2009年。
大坪2015. 大坪併治『平安時代における訓點語の文法 上』(大坪併治著作集5)風間書房、平成27年。
春日1985. 春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』(春日政治著作集別巻)勉誠社、昭和60年。
久米1893. 久米幹文『続日本紀宣命略解』吉川半七、明治26年。国会図書館デジタルコレクションhttp://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772195
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。『同③』小学館、1998年。
築島1963. 築島裕『平安時代の漢文訓読につきての研究』東京大学出版会、1963年。
福田1973. 福田定良『落語としての哲学』法政大学出版局、1973年。
丸山1981. 丸山圭三郎『ソシュールの思想』岩波書店、1981年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、昭和10年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173586
※本稿は、2016年5~6月稿を、2021年10月に改稿したものである。