古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

七夕歌の歌一首 并せて短歌(万1764・1765)について

2023年07月24日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集の七夕歌は132首を数える。

 巻八  15首  山上憶良1518~1529(うち長歌1(1520))
         湯原王1544~1545
         市原王1546
 巻九   2首  (藤原房前宅)1764~1765(うち長歌1(1764))
 巻十  98首  人麻呂歌集1996~2033
         作者未詳2034~2093(うち長歌2(2089、2092))
 巻十五  4首  柿本人麻呂3611
         遣新羅使人3656~3658
 巻十七  1首  大伴家持3900
 巻十八  3首  大伴家持4125~4127(うち長歌1(4125))
 巻十九  1首  大伴家持4163
 巻二十  8首  大伴家持4306~4313

 「七夕」と題詞は与えられていないが、「七夕」歌だと考えられる歌として、巻九の間人宿禰はしひとのすくねが泉河のほとりで詠んだという二首目の「彦星の かざしの玉の 妻恋つまごひに 乱れにけらし この川の瀬に」(万1686)、巻十一の人麻呂歌集歌からとする「あめにある 一つ棚橋たなはし いかにか行かむ 若草の 妻がりと云はば 足荘厳よそひせむ」(万2361)があげられている。七夕伝説に基づいて詠まれた歌ということである。
 万葉集に詠まれる七夕伝説は、中国の伝説がヤマトへ移入されて内容が少し変化したものである。もとの中国風の考え方は漢詩の世界に踏襲され、懐風藻の詩では中国の考え方そのままに詩が作られている。両者の大きな違いは、中国では、七月七日の日に、織女のほうが車に乗って鵲が翼を並べた橋を渡って逢いに行くのであるが、ヤマトでは、牽牛ひこぼし(彦星)が船を漕いで、あるいは歩いて天の川を渡って織女たなばたつめに逢いに行くというものであった(注1)。次にあげる歌のうち、長歌はその例外であるとされている。

  七夕たなばたの歌一首 并せて短歌〔七夕謌一首并短哥
 ひさかたの あまがはに かみつ瀬に 玉橋渡し しもつ瀬に 船浮けゑ 雨降りて 風吹かずとも 風吹きて 雨降らずとも 濡らさず やまず来ませと 玉橋渡す〔久堅乃天漢尓上瀬尓珠橋渡之下湍尓船浮居雨零而風不吹登毛風吹而雨不落等物裳不令濕不息来益常玉橋渡須〕(万1764)
  反歌〔反謌〕
 天の川 霧立ちわたる 今日今日けふけふと わが待つ君し 船出すらしも〔天漢霧立渡且今日々々々吾待君之船出為等霜〕(万1765)
  右のくだりの歌は、或は云はく、中衛大将ちうゑのだいしやう藤原北卿のいへにて作るといふ。〔右件謌或云中衛大将藤原北卿宅作也〕

 万1764番の長歌は、万葉集の他の七夕歌には見られない不思議な趣を持っていると評されている。裳を濡らさないで天の川を渡るというのであれば、裳を履いている女性側、織女が、船を使ってでなく車に乗って玉橋を渡るという意味に捉えられる(注2)。中国風の七夕伝説に基づいた歌ということになる。ただし、付けられている反歌、万1765番歌は、ヤマトの七夕伝説どおり男性の彦星が船に乗って渡ることになっている。この二首を長歌と反歌のセットにするのはそぐわないのではないかと疑われている(注3)
 長歌では、特徴的に対句表現が用いられている。「上つ瀬に……下つ瀬に……」、「雨降りて 風吹かずとも」、「風吹きて 雨降らずとも」とある。ただし、設置されている渡河手段のうち、浮け据えられた船(注4)は問題ではなく、川に渡された玉橋が大事である。歌の最後にもう一度出てくる。天の川の上手に玉橋を架け渡したから、車に乗っていつでもいらっしゃい、濡れることもないですよ、と言っていると解される。車に乗れば、雨の日も風の日もスカートが濡れることはないというのであるが、橋の上を行くのだから風の日に川の水で濡れることはない。しかし、雨の日には車のなかに身を納めていなければ雨が当たって濡れてしまう。漢土では「鵲影」なる橋の上を、「鳳蓋」なる車で進むことが前提となっていて、藤原不比等の詩でもそう詠じられている。
 中国から伝来した七夕伝説は、ヤマトでは歌の世界で変容して、彦星のほうが織女に逢いに行く話になっている。船を漕いで行くことが多く、また、鵲の橋のモチーフはなくなっている。どうしてかと問うても仕方のないことであるが、魏志倭人伝によればヤマトの国に鵲はいないことになっている(注5)。いなければ想像がつかないからとも思われる。
 そして、それ以上にあまり気づかれていないことであるが、中国では天の川を織女が馬車に乗って渡るのだが、ヤマトの国に馬車はなかった。乗物の車は牛車ぎっしゃであった。これは興味深いことである。ヒコボシとは呼んでいても、ヤマトへ来ても同じく牽牛のことと思われており、万葉集の用字でも多用されている。牛を牽くのが彼の仕事である。とすると、もし天の川に橋が架かっていて車が通れるようになっていたとしても、牽牛が織女のもとへ行かない限り織女は天の川を渡ることはできない。車を牽くための牛を操る人がいなければ、牛車が進むことはない。頓狂な話であるが、七夕の日に二人が逢うためには、いずれにせよ牽牛がいったん天の川を渡ることが条件となっている。そのことをおもしろがって歌った歌が万1764・1765番歌の長短歌なのである。
 万1764番歌は牽牛が歌いかけている。天の川の上流方にすてきな橋をかけた。牽牛側の川岸から工事を始めて対岸の織女側に到達したということであろう。下流方にはいつでも出航できるように船を接岸させている。雨が降って風のない時、風が吹いて雨の降らない時、スカートを濡らさずにいつでも来られるようにすてきな橋を架け渡した。どうですか、と誘っている。
 万1765番歌は織女が歌い返している。天の川に霧が立ちこめています。今日か今日かと私が待っていたあなたこそがようやく船を出すらしい。
 この二つの歌は完全なる問答となっている。織女は車に乗らない限り天の川を渡ることはない。スカートを濡らさずに済むには、雨の日などタクシーの車内でじっとしていなくてはならない。タクシーには運転手が必要である。牛車を進ませるのは牽牛である。早く来てねと言っている。
方向転換を図る牛飼(年中行事絵巻写、谷文晁写、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591099をトリミング)
 ジョークのような話である。本当だろうかと疑う向きもあるだろう。しかし、織女の反歌にはそのことがきちんと詠み込まれている。
 天の川に霧が立ちわたっている。「霧」という言葉はスモッグのことをいうばかりでなく、息吹のことも表した(注6)

 ……𪗾然さがみ咀嚼みて、〈𪗾然咀嚼、此には佐我弥爾加武さがみにかむと云ふ。〉吹きつる気噴いふき狭霧さぎり〈吹棄気噴之狭霧、此には浮枳于都屢伊浮岐能佐擬理ふきうつるいふきのさぎりと云ふ。〉にまるる神を、号けて田心姫たこりひめまをす。(神代紀第六段本文)
 沖つ風 いたく吹きせば 吾妹子わぎもこが 嘆きの霧に かましものを〔於伎都加是伊多久布伎勢波和伎毛故我奈氣伎能奇里尓安可麻之母能乎〕(万3616)
 上気 アクヒ、オクヒ(名義抄)
牛のメタン排出量を示す科学ポスター(https://jp.freepik.com/free-vector/science-poster-showing-cow-methane-emissions_5837852.htm、2023年7月15日閲覧)

 息吹のことはオクビ(噯)やアクビ(噫)ともいう。オクビでもっともよく知られる臭気は牛の吐くゲップである。ゲップという言葉の古い用例は知られないが、仮に上代語にあったとしたら、ケフ、上代音で kepu に近い音で発語されたであろうと推測される。歌ではケフケフ(今日々々)と言っている。一般的な使い方で言えば、今日か今日かと待ち焦がれていたという意味である。しかし、それは七夕の歌としておかしな表現である。今日か今日かという言い方は、今か今かを day 単位に引き延ばしたものである。意味的には、今日か明日かと待ち焦がれることと同じことを言っている。時間軸上をレールカメラが同調して動き、今日か明日かというところを今日か今日かと言っている。七夕歌としておかしいのは、七夕の日にしか二人は逢うことがないのが決まりだからである。二人には来年の今日という日はあっても、明日という日はない。つまり、「今日今日と」待つことは本来の意味ではない。本来以外の意味でなら、今年の「今日」と来年の「今日」と待つという、変てこな、人を食ったような言い分として成っている。
 このケフケフという言い方は、ゲップゲップから授かったものであろう。

 天の川 霧立ちわたる 今日今日と 我が待つ君し 船出すらしも(万1765)

 天の川を牛のゲップが立ちわたっている。ゲップゲップ、今日今日と私が待っている牽牛が、ようやく船出をするらしい。なぜならオクビのことをいう霧が立ちわたっているから。

 左注によれば、あるいは中衛大将藤原北卿、つまり、藤原房前の邸宅で作られたものであるという。中衛府は神亀五年(728)七月に新設されたとされる令外官で、大同二年(807)には再編されてなくなっている。延喜式・左衛門府式に、「凡そ府の牛の蒭秣まぐさは左馬寮より請けよ。〈事は馬寮式に見ゆ。〉但し、青蒭あをまぐさは衛士をして刈りて飼はしめよ。〔凡府牛蒭秣請左馬寮。〈事見馬寮式。〉但青蒭者令衛士刈飼之。〕」と規定が残っている。牛を飼育する役職にある藤原房前の屋敷での宴会なのだから、牽牛がひく牛のゲップの話をすることは場にかない、理にかなっている。座興で歌われた機知溢れる七夕歌である。七夕伝説はヤマトの国の文芸として、ラブロマンスばかりでなくラブコメディとしても立派に花開いていた。

(注)
(注1)当時、日本で作られた七夕詩の代表例をあげる。

  七夕  藤原史
 雲衣両観夕 月鏡一逢秋  雲衣うんい ふたたび観るゆふへ月鏡げつきやう ひとたび逢ふ秋。
 機下非曽故 梭息是威猷  はたくだるはそうゆゑあらず、むるはこれ威猷ゐいう
 鳳蓋随風転 鵲影逐波浮  鳳蓋ほうがい 風にしたがひてひ、鵲影じやくえい 波をひて浮かぶ。
 面前開短楽 別後悲長愁  面前めんぜん短楽たんらくを開けども、別後べつご長愁ちやうしうを悲しびむ

 漢土と本邦との違いというよりも、詩と歌との文芸様式の差において考えたほうがいいとも言われている(大浦2001.263頁)。どうして内容に違いが出ているかについては、ヤマトでは妻問い婚が基本だったから生活を反映してそうなったとする説が通行している。また、「こうした行事が定着する基盤には、夏秋ゆきあいの祭りに、水を渡って訪れる稀人神を待ち斎くタナバタツメの信仰行事があった。民間においては、七夕を盆行事の一部と考え、精霊様しょうりょうさまを迎えるのに先立って、水辺に出て水浴を行い、墓掃除、衣類の虫干し、井戸さらえ、馬飾りなどを行う。」(桜井1976.54頁)というように、民俗を背景に考える見方もある。万葉集の七夕歌と民俗行事とどちらが先に起こっているのか検討を要する。
(注2)天の川に橋を架けるという発想は、中国の鵲橋とは別の考えによってヤマトで行われている。織女はタナバタ(棚機)+ツ(助詞)+メ(女)のことだから機織り機に関連して発想されている。

 はたものの 蹋木まねき持ち行きて 天の川 打橋渡す 君がむため〔機蹋木持徃而天漢打橋度公之来為〕(万2062)
 天の川 棚橋渡せ 織女たなばたの い渡らさむに 棚橋渡せ〔天漢棚橋渡織女之伊渡左牟尓棚橋渡〕(万2081)

 これらの例だけからでもわかることは、七夕伝説の受容にあたって、意識下において否応なく高機の伝播との関わりを持っていたであろうという点である。高機は渡来の技術なのだと再認識されたようである。
(注3)法師のことを引き合いに出して、男性が裳を着ける例もないわけではないからそれを指しているとする説もある(澤瀉1961.178頁、多田2009.305頁)。さらには中国文学を参照しながら考察されることもある。稲岡2002.に次のようにある。

裳は一般に女性の下半身につける衣服だが、人麻呂歌集古体歌「はしきやし逢はぬ子故に徒に是川の瀬に裳襴ぬらしつ」(二四二九)の「裳」は文選・劉孝標の広絶交論に「裳ヲ裂キ足ヲ裏ミ」とあるのや、魏文帝・雑詩に「白露我ガ裳ヲ沾ラス」と見える「裳」と同様、男性の腰から下をおおう衣服をあらわす……。この一七六四の七夕長歌の場合もそうした中国詩における「裳」の用例に準じ男性のものと解し、織女の立場で詠まれていると考えるべきか。……一五二七~二九は、……懐風藻の七夕詩と同様神仙として牛女を詠む。この一七六四・一七六五の長反歌も神仙としての織女が牽牛を待つこころを詠んだとすれば、「裳」を牽牛のものと解してさしつかえはないだろう。(445~446頁)

 こういった議論は問題を曲解していると思う。稲岡氏のあげる万2429番歌は、ヤマトの歌で実際の行いを歌っている。一方、七夕歌は、ヤマトに伝承されて内容を一部改変し、定着した話を歌っている。その際、設定をあまり変えては話としてわからなくなってしまう。七夕歌である万1764番歌において、男性側に裳を着けさせる設定に変更する必然性は見られない。
 男女の間の歌として、万1765・1765番歌は、牽牛と織女とのことであるに決まっていて揺るがすことはできない。万2429番歌は、「子」と「裳襴ぬらしつ」した本人とのことを歌っている。「裳襴ぬらしつ」した歌い手が、恋に狂った年長の女性で、年の若い相手を「子」と呼ぶことはあり得ることだろう。例えば、「人言ひとごとしげ言痛こちたおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る」(万116)において川を渡っているのは但馬皇女で、相手の男性は穂積皇子である。
 万2429番歌は、なかなか逢いに来ない晩熟の若者に対して、年長の女性の方から逢いに行っている歌であると解せられる。うぶな相手だから仕方なく渡っているのは「是川うぢがは」である。無益なことではあるが、女性は自らの「うぢ」が世間に知られてもかまわないと思っていて、そのことを歌に詠んでいるわけである。 
(注4)「船浮け据ゑ〔船浮居〕」について、船を並べて固定して渡れるようにした船橋のこととする見方もあるが、他の例(万3991・4398・4408)を考えあわせれば、船を岸に着けていつでも出せるように準備したものとする考え(新大系文庫本75頁)が正しいであろう。
(注5)「其地無牛・馬・虎・豹・羊・鵲。」。
(注6)七夕歌とされる歌で、天の川に「霧」がかかっていると歌う歌は11首ある。このうち、次にあげる「霧」は牛のオクビととっても意味の通じる例である。一般には彦星(牽牛)が船を漕ぐ楫の塵、波立てた飛沫をもって霧に見立てているとされており、筆者も、万1765番歌にのみ特別に、「今日今日と」、「中衛大将」と種明かしされているから、牛のオクビであると確かめられると考える。

 牽牛ひこぼしの 妻迎へぶね 漕ぎらし 天の川原に 霧の立てるは〔牽牛之迎嬬船己藝出良之天漢原尓霧之立波〕(万1527、山上憶良)
 天の川 霧立ちわたり 牽牛ひこぼしの かぢおと聞こゆ 夜のけゆけば〔天漢霧立度牽牛之楫音所聞夜深徃〕(万2044)
 君が舟 今漕ぎらし 天の川 霧立ちわたる この川の瀬に〔君舟今滂来良之天漢霧立度此川瀬〕(万2045)
 天の原 ふりけ見れば 天の川 霧立ち渡る 君はぬらし〔天原振放見者天漢霧立渡公者来良志〕(万2068)

(引用・参考文献)
稲岡2002. 稲岡耕二『和歌文学大系2 萬葉集(二)』明治書院、平成14年。
大浦2001. 大浦誠士「たなばた」青木生子・橋本達雄監修『万葉ことば事典』大和書房、2001年。
澤瀉1961. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第九巻』中央公論社、昭和36年。
小島1953. 小島憲之「萬葉集七夕歌の世界」『万葉集大成 第九巻 作家研究篇上』平凡社、昭和28年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 中─出典論を中心とする比較文学的考察─』塙書房、昭和39年。
桜井1976. 桜井満編『必携万葉集要覧』桜楓社、昭和51年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
鈴木1988. 鈴木武晴「萬葉集巻九「七夕歌」の論」『山梨英和短期大学紀要』第22巻、1988年12月。J-STAGE https://doi.org/10.24628/yeiwatandai.22.0_1

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