古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

明日香皇女挽歌の第二反歌(万198)について

2023年07月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 柿本人麻呂の明日香皇女挽歌の第二反歌、万198番歌は解釈が定まっていない。長歌(万196)に対する反歌だから、同じ事柄を別の角度から見て歌って全体で大きなまとまりとなっていると捉えられなければならない。

 明日香川 明日あすだに 一に云ふ、「さへ」見むと 思へやも 一に云ふ、「思へかも」 大君おほきみの 御名みな忘れせぬ 一に云ふ、「御名忘らえぬ」〔明日香川明日谷一云左倍将見等念八方一云念香毛吾王御名忘世奴一云御名不所忘〕(万198)

  明日あす香皇女かのひめみこきの(瓦偏に缶、缻の左右反対)の殯宮あらきのみやの時に、柿本かきのもとの朝臣あそみ人麻呂ひとまろの作りし歌一首 短歌をあはせたり〔明日香皇女木〓(瓦偏に缶)殯宮之時柿本人麻呂作歌一首幷短歌
①明日香皇女ハ、(It was thought that Princess Asuka ……)
 飛ぶ鳥の 明日香あすかの川の かみに 石橋いしばし渡し 一に云ふ、「石なみ」 しもつ瀬に 打橋うちはし渡す 石橋に 一に云ふ、「石なみに」 ひなびける たまもぞ 絶ゆればふる 打橋に ひををれる 川藻もぞ 枯るればゆる なにしかも 大君おほきみの 立たせば 玉藻のもころ やせば 川藻のごとく なびかひの よろしき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮ゆふみやを そむきたまふや うつそみと 思ひし時に 春へには 花折りかざし 秋立てば 黄葉もみちばかざし しきたへの 袖たづさはり かがみなす 見れども飽かず 望月もちづきの いやめづらしみ 思ほしし 君と時どき 出でまして 遊びたまひし 御食みけかふ きのの宮を 常宮とこみやと 定めたまひて あぢさはふ ことも絶えぬ
②夫君ハ、(It was thought that Prince X ……)
 しかれかも 一に云ふ、「そこをしも」 あやにかなしみ ぬえどりの 片恋づま 一に云ふ、「しつつ」 朝鳥あさとり 一に云ふ、「朝霧あさぎりの」 かよはす君が 夏草なつくさの 思ひしなえて 夕星ゆふつづの か行きかく行き 大船おほぶねの たゆたふ見れば なぐさもる 心もあらず
③私ども参列者ハ、(It was thought that we ……)
 そこゆゑに せむすべ知れや おとのみも 名のみも絶えず 天地あめつちの いや遠長く しのひ行かむ 御名みなにかかせる 明日香あすかがは 万代よろづよまでに はしきやし 大君おほきみの かたにここを〔飛鳥明日香乃河之上瀬石橋渡一云石浪下瀬打橋渡石橋一云石浪生靡留玉藻毛叙絶者生流打橋生乎為礼流川藻毛叙干者波由流何然毛吾王能立者玉藻之母許呂臥者川藻之如久靡相之宜君之朝宮乎忘賜哉夕宮乎背賜哉宇都曾臣跡念之時春部者花折挿頭秋立者黄葉挿頭敷妙之袖携鏡成雖見不猒三五月之益目頰染所念之君与時々幸而遊賜之御食向木〓(瓦偏に缶)之宮乎常宮跡定賜味沢相目辞毛絶奴然有鴨一云所己乎之毛綾尓憐宿兄鳥之片恋嬬一云為乍朝鳥一云朝霧往来為君之夏草乃念之萎而夕星之彼往此去大船猶預不定見者遣悶流情毛不在其故為便知之也音耳母名耳毛不絶天地之弥遠長久思将往御名尓懸世流明日香河及万代早布屋師吾王乃形見何此焉〕(万196)
  短歌二首〔短歌二首〕
 明日香あすかがは しがらみ渡し かませば 流るる水も のどにかあらまし 一に云ふ、「水のよどにかあらまし」〔明日香川四我良美渡之塞益者進留水母能杼尓賀有万思一云水乃与杼尓加有益〕(万197)

 諸注釈書で解釈に相違が生まれている。膨大な研究史をとり上げることはここでは控え、近年の研究を参考にして問題点を整理しておく(注1)。第一に、「見む」の目的語を明日香川ととるか、皇女ととるか、第二に、「明日だに」をどう捉えるか、「今日と同様、明日までも」「将来はともあれ、明日だけでも」「今日は駄目でも明日は」「将来でなく明日にでも」など、第三に、「見む」の「む」をどうとるか、「見るだろう」「見たい」、第四に、「やも」(「かも」)を反語や疑問として文意にどう反映させ、反語とした場合、そこで切れるか、下に続くか、第五に、「御名忘れせぬ」(「御名忘らえぬ」)をいかに解するか、といった問題点があげられている。
 拙稿「 「明日香皇女挽歌」について─特異な表記から歌の本質を探って─」で論じたように、反歌は長歌の第③段落を承ける形で展開したものである。その証拠に、二首とも、③段落で歌った明日香川という固有名詞で歌い出している。①段落では「明日香川」と言っていて、必ずしも固有名詞化していない。そして第二反歌では、「吾が大君の御名忘れせぬ(御名忘らえぬ)」とあり、③段落の「御名」、「吾が大君」という言葉を再び登場させている。「吾が大君」とは亡くなった明日香皇女のことを指す。その名を「御名」と呼んでいる。「吾が大君」と呼びかける立場は夫君ではなく、われわれ参列者である。つまり、アスカノヒメミコという名前を私たちは忘れない、という意味のことを歌にしている。
 第一の問題点、「見む」の主語は私たちである。歌が歌われているのは殯の席である。最後のお別れに明日香皇女のお顔を拝みに来た。その死顔を「明日」見ようという発想はありえない。彼女がよみがえることを祈念し、逢いたいと思うと考えることは、親族の、特に夫君の立場から歌うのであればないことはないかもしれないが、そのとき「念へやも」と反語になることはない。あくまでも私たちが「見む」のであり、目的語は明日香川に決まっている。「明日だに」という言い方が珍しいからといって不思議がることはない。殯は今日的にいえばお通夜だからである。夜間に木〓(瓦偏に缶)殯宮に集っていて、木〓(瓦偏に缶)では篝火が焚かれている。明日香皇女に名にゆかりがあると歌ってきた明日香川は、そこから離れていようがいまいが、今日、いまから見に行くことはない。行っても暗くて見えやしない(注2)。だから焦って今日これから見に行くことはせず、明日香川の名にちなんで明日、明るくなってから見に行くことが期待され(注3)はするが、馴染みの川でよく知っている。「見む」の主語は一人称の私たちなのだから、助動詞「む」は話し手の意志や希望を表している。明日見に行こうと思うかといえば、知悉していて特にその必要性を感じないから思うことはない。だから「やも」と反語で語っている(注4)。周知の場所の周知の言葉であり、「明日香」の「御名」は忘れたりしないものである。それを「忘れせぬかも」と歌っている。「忘れ」は連用形名詞、忘れること、の意である。「せ」はサ変動詞の未然形、「ぬ」は打消の助動詞「ず」の連体形で係り結びになっている。

 明日香川 明日だに見むと おもへやも 吾が大君の 御名忘れせぬ(万198)

 明日香川を、今日は暗くて行っても見ることはできませんから一番近い将来である明日こそ、明日香川というだけに、見ようと思うか、いやいや思いません。なぜなら誰もが十分によく知っていますから、われらが大君さま、明日香皇女さまのお名前を忘れることなど決してございません。

(注)
(注1)鉄野2016.、土佐2022.にまとめられている。
(注2)松明行列を組んで今から出掛けようと企画したりはしない。柿本人麻呂は門付け歌人であって広告代理店ではないし、しめやかな儀式を台無しにして夫君の気持ちを逆撫でするようなことはなかった。
(注3)土佐2022.に、「「明日だに」という異例の表現をとっていることから、この作品が「明日香皇女」の「名」に着想を得た言語遊戯の貫徹を意図していることが窺われる。」(60頁)とある。そのとおりであるが、「だに」は実現されていない事柄について、希望を最小限に限定することで話者の実現に対する願望の強さを表す語である。「すべてを譲った最小限のものや状態を指示し、それ以外を暗示する」(時代別国語大辞典433頁)ものである。時間的に言えば、最接近のところを指示するはずで、「今日だに」、「今夜こよひだに」と現在に接続する例が見られている。そんななか、「明日だに」という例外である。言語遊戯を貫徹しようとしているというよりも、それを言語遊戯というのであるし、「今日だに見む」、「今夜こよひだに見む」とならない理由は、通夜の後で真っ暗ななか出掛けて行っても見えるはずはなく、誰も思念さえしないからである。
(注4)土佐2022.は、「「吾が大王の御名忘れせぬ」が「明日香川明日だに見むと思へやも」に並列して続けられるという構造になっていると考えられる。「明日香川」という地名から連想される「明日」という限定的な時間を過剰に否定してみせることと、永遠に皇女の名前を忘れない意志の表出とを、並列して組み合せた構成になっている」(65頁)としている。明日だけでなく永遠にという意を汲み取ろうとしているが、明日も明後日も明々後日も「見むと思へやも」と言うことはできるであろう。ただし、そうなるとアスカのアスという音に焦点を当てることは失われ、「御名」とは無関係な言述になり、「だに」と締めることもできない。なお、「忘れせぬ」に意志の表現は見られない。
 上代の「やも」については、佐佐木2014.の整理がわかりやすい。

 ……「…活用語已然形+や」と、その末尾の「や」が「やも」となった形式は、『古事記』『日本書紀』『萬葉集』の歌および『続日本紀』の宣命に、合計して六十四の実例がある。それらの具体的な用法は、已然形と「や/やも」との結合が文のどの位置に現れるか、という視点から次の三種に分類できる。
 Ⅰ「活用語已然形+や(/やも)」が文末に位置し、そこで終止した文が明瞭な反語となるもの。
 Ⅱ「活用語已然形+や(/やも)」が文中に位置し、それ以下に、表現主体にとって信じがたい事態や現象が現実・事実として描写されるもの。
 Ⅲ「活用語已然形+や(/やも)」が文中に位置し、それ以下に、表現主体にとって不本意な事態や意外な事態が推量のかたちで提示されるもの。
 右の三種に属する六十四例のうち、「海人なれや」と同様に末尾に「や」とだけあるものを、一例ずつ『萬葉集』から引用しておく。
 1 慰むる 心し無くは 天さかる ひなに一日も あるべくも安礼也あれや〔十八・四一一三〕
 2 雪こそは 春日消ゆらめ 心さへ 消え失せ多列夜たれや 言も通はぬ〔九・一七八二〕
 3 しましくも 一人ありうる ものに安礼也あれや 島のむろの木 離れてあるらむ〔十五・三六〇一〕
 これら……三種のどれもが明瞭な反語を表す。已然形と「や」とが結合した部分は、そろって作者にとって意外で信じがたいことであり、だからこそその部分は結果的に強い反語となる。已然形と「や」とが結合し、反語で文が終止したあとにまだ表現が続く2と3のような例では、反語のあとにくる表現は、現実を描写したり現実を推量したりするものになる。2の「言も通はぬ」は現在の事実であり、3の「(なのに、どうして)島のむろの木離れてあるらむ」は現実に対する推量である。(30~31頁)
 「已然形+や(やも)」……六十四例のなかには、[已然形+や]が四十八例含まれている。しかし、その場合の「や」はすべて反語の助詞であり、ほかにも已然形と感動の「や」とが直接に結合した確実な例は一つもない。(33頁)(以上、字間、改行、注については適宜改めた)

 「明日香川明日だに見むとおもへやも」と訓読する限り、その表現は反語であってそこで切れる。後につづく「吾が大君の御名忘れせぬ」は現実を描写したものである。都が明日香にあって宮廷人はそこに暮らしている。明日香川を目にするなと言われても目につき、その名はいつまでも明日香川である。あまりに卑近だから、明日香皇女の名前を忘れようにも忘れることなどない。当たり前のことを言っている。
 しかし、鉄野2016.はこのようには解していない。他の反語の歌の例などを見ながら論述しているが文法の理解が覚束ない。鉄野氏のあげている例に即して検討する。行論の都合上、注釈書の心許ない現代語訳も掲げる。

 の山に ただに向へる いもの山 ことゆるせやも 打橋うちはし渡す〔事聴屋毛打橋渡〕(万1193)
 背の山に真っすぐに向かい合っている妹の山は、相手の言葉を聞き入れたのであろうか、板橋が掛け渡してある。(新大系文庫本(二)263頁)

 鉄野氏は、結びで言われているのは現状に即したことで、「打橋が渡してある」のは見たままであろうとしつつ、「上下の事柄は(奇妙なことに)原因─結果の順接で結びつく。「妹の山が承諾したから─打橋が渡してある」……。その間に、「そうではないのに」「そんなはずはないのに」といった気分が挟まるのである。」(133頁)としている。
 少し誤解があるようである。已然形と「や」とが結合した部分は、作者にとって意外で信じがたいことであり、だからこそ結果的に強い反語となっている。反語で文が切れたあとに表現が続いており、それは現実の描写である。この両者を絡めて因果関係や並列関係と捉えると、反語表現にした主旨が失われてしまう。土佐2022.では、「妹山と背山を隔てる紀ノ川にある船岡山を打橋に見立てるという発想からして、旅先での宴会における座興を目的としていることを窺わせる。「事聴せやも」は、「え、ほんとかい」とか「それでいいのかい」という妹山をからかう気分で発せられた言葉であろう。一首の訳としては、「妹山は背山を受け入れるつもりになったのかい、あれれ、そうなの、打橋なんか渡しちゃって」となると思われる。」(64頁)とする。「こと許せやも」が投入された形であることはそのとおりであり、一・二・三・五句目は現実のことを述べていると考えられる。紀ノ川に実際に橋がうち渡されている。そして、「こと許せやも」は、許したのか、いやいや許していない、という反語の意から逸れることはない。已然形と「や」とが結合した部分と、反語のあとにくる表現とは別次元なのである。
 背の山に真っすぐに向かい合っている妹の山は、相手の言葉を聞き入れたのであろうか、いやいや聞き入れたりはしていない。(そんなことはお構いなしに現実の世界では)板橋が掛け渡してある。

 白真弓しらまゆみ 石辺いそべの山の 常磐ときはなる いのちなれやも 恋ひつつらむ〔命哉戀乍居〕(万2444)
 (白真弓)石辺山の永遠の大岩のような命でもないのに、長恋を続けるのだろうか。(新大系文庫本(三)265頁)

 反語で文は切れる。そのあとにつづく表現は現実を推量している。反語の部分は、作者にとって意想外のことを持ち出し、それにつづく現実的、世俗的なこととを対比させて大袈裟なもの言いとなっている。白真弓を射る、そのイ・ソベ山にある大きな岩のように永遠にある命なのであろうか、いやいやそんなことはない。(その条理とは無関係に)ずっと恋しく思いつづけるのはどうしてなのだろうか。(あなたに逢いたい。)
 壮大な前半部分と、矮小な後半部分とを同次元に混ぜて解しては誤解を生む。反語は乗りツッコミである。……か? いやいやあるわけないやろ、そんなん、の意である。それを前段に定理のように言っておきつつ、身の回りの出来事との間に齟齬があることを強調する。だから、どうしてそうなっているのかと推量している。むろん、その推量の末に理解できるような答えが控えているわけではない。あえて言うならその答えは恋する相手の魅力にこそある。自らの推量を相手に投げかける形で告白している。高度なお笑い技術である乗りツッコミ部分と地の部分とは別次元のもの言いだから、同次元に引き延ばして解してはならない。わざわざ反語にして飛躍させた効果がなくなってしまう。

 朝ゐでに 来鳴きなくかほとり なれだにも 君に恋ふれや 時へず鳴く〔汝谷文君丹戀八時不終鳴〕(万1823)
 朝の井堰(き いせ)に来ては鳴くかお鳥よ。お前までもあの方を恋い慕うのか、鳴きやまないのは。(新大系文庫本(三)111頁)

 鉄野氏は、「かほ鳥は君のことなど知らないはずなのに、そのかほ鳥さえ君を恋しがっていつまでも鳴いている、」(136頁)と解している。この歌は、挿入句を入れ込むことで思いを表現している。「なれだにも君に恋ふれや」が挿入部分である。一・二・五句目は現実そのままの描写であった。平叙文に投入句があるものと見なされる。朝の井堰いせきに来ては鳴くかお鳥はいつまでも鳴いている。かお鳥よ、お前さえも君のことを恋しがるのか、いやいやそうではないのに、の意である。挿入部分は作者の想念を、それ以外は事実を述べている。作者が「君に恋ふ」ているという内心は、かお鳥の気持ちを推測する(推測しそこなう)想念を述べることではじめて垣間見えている。作者は「君に恋ふ」ているがそのことを事実としては述べず、かお鳥は「君に恋ふ」ているのか、いやいや「恋ふ」てはいない、などと余計なことを言うことによって自らの内心を露わにしている。かお鳥が鳴きやまないのはかお鳥の勝手であり、君を恋しがって鳴いているとは歌っていない。
 反語表現の部分と、それにつづく現実や推量の表現とを、同列、同次元に据えたために誤解が生じていた。

(引用・参考文献)
佐佐木2014. 佐佐木隆「『海人なれや、己が物から泣く』─上代語の表現─」『学習院大学文学部研究年報』第60輯、学習院大学文学部、平成26年3月。学習院学術成果リポジトリhttp://hdl.handle.net/10959/3792
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(二)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。『同(三)』、2014年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集一』岩波書店、1999年。
鉄野2016. 鉄野昌弘「明日香皇女挽歌第二反歌試解 」『国語と国文学』第93巻第11号、平成28年11月。
土佐2022. 土佐朋子「「明日」と「万代」─柿本人麻呂「明日香皇女挽歌」第二短歌の解釈─」『京都語文』第30号、2022年11月。佛教大学論文目録リポジトリhttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_KG003000011420

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