古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

崇峻天皇が暗殺された理由―彼の発言はなぜ覚られたのか?―

2020年05月16日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 崇峻天皇の暗殺事件は、天皇が臣下によって殺された事案として歴史上唯一のものとされている。どうしてそのような「王殺し」が平然と行われ、さしたる混乱もなく王朝は継続して行っているのか議論されてきた(注1)。しかし、肝心の、口は禍の元となった崇峻天皇の発言から、どうして蘇我馬子は自らに害が及ぶと考え、手下を使って天皇を暗殺させたのかについては論じられていない。顧みられていないのは読解力、国語能力が欠如しているからで、的確に理解されないまま捨て置かれている。崇峻天皇の言には、前後の文脈に依るところは見られない。天皇の猪についての言葉そのものが、蘇我馬子を妬むものである。当時の誰しもが誤謬なくそう思えたから、蘇我馬子方による暗殺は皆に容認されているのである。それ以外に考えようがない。口頭語のヤマトコトバとして納得されていたものとしてすべては理解されなくてはならない。紀には次のように記されている。

 五年冬十月の癸酉の朔の丙子に、山猪ゐのししを献ること有り。天皇、ししして詔して曰はく、「いづれの時にか此の猪の頸をるが如く、ねたしとおもへる人を断らむ」とのたまふ。多く兵仗つはものまうくること、常よりもなること有り。壬午に、蘇我馬子宿禰、天皇すめらみことの詔したまへることを聞きて、おのれそねむらしきことを恐る。儻者やからひとあつめて、天皇をせまつらむと謀る。……十一月の癸卯の朔の乙巳に、馬子宿禰、群臣まへつきみたちかすめて曰はく、「今日、東国あづま調みつきたてまつる」といふ。乃ち東漢直やまとのあやのあたひこまをして、天皇を弑せまつらしむ。或本あるふみに云はく、東漢直駒は、東漢直やまとのあやのあたひ磐井いはゐが子なりといふ。是の日に、天皇を倉梯岡陵くらはしのをかのみさざきはぶりまつる。或本に云はく、大伴おほともの嬪小手子みめこてこめぐみの衰へしことを恨みて、人を蘇我馬子宿祢のもとに使りて曰はく、「頃者このごろ、山猪を献れること有り。天皇、猪を指して詔して曰はく、『猪の頸を断らむ如く、何の時にか朕が思ふ人を断らむ』とのたまふ。また内裏おほうちにして、大きに兵仗つはものを作る」といふ。是に、馬子宿禰、聴きて驚くといふ。丁未に、駅使はいま筑紫将軍つくしのいくさのきみもとつかはして曰はく、「内のみだれに依りて、ほかの事を怠りそ」といふ。(崇峻紀五年十月~十一月)

 猪の頸を(注2)ように嫌いな人を断りたいと言っている。別伝でも同様である。その嫌いな人がどうして蘇我馬子のことであって別の人ではないとわかるのか。
 考えてみれば、猪の頸を断り落とすことなどなかなか目にしないことである。イノシシに、頭部と胸部との間にくびれがあって細くなっているような個体がいるとは思われない。ジビエ料理にさばく際にも、血抜き(注3)のために頸動脈にナイフを入れることはあっても、頸をきり落とすことはない。上手に皮を剥いでいくことに注意は注がれる。皮革は実用品であるし、肉に毛がついたらうまく料理できないからである。
イノシシの太い頸(Zwijntje lowpx様「イノシシ」ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/イノシシ)
 本伝、別伝とも、天皇は猪を指して発言している。サスことには深い意味があったのであろう。注目させている場所は猪の頸である。猪頸ゐくびという語は、人の首が短くて太いことや、勇ましく見せるために兜をあおむけてかぶることを表わすようになっている。それらは、キルことの難しさを表す言葉である。だからこそ、天皇は、もしもいつか猪の頸をキルことができるようになるならば、それと同じように、ねたましく思う人をキルことをしたいと言っている。そして、常日頃よりも多くの兵器や軍隊を整えている。
 会話文に仮定法が用いられている。猪の頸などキルことはできやしないが、万一できる日が来るのであれば、ねたましい人をも斬首したいものだと言っている。仮定の上でのことを強調したいから、キルという言葉にあえてあり得ない「断」という字で表現している。日本書紀の筆録者はなかなかに達者である。
 それを聞いて蘇我馬子は、自分のことをねたんでいるのだと察した。なぜか。猪頸ゐくびとは、井杭ゐくひのことであろうと連想が及んだからであろう。井杭とは、川の水の流れを堰き止めたようなところの杭のことと連想される。崇峻天皇の名は、泊瀬部皇子、泊瀬部天皇であった。泊瀬とは、今日、初瀬と記される地名のことであるが、川船を停泊させるところをイメージさせていたと推測される言葉である(注4)。瀬に船を泊めるのである。すなわち、船を繋ぎとめている杭のことが、ヰクヒという言葉(音)として表されている。川幅を確保して水をとどめ置いている井堰の部分の近くに杭を打ちつけ、それに船を繋いだということである。船の繋留のためだから、掛矢とも呼ばれる大きなハンマーをもってきて、かなり大掛かりに打ちつけている。いま、猪が献上されて、もちろん頸を斬り落とすことはしないし、なかなかできることではないが、大きな鋸でも持ってくれば、大変だけれど切れないことはない。
杭に繋がれた船(石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0019204をトリミング)
 そのような発言が誰に対する当てつけなのといえば、蘇我馬子に対するものであるとわかる。ウマコ(馬子)という名には、馬を曳く人のことが印象づけられている。交通路において馬は、船が繋留されるのと同じようにうまやに繋がれる。駒繋ぎの杭である。馬の健康のためにも、乾いたところに繋がれるのが望ましい。屋根で覆われたうまやであるかもしれない。また、手っ取り早く、生えている木でもかまわない。馬は頭絡、轡によって制御されていて、歯茎が痛いから自ら無理に引っ張ることはなく繋がれたままになっている。簡便な方法で杭が杭として役立っている。まるで、杭に根が生えているかのようなものである。根が足りているのはうらやましい。まことに嫉ましい存在である。だから「嫌」をネタシと訓み、ネ(根)+タシ(足)を言っているとわかるのである。泊瀬部という人は、馬子という人のクヒ(杭、頸)にジェラシーを覚えるのである。
生木に馬を繋ぐ(粉河寺縁起、12世紀、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/粉河寺縁起をトリミング)
 この逸話は、飛鳥時代当時の人の思考にかなっていて、とてもわかりやすいものであったと考えられる。猪の頸にポイントを当てているのが泊瀬部という名の人であるなら、船泊まりの杭のこと、また、馳せる馬を止める杭のことが念頭にあると認められるのである。猪狩りを経験していれば、鋭利な刃物で血管を刺して血抜きをすることは知っていたであろうから、サス(指)ことをしている。同じくサスものと言えば地面に杭を挿すことが思い浮かぶ。猪狩りでは、矢を射当てて鏃をサスことをし、出血した猪が逃げて行った跡を、滴った血をたどって行って弱って動けなくなったのを見つけて絶命させる。血の跡をたどることは、ツナグ(認)という。

 射ゆ鹿ししを つな川上かはへの 和草にこぐさの 身のわかかへに さ寝し子らはも(万3874)
 崩岸あずの上に 駒を繋ぎて あやほかど 人妻子ろを 息に我がする(万3539)

 白川1995.は、「「つなぐ」は細く長いものを結びつけることで、ものの繫属することをいい、「つなぐ」はその両者の関係を求め、証明することをいう。」(517頁)と解説する。つまり、猪はツナグことをもって得られ、必然的に、泊瀬部という人にとっては船を、馬子という人にとっては馬をツナグことが直感、直観されると、誰もが認めるものであった。認めることとは「「つながり」を証明することであった」(同517頁)のだから、名に負う人物にとって、言葉は自己循環的に二重拘束的に作用していたのである。そして、そのことを誰しも理解していた。それが無文字時代のヤマトコトバの言語感覚で、言=事とする言霊信仰と本来呼ばれるべきことである。
 この逸話の締めくくりに、筑紫将軍に対して、内乱によって外交に抜かりが出ないようにと、大臣である蘇我馬子からお達しが出ている。その際、馬子は、「駅使はいま」を遣わせている。筑紫に至るまでの道程には、乗ってきた馬をおりて、泊めて置いた船に乗り換える駅があったであろう。みんな、わかるだろ? 杭の話なんだ。泊瀬部天皇の言っていたことは、俺のことを亡き者にしようという魂胆だったんだ。このような人は天皇にふさわしくないから、即日、御陵に葬りましたよ、という意味合いを世間に流布したのであった。

(注)
(注1)佐藤2009.、野田2014.、中田2017.など参照。調みつき進上の儀式で暗殺することが、乙巳の変と同様であることから似せて修文されたとする考え方もあるが、そうは考えられない。群臣を集めておいて目の前で事件が起こり、そのまま即日に葬儀、埋葬まで執り行われるのに付き合わされれば、場を抜けられないから群臣の誰も対抗、反抗できない。混乱が起きなかった最大の理由であろう。
(注2)「断」字には、書陵部本に「キル」と傍訓がある。「指」字には傍訓は見られない。筆者はそれぞれ、キル、サスと訓むべきと考える。新編全集本日本書紀に、「断」をタツと訓んでいるが根拠がなく、採ることはできない。斬首の刑は、その比喩的表現のリストラを含めて今日に至るまでクビキリという。古訓に伝えられている先人の賢を疎かにしてはならない。
(注3)JR4TRA様「2015年8月25日カッターナイフによるイノシシの血抜き」https://www.youtube.com/watch?time_continue=9&v=qB2RFADBcEo&feature=emb_title参照。この動画には現代の都市生活者には刺激的な要素が含まれており、閲覧者自身の判断にゆだねたい。
(注4)拙稿「枕詞「隠(こも)りくの」と「泊瀬(長谷)」の伝えるところ」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f907ff9519aa06637887ac3bd3ee1a4c参照。

(参考文献)
佐藤2009. 佐藤長門『日本古代王権の構造と展開』吉川弘文館、2009年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
中田2017. 中田興吉『倭国末期政治史論』同成社、2017年。
野田2014. 野田嶺志『古代の天皇と豪族』高志書院、2014年。

※本稿は、2020年5月稿を2023年8月にルビ化したものである。

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