加賀郡牓示札(石川県津幡町賀茂遺跡出土、9世紀半ば、石川県埋蔵文化財センターホームページ)
「牓示の様子復元図」(「古代のお触れ書き─加賀郡牓示札─」『いしかわの遺跡』No.8、財団法人石川県埋蔵文化財センター、2000年12月。
https://www.ishikawa-maibun.jp/wp-content/uploads/2018/03/iseki_08.pdfの3頁をトリミング)
牓示札として石川県津幡町賀茂遺跡出土品が知られている。平川南『日本の原像―新視点古代史―全集日本の歴史第二巻』(小学館、2008年)に、「この牓示札は一一五〇年前、九世紀なかばの古代の村に立てられていた『御触書(おふれがき)』なのである。」(14頁)、「牓示札の大きさは、古代の紙一枚の規格である縦約三〇センチメートル(当時の一尺)、横約六〇センチにほぼ合致する。記された内容は、九世紀にしばしば出された個別の禁令を集めたようなものであり、紙の文書をそのままの体裁で板に書き写している。これは律令(りつりょう)国家が公文書による行政支配を村々にまで徹底させようとしたことを意味している。しかし漢字・漢文で書かれた内容は、当時の村人にわかるはずがない。そこで牓示札には、『村人にその旨を説いて聞かせるように』との郡の下級役人への命令が盛り込まれている。つまり、この牓示札によって、文書伝達と口頭伝達を組み合わせた古代日本の文字文化の特質も、見事に実証されたのである。」(16~17頁)とされている。村人に牓示札の内容を説明するイラストも口絵に載る。筆者には、この考え方に近寄れない。
平川南、上掲書、ならびに、平川南『古代地方木簡の研究』(吉川弘文館、2003年)による翻刻文を適当に次に示す。
☓〔官ヵ〕符深見村□郷駅長并諸刀弥〔祢〕等
応奉行壹拾条之事
一田夫朝以寅時下田夕以戌時還私状
一禁制田夫任意喫魚酒状
一禁断不労作溝堰百姓状
一以五月卅日前可申田殖竟状
一可搜捉村邑内竄宕為諸人被疑人状
一可禁制无桑原養蚕百姓状
一可禁制里邑内故喫酔酒及戯逸百姓状
一可塡〔慎ヵ〕勤農業状 □村里長人申百姓名
☓〔撿ヵ〕案内被国去□〔正ヵ〕月廿八日符併〔侢ヵ〕勧催農業
□〔有ヵ〕法条而百姓等恣事逸遊不耕作喫
☓〔酒ヵ〕魚歐乱為宗播殖過時還称不熟只非
☓〔疲ヵ〕弊耳復致飢饉之苦此郡司等不治
☓〔田ヵ〕之□〔期ヵ〕而豈可◍然哉郡宜承知並口示
☓〔符ヵ〕事早令勤作若不遵符旨称倦懈
☓〔之ヵ〕由加勘決者謹依符旨仰下田領等宜
☓〔各ヵ〕毎村屢廻愉〔諭ヵ〕有懈怠者移身進郡符
☓〔旨ヵ〕国道之裔縻羈進之牓示路頭厳加禁
☓〔田ヵ〕領刀弥〔祢〕有怨憎隠容以其人為罪背不
☓〔寛ヵ〕有〔宥ヵ〕符到奉行
大領錦村主 主政八戸史
擬大領錦部連真手麿 擬主帳甲臣
少領道公 夏□ 副擬主帳宇治
□〔擬ヵ〕少領 勘了
嘉祥□〔二力〕年□〔二ヵ〕月□□〔十二ヵ〕日
□〔二ヵ〕月十五日請田領丈部浪麿
下々の者である村人は、文字をまったく読むことができない。その人たちを相手にして、牓示札の文字を見せても理解されることはない。手習いから始めなければ無理である。江戸時代には御触書が通用した。識字率が高かったから有効であった。瓦版屋さん(読売)が営業できていた。古代にまったく無効な牓示札が、道端に掲げられていたとは考えにくい。体裁も、当時の標準的な紙と同じで、罫線まで引かれている。ご指摘の通り、紙の文書を板に書いただけの代物である。紙がなかったためであろう。日に当たっていた形跡があり、文字の部分が浮き出ている。まるでお経の版木のようである。掲げられていたとしても、文字の読める官吏が勤めている役所の中であると考えられる。真ん中にあいている丸い穴は、何を意味するのであろうか。
文章のなかに、「符の旨を国の道の裔(そば)に縻羇(びき)し之を進め、路頭に牓示し、厳しく禁を加へん。(符☓〔旨ヵ〕国道之裔縻羇進之牓示路頭厳加禁)」とある。この出土品は、「符」全部を記している。「符の旨」だけを「路頭に牓示」すれば良いのではないか。掲示板に、「○○○○ということを掲示せよ」とある掲示物は、コンテクストの論理階梯に混乱をきたしている。従順な地方官であれば、掲示物としては「○○○○」だけにする。それを「○○○○ということを掲示せよ」というポスターにするのは、無抵抗・不服従の反対闘争を行っていることになりはしないか。
平川先生の前掲書、『古代地方木簡の研究』に、「本木簡の場合、各行は、行頭部分では界線に沿うものがあるが、全体的にはあまり界線にとらわれずに記されている。これは、直接札に記されたものではなく、紙の文書があらかじめ用意され、それをもとに、そのままの書式で木札に転記した場合に起こりうる傾向と理解できるであろう。」(121頁)とある。ほぼそのとおりであろう。紙の文書で送られてきたものを、紙がないからそこらへんにある材木に転記し、もとの紙の文書は次の刀禰に回覧したということである。その際、文書の形式に疎かったため、界線にまたがることに何か意味があるのかもしれないから間違いのないように、日頃からやっているようにまるごとそのままに“写す”ことが行われた。別に村人に見せるためではなく、覚えとして取っておかなければならないからそうしておいた、ということではないのか。意図的に無抵抗・不服従をしているのではなく、頭が空っぽだから無抵抗・不服従の状態になっている。その際、本当に頭の中が空っぽであることを示す点として、真ん中の釘穴(?)がある。ここに本来文字が一字あったのか考えると、上の「田〔之〕……可」までの字間が縮まっており、初めから穴に当たらないように作られている。穴を避けるように字が転写されており、その可能性としては、穴のある板に写すために殊更に字を縮めたか、そのように記されて隣の刀禰から回ってきた「文書」(板書?)をそのとおりにしたかのいずれかであると想像できる。衆目にさらされる立札、高札に、真ん中に釘穴(?)のある板を(再)利用するであろうか。
「牓」と記される木簡には、門牓について、市大樹「藤原宮・平城宮出土の門牓木簡」『奈良文化財研究所紀要』(2007年。https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/article/10312)や同『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)に論考されている。告知札、闌遺札と呼ばれる木簡もある。「牓」についての規定は捕亡令、同じ意味の「牌」は賦役令に記載がある。いくつか出土しているが、すべていわゆる木簡形式の一方に長いものである。なかには横長にして数文字ずつ縦書きして改行していく「横材木簡」と呼ばれるものもある。それでも、紙のように面として一枚二枚と数えられるようなものではない。
ヤマトコトバを研究する立場からすると、賀茂遺跡出土の「牓示」札は、フダ(札・簡)の概念を覆すものである。中世以降の制札・高札につながるものと定義するのに抵抗がある。馬や迷子の捜索のため、また、境界の標識として記すため、というように異なる目的を、使用方法としては他者に知らしめるために掲示した、という点に限って、同じく“牓示札”と総称し、それに類するものとしてこの賀茂遺跡出土品が捉えられている。他にも疑問点はある。幅のある板状のものが、そもそも「木簡」と呼ばれるものに相当するのか、筆者は不勉強で知らない。7世紀末の明日香村の石神遺跡から出土した、表裏に文字が記されている3月と4月の暦の“木簡”は幅がある。木器に転用されているのでもとの姿は不明であるが、長方形であったとされている。「牓示」された確証はないのの、カレンダーは今日でも人目に触れるように高く掲げられる。
「牓」字は、字鏡集に、フダと訓まれている。中世以降の制札・高札のことをタテフダと一般にいっている。札を立てているからということであろう。法度、禁制、諭告、案内などを知らしめるために板などに記して道端に立て、通行人に供覧せしめた。タテフダという言葉は、文献記録に戦国時代の16世紀半ば以降の言葉である。ひょっとして、タテフダという語は、タテガミ(立紙・竪紙)に由来する言葉なのかもしれない。正式な文書形式は、今日、般若心経の書写用紙にあるようなものとしてあった。横長の紙に縦書きに記す。料紙の正式な用法であるある立紙を、板に転写して正式に御触書にしたから、タテフダと呼んだのかもしれない。タテガミという言葉は、文献記録に平安時代後期の11世紀末に用いられている。となると、9世紀半ばの賀茂遺跡出土の“牓示札(ぼうじさつ)”のことを、ヤマトコトバ的にタテフダであるとは了解できない。なお、タテガミと今日言っている動物の鬣については、新撰字鏡や和名抄にタチカミとある。本ブログ「太刀魚と馬の鬣、sword、「発掘された日本列島2015」展の形象埴輪について」を参照されたい。
白川静『字訓』(平凡社、1995年)に、次のようにある。
ふだ〔札・簡・簿……・籍……・帳〕 文字をしるすための小片。「ふみ、いた」から転化したものであろう。「ふみた」「ふむた」ともいう。「ふみて」が「ふで」となるのと同じ。もと木や竹で作り、のち布を用いることもあった。(660~661頁)
白川先生のあげられている用例に、「籍帳(へのふみた)」(顕宗紀元年五月条)、「名籍(なのふみた)」(敏達紀三年十月条)がある。そういったフミタの札は、どのように扱われたのか。荷札は荷物に括りつけられる。木簡、竹簡はぐるぐる巻きにできるように綴じられている。インドで見られる貝葉経文は、真ん中にあながあいていて、糸で綴じられてまとめられている。境界標のように建てられるものには、墓標、ないし卒塔婆があろう。そんななか、高札としてタテフダなるものを想起することは、ヤマトコトバ的になかなかむずかしい。カケフダ(掛札)であろう。出勤したときに表にし、退社するときに裏にする名札には、掛けられる形式のものが多い。
長い文章をそのままに見ることは、いまでも本の大きさに一定のサイズ感があるように、人の肩幅よりも大きくなると視野に入らなくなってきて手こずる。お経が巻物に写されれば、巻きながらしか唱えられず、蛇腹式であれば、開いているところしか唱えられない。40インチのモニターにこれまで同様に小さな文字を出力して一気に見渡したとして、人間は一度に見ることはできない。観光案内板の立札に寺社の縁起が長々と改行なく記されているものがあるが、立ち止まって読み通すのに数分かかり、とてもいらいらする。同じことが案内パンフレットに書いてあれば、それをゆっくり読むことができて不快感はない。加賀郡牓示札は、その違和感を惹起させるものである。(石碑建立の由来を示す碑文の場合、書として見るので別物である。)
筆者の考えは、警察庁から全国の警察署に、「『振り込め詐欺に注意せよ』と高齢者に注意せよ」と通達があったら、「振り込め詐欺に注意しましょう」という内容のポスターを各警察署で作って掲示板に貼るのがふつうであるというものである。「振り込め詐欺に注意せよと高齢者に注意せよ」という立て看板を設置することはないと思う。字が読めるか読めないかには大きな開きがあるが、字は読めても意味が理解できるかどうかにも大きな開きがある。さらに、逐語的に意味はとれても大局的な思想が理解できないことも多い。9世紀半ばの賀茂遺跡出土の「牓示」と記されている縦23.3cm(28~29cm≒一尺)×横61.0cm(61cm≒二尺)(括弧内は復元推定サイズ)の板は、“控え”であってタテフダではないと考える。それが歴史学にどのようなことに当たるのか、議論されることを期待したい。
参考図:貝多羅墨書(梵本心経および尊勝陀羅尼、後グプタ朝、7~8世紀、東博展示品。留め穴部を避けて文字が書かれている)
「牓示の様子復元図」(「古代のお触れ書き─加賀郡牓示札─」『いしかわの遺跡』No.8、財団法人石川県埋蔵文化財センター、2000年12月。
https://www.ishikawa-maibun.jp/wp-content/uploads/2018/03/iseki_08.pdfの3頁をトリミング)
牓示札として石川県津幡町賀茂遺跡出土品が知られている。平川南『日本の原像―新視点古代史―全集日本の歴史第二巻』(小学館、2008年)に、「この牓示札は一一五〇年前、九世紀なかばの古代の村に立てられていた『御触書(おふれがき)』なのである。」(14頁)、「牓示札の大きさは、古代の紙一枚の規格である縦約三〇センチメートル(当時の一尺)、横約六〇センチにほぼ合致する。記された内容は、九世紀にしばしば出された個別の禁令を集めたようなものであり、紙の文書をそのままの体裁で板に書き写している。これは律令(りつりょう)国家が公文書による行政支配を村々にまで徹底させようとしたことを意味している。しかし漢字・漢文で書かれた内容は、当時の村人にわかるはずがない。そこで牓示札には、『村人にその旨を説いて聞かせるように』との郡の下級役人への命令が盛り込まれている。つまり、この牓示札によって、文書伝達と口頭伝達を組み合わせた古代日本の文字文化の特質も、見事に実証されたのである。」(16~17頁)とされている。村人に牓示札の内容を説明するイラストも口絵に載る。筆者には、この考え方に近寄れない。
平川南、上掲書、ならびに、平川南『古代地方木簡の研究』(吉川弘文館、2003年)による翻刻文を適当に次に示す。
☓〔官ヵ〕符深見村□郷駅長并諸刀弥〔祢〕等
応奉行壹拾条之事
一田夫朝以寅時下田夕以戌時還私状
一禁制田夫任意喫魚酒状
一禁断不労作溝堰百姓状
一以五月卅日前可申田殖竟状
一可搜捉村邑内竄宕為諸人被疑人状
一可禁制无桑原養蚕百姓状
一可禁制里邑内故喫酔酒及戯逸百姓状
一可塡〔慎ヵ〕勤農業状 □村里長人申百姓名
☓〔撿ヵ〕案内被国去□〔正ヵ〕月廿八日符併〔侢ヵ〕勧催農業
□〔有ヵ〕法条而百姓等恣事逸遊不耕作喫
☓〔酒ヵ〕魚歐乱為宗播殖過時還称不熟只非
☓〔疲ヵ〕弊耳復致飢饉之苦此郡司等不治
☓〔田ヵ〕之□〔期ヵ〕而豈可◍然哉郡宜承知並口示
☓〔符ヵ〕事早令勤作若不遵符旨称倦懈
☓〔之ヵ〕由加勘決者謹依符旨仰下田領等宜
☓〔各ヵ〕毎村屢廻愉〔諭ヵ〕有懈怠者移身進郡符
☓〔旨ヵ〕国道之裔縻羈進之牓示路頭厳加禁
☓〔田ヵ〕領刀弥〔祢〕有怨憎隠容以其人為罪背不
☓〔寛ヵ〕有〔宥ヵ〕符到奉行
大領錦村主 主政八戸史
擬大領錦部連真手麿 擬主帳甲臣
少領道公 夏□ 副擬主帳宇治
□〔擬ヵ〕少領 勘了
嘉祥□〔二力〕年□〔二ヵ〕月□□〔十二ヵ〕日
□〔二ヵ〕月十五日請田領丈部浪麿
下々の者である村人は、文字をまったく読むことができない。その人たちを相手にして、牓示札の文字を見せても理解されることはない。手習いから始めなければ無理である。江戸時代には御触書が通用した。識字率が高かったから有効であった。瓦版屋さん(読売)が営業できていた。古代にまったく無効な牓示札が、道端に掲げられていたとは考えにくい。体裁も、当時の標準的な紙と同じで、罫線まで引かれている。ご指摘の通り、紙の文書を板に書いただけの代物である。紙がなかったためであろう。日に当たっていた形跡があり、文字の部分が浮き出ている。まるでお経の版木のようである。掲げられていたとしても、文字の読める官吏が勤めている役所の中であると考えられる。真ん中にあいている丸い穴は、何を意味するのであろうか。
文章のなかに、「符の旨を国の道の裔(そば)に縻羇(びき)し之を進め、路頭に牓示し、厳しく禁を加へん。(符☓〔旨ヵ〕国道之裔縻羇進之牓示路頭厳加禁)」とある。この出土品は、「符」全部を記している。「符の旨」だけを「路頭に牓示」すれば良いのではないか。掲示板に、「○○○○ということを掲示せよ」とある掲示物は、コンテクストの論理階梯に混乱をきたしている。従順な地方官であれば、掲示物としては「○○○○」だけにする。それを「○○○○ということを掲示せよ」というポスターにするのは、無抵抗・不服従の反対闘争を行っていることになりはしないか。
平川先生の前掲書、『古代地方木簡の研究』に、「本木簡の場合、各行は、行頭部分では界線に沿うものがあるが、全体的にはあまり界線にとらわれずに記されている。これは、直接札に記されたものではなく、紙の文書があらかじめ用意され、それをもとに、そのままの書式で木札に転記した場合に起こりうる傾向と理解できるであろう。」(121頁)とある。ほぼそのとおりであろう。紙の文書で送られてきたものを、紙がないからそこらへんにある材木に転記し、もとの紙の文書は次の刀禰に回覧したということである。その際、文書の形式に疎かったため、界線にまたがることに何か意味があるのかもしれないから間違いのないように、日頃からやっているようにまるごとそのままに“写す”ことが行われた。別に村人に見せるためではなく、覚えとして取っておかなければならないからそうしておいた、ということではないのか。意図的に無抵抗・不服従をしているのではなく、頭が空っぽだから無抵抗・不服従の状態になっている。その際、本当に頭の中が空っぽであることを示す点として、真ん中の釘穴(?)がある。ここに本来文字が一字あったのか考えると、上の「田〔之〕……可」までの字間が縮まっており、初めから穴に当たらないように作られている。穴を避けるように字が転写されており、その可能性としては、穴のある板に写すために殊更に字を縮めたか、そのように記されて隣の刀禰から回ってきた「文書」(板書?)をそのとおりにしたかのいずれかであると想像できる。衆目にさらされる立札、高札に、真ん中に釘穴(?)のある板を(再)利用するであろうか。
「牓」と記される木簡には、門牓について、市大樹「藤原宮・平城宮出土の門牓木簡」『奈良文化財研究所紀要』(2007年。https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/article/10312)や同『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)に論考されている。告知札、闌遺札と呼ばれる木簡もある。「牓」についての規定は捕亡令、同じ意味の「牌」は賦役令に記載がある。いくつか出土しているが、すべていわゆる木簡形式の一方に長いものである。なかには横長にして数文字ずつ縦書きして改行していく「横材木簡」と呼ばれるものもある。それでも、紙のように面として一枚二枚と数えられるようなものではない。
ヤマトコトバを研究する立場からすると、賀茂遺跡出土の「牓示」札は、フダ(札・簡)の概念を覆すものである。中世以降の制札・高札につながるものと定義するのに抵抗がある。馬や迷子の捜索のため、また、境界の標識として記すため、というように異なる目的を、使用方法としては他者に知らしめるために掲示した、という点に限って、同じく“牓示札”と総称し、それに類するものとしてこの賀茂遺跡出土品が捉えられている。他にも疑問点はある。幅のある板状のものが、そもそも「木簡」と呼ばれるものに相当するのか、筆者は不勉強で知らない。7世紀末の明日香村の石神遺跡から出土した、表裏に文字が記されている3月と4月の暦の“木簡”は幅がある。木器に転用されているのでもとの姿は不明であるが、長方形であったとされている。「牓示」された確証はないのの、カレンダーは今日でも人目に触れるように高く掲げられる。
「牓」字は、字鏡集に、フダと訓まれている。中世以降の制札・高札のことをタテフダと一般にいっている。札を立てているからということであろう。法度、禁制、諭告、案内などを知らしめるために板などに記して道端に立て、通行人に供覧せしめた。タテフダという言葉は、文献記録に戦国時代の16世紀半ば以降の言葉である。ひょっとして、タテフダという語は、タテガミ(立紙・竪紙)に由来する言葉なのかもしれない。正式な文書形式は、今日、般若心経の書写用紙にあるようなものとしてあった。横長の紙に縦書きに記す。料紙の正式な用法であるある立紙を、板に転写して正式に御触書にしたから、タテフダと呼んだのかもしれない。タテガミという言葉は、文献記録に平安時代後期の11世紀末に用いられている。となると、9世紀半ばの賀茂遺跡出土の“牓示札(ぼうじさつ)”のことを、ヤマトコトバ的にタテフダであるとは了解できない。なお、タテガミと今日言っている動物の鬣については、新撰字鏡や和名抄にタチカミとある。本ブログ「太刀魚と馬の鬣、sword、「発掘された日本列島2015」展の形象埴輪について」を参照されたい。
白川静『字訓』(平凡社、1995年)に、次のようにある。
ふだ〔札・簡・簿……・籍……・帳〕 文字をしるすための小片。「ふみ、いた」から転化したものであろう。「ふみた」「ふむた」ともいう。「ふみて」が「ふで」となるのと同じ。もと木や竹で作り、のち布を用いることもあった。(660~661頁)
白川先生のあげられている用例に、「籍帳(へのふみた)」(顕宗紀元年五月条)、「名籍(なのふみた)」(敏達紀三年十月条)がある。そういったフミタの札は、どのように扱われたのか。荷札は荷物に括りつけられる。木簡、竹簡はぐるぐる巻きにできるように綴じられている。インドで見られる貝葉経文は、真ん中にあながあいていて、糸で綴じられてまとめられている。境界標のように建てられるものには、墓標、ないし卒塔婆があろう。そんななか、高札としてタテフダなるものを想起することは、ヤマトコトバ的になかなかむずかしい。カケフダ(掛札)であろう。出勤したときに表にし、退社するときに裏にする名札には、掛けられる形式のものが多い。
長い文章をそのままに見ることは、いまでも本の大きさに一定のサイズ感があるように、人の肩幅よりも大きくなると視野に入らなくなってきて手こずる。お経が巻物に写されれば、巻きながらしか唱えられず、蛇腹式であれば、開いているところしか唱えられない。40インチのモニターにこれまで同様に小さな文字を出力して一気に見渡したとして、人間は一度に見ることはできない。観光案内板の立札に寺社の縁起が長々と改行なく記されているものがあるが、立ち止まって読み通すのに数分かかり、とてもいらいらする。同じことが案内パンフレットに書いてあれば、それをゆっくり読むことができて不快感はない。加賀郡牓示札は、その違和感を惹起させるものである。(石碑建立の由来を示す碑文の場合、書として見るので別物である。)
筆者の考えは、警察庁から全国の警察署に、「『振り込め詐欺に注意せよ』と高齢者に注意せよ」と通達があったら、「振り込め詐欺に注意しましょう」という内容のポスターを各警察署で作って掲示板に貼るのがふつうであるというものである。「振り込め詐欺に注意せよと高齢者に注意せよ」という立て看板を設置することはないと思う。字が読めるか読めないかには大きな開きがあるが、字は読めても意味が理解できるかどうかにも大きな開きがある。さらに、逐語的に意味はとれても大局的な思想が理解できないことも多い。9世紀半ばの賀茂遺跡出土の「牓示」と記されている縦23.3cm(28~29cm≒一尺)×横61.0cm(61cm≒二尺)(括弧内は復元推定サイズ)の板は、“控え”であってタテフダではないと考える。それが歴史学にどのようなことに当たるのか、議論されることを期待したい。
参考図:貝多羅墨書(梵本心経および尊勝陀羅尼、後グプタ朝、7~8世紀、東博展示品。留め穴部を避けて文字が書かれている)